第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その1 六郷橋湿地 (その1:夏版:4〜10月:ヨシ・ガマ・干潟)


(小さな写真にはそれぞれ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
マークはクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
六郷橋から多摩運河(旧河口域)までの汽水域両岸に、大きなヨシの群落が4ヵ所ある。
海が近くなる六郷橋から川下の辺りでは、高水敷の高さは(満潮時の)低水路水面より僅かに高い程度で、上流方面(丸子地区)のように大きな段差はない。従って高水敷は湿気が多く、放置すれば大体ヨシが優占する環境にある。(ただ河川敷はグランドなどを作っているため、主要部はヨシが刈られ整地されているところが多い。また右岸の鈴木町河川敷のように、かって船着場が作られたため、低水路が浚渫され護岸がコンクリートで固められたような場所でもヨシは生育していない。)
六郷橋より川下側のヨシは、昭和55年以降手付かずの形で保護されているので、沿岸はもとより、六郷地先の中洲、六郷水門先の出島や殿町地先のねずみ島などを含め、六郷橋から河口までの陸地の水際は、ほぼ全縁がヨシによって覆われていると言っても過言ではない。
昨今特に六郷地先の陸化途上にある堆積地の一帯でヨシが膨張し、塩湿地固有の他の周辺植物はヨシに侵蝕され滅びていくものが少なくない。

明治から昭和の初め頃まで、六郷橋から河口までの水路は、今より遥かに狭く何度も蛇行していた。水路を取巻く堤外地には沼地のような場所もあったが、当時は梨桃などの栽培が盛んで、果樹園として利用されていた土地が多かった。
多摩川は大洪水のたびに氾濫を繰返していたが、大正中期から十数年掛かりで抜本的な改修工事が施された。高水流量を確保するために確固とした堤防が新築され、高水敷の上面も堤防に倣った勾配に削平された。(現代の都市河川の治水では高水流量の確保を重要と考える。とりわけ汽水域では満潮時には低水路は海水で充満してしまうので、低水路がどうなっているかはあまり重要視されない。)
汽水域で蛇行した低水路が均され、河口域に向け低水路の一大拡幅が図られたのは、昭和40年代に主として高潮対策の観点から行われたものである。(高潮による海水の逆流が洪水とぶつかった場合、流路が複雑化していると、波が異常に競りあがって氾濫するおそれが高まる。大師橋左岸に防潮堤が作られた際、法線を前面に出し流路の屈曲が整斉されたのは高潮対策の観点に基ずくものである。)
左岸の本羽田地先、右岸の中瀬町地先、及び殿町地先の3ヵ所のヨシ群落は、この時期に削られた高水敷の前縁に残存したヨシが塩沼地に広がったものだが、多摩川の汽水域で最大の規模を有する六郷橋下手左岸のヨシ群落は、その形成過程が他の3ヵ所とは幾分異なることに注意を要する。
 (右の航空写真は昭和60年頃の六郷ヨシ原)

  (六郷橋緑地先湿地の形成過程については [参考30] を参照

右の写真はグーグルの航空写真に左岸の低水護岸線を着色したもの。(左端は六郷橋で右上は六郷水門、護岸と低水路の間がヨシ原や干潟などになっている堆積地で、大凡そ黒っぽい部分は湿性が高い塩沼地、白っぽい部分は陸化が進んで冠水の度合いが低下し土地になりつつある区域と認められる。)
護岸線は赤が古い時代の石組みの護岸、ブルーは近年改修された籠マット護岸、紺色は改修時に以前のまま残されたシートパイルの切立ったテーブル状護岸。
六郷橋下から赤色で書いた古い護岸を辿ると、ヨシ原の始まる辺りで突然途切れ、その後は約200メートル堤防側に寄った場所から再開する。(この旧護岸が残るのは雑色ポンプ所の前までで、その後六郷水門までは既に改修されている。)
旧護岸は高水敷側に未だ湿地が残る雑色ポンプ所の近くでは明瞭に確認できるが、川上に寄った方では湿地は既に殆ど陸化して高水敷と繋がり、護岸は半ば土砂に埋もれていて航空写真では確認し難くい状態になっている。
注目すべき点はヨシ原の入口辺りで護岸が200メートルも飛んでいることで、このように岸が不連続になることは極めて異例なことと思われる。この旧護岸跡の不自然さは、当地での高水敷の掘削が治水上の観点から尋常に行われものではないことを示唆している。
六郷の葭原や干潟は、昭和初期以後の一定の期間(おそらく戦前)に、何らかの理由で高水敷が不自然に掘削され、その後低水路に生じたこのデッドスペースに、川が運んでくる土砂が年々堆積して出来たものである。
六郷地先に造成されつつある塩沼地は、自然が行っている復元行為であり、単なる寄洲ではない。六郷のヨシ原を理解するためには、近代までの「原風景」や、その後不自然な人為掘削がどのように行われたのかという事実を知ることが大切であり、航空写真が入手し易いからという事情で、昭和30年代以後に限った資料をもとに安易な考察すると、今当地で何が起きているのかということの本質をも見誤ることになりかねない。

  (六郷ヨシ原の主要部拡大写真(グーグル:2003.4〜2004.5頃)はこちら


右の [No.611a] は2004年8個目の上陸台風となった21号が東北に去った日(9月末)の午後で、六郷橋上の右岸(川崎)寄りからこのヨシ原を見たもの。
水際は、橋の近くでは古い護岸の名残が見られるが、ヨシ原が本格的に始まる辺りでこの土留めは終りとなる。そのあとはただ出洲の上にヨシが生えている状態で、水際は干潮時以外には歩いて行けるような状態ではない。

下の [No.612a] は、六郷橋上の左岸寄りからで、緑地越しにヨシ原を俯瞰(ふかん)している。(手前の左寄り、ヨシ原と河川敷(緑地)との境がカギ型になっている箇所が、上掲した「周辺図」で、「六郷橋緑地」と書いている「橋」の字が触っている角に相当し、このカギ型になった散策路の鉄塔側が概ね、かつて人為的に掘削され水域化した区域に相当する。この区域は現在では、その後の堆積によって中心部は再び陸化して高水敷と繋がり、その周辺部分は塩沼地の段階で、ヨシ原や干潟の状態になっている。)
正面遠方、水平でやや上に湾曲して見える白線は大師橋で、橋全体の左寄りに下り橋・斜張橋の主塔が見えている。(この撮影当時、大師橋は未だ改架工事中で、先に完成した下り橋のみの暫定供用時期だったので、斜張橋の主塔は1本しかない。) 主塔の左に見える塔が羽田空港の管制塔で、主塔の右側にはターミナル中央になるスカイアーチが見えている。空港まではここから7kmほどの距離があるが、通常の晴天でこの程度は見通すことができる。

[No.612b] で、画面右寄りに見える紅白の鉄塔(高圧線の送電鉄塔)が、湿地(ヨシ原)の澪筋側の端に当たる。(「周辺図」参照) 鉄塔の両側に見える煙突は、対岸(川崎側)の川裏に連なる「味の素」製造プラントの象徴的な存在で、この写真では微かにしか見えていない多摩川本流は、この送電鉄塔の背後(煙突の手前)を流れている。
右岸の堤外地は鈴木町河川敷になる。(河港水門の川上側を港町といい、川下側を鈴木町という。鈴木町という町名は当地に移転してきた「味の素」の創業者の名前に由来する。)
京浜電気鉄道(京急の前身)は明治32年に大師線を創業するに先立ち、起点となる「六郷の渡し」に近い久根崎の地に発電所を建設し、電気を自前で賄う体制を整えていた。発電所は後に東京電燈(東京電力の前身)に引き継がれたが、この送電ラインは久根崎発電所の時代に起源をもつ古いものだと思われる。
現在では大師橋の手前に高圧線の渡河ラインが更に2系統あり、写真には多くの鉄塔が見えている。(六郷川周辺の鉄塔類、特に川中にあるものは、全て紅白に塗られているが、羽田空港が近いためではないかと思う。)

2007年の台風9号は、太平洋を北上して日本列島に接近し、9月7日未明、伊豆半島の東海岸沿いを伝って小田原市西部に上陸した。この台風で東海から関東甲信地方に強風雨が広がり、7日までの奥多摩町の総降水量は700ミリ近くに達した。
(2007年の台風9号についての詳細は、「第四部 多摩川緑地」の 「その4 多摩川緑地(下)」 の中に載せてある。)

[No.61Y1] [No.61Y2] は2007.9.7午前9時前頃で、いずれも六郷橋の橋上から川下側を見て撮っている。[No.61Y1] は左岸に近い位置で、下の河川敷は平時にはテニスコートや野球グランドがある場所だが、一面に泥水が流下する状態になっている。
[No.61Y2] は少し右岸側に進み、本流や右岸提の見える位置まで来ている。河川敷と本流の間の高水敷は地盤がやゝ高くなっていて、ホームレスの小屋が多い場所である。消防隊員が腰まで水に浸かって、避難せずにいた人たちを説得しているように見える。一帯は床上浸水の状況にあるが、小屋が流出してしまうまでの水位にはなっていない。
(実際この日のニュースで、ヘリの救出行動に対して、胸の前で両腕をクロスさせ、救出を拒絶する人の姿が報じられていた。)

(2007年の台風9号による洪水の様子は、多摩川緑地 [No.44Y1] [No.44R]
京急六郷鉄橋 [No.52W]、 海老取川 [No.72B] などにも掲載している。)


ヨシ原のほぼ中心位置にある送電鉄塔までは、六郷橋の下から澪筋に沿って、鉄塔保全用の通路が切り拓かれている。[No.613a] 以下の9枚は、この通路伝いに進み、葭原の中で撮影したものである。

[No.613a] 以下の3枚は4月初めで、葭原はまだ冬景色。
この時期開けた干潟の方では、旅立ちを控えた冬鳥達が、水溜りに嘴や首を突っ込んで盛んに餌を漁っている光景を見るが、枯れたヨシ原の中はひっそりとし、意外なほど小動物の姿を認めない。
これが2ヶ月も経つと、身の丈を超えるヨシが繁茂して一面に青々とし、オオヨシキリがしきりに騒ぎ立て、通路は足の踏み場も無いほどカニが群れ、辺りに花が見当たらないのに何故か紋白蝶が飛び交ったりするようになるのである。

鉄塔周辺の陸化した部分から、ヨシを掻き分けてじかに緑地の方向へ進むと、じきに足元はもぐるように軟化してくる。泥濘(ぬかるみ)に足を滑らすと、抉(えぐ)られた跡が真っ黒になる。沼地化した周囲では、下は硫化鉄を生じ泥がヘドロ化するほど還元的な雰囲気になっている。洪水の度に泥が堆積するに任せ、水の循環が殆ど失われているためだろう。

   (干潟のヘドロ化・硫化物汚染については [参考28]

この湿地は六郷橋の側では陸化が進んでいて、高水敷と区別がつない渾然とした領域を形成している。そこでは春先には道端にハマダイコンなどイネ科以外の野草も混在し、水辺ではヨシの外縁にオギがあったり、護岸にホウキギクが見られたりする。
右の3枚と下の3枚の計6枚は4月下旬の撮影で、ヨシの新芽が猛烈な早さで伸びていく時期にあたっている。
[No.614a] は鉄塔の真下で上空を見上げて撮った。このヨシ原には、陸化した部分に高さ10メートル前後の樹木が10本程度みられる。この辺りの高水敷でよく見られる樹木は、オニグルミ、トウネズミモチ、ヤナギ類などだが、鉄塔周辺のものは違う木のようだ。桜の咲く直前という頃だが、落葉樹が新芽を吹く季節でもあり、ここの若葉は綺麗だった。
[No.615a] は鉄塔位置から更に先に進む道無き道。先の方に高木が1本見えるが、これがこの堆積地では最も下流側にある最後の高木。常時塩水に浸る土壌に木は育たないだろうから、その辺りまでが以前から陸化していた範囲と想像される。
[No.615a] のように2005年までは、鉄塔から更に先に進む道も微かにあり、また鉄塔から澪筋側の水辺に出る道(上掲の[No.61C2])も確保されていた。然しその後、この一帯のヨシは年々勢力を増し、背丈が伸びるとともに膨張傾向が強まって、管理されない脇道の類は次々に塞がれてしまった。

2008年には鉄塔から澪筋側の水辺に出る道の痕跡は見られなくなっていたが、2005年当時は、鉄塔下から澪筋側に向かい、ゴミと泥を50メートルほど我慢すると本流の水際に出ることが出来た。出たところは、右岸の河港水門が正面やゝ左手に見える位置(下の [No.619b] の位置)で、川下方向は味の素から大師橋までを望むことが出来る。
この時期のヨシの伸びる速度は猛烈に速く、日に数センチというスピードで伸びていく。ヨシの穂は枯して朽ちず、越冬して翌年の茎が覆い隠すまで立ち続け、新芽が伸びだすこの時期には、ヨシは独特の袴(はかま)を穿(は)いたような姿になる。(もう少し時期が経った頃のヨシの姿を、2年前に右岸の練習馬場先の砂洲で撮っている。[No.42A]
ヨシ原の澪筋側は左岸からは見ることが出来ないが、ここに来て見ると想像以上に砂洲が発達していることが分かる。ここは常時水の往来があるところで、障害物の無い出洲は汚れているという印象はないが、この時期には生物の気配は全く感じない。(この日は好天の土曜日だったが、人影は皆無だった。写っている足跡は私が歩いた跡である。)
[No.61D2] は川上(六郷橋方向)向き(見出しの小画像も川上向き)、[No.616a] は川下(大師橋方面)向きで水際のヨシを撮っている。[No.617a] は正面を向いて、本流越しに河港水門方向を見ている。
この堆積地に続く周囲の塩沼地は、裏側(左岸側)では潟湖になっているために微粒泥を多く含むが、こちらの表側は、常時本流に洗われ微粒分は流出してしまうため湿地の下地は幾らか荒く、足はもぐるものの砂地に近いような硬さも幾分かは感じられる。

以下の3枚と小画像は5月下旬、僅か2ヶ月足らずの期間で葭原の様子はこれだけ変わってしまう。ここに入ろうと思う人は、周囲が比較的よく見通せる冬場のうちに入って、道順や通路の冠水度合いなど周辺の状況をよく把握をしておく必要がある。
ヨシ原の河川敷に面した側は干潮時にも完全に干上がることはなく、全体がヨシに覆われた沼地のようになっている。上げ潮の時、水は六郷水門前にある砂洲の切れ目から干潟を通って入ってくるが、これとは別に、本流から直接ヨシ原の根元に切れ込む一条の水路があり、こちらからの流入の方が早い時刻に始まる。
[No.618a] は保全通路がこの切り込み水路と交差する場所で、以前は水路を跨ぐための桟橋が作られていたようだが、今では床板は完全に抜け落ち、鉄パイプとL字鋼のアングルだけが残された状態になっている。(ページトップの「周辺図」に、本流から直接ヨシ原の根元に切れ込むこの水路の大雑把な位置を記してある。ヨシ原全体から見れば六郷橋寄りの根元部分に近い。)
以下の初めの参考写真は六郷水門方向から干潟に入ってくる分岐水路の出入口。次の2枚はここにある本流から直接ヨシ原の根元に切れ込む水路で、干潮時にアングルの上から、水路の両方向(本流に繋がる開口部と、ヨシ原の奥に入っていく側)を示した。
[No.618b] はこの切込水路を渡る場所の手前から、アングルの残骸が残る渡河地点を見たところ。(さあ葭原に入るぞという場所) 次の2枚は水路を越えた先で、この当時この時期の通路はこのように整然としていた。

   (干潟水路口)    (切込水路1)    (切込水路2) 

六郷地先の堆積地は、六郷橋の近辺にはホームレスの「入植」が多く、奥の方にも疎(まば)らに存在するが、、本流から切れ込むこの水路を越えた先では、人気(ひとけ)は全く無くなり、周囲にはヨシしかないので、ともすれば方向感を失いそうで不気味な雰囲気が漂う。
鉄塔の周囲は陸化していて、河川敷の喚声もすぐ近くに聞こえるが、錯覚してはならない。そこから緑地側のヨシの生えている一帯は底無し沼のようなもので、たとえ干潮時といえども、真直ぐ河川敷の方向に進むことは自殺行為に等しい。(緑地に出られる側道は、上で紹介した「本流から切れ込む水路」を超える前の六郷橋側にしかない。)
この時期ヨシ原のヨシは平均3メートル程度だが、高いところでは4〜5メートルにも達する。曲がりくねった道は途中で枝分かれし、獣道のような細い側筋もあるが、保証されているのは六郷橋から鉄塔までの一筋だけ。(ただしこの道も、夏場にはヨシが張り出して殆ど隠れてしまうようなところがあり、様子を知らない初めての人が夏場に奥まで踏み込むのは止めた方がよい。)
[No.619a] は鉄塔下から本流の岸辺に出た所。(2007年以降、この通路はヨシで塞がれてしまっているので、鉄塔位置から水路岸に出るのは困難である。)
次の2枚は2007年盛夏に、ヨシ原入口(切込水路を超える地点)と、その先の保全通路の雰囲気を撮ったもの。

六郷橋下から川下側に1キロメートル程度までは、満潮時にも冠水しない陸化した部分があり、この背骨のような部分は、ヨシの群落が尽きたあとも、出洲の状態で六郷水門先まで続いている。(出洲は満潮時にはスレスレに水没するが、満潮の一時を除く大半の時間帯には、左岸側を本流から仕切り、低水路に潟構造を作りだしている。
但し近年この出洲の上にもヨシが飛び火し、毎年急速に広がり、かつての砂洲はあっという間にヨシ群落地に変わってしまった。2008年、六郷橋から六郷水門の間では、(ごく一部の切れ目除いては)ヨシに遮られ左岸から右岸を見通すことは出来なくなった。


 
   (オオヨシキリ1)   (オオヨシキリ2)   (オオヨシキリ3)

暖かくなるとユリカモメは居なくなり、4月中には渡っていくカモ類も姿を消してしまう。ゴールデンウィークの頃は、カルガモも多くが営巣中で、近くの水面に見えるのは疎(まば)らなオスのカルガモだけ。いっとき湿地は閑散とした季節を迎える。

ヨシがグングン伸びる頃、いつの間にかヨシ原にオオヨシキリの鳴き声が喧(かまびす)しくなっている。オオヨシキリは夏鳥で東南アジア方面から渡ってくるらしい。
鳴き声はウグイス科という所属のイメージとは程遠く、「ギョギョギョ」「チュチュ」「ゲゲゲ」と喧(やかま)しく、およそ囀(さえず)るというような啼(な)き方ではない。ただよく聴いていると、間に「ホホホッ」というかわいい声を混ぜたりしていて、単に縄張りを主張しているだけとも思えない。
ここでは声はすれども姿は見えずの距離がある。すずめ位の大きさだが、風切羽や尾羽がすずめより長く、色はすずめより少し淡い。人馴れせず動きは素早いので、飛んできても姿をキャッチすることは容易ではない。[No.61C] は雑色ポンプ場の前で、ヨシ原の前面を撮っている。オオヨシキリの大きさは7倍ズームではこんなものである。
参考画像1〜6は2006年5月、隣の大師橋緑地に行って撮ってきたもの。大抵口の中は真っ赤に見える。(大師橋緑地のページに オオヨシキリ を1枚載せている。)

   (オオヨシキリ4)   (オオヨシキリ5)   (オオヨシキリ6)


川下側に進むに従ってヨシの群落は岸から離れ、護岸との間に塩沼地が広がっていく。
この辺りは六郷水門前の砂洲の切れ目から水が出入りする分岐水路の一番奥の方にあたる。この水路は行き止まりで、六郷水門前から雑色ポンプ所の少し川上までの左岸側の低水路は、満潮時には水を湛えた潟湖(せきこ)のようになり、干潮時にはほゞ完全に水が引いて干潟が出現する。(このように定期的に海水や汽水の干満を受ける湿地は「塩沼地」(えんしょうち)と呼ばれる。)
雑色ポンプ所の前辺りから、湿地帯の護岸寄りにヒメガマの群落が見られるようになる。(六郷川ではここ以外でガマを見ることはない。) ガマの群落の無いところでは、護岸からヨシ原までの視界が開けるので、川上側から進むと一番池、二番池、三番池というような感じになるが、次第にヨシ原は岸から遠ざかり潟湖(干潟)の幅が広がりを増していく。

[No.61Ba] は2005年7月の台風7号が房総半島をかすめて通過していった翌日の撮影で、一番池の全容を撮っている。チョッとアマゾン風なのは、台風一過ならではの独特な太陽光線と、極端に泥水化した水の色のせい。(見出しの小画像は [No.61Ba] と同じ日で、一番池の岸から反対の川下側を向いて、最初のガマ群落を見ている。)
[No.61Ca] は2005年の初秋で、ヨシの穂が色付き始めた頃に一番池を撮ったもの。

次の [No.61Da] は、2005年6月初旬、雑色ポンプ所の前で、護岸上から川下を向いて撮っている。(見出しの小画像はほゞ同じ位置で7月中旬の撮影。)
[No.61Da] を撮っている位置は、一番池と二番池の中間に当る。手前は低水護岸で、湿地の方はすぐ正面のガマ群落と、その奥にあるヨシ原が重なって写っている。先の方(川下側)に見えているのは二番池になる。分岐水路はガマとヨシ原の間を通っているが、ここからではガマの陰になって水面は見えない。なお、小画像や次の [No.61Ea] でも分かるように、ガマの群落は植生護岸に密着しているわけではなく、実際には狭い水路で護岸から仕切られ、低水路の中に生えているもので手が届く位置ではない。)

[No.61Ea] は、上の [No.61Ba] と同じ台風一過の日で、二番池の端から川上側を向いて撮っている。 一番池と二番池の間を遮っている群落は、川上側(上の小画像で見えている側)はガマだが、途中でフトイ(太藺:カヤツリグサ科ホタルイ属)に置き換わる。従って右の小画像や、川下側からこの群落を撮っている [No.61Ea] で、正面に見えているのはフトイである。
(フトイについては、[参考26] 河川敷の春から初夏にかけての草木と花 「カヤツリグサ科」を参照

 
二番池に現れる干潟では、東京湾岸での絶滅が危惧されているトビハゼが見られる。右の見出し画像と、[No.61Fa][No.61Ga] は2005年7月中旬、[No.61Z1a] は2006年7月上旬にこの近傍で撮った。

国交省(関東地方整備局)の河川水辺の国勢調査によると、多摩川で前2回(平成4年,7年)ともに確認できなかったトビハゼが、平成13年度の調査では確認されたことになっている。「生物調査概要」には、「トビハゼは東京以西の太平洋岸各地に分布し、主に内湾や河口の干潟に生息する。干潮時には発達した胸びれで泥面を這い回り、微細藻類やゴカイなどを食べ、潮が満ちてくると岸辺の石や木に這い上がる」と書かれている。
実際に、トビハゼは潮が差してくると一斉に高台へ移動を始め、移動は干潟が水没した直後まで続く。水面上スレスレをハイスピードで跳び続け、数メートル程度なら一気に駆け抜ける能力を持っている。障害物に出会えばそこで一旦休憩し、次の行先を見極める。
この近くのものはフトイの根元に行くようだった。フトイが生えている部分は確かに周辺よりは幾らか高いが、それでも最終的には水没してしまう。そのとき彼らが行く先は、フトイの茎の上しかないと思えるが、その姿を確認したことはない。
トビハゼは主に空気呼吸で、長時間水中にいると窒息してしまうらしい。干潟で頻繁にひっくり返って背中を濡らすのは、水を介して皮膚から酸素を取込むためと思える。

   (トビハゼ 1)   (トビハゼ 2)   (トビハゼ 3)

トビハゼの空気呼吸は皮膚のほかエラも使う特徴がある。[No.61Ga] は夕方、干潟からフトイの群落地に向かう途中で、経由する護岸裾に飛び移る直前。(一匹が水面でエラ蓋を膨らませているが、こうしてエラ蓋に水を溜め、この水に溶け込む酸素をエラから取り込むのだとされる。)
[No.61Z1b] も夕方で護岸との間隙水路。体表の太い縞模様(暗色横帯)はメラニン色素胞による。周囲の環境に応じ、より目立ちにくいように、 細胞の中で色素顆粒の拡散・凝縮を操作しているのだろう。(日中に干潟で撮ったものは暗色横帯を殆ど消している。)
トビハゼは冬場は休眠し、気温が上がる4月下旬頃に、カニと同時に出てきて活動を開始する。参考写真の1〜3は2006年4月末(活動を始めて間もない時期)。いずれも泥干潟の中で被写体が遠いため写りが良くない。
トビハゼが背ビレを立てるのは喧嘩するときなど特殊のケースで、通常背ビレは畳んでいて見えない。参考1は2匹の睨み合い。参考2は取組合い中。参考3は右エラから気泡のようなものを出しているので参考掲載した。
右見出しの小画像と参考写真の4〜9は2006年初夏。右は追掛け中で背びれを立てている。参考6は、移動中に偶々フトイの茎に抱きついたところで、この後すぐ泥干潟の方に出て行った。写真で見ると胸鰭で茎を抱えている格好は危なっかしく見えるが、実際には、掴まっているというより、腹ビレを吸盤にして吸付いているようだ。(ハゼ亜目の魚類は左右の腹鰭が癒合して吸盤に変形しているものが多いと図鑑に書かれている。)

   (トビハゼ 4)   (トビハゼ 5)   (トビハゼ 6)

[No.61Z4a] は2006年5月末、[No.61Z5a] [No.61Z6a] は6月中旬。参考写真を含め、写真によって体表の色が異なって見えるのは、場面ごとに保護色が働いているため。トビハゼの場合、単純に保護色というより、環境に擬態していると言う方が適切なくらい色使いは繊細で、動くまでその存在に気が付かないことも多い。
[No.61Z4a] [No.61Z6a] は上潮時の退避行動中。[No.61Z5a] は籠マット護岸の上で、上に載せた [No.61Z1b] に見るように、上潮で干潟が水没したしばらく後、護岸上に集結する姿を見ることがある。
参考7は夕刻で陽射しの弱い斜面。数分おきに胸鰭を交互にチョコッと動かす以外、ジッと静止していたが、そのうち体表が乾いてきたようで、直ぐ下に水浴びに行ってきて又この姿勢を続けた。参考8は退避中斜面に取付いていたところ、見る見る水位が上がって体が水没した時のもの。エラはずっと膨らませていた。隣にいたのは腹も膨らませていた。
右の小画像は同じ日で、やはり退避中のワンシーン。注目は腹ビレが見える点。手足のように使う胸ビレはいつも目立つが、腹ビレは腹の下面に張付くような形に付いていて、通常は殆ど見えることがない。
トビハゼは参考9のように体を捻(ひね)り、その戻しの反動を利用して跳ぶ。水面上も3段跳びのように駆け抜けるので、水中を泳ぐ姿はほとんど見たことがない。歩く時には邪魔になりそうな腹ビレだが、退化していないところをみると、両生類のような生活に適合させるように、吸盤をそれなりに機能させているのだろう。

   (トビハゼ 7)   (トビハゼ 8)   (トビハゼ 9)


雑色ポンプ所前から六郷水門までの湿地帯には、かなり多くの種類の野鳥が姿を見せるようである。(確認されているものだけで100種に及ぶと聞いたことがある。)
私のような通りすがりの素人には、カルガモやコサギ程度しか撮れないが、望遠態勢を備えた専門のバードウォッチャーはかなり多彩な種類を収めているようだ。
ただ2005年の夏は、縁があってバンの一家を撮り続けることになり、結構足繁く当地に通ったので、その間に普通に撮れる幾つかのものについては下の方に参考掲載した。(カルガモとバンについては次のページに特集してある。)
ここに載せた「ゴイサギ」は普通に見られるというほどは居ないが、この日はたまたまバンの一家を追っていたピークの頃で、珍しく朝のうちに干潟を見に来たところ、これに出会わせた。未だ発色していない幼鳥も含め4〜5羽が来ていた。(小画像に写っている黒っぽいのは「ホシゴイ」と呼ばれるゴイサギの幼鳥、[No.61Ha] で一緒に写っているのはカルガモで、後ろの青物はヨシ原の前縁に出来ているガマの群生。)
当地はバードウォッチングのスポットとしてはそれほどの賑わいはなく、この近辺なら河口右岸のヨシ原の方が遥かに有名だ。当地がマニアにあまり注目されないのは、餌撒きをする人がいるという環境が嫌われているのか、もしかすると当地の歴史が比較的新しいため、野鳥の実態が未だあまり認知されていないということかも知れない。

[No.61Ja] [No.61Ka] は二番池の川下向きで、前方正面に見えているのは、川下側の三番池との間を仕切るこの界隈で最大のガマ群落。
[No.61Ja] は干潮時で池は干潟に換わっている。右手のヨシ原の前に帯状に少し背丈の低い部分があるが、この部分もガマになっている。上のゴイサギを撮っているのはこの場所で、ここのガマもバンがよく出入りしているのを見る。
[No.61Ka] は同じ位置から同じ方角の満潮時で、これは幾分かズームで撮っている。
(架け替え工事中の大師橋だが、上り橋・斜張橋の主塔が2005年5月遂にベールを脱いだ。両側の斜張橋が揃った写真はこの頃の写真が初お目見えということになる。)

ヒメガマは6月下旬〜7月初旬の頃、独特のフランクフルトのような花穂を出す。主要部は雌花で、若い花穂ではその上部に雄花が付いている。
日本のガマ科ガマ属はガマ、ヒメガマ、コガマの3種。雄花が細長く、雌花との間に間隔を明けて付くのはヒメガマの特徴。雄花は花粉を飛ばしてしまうと脱落し、やがて雌花だけの姿になる。(ガマの穂は次第に色褪せ目立たなくなるが、夏から秋にかけて熟成が進み、地上部が枯れ姿となる晩秋に、袋を裂いて綿毛を噴出させる。この頃には近辺の河川敷は一面にガマの種子が飛散して大変である。)

  (ガマの若い花穂)   (ガマの成熟花穂)   (ガマの綿毛噴出)

右の小画像は、界隈で最大となるここのガマ群落で、[No.61La] はこのガマ群落の川下側の端に来ている。出洲の向う側に細く帯状に見えているのは、対岸(川崎市)の中瀬から大師河原の地先に続くヨシの群落である。
この写真では、澪筋側のヨシ原の端がほぼ同じ位置に見えているが、かなり川下を向き斜めに撮っているのでこう見えている。(大師橋の斜張橋が見えているのでおよその見当がつく。) 実際にはヨシ原の先端はガマ群落の端から100メートルほど川下に進んだ位置になり、岸の方では丁度その辺りから(次の「緑地」のページに載せている)不可解なテーブル状護岸が始まるような位置関係になっている。
ここが視界の開けるいわば三番池の始まりの地点で、以後六郷水門前の出島まで、低水路に抽水植物の大きな群落はなく、テーブル状護岸の中央部に、岸から張出した形のヨシと、その手前でテトラポッドの先に定着した小さなガマ、中洲に点々と繁殖を始めたヨシなどが主な青物になる。
夏場の鳥類もここまではほゞカルガモ一色だが、ここから先は中洲を中心に、サギやシギ、あるいは南に行かなかったカモメやウミネコなどが多くなる。

[No.61Ma] は7月下旬、若い花穂が出揃った時期に、ここより少し手前の辺りで撮った。このほっそりとしてしなやかな葉幅の狭さが「ヒメガマ」の名前の由来という。


 
右の2枚、[No.61Na] と [No.61Pa] は、三番池の川上側の端で撮った三番池の全容。
[No.61Pa] は日没直前で満潮時。中洲は水没し三番池は本流と繋がってしまい、この時間帯だけは、あたかも低水路の中央にヨシ原があるように見える。
下の小画像は潮が引き始めた段階で、[No.61Qa] は干潮時に近い時間帯まで進んでいる。塩沼地は浅い一条の水路を残してほゞ干上がり、全体が干潟化していく最終段階。

このページを開設した当初、その下にセイタカシギを載せていた。セイタカシギは基本的には冬鳥だが、近年東京湾近傍で繁殖するものが結構多くなったといわれる。
当地でも2005年の場合には、春に一旦姿を消した後、6月末にはもう干潟に2,3羽の飛来があった。夏の間中数羽が見られ、9月には一気に数を増し結構騒いでいる日もあった。
普通頭頂部から後頭部にかけて黒っぽいが、稀に頭が白いのがいる。翼も普通黒味掛かった茶褐色だが、稀にほとんど真っ黒というのがいる。通常2亜種に分けられるそうだが、色については中間的なものもいるので亜種の違いとは無関係か。秋の早い時期に、頭が白く羽が黒いものを比較的多く見るような気がする。
(セイタカシギは冬バージョンの方に多くの写真を載せたので、2006年にここでのギャラリーは閉鎖した。)

 
  
(カニ1)   (カニ2)   (カニ3)

干潟の小動物といえば何と言っても数が多いのはカニ。
上に載せた参考写真の「カニ1」「カニ2」「カニ3」は、イワガニ科アカテガニ属のクロベンケイガニ。甲羅は4〜5センチ程度のほゞ正方形で、ハサミはがっしりと大きく、甲羅の紋様が盛上がり、足に毛が生えているのが特徴。一般に干潟後背地の湿地やヨシ原に生息し、六郷橋側のヨシ原にゴマンといるのはコレ。日没頃にはオギを抜けて細い散策路を埋め尽くすほど出てくる。下に載せた [No.61I] と1は干潟前の護岸、2は大師橋緑地先のヨシ原,3は六郷ヨシ原の中央部で撮った。
「カニ4」「カニ5」は同じイワガニ科のアシハラガニ。同じヨシ原でも大師橋より河口側の海に近い方に行くと、ヨシ原は殆ど全域が塩沼地となり、カニは圧倒的にアシハラガニが多くなる。ただクロベンケイガニが多い当地の周辺でも、水を被る界隈にはアシハラガニが居て、クロベンケイガニと共存している。
アシハラガニはクロベンケイと同じ位の大きさで、ハサミの大きいところも似ているが、足に毛は生えていない。色は黄色味が強くクロベンケイのように赤っぽくない。背中は丸みを帯び体全体に厚味を感じるが、甲羅の表面は平滑でクロベンケイほどゴツイ印象は受けない。4は河口の干潟、5と右の小画像はフトイの生える泥地で撮った。[No.61Qb] は籠マット護岸で、大きさは中位、右手に小さなカニを掴んでいる、食べるのだろうか?
「カニ6」「カニ7」は干潟のカニの代表格、スナガニ科のヤマトオサガニ。3〜5センチ程度で全体に平い感じがする。スナガニ族に共通する特徴として、長い眼柄の上に目があり、水中でも眼柄を突き出して潜望鏡のように使用する。ハサミに大小あり大きいのがオス。
6は水門寄りの干潟でメス、7はガマ群落の方の干潟でオス。

   (カニ4)   (カニ5)     (カニ6)   (カニ7)

右の小画像と「カニ8」はヤマトオサガニと同じスナガニ科で眼柄の長いチゴガニ。実際に干潟に一番数多くいるのはコレ。有名なシオマネキやコメツキガニなどの仲間で、甲羅の大きさは1センチ以下と小さく、近くに寄って見ないとカニとは分からない。
チゴガニは干潮時に水が引いて露出した殆ど全ての土部に群で見られるので、星の数ほど居ると言っても過言ではない。(ハサミは白いので、離れた場所からは、何か白い点々が動いているとしか分からない。写真に撮ってみると、普通ではとても気が付かないが、腹部が綺麗なブルーグリーンをしていることが分かる。)
あまり動き回らず、巣穴の近くで万歳をするように、ハサミを素早く広げながら振り上げる「万歳踊り」が特徴。この万歳は、食べながら全員が頻繁に繰返す。ハサミを振上げる反動を利用して上体を起こし、足も何本か持上がるほどの大きな動作だが、その動きは瞬時に完結してしまう。ハサミを振り上げるのは雄だけといわれ、求愛ダンスという説もある。
「カニ9」では首尾よくハサミを振上げた瞬間をキャッチしたが、実際この姿をゲットするまでは大変苦労した。(地面に写っている帯状のものは、籠マット護岸のカゴを構成している紐である。) なおチゴガニの万歳踊りは6月頃から夏までの限られた期間だけで、その後はチゴガニの存在は全く目立たなくなる。
「カニ10」はチゴガニの色違い。(メス?) このグリーンのタイプも珍しいということはない。

   (カニ8)   (カニ9)   (カニ10)


 
右の小画像は湿地と向合う左岸の中央部に作られている”テーブル状護岸”で、川下側を向いて撮っている。このテーブル状護岸は、中間に干潟に張り出すヨシ叢の箇所があり、そこで川上側と川下側に二分されているが、全長で300〜350メートルほどの長さがある。(この特異な部分については、「緑地」のページで参考写真を載せるなどしている)
[No.61R][No.61S] はテーブル状護岸の中央で護岸から潟湖にせり出した部分。[No.61R] は小さなガマの茂みの所で川下向きに撮っている。ここは次の頁で特集しているバンの住処になった場所。奥の方はヨシ叢で、[No.61S] は逆にこのヨシの方から川上を向いて撮っている。正面はヨシ原のフロント部分にあたる。

この辺りの海鳥で格好良いのはカモメ科のコアジサシ。ツバメを少し大きくした位だが、翼が長く飛翔能力が優れている。オーストラリアから渡ってくるという夏鳥で、レッドリスト鳥類で絶滅危惧U類(VU)に記載されている。
この近辺では森ヶ崎の水再生センター屋上に作られた人工営巣地が有名だが、人や犬猫が入れないような場所(右岸いすゞ跡地や左岸東急ホテル跡地など暫定的に更地化されている場所)に入っていく姿を見るので、営巣しているのではないかという話も聞く。
下を向いて飛んでいて、獲物を見付けるとヘリのように停空(ホバリング)し、狙いを定めたら、急降下して頭から水に突っ込む。深くは入らず、すぐ反転して飛び上がっていく。狩に失敗するケースの方が多く、水面近傍で断念して反転するケースも見られる。

   (コアジサシ1)   (コアジサシ2)   (コアジサシ3)

コアジサシの動きは速く撮影は容易ではないが、同じコースを何度か周回するので、画質に贅沢を言わなければ素人にも狙うチャンスはある。1は探索中、2はホバリング中、3は断念後飛び上がる寸前。

[No.61T][No.61U][No.61V] は最近急速に発達している中洲上のヨシ叢。2005年夏には叢は隣接して六つあった。満潮時には根元の部分は水没する。ここには色々な鳥が休みにくるが、夏の盛りにはダイサギが一番目立つ。
この辺りの洲や干潟にはチドリやセキレイ類も多い。写真はたまたま護岸近くにきたものを撮った。コチドリとハクセキレイだと思うが、自信は無い。コチドリは夏鳥として飛来する。ハクセキレイは留鳥のほか冬鳥として飛来するものも多いという。

   (コチドリ)   (ハクセキレイ1)   (ハクセキレイ2)

洲の方では数的にはシギ類が一番多いのではないか。鳴き声がきれいなのは多分キアシシギ。ソリアシシギなど有名な種類は大抵見られるようだが、洲にいるだけでは私には撮れない。偶然近くにきて撮れた2種類だけ載せてある。アオアシシギはシギ類としては大きくここでは数も多い。イソシギは小さく、ハクセキレイがよく見られるところに珍しくきていた。

   (アオアシシギ)    (イソシギ)

6月中旬頃から干潟にシラサギが目立つようになる。初夏の頃は干潟に水が出入りする砂洲の切れ目周辺に集まる傾向があるが、7月頃になると数も増え行動範囲も干潟全体に広がる。魚を追って歩き回り、水溜りを片足でかき回したりしているので、ほとんどはコサギだと思う。
[No.61W] [No.61X] ともに6月末の撮影。この写真では見難いが、普通頭に2本の冠羽がある。脚と嘴は黒く、足の指は黄色い。尾の方に綿毛の巻上がったような飾り羽が見られる。サギ類は警戒心が強いが、コサギは魚を追うのに夢中で、結構岸近くに寄ってくるものがいる。
下段の [No.61Z2] [No.61Z3] はもう9月末。このコサギとダイサギは意思を通わせていて不思議だった。[No.61Z3] の後ろにいるのは、一番で乗込んできたコガモらしい。

アオサギも結構多く来ている。アオサギとはいっても初夏には、中洲で日に照らされているとかなり白っぽくみえる。飛ぶ姿は雄大でこの干潟では最大の鳥ではないだろうか。7月頃はまだ少ないが、8月下旬頃には数もぐんと増え、殆ど毎日数羽は見られるようになる。いつもジッとして、遠目には何か考え込んでいるように見える姿が印象的だ。

   (アオサギ1)   (アオサギ2)   (アオサギ3)

[No.61Y][No.61Z] は六郷水門前、ここで干潟は終点。([No.61Z] は台風一過)
[No.61Y] で左正面に見えるヨシ群落の裏側に、六郷水門から本流に出て行く水路がある。中洲が終点となるこの場所に、水門先出島と繋がらない切れ目が辛うじて残っていて、ここから干潟へ水が出入りしている。護岸の直下に細い水路があるが、これは水門水路とつながっていて、上げ潮時にはここからも大量の小魚が上がってくる。
上げ潮に乗って水面をざわつかせ、干潟に入ってくる夥しい数の小魚は(頭が平たく見えるので)おそらくボラの幼魚だと思う。岩に付いた藻やコケを食べる姿以外にも、(浮遊しているデトリダスを呑み込んでいるのか) 集団で水面に顔を出して泳ぎ回っている光景をよく見る。サギやコアジサシが狙っているのは多分皆コレ。
ボラは東京湾沿いで最も多くみられる汽水魚で、遡河性(あるいは降海性)魚類と呼ばれるものの一種である。
多摩川の汽水域で夕方に水面を跳ねているのはこの魚で、数は滅法多く貴重とされることはないが、卵巣を塩漬けにしたものはカラスミと呼ばれ珍味として有名。4〜5才に達したメスは海に下って産卵し、稚魚は河に遡上してくるが、東京湾で獲られるメスの卵巣がカラスミにはならないことから、産卵は遥か彼方の外洋で行われると考えられている。

ボラは出世魚で、(地方によって幾らか呼び名が違うようだが、) 10センチ前後の幼魚はオボコ、スバシリあるいはイナッコなどと呼ばれ、イナの時期を経て30センチ位からボラとなり、50〜80センチの大きなもの(4〜5才)はトドと呼ばれるようになる。
(関西では数センチ程度までの稚魚をハクと呼ぶそうだが、関東ではオボコから始まる。産卵場所が南海方面で、江戸では稚魚段階のものが見られなかったためかも知れない。最終段階がトドと呼ばれることが、「トドノツマリ」の語源になったとされる。)

   (オボコ1)   (オボコ2)   (オボコ3)

本流に面した側ではカワウが羽を広げていることがある。この辺でカワウはあまり多く見ない。むしろ上流側の多摩川大橋近辺でよく見かける。(記憶に新しいところでは2003年2月、多摩川より品川寄りにある立会川にボラの大群が遡上し、これを鵜呑みにするために集まるカワウの様子がテレビで報道された。)
オオバンは冬場にくることが多いが、たまたま7月に上掲したゴイサギを撮った日に隣にいたので撮った。夏場に見るのは珍しい。キジバトはドバトがいる場所と同じような場所で見るが、ドバトと入り混じっているところは見ない。

   (カワウ)   (オオバン)   (キジバト)

 
最後の [No.620b] は六郷水門を越した川下側から、川上方面を望む形で湿地を見ている。満潮時で出洲は隠れているが、水面に帯状の紋様となってその痕跡をとどめ、ヨシ叢だけが水面上に浮いて見えている。(対岸は味の素からドコモビルまで)
六郷水門のすぐ隣の川下側には「六郷ポンプ所」があり、その排水樋管が堤防の真下に開口しているため、高水敷には排水を流すための水路が切込まれている。(通常ポンプ所の樋管は満潮時には水没する高さに開口し、逆流防止用の遮断扉が完備されている。)
[No.620b] の前面の高水敷は、六郷水門の水路と六郷ポンプ所の排水路によって前後の河川敷から遮断された狭い区域で、何の施設もなく普段人が下りることはない一画になっている。この写真は9月中旬で、未だオギが穂を出す季節ではない。つまりこの下に茂っている青物は全てヨシである。河川敷でヨシを見るのは大抵水際であり、水没しない高水敷では普通、大型のイネ科植物はオギになり、その陸側ではセイバンモロコシが優占する。
ここは一般の河川敷のように頻繁に草が刈られることはない。また恒常的に水をかぶることがないながらも、3方を水に囲まれ平生きわめて湿気が多い地質になっている。このような環境では、堤防の法尻までヨシが優占するという事実は、イネ科植物の競合条件についての貴重な参考例である。



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