第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その2 六郷橋緑地と六郷水門


(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)


昭和30年代、この辺りの高水敷は畑になっていたが、六郷橋より上手の現多摩川緑地にはゴルフ場があった。六郷橋周辺の広大な河川敷は大田区が占有し、今では主として運動場などを整備し一般に開放しているが、ここに至るまでにはちょっとした経緯(いきさつ)があった。
昭和41年まで、多摩川は二級河川で、東京都が管理しており、大田区は昭和30年(1955)に東京都から河川敷の占有許可を受け、18ホールのゴルフ場建設に乗り出した。区役所はゴルフ場の建設、運営を「(株)六郷ゴルフ倶楽部」に委託し、面積39万平米のゴルフ場が昭和33年開場の運びになった。当時は第一次ゴルフブームに湧きかえっていた頃で、立地条件の良さなどからこのゴルフ場は相当な利益を上げたといわれている。(利益は会社に属したが、区は多額の利用税が得られる仕組みになっていた。)

昭和39年(1964)東京オリンピックを契機として、国民の体位向上に関心が集まり、折から(従来までの治水一辺倒の)河川法が改正され、総合的な河川管理が求められるようになったことで、大都市周辺の河川敷地開放に向けた気運が急速に高まり、昭和40,41年国会で、河川敷を一般公衆に開放するようにとの決議がなされた。
昭和41年の「(第一次)多摩川河川敷開放計画」では、ゴルフ場については取りあえず9ホールに半減させることを目標とし、多摩川ゴルフ練習場を除く、東急玉川ゴルフ倶楽部、新川崎ゴルフ倶楽部、大田区営ゴルフ場(六郷ゴルフ倶楽部)の3個所が開放の対象となった。(昭和49年度からの第二次計画では、ゴルフ練習場として計画を変更するものを除き、全面開放の措置を講ずるとした。現在多摩川大橋上手の右岸などに、コースの形式をとったゴルフ場があるが、あくまで「ゴルフ練習場」である。)

新河川法の施行に伴い、多摩川は昭和41年に一級河川に格上され、建設省(関東地方建設局)の所管となった。公共団体が運営するものが率先して開放に協力するように、ということもあって、国は大田区に対し、六郷ゴルフ場の開放を期限付きで求めることになった。

大田区議会は特別委員会を設置して調査の上、期限を緩和した形で請願を採択した。大田区は区議会の決定を受けて、昭和43年に六郷ゴルフ場の廃止を決めるが、「六郷ゴルフ倶楽部」側は東京地裁に、営業妨害禁止の仮処分を申請、区側は明渡し断行の仮処分を申請し、9ホールを残したまま問題は裁判所に持込まれることになった。
会社は、前区長が永代使用権を約束していたとの陳述を行い、前区長自身が会社側の証人として出廷して、会社側の陳述を肯定するような発言を行ったため、裏取引があったのではないかとの疑惑が生まれ、区議会は再び調査に乗出すことになった。結局、事の真相が詳(つまび)らかにならないまま、昭和44年には16万人の署名を集めた「多摩川緑地運動場建設促進大会」が催されるなどの情勢となり、こうした背景をうけて、東京高裁は双方に和解を勧告するに至った。
昭和46年和解が成立、六郷ゴルフ倶楽部は示談金1500万円を得て移転することになり、大田区は跡地に緑地運動場を整備することになったのである。(大田区営ゴルフ場は六郷橋より上手の現多摩川緑地にあった。現在京急とJRの間に「六郷ゴルフ倶楽部」名の「打ちっ放し」があるが、当時の「六郷ゴルフ倶楽部」との関係については知らない。)

2002年3月の「六郷わがまち」(大田区六郷出張所)に、平野順治氏による以下の記事が載っている。「昭和30年2月、京浜急行から大田区に対して、戦前の桜並木を復活し、憩いの場として健康増進に資したいと、染井吉野1000本の寄贈申し出があった。31年5月、大田区役所で西六郷三丁目から羽田本町までの沿岸地区の町会長を支部長とする「六郷愛桜会」の結成式が行われ、"株立ち"という植樹が進んだ。以来46年、六郷土手は桜の花が舞う名所となった。」
この時期の桜の植樹が始まったのは、我が家が当地に引っ越して来て間もなくの頃で、話題になったので六郷橋の近くまで見に行った。当時は未だあちこちに空地が点在し、夏場は身の丈を越える雑草が生い茂る状態だったので、子供心にこんな弱々しい木が育つものだろうかと思ったことを記憶しているが、同紙に載っている調査報告によれば、現在70本の老木が健在で、約8メートル間隔で植えられているとのことである。
(昭和30年代、この辺りの高水敷は殆どが野菜畑だった。ハゼ釣りのために川岸に出ることはよくあったが、畑にはあちこちに汚穢(おわい)桶が埋められていて、高水敷は遊び場ではなく、むしろ子供には怖い場所だった。)

このホームページを開設したきっかけは、2002年に撮り始めた多摩川の堤の桜を掲載することだった。桜の写真が如何に難しいかが分かって以後、桜の撮影には執念を持ち、毎年桜の時期にはあちこち飛び回って修行した。場所としてはバラエティーに富む丸子橋上手やガス橋上手の左岸を重視したので、満開の期間や好天の日には上流方面に出向くことが多く、六郷橋下手の左岸(当地)や大師橋下手の右岸は優先順位が低くなった。
ただ2004年は晴天日を殿町(大師橋下手の右岸)に振向けたので、往復で通ることになる本羽田公園角の桜 ( [No.648B] ) や当地の桜も更新することが出来た。
[No.622a] は川上向きで正面は六郷橋。[No.624a] はスロープの上手位置で川下向き。右端の煙突は右岸中瀬の味の素。正面遠くに見える白い柱は大師橋斜張橋の主塔。いずれも帰途で午後の撮影である。
2006年は「六郷橋緑地前湿地 (冬バージョン)」の最終仕上げに入っていた時期で、頭の黒くなったユリカモメを追って当地に日参していた関係で、多摩川緑地管理事務所前の桜( [No.44E] )や、雑色ポンプ所前のここの桜について、散り始める前の最盛期の様子を撮影することになった。更新した3枚はいずれも川上(六郷橋)向きで、[No.623d] は下に載せている前年秋の紅葉を撮った [No.62Z2] を逆側から見た構図になっている。(見出しの小画像は3枚とも2006年のもの。朝なので川下向きは逆光でギャラリーに載せるような写真は撮れない。小画像の中に一枚だけ載せておいた。)

2005年秋、当地のサクラの紅葉は近年には見ない見事なものだった。
ヤマザクラの紅葉は結構しっかりしているが、ソメイヨシノの場合は紅葉というより、葉が枯れていく途中といえなくもないような感じなので、秋にソメイヨシノが話題になることは殆どなく、紅葉すること自体を知らない人も少なくない。
ソメイヨシノは通常イチョウやモミジが色付くより半月ほど早く紅葉する。その上ソメイヨシノの紅葉は寿命が短く、色付く端から散ってしまう感じで、全体が見頃になるというような安定期は例年殆ど存在しない。(亀甲山などでも、一般の紅葉時期には、ソメイヨシノは既に散ってしまっているのが普通である。)
ところが2005年の秋は、ここ数年の状況とはかなり様子が違っていた。
この年は全国的に紅葉が例年より半月程遅く、六郷でソメイヨシノが紅葉し始めたのは11月中旬だった。この頃はウラギクの綿帽子などを撮りに湿地の方に出向いていたので、遠目ながら 「今年はサクラの紅葉が綺麗だなァ」 という印象はあった。ただ初めてのウラギクに集中していて余裕はなかったし、「どうせ直ぐに散ってしまうだろう」 という強い思い込みがあって、写真を撮ろうという気持までにはならなかった。
ところがこの年のソメイヨシノはなかなか散らず、やがて紅葉が全体に及ぶようになり、堤防裏の並木が赤く染まる景観となった。

最近では見られないほどの状況になってきて、「このチャンスを逃すのは惜しい...」 という焦りと、「どうせ今夜風が吹けば明日は全部散っているだろう...時既に遅し!?」 という思いが何日か鬩(せめ)ぎ合った。
それでも未だ散らないので、ダメモトを覚悟でやっと撮影に踏み切ったのは、ウラギクを撮り終えた後の11月末になってからだった。
陽が高いうちに家を出たが、運良く好天に恵まれ、爛熟状態の光り輝く紅葉をゲットすることが出来た。([No.62Y]〜[No.62Z5] の6枚は全てその時の写真で、場所は鉄塔や雑色ポンプ所がある近辺が一番良かった。)
ソメイヨシノの紅葉らしい紅葉はなかなか撮れる機会は無いもので、この日の撮影には満足した。午後には曇ってしまったので早めに出てこなければ悔いを残すところだった。(日が翳ってしまった後の写真も最後に1枚だけ載せた。[No.62Z5])

「東京の原風景」(川添登−NHKブックス)という本に、「栽培植物の世界」からの引用として、「江戸時代の日本の花卉、花木、庭木の改良発達は、当時としては世界的にユニークな特別なもので、〜、 日本の浮世絵が西洋文化に与えた刺激より、園芸植物の与えた影響のほうがはるかに大きい」と評価した一文が載っている。

ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸末期(1850年代)に、染井村に集落を作っていた造園師や植木職人によって育成され(伊藤伊兵衛政武が有名)、「吉野桜」の名前で売り出された新種(園芸種)である。起源については諸説あるが、東日本に自生するオオシマザクラとエドヒガンの交配によって生まれた雑種とするのが定説になっている。
バラ科に属するサクラは自家不和合性で、遺伝子を同じくする花同士では結実しないため、里桜(園芸種)は実生の苗を得ることは出来ない。ソメイヨシノは、接ぎ木などクローンによって増やされたものだが、成長が早い上に、若木でも花が咲くので、明治期に急速に都市環境を整備していく上で、まことに都合のいい品種だった。
上野公園、隅田公園、飛鳥山、靖国神社等々桜の名所は、いずれもソメイヨシノを中心に作られ、その後ソメイヨシノは日本全国、更に世界へと広がっていった。

江戸時代前期にツバキなどと共に、日本からヨーロッパに伝えられた植物に銀杏(イチョウ)がある。銀杏は現代日本では街路樹として最も多く利用され、一方神社の境内などには、樹齢数百年という古木も少なくない。銀杏は園芸種ではないが、常に人(文明)と共にあって、山に自生する野生の姿を見ることがない不思議な樹木である。

実は銀杏は中生代(2億年前)に繁栄した「生きた化石」の一つで、種蒔役だった恐竜の絶滅とともに衰退し、氷河期までに世界中の殆どの地域で絶滅してしまった。唯一、浙江省天目山(中国南部)で生き残った銀杏が、人に発見されて里に下った。(現生する銀杏は一種で一門一科を成し、近縁の種・属はすべて絶滅した化石種になっている。)
日本でも化石は出土しているが、古事記や万葉集の時代には銀杏は出てこない。鎌倉時代に交易によって初めてギンナンの実が大陸から伝来し、食用だけに止まらず、育成されるようになったものと考察されている。
鎌倉時代には各地の御家人が挙って鶴岡八幡を勧請し(八幡神は清和源氏の氏神)、武家の守護神や村の鎮守様などとして、全国に八幡宮が造営されるようになった。鶴岡八幡宮は実朝暗殺にまつわる「隠れ銀杏」が有名だが、中世は神仏混交の時代であり、銀杏は神社・仏閣を問わず全国の文明拠点に植えられるようになった。
日本古来の文化には、日本人の特質である、新しいものを受容れる柔軟性と、技への拘わり(凝り性)という2面が色濃く反映されている。自然に対しては従順を旨としつゝも、その一方で自然を社会生活(人の営み)の中に取込んでいこうとする独特の自然観があった。
日本人ならではの自然との付合いが、結果的に地球規模で絶滅しかけていた銀杏を蘇らせることになった。19世紀の日本は鎖国の時代だったが、その時期に日本の文化が、世界の街に黄金散る秋の風景を作り出していた事実はあまり知られていない。


六郷橋下から川下に発達したヨシの群落と、それに引き続く砂泥洲によって、この辺りの左岸の低水路は本流から遮られ、満潮時には池のような雰囲気になり、干潮時には一転して干潟が出現するという環境になっている。

冬場この湿地で最も普通に見られる水鳥はオナガガモ。オナガガモは雑食性で餌付けされ易く、渡る野鳥の中では一番人馴れする。河川敷に上がってきて、草を食べ日向ぼっこしている姿もよく見られる。
[No.61A,B] は4月初旬、この時期には多くの仲間は既に北へ向かって旅立っていて、この番(つがい)も間もなく飛んでいく。
[No.61A] で前を行くのが雌、後ろが雄。雌は全体褐色で風采が上がらないが、雄は首から胸前、腹部にかけてが白く、背中の灰色も綺麗だ。嘴(くちばし)の両脇が青白く、尾羽は黒く細長いという派手ないでたちで、遠目にもすぐそれと分かる。
カモ族の多くの雄は、繁殖期(5〜7月)を過ぎると羽が生え替わり、雌とよく似た地味な色彩紋様に戻ってしまうという独特の生態があり、夏から秋にかけてのこの時期の雄をエクリプス (eclipse) と呼ぶ。コガモやオナガガモなど、秋に飛来するカモ類の雄は、エクリプス状態で飛んでくるので、やってきた直後には全部が雌のように見える。

この辺りの河川敷では、どこでも大抵餌付けをする人が見られる。寄ってくる鳥は冬場には、ユリカモメ、オナガガモ、コガモ、ドバト、ハシブトカラス、ムクドリ、スズメなど。
セイタカシギやオオバンは人がいないと護岸に上がっていることがある。オオバンは河川敷まで上がって草を食べるが人に対する警戒心はかなり強い。セイタカシギは護岸に並ぶ姿を見るが餌付けには近付いてこない。警戒心というより食性の違いによりパンなどには関心が無いためだろう。
[No.625a] は2004年の正月満潮時、この辺の位置では新しい籠マットには未だあまり変化が無いことが分る。(次の [No.626b] ともに富士が半分写っています。)
[No.626b] は2006年春で、近年ここから大師橋緑地にかけて、カモなどに混じって目に付くようになったセイタカシギ。絶滅危惧IB類(EN)に記載されるが、近年では東京湾沿岸地域(木更津方面)で毎年繁殖しているらしい。実際数は少ないが夏場にも出洲で数羽みられ、時折脚輪を付けているものを見掛ける。
4月までに冬鳥たちは北へ旅立っていく。5月はカルガモ、バンなど留鳥が繁殖に入るため、干潟は一時は静かだが、やがてオオヨシキリの喧騒で夏舞台の幕が開き、カルガモの親子があちこちで見られるようになってくる。
(岸辺で通常見られる野鳥については、「六郷橋湿地」のページの方で、「夏」「繁殖」「冬」に分けて掲載しています。)

右の [No.627a] は10年の建設工期をかけて工事され、平成15年に稼動を始めた東京都下水道局の「雑色ポンプ所」。湿地にガマ群落が始まる前あたりで、堤防川表に造られた水門のような施設は、対岸の河港水門とほゞ向かい合う位置になる。
ポンプ所の役割は大雨の際、下水管が雨水で飽和し排水機能が働かなくなることを防止するために、下水管に充満してくる雨水を汲み上げて川に排水することである。従前の城南地区には、東糀谷・矢口・六郷・羽田の4ヵ所にポンプ所があり、六郷水門の下手にある六郷ポンプ所では、蒲田から仲六郷1丁目、南六郷1丁目と下る「六郷幹線」と、西六郷から六郷土手方面を回ってくる「雑色幹線」の2系統を処理し、六郷地区全域をカバーしていた。(いずれの下水管もその後「六郷川幹線」を経て最終的には森ヶ崎の水再生センター(旧下水処理場)に至り、平時には再生処理が施されて海に排水される。)
雑色ポンプ所が出来たことにより、「雑色幹線」の範囲は六郷ポンプ所から外れ、雑色ポンプ所が扱うようになった。(ポンプ所は平常無人で運転され、5ヵ所のポンプ所は全て東糀谷から遠隔操作で監視制御が行われている。)
なお初期の雨水は汚水濃度が高いので、ポンプ所隣の地下に作られた貯留池に貯水し、貯留池が満杯になれば、以後は直接川への排水を行う。貯留池の汚水は雨がやめば汲上げて平時の下水経路に流し再生センターに送られる。
雑色ポンプ所の能力は、沈砂池 5mx16mx2.67mx5槽、ポンプ (口径1500mm揚程16m) 吐出量 毎分310立米x5台、貯留池 14,700立米 (70mx24mx8.75m) など。

ポンプ所の名前は地名が付けられるようだが、「雑色ポンプ所」では、地元の人でも大半の人は何で?と思ったに違いない。この辺りの人は雑色と聞けば、徒歩で10分以上も離れた京急雑色駅や、駅から反対側に行く商店会のイメージしかないからである。
(現在の六郷地区にあった旧町村名は、戦時体制下に全て廃止され、新町名に変わってから半世紀以上が経つ。近代まで六郷の中心部は「八幡塚村」といったが、八幡社は六郷神社と名前を変え、八幡塚の名前を冠した建物もないため、「八幡塚村」という旧村名は既に住民の記憶から消し去られている。同じように、その昔当地が雑色村と呼ばれていた一画にあたることを知る人はもう極く少ない。)
六郷周辺には古川薬師とか高畑神社など古来の建物があり、道塚小学校とか高畑小学校という旧村名を冠した学校もある。しかしそれらは生まれた当時の地名を冠してそのように命名されたのであって、現在では建物の固有名として受取られている。
実際当地に於いても、40年くらい前に出来た中学校は雑色中学ではなく南六郷中学と命名されたし、その後南六郷小学校もできている。(古い時代とは縁も所縁も無い)近代的な施設を、「雑色ポンプ所」と呼ぶのはいかにも不自然だ。(たとえば南六郷1丁目の従来の「六郷ポンプ所」を「六郷第一」とし、この南六郷3丁目にできた新らしいポンプ所を「六郷第二」とするなどの、普通の呼び方は考えられなかったのだろうか。)

右の [No.62Q] は雑色ポンプ所前の湿地。湿地帯の地形は潟湖(せきこ)だが、干潮時には干上がり、干潟が出現する。正面ヨシ原の後ろに右岸の河港水門が見えているが、雑色ポンプ所の水門は丁度河港水門と向合うような位置にある。
当湿地は今でこそ保護の対象となるような動植物が生息する貴重な環境になっているが、古くからそのような環境として維持されてきた場所ではない。この界隈は近代には堤防の間隔が今よりもっと広く、広大な高水敷の中に細い水路が蛇行して走っていた。昭和20年前後に、今ヨシ原や干潟が出来ている位置の高水敷が抉られるように掘削された。その後洪水によって運ばれてくる土砂が、旧蛇行水路に沿うような形で左岸側に堆積し、デッドスペースを埋めるように洲が発達した。洲にはヨシが定着して土砂の堆積が促進され、やがて六郷橋寄りで中洲と左岸の高水敷が繋がって、分岐水路の流路は塞がり行き止まりの潟状になった。中洲と護岸の間の潟湖は土砂の堆積により年々浅くなって遂に塩沼地になったのである。
ヨシ原の発達は昭和の後期頃のことで、それに伴って次第に塩沼地が広がり干潟環境が出来たわけだが、土砂の堆積は現在も進行していて、このまま放置すれば塩沼地がやがて陸化するのは間違いない。

雑色ポンプ所は、当所の計画では目の前の湿地に排水する予定だったとされるが、湿地保護のため急遽計画を変更し、六郷水門前まで暗渠(きょ)を引張っていくことになった。2002〜03年の渇水期に、大々的に河川敷を掘り起こし、渠工事が行われたが、その際同時に六郷水門までの低水護岸も改修された。
新しい低水護岸は、夏場には雑草で覆われてしまうような小砂利の籠マット護岸。右の [No.62L][No.62M] は雑色ポンプ所前から川下に続く湿地帯。手前は植生護岸で、湿地帯の前面はガマになっている。(泥水化しているのはこの日が台風一過のため。)

当地で保護の対象になっているのは第一に「ヒヌマイトトンボ」。名前の通り、1971年に茨城県の涸沼で発見され、環境庁のレッドデーターブックに載る「絶滅危惧I類」である。
ヒヌマイトトンボは全長30mm弱と小さく、オスの背中には黒地に黄緑色の斑点が4個あり、メスはオレンジ色乃至緑褐色。汽水域のヨシ原などで特異的に繁殖し、太平洋岸の河口域で多くの生息例が記録されていたというが、それらの地で現在でも生息し続けているのかどうかは不明だ。 (「ヒヌマイトトンボ」 ネット上からオスの外観を参照)
本家の涸沼では沿岸部が干拓されてヨシが激減し、生息数は1/3以下に減ったといわれるが、環境を再生しつつ保護していこうという動が見られる。多摩川では、左岸の東六郷、本羽田、右岸の中瀬、殿町各地先のヨシ群落で生息していたとされるものが、現状どうなっているのか、既に絶滅していても不思議ではない。

ヒヌマイトトンボ以外の当地の保護対象種としては、「動物版レッドリスト:汽水・淡水魚類」で「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に記載される「トビハゼ」、「植物版レッドリスト」で「絶滅危惧U類(VU)」に記載される「ウラギク」、大田区内ではここだけに自然の群生状態が見られる「フトイ」(中段)などがある。

ウラギク(浦菊)はキク科シオン属で、別名ハマシオン(浜紫苑)という。野草図鑑には、海岸の入り江や河口などの塩沼地(塩湿地)に群落を作る、泥干潟に生え砂浜に生えることはない、などのことが書かれている。
右の3枚 [No.62S][No.62T][No.62U] はヨシ原の方に入って撮ったもので、ウラギクはヨシと混在している。ここは高水敷からは一段低く、常時水に浸かっているというほどではないが、大潮の満潮時には確実に根元まで水が来る高さになる。
ウラギクの頭花は中心に黄色の筒状花があり、その周りに薄紫色の舌状花が取巻く。知床の自然情報サイトなどで、サンゴソウと混在するような環境の 「ウラギク」 を見ると、なるほどハマシオンという名前が実感されるが、この辺りのものは、花びらの色はピンク掛かっている程度で淡く、ほとんど白色というものも少なくない。

河川敷のキク科植物で立つ傾向のあるものとしては、春から夏にハルシオン(春紫苑)、夏から秋にヒメジョオン(姫女苑)がどこでも見られる。ウラギクは塩性湿地に生えるので、これらのものと混在することは多分無いと思うが、日頃見慣れたこれらの草との違いを強いて挙げれば、ウラギクは茎が太く頑丈で、ヒメジョオンのようにすらっとした華奢な感じではない。いかにも風雪に耐えてという野性味の強い印象を受ける。ウラギクの花はヒメジョオンよりは少し大きく、中心の黄色い部分が赤く変わっていくという特徴もある。
六郷橋下から六郷水門までの岸辺の散策路に添って、道端や草叢の中に一見したところウラギクに似て見える花が多く見られる。ヨメナ属のカントウヨメナという。雑色ポンプ所前の河川敷の外れなど、クローバーが多い刈られる一帯でヒメジョオンと並んで咲いていたりするのは大抵これである。
ヨメナ類の成長した葉は、楕円形に数ヶ所浅い切れ目の入った形をしている。一方ウラギクの葉は、細長い形をしていて両脇は平滑、肉厚で表面に光沢があるなど、ヨメナ類の葉とはかなり違うので、一度実物を確認すれば以後は容易に見分けられるようになる。
(右の3枚 [No.62V][No.62W][No.62X] はこの界隈で綺麗なものを選んで撮影した。尚 [No.62X] で背後に写っている細かい鋸歯のある葉は混在している別の草)

  (テーブル状護岸1)   (テーブル状護岸2)

2006年1月は寒波が立続けに襲来し、日本列島は数十年来という大雪に見舞われた。秋田、新潟、長野などの豪雪地域では、雪降ろし中に転落して亡くなる事故が相次ぎ、自衛隊の災害出動が要請されたりした。
1月21日は低気圧が太平洋岸に回りこむという気配で、東京も昼過ぎから降雪という予報だった。実際には未明から降り始め、日中本格的に降り続け積雪は9センチとなった。夜に上がる直前は霙(みぞれ)に換わっていたようで、翌日には道路の雪は消えていたが、河川敷や堤防敷は一面の銀世界だった。午前中は曇っていたのであまり気乗りはしなかったが、このホームページに雪景色が一枚も載っていないことには、かねてより不満があったので、昼過ぎからとにかく撮影に出た。
時間的に右岸に行かないと良い写真にはならないと思って、六郷橋を渡り川崎側に行こうとしたが、曇っているので意欲をそがれ六郷橋緑地に戻った。ところが幸い2時過ぎには雲が切れ、急に晴れ間が広がるようになった。[No.62Ra] は雑色ポンプ所前、[No.62Va] は六郷水門に近付いている。この日は日曜日で、既に相当踏み荒されてはいるが、子供たちが雪ダルマを作れるほどの積雪とあって、雪景色と言い得るだけの写真になった。
この日の写真は下の方に六郷水門を載せているほか、「六郷橋湿地(冬)」 の方にも幾らか岸辺に寄った辺りから撮ったものを2枚掲載している。

上の参考写真は工事後の2005年7月の撮影で、この近辺に残るテーブル状の護岸。この区間(ヨシ区域を挟み全長300メートル程度)だけは、何故か前後の篭マット護岸とは異質の、シートパイルが露出する切立った護岸になっていて、根固めブロックが見苦しく剥き出しで並べられている。ここは排水渠の工事前からあった造りがそのまま残されたようだが、以前に何故このような奇妙なものを作ったのか意味不明だ。
近年の護岸工事では、緊急用船着場などの例外的な場所を除くと、垂直に水を仕切る護岸は姿を消し、水と接する部分のスロープは、可能な限り緩やかに傾斜させられている。
(切り立った護岸は、澱(よど)んだ領域を生み出し、その直下では底質のヘドロ化が進行し、水生生物が近づけない死の水域と化しやすい。)
また当地のように水流が弱いところでは、親水部分のスロープをコンクリートで固めるのでなく、植生に配慮し小石を詰めた篭マットを積むなどの自然に配慮した方式が採られている。(ただ籠の材質は強化プラスチックのようなもので、機械的な強度はあるが熱に弱い。護岸が泥で覆われ、草が定着するなどして固められる前に、ネットが破けマットが凹んでしまっている箇所が多く見られる。ネットの切り口は殆どの場合融けているので、原因が花火など火を使ったものであることは明らかだ。)

上の [No.628] は六郷橋緑地の終点近くを撮ったもので、渠工事を行う前の撮影だが、河川敷はほゞ同じように復元されたので、この景観は工事後もあまり変わらない。
低水路に大きくはみ出して見える青物は、六郷水門前に出来ている出島状の堆積地を覆うヨシ群落。2002年撮影の写真は更新により、ギャラリーには既にあまり残っていない。この写真は綺麗に撮れているので時期は古いがあえて残している。そのかわり見出しの小画像に2005年6月撮影の似た風景を用いた。(遠方の大師橋に上り橋が出来つつあり、2つ目の斜張橋が完成して見える点が異なる。)

右の小画像はテーブル護岸の中間位置から川上(六郷橋方面)を見ているが、ギャラリーの [No.62F] はここから川下側に数百メートル行き、六郷水門に近い辺りから川上側を見ている。細長く見えている出洲の向う側が本流で、こちら側は干潮時に干潟が出現する潟湖の部分である。位置的には六郷水門に近く、次の夜景を撮っている場所よりなお少し川下に寄っている。一面の緑はほとんどすべてクローバー(白詰草)で、この界隈の河川敷にはクローバーが多く、テーブル護岸の川上側では、河川敷に上がりこんだカモ類は好んでこの草を食べる。(テーブル護岸の場所にはこの辺で珍しい赤詰草もみられる。)
[No.62Ja] もほゞ同じ場所からで、2006年4月の満潮時に近い雨上りの朝。既に月の後半に入っているが、ユリカモメが結構居て、頭が黒い夏羽に生え換わった成鳥が見られた。この年はコガモもこの時期未だ100羽以上残っていた。


右の [No.62A] は、六郷橋緑地の東端(六郷水門前)から見た川崎の夜景。右端から中央まで真横に走るオレンジ色の線が六郷橋で、背後の高層ビルは左から順に、川崎区庁舎、川崎市第三庁舎、興和東口ビル、ドコモビル、タワーリバーク、ミューザ川崎、テクノピアビル群。(ドコモビルの前に重なっているマンションは、六郷橋南詰京急大師線裏のダイヤパレス。ミューザ川崎の左後ろに重なる超高層マンションは、川崎駅西口大宮地区の一角公団アーベインビオ川崎3号棟 - ページトップから「周辺地図」を参照)
満艦飾のミューザ川崎とテクノピアビル群の間が少し空いているが、ここはJR川崎駅前の旧東芝川崎事業所の移転跡地。2005年2月に三井不動産と共同で行う複合開発の全容が発表された。新しい街は「LAZONA(ラゾーナ)川崎」と呼ばれ、商業ゾーンは2006年秋、住宅ゾーンは2007年春に竣工の予定。(ラゾーナはスペイン語のLazo(絆)とZona(場所)を繋げた造語) 敷地の7割近くを占める中央部は商業ゾーンで、店舗数300の大型商業施設や約250席の多目的ホールがJR川崎駅に直結する。ソリッドスクェアに面した北東側に住宅ゾーンがあり、高層マンション・レジデンスは分譲住宅の総戸数667戸、最高地上34階といわれ、南に隣接し直近に開発された大宮地区のアーベインビオ川崎3号棟(地上35階124m)にほゞ匹敵する高層ビルということになる

2005年正月に上の夜景 [No.62A] を撮ったが、その後東芝移転跡地(ミューザの隣)にラゾーナのビル群が完成した。右の小画像と [N0.62I1] はラゾーナレジデンスが加わった2007年秋の夕景で、中央(ミューザとソリッドスクェアの間)で一番高く見えるのが、夜景写真には無かったラゾーナ・レジデンスである。
「残照」は冬場の日没から45分程度経った頃、西空に見られる美しい景色だが、色が鮮やかに見える時間帯は僅か10分にも満たない。[No.62I2] は大師橋緑地の奥で、大師橋の日没([No.64C3])を撮った日の帰り道で、偶々 [No.64C3] から50分ほど経った頃にここを通りかかった。三脚を持っていなかったので難しいとは思ったが、当地での残照は初めてになり富士も見えているので、何とか頑張って10枚ほど撮ってみた。幸い最後の1枚は幾分ボケてはいるもののブレはかなり少なく撮れた。(位置はやゝ上手になる)
尚、2003〜2004,2004〜2005の冬の2シーズン、三脚持参で震えながら、六郷川各地の残照景色を撮り歩いた時期がある。その頃撮ったものから何点かを以下に参照引用する。
多摩川台公園見晴し台 [No.128a] 、多摩川緑地 [No.34A] [No.3CE] [No.34E] 、羽田空港敷地外縁 [No.73Ja] (西向きで好天が条件になるので自然に富士が入る風景が多くなるが、雲が掛かってしまう場合も少なくない。)

[No.62P] はこの辺りの水域を縄張りにしている2羽のアヒル。冬場は水門の近くにいることが多いが、冬鳥が居なくなると近辺の干潟に出て行き、中洲からテーブル護岸までの一帯を徘徊する。(飼われているものではなく、自然環境下で自活している。以前はもう少し数が多かったようだが、2005年にはオス2羽しか居なくなっていた。)
頭は光沢のある黒緑色で、首に白いリングがあり、リングから下側は栗色になっている。尾羽は黒色で上面の数枚は背中側へカールしている。どちらもマガモでいえばオスの毛色をしたアオクビアヒルである。(アヒル(家鴨)の起源は中国では3千年も遡り、ノガモ(マガモ)を飼い慣らしたことに始まるとされる。)
雄が綺麗なカモ族の多くは冬鳥なので、当地でエクリプス姿を見る機会はないが、このアオクビアヒルに野生の名残を見ることが出来る。参考写真は順に、1が4月上旬、2は5月下旬、次は右の小画像で7月初旬、ギャラリーの [No.62P] が7月中旬、参考写真3は8月中旬、4は9月下旬。5月までは2羽の区別は殆ど付かないが、[No.62P] の頃には、一羽がほゞ完全にメスの体色に換わり、2羽はあたかもマガモの番のようになった。8月にはもう一羽も首の緑色が剥げ落ち、共に冴えない体色になったが2羽の区別は残った。
([No.62Ya] は2006年4月に撮った正常時の羽の色。エクリプスが2羽で変則的なのは、家禽化されてから累代繁殖し、野生時代の特徴が消えつつある途上だからではないか。なおマガモのエクリプスは通常嘴の黄色が残ることでメスと区別する。)

  (アヒル1) (アヒル2)      (アヒル3) (アヒル4)

[No.62G] は六郷橋緑地の終点で、河川敷が水門水路に遮られ、籠マット護岸が角になった場所。右手正面のヨシ叢は、本流、水門水路、潟湖に三方を囲まれた出島である。
右の小画像はその角を回った位置から見た六郷水門。[No.629a] は同じ春、[No.62Ka] は珍しい雪景色で、次の [No.62N] は水路の反対側(川下側)から六郷水門を見ている。
多摩川は近世から近代にかけて頻繁に氾濫していたが、明治末期の2度にわたる氾濫は大規模な水害を引起した。沿川村(とくに右岸側)住民の度重なる請願があって、明治45年には複雑に入組んでいた東京府と神奈川県の境界が整理され、多摩川下流の本格的な改修工事が、内務省の直轄工事として大正7年(1918)に着手された。工事は関東大震災のため工期が大幅に遅れたが、昭和8年(1933)に一応の完成をみることになった。
左岸では小向から羽田までの堤防は全面的に新築されたが、六郷水門は堤防工事の一環として工事期間の末期(1930〜1931)に施工された。
対岸で3年先行して造られた河港水門には、川崎縦断運河という大きな構想があったが、六郷水門の方は当地一帯で排水路として機能していた、旧六郷用水の末流を多摩川に直結することが主要な目的だったようだ。
河港水門と同じように、側壁には当時の多摩川改修事務所長だった内務技師・金森誠之(しげゆき)の「金森式鉄筋煉瓦」が使われているが、外観は全く異なる丸みを帯びたデザインである。

   (夏、ヨシが茂る頃の六郷水門)

旧用水堀は平時には排水路になっても、肝心の増水時が満潮と重なれば、川の水位も上がってしまうので、逆流防止のため水門を締め切らざるを得なくなる。
昭和30年代の当地は浸水しやすい地域で、台風が来れば民家が床下浸水するというのはそう珍しいことではなかった。六郷水門の下手に「六郷ポンプ所」が出来、ポンプで下水を汲上げて、強制的に排水する方式が採られるようになったのは昭和47年(1972)のことである。(下水管が整備され六郷用水名残の排水路は埋められた。)

右の [No.62H][No.62J] は六郷水門の位置で、堤防上から前面の水門水路を見ている。([No.62H] は川上側 [No.62J] は川下側)
川下側の出島はほとんど高水敷と繋がっているが、川上側の出島は低水路に浮いている。ここに水門水路が無ければ、2島は本来一体の堆積地になるところだが、船溜まりがあって乗合釣漁船が水路を往来するため、中央部が除かれた形になったものだろう。
水門の両翼になる堤防には高水護岸が施され昇降階段が付いている。川下側はすぐ隣に六郷ポンプ所の排水門があり、ここで河川敷は短距離のうちに2度遮断される。
六郷水門は、門扉の両側や船溜まりの周囲など柵のあちこちに、「六郷のロゴ」が装飾されている。「郷」の字を円形に囲んでカタカナの「ロ」の字を九つ配置したものだが、この紋様の由来などについて聞いたことはない。

    (六郷水門に見られる「六郷」のロゴ)


2007年の台風9号は、太平洋を北上して日本列島に接近し、9月7日未明、伊豆半島の東海岸沿いを伝って小田原市西部に上陸した。この台風で東海から関東甲信地方に強風雨が広がり、7日までの奥多摩町の総降水量は700ミリ近くに達した。
(2007年の台風9号についての洪水の詳細は、「第四部 多摩川緑地」の「その4 多摩川緑地(下)」の頁で [No.44Y1] [No.44R]、京急六郷鉄橋の頁で [No.52W]、 六郷橋湿地の頁で [No.72B] などに掲載している。)
台風通過後、東京湾奥沿岸に異常に滞留したゴミ(ヨシの枯れ茎など)が話題になった。
多摩川の汽水域でも、水が退いた後の河川敷に夥しい量の同様のゴミが残され、六郷水門入口の水路も [No.62O1] のように、全面がゴミで埋まっていた。ゴミは浮遊しているという程度を超え、びっしりと分厚く積み重なり、ネコが容易に歩けるほどの固さがあった。
[No.62O2] は閉門上から本流側を見ている。2007.9.7夕方4時半頃、海老取川の様子を見に行った帰りで、六郷水門が閉門しているのは平生は見ることがないので、珍しい光景と思われた。[No.62O3] は同じ時に反対側の船溜りを見たところだが、こちらは閉門の御蔭で対照的に平時と変わらない静けさだった。

左の見出しの小画像は、2017年2月19日に六郷水門奥の船溜まり(左の最後の画像 [No.62O3] の位置)で撮ったカンムリカイツブリ。六郷水門水路は遊漁船が出入りするため定期的に浚渫が行われていて水深が深い。以前にはキンクロハジロやホシハジロを見ることはあったが、カンムリカイツブリは多分珍しい。



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