第六部 六郷橋から大師橋 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その1 六郷橋湿地 (その2:特集:カルガモ・バンの子育て)

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)

 
六郷橋下手左岸の湿地帯では、初夏から盛夏にかけてカルガモの子育てが見られる。このページの前半は、2005年に当地におけるカルガモの成長の様子を追ったもので、初めの4枚 [No.651]〜[No.654] は5月下旬、次の2枚 [No.655][No.656] は6月初旬、次の4枚 [No.657]〜[No.659A] は6月中旬、次の [No.659B] は6月下旬、次の3枚 [No.659C]〜[No.659E] は7月中旬の撮影。(いずれも偶然居合わせた家族を撮ったもので、同じ家族を撮ったということではない。)

野鳥のヒナというと、ツバメのように巣の中でピィピィ鳴いて、親鳥から餌をもらって成長する姿が思い浮かぶが、カルガモの場合事情はまったく異なる。巣を出る場面を見たわけではないが、干潟にはまだ産毛というような小さいヒナ出てくるので、カルガモのヒナはおそらく孵化するとすぐに(精々1日待ったら)巣を出るのではないかと思う。

干潟に出てきたヒナは親と同じように歩いたり泳いだりするし、餌も自分で採り親に頼るそぶりは微塵も見せない。親子はいつも一連隊でまとまって行動しているが、親は特に子供の面倒を見るということはなく、ただ外敵に備えながら子供を引率しているだけである。
ヒナの数は2羽しかいないものから、11羽も連れているものまで様々だが、少ないものは初めから少ないし、11羽連れていて全てが成鳥になるというケースが珍しいわけでもない。(2005年の当地では、日が経つうちに連れているヒナの数がだんだん減っていく、というような印象は殆ど受けなかった。)
この干潟にカルガモのヒナにとって天敵らしい存在はあまり見られない。トビなどの猛禽類はまずいないし、ハシブトカラスも最近ではめっきり減って、とくにこの時期には殆ど姿を見ない。ネコがいるのは六郷橋に近い陸化が進んだ部分に限定される。強いて天敵と言えば青大将くらいのものか。日中は滅多に目にすることはないが、孵化数が少ないケースでは卵をとられているかもしれない。

子連れの親は気が荒く、近付いてくるものがあれば相手が何であれ攻撃する。当地では、カルガモのヒナにとってもっとも怖いのは天敵ではなく、まだあまりに小さいうちに親と逸(はぐ)れてしまうことではないか。
カルガモの親が我が子を見分けられるのかどうかは疑問だが、ヒナの方はおそらく親を見分けられない。そのせいか子連れの連隊同士は、接近すると親が互いに意識し、群が混合してしまわないように意識的に相互の距離を保つ。

いかなる事情があったのかは知らないが、不運にも親から逸れてしまった2羽の小さいヒナがいた。10羽近い数の子供を引き連れた一連隊がやってくるのを見て、2羽のヒナは無邪気に近寄っていったが、これを見付けた連隊の方の親は血相を変えてこれに迫った。
途中で異様な気配を察知した2羽のヒナは急遽反転し、水上を駆けるように散っていったが、親は猛烈な速さでこれを追いかけ、哀れにも追いつかれた1羽は水中に引きずり込まれて、2度と浮いてこなかった。

親は何事も無かったかのように子供たちのもとに戻り、連隊はまた平然と前進を続けた。
岸には5,6人の人がいて、この一瞬の出来事を目撃したが、カルガモの獰猛な一面を見せられ、皆一様にショックを受けしばらくは言葉が出なかった。
これほどまでにするということは、もし親が見ていない所で紛れ込まれてしまえばそれまでという現実があることの裏返しではないかと思わせる。

この時もう1羽のヒナはガマの茂みに逃げ込んで、その時は難を逃れたように見えた。しかし真昼の惨劇を目前で見せられた人は、このヒナを取り巻く環境の厳しさが続くことを直感し、「所詮いくらも生きられまい・・・」 と誰しもがそう思った。
ところが1週間程経ったある日、餌付けのドサクサの場面に1羽の幼鳥を見付け、その後の行動を見てこの1羽が孤独な存在であることが分かった。

更にそれたら1ヶ月以上経った7月下旬のある日、(次のページの最後に載せている)アヒルのペアについて行く、1羽のカルガモの幼鳥がいた。アヒルの方は怪訝そうで結局これを振り切ってしまったが、翼の伸びきらない時期の幼鳥が1羽でいることは普通ないので、あの時の生き残りに違いないと思われた。(同期の連中に劣らないほどの大きさに成長はしていた。)

カルガモは干潟では水溜りに首を突っ込み、水ごと吸い込んで何かを漱ぎとって食べている。干潟には水草があるようには思えないので、多分採っているのは小動物だろう。最後に載せた [No.659G] はたまたま9月に入ってから撮ったものだが、カルガモは夏の早い内から河川敷に上がるようになり、河川敷では、クローバーをむしりとったりイネ科の野草の実をこそぎとって食べている。

カルガモはよく歩くし、泳ぐのは得意だし、飛ぶことも億劫がらない。カルガモは干潟で暮らす適応力が三拍子揃っている。(立った姿勢からそのまま飛び上がれるが、降りてくるのは専ら水上で、水かきのある足を前に揃え、水の抵抗をブレーキにして着水する。)
三拍子揃った運動能力、多彩な食生活、一度に多くの次世代を育てられる繁殖力などがカルガモの強みだが、集団で協調生活し無用な争いをしないという柔軟性もカルガモの繁栄に寄与していると思われる。
野生種には縄張りをめぐって同種間で争うものが多いが、カルガモは見たところ縄張りを形成するという習性はなく、広い生活圏を全員が共有する居住域として活用している。子育ての期間には、他の家族に対する排他性を示すが、問題を回避しようとする本能が働くようで、互いに無用な接近を避けるように気を遣っている。

カルガモの特徴は、嘴先端の黄色と黒の過眼線だが、他のカモ族に比べると地味な色合いで、雌雄の区別は判然とせずエクリプスの時期も無いようだ。
カルガモのヒナはかわいいが、1ヶ月くらい経った幼鳥の時期はどちらかといえば醜(みにく)い感じで、あまり写真を撮る気にはなれない。形はなんとも言えない不恰好なものになるし、色も顔の黄色は褪せて、全身が泥に塗(まみ)れたような薄汚れた色になる。
1ヶ月半ほど経つと、遠目には親と見分けが付きにくいほどの大きさに成長し、この頃から次第に格好がカモらしく、嘴や羽も多少色付いて、少しは見られるようになってくる。

2005年カルガモの子育ての最盛期には、見渡して10家族程度が視野に入った。一ヶ所で干潟の全ては見通せないし、当然ヨシの中に入って休んでいる家族も多い。そうしてみるとヒナ連れは20家族近くは居るという感じがする。脱落していくものを考慮しても、2005年の一シーズンで100羽程度は増えたものと想像できる。

カルガモは外敵にさえ襲われなければ、生まれた時から自力で生きていける能力は備わっているように見える。ただ不思議なことに、親は幼鳥に付き続け、子供が飛べるようになるのを見届けるまでは徹底した保護をやめない。
右の小画像は7月初旬の撮影で親子が写っている。このように上から見るとよく分かるが、幼鳥は体長は大きくなっても翼が伸びていない。尾羽の手前の背中は毛が黒いこともあり、この頃の幼鳥は背中が黒っぽく見える。
[No.659C] は7月中旬前。この時期になると、もう遠くからでは当歳を見分けることは出来なくなる。ただこうして近くで見れば、一番後ろの親は背中がふっくらして見えるが、前をいく子供たちは翼が伸びきっておらず、背中が扁平に見えるので違いが分かる。
次の [No.659D] は7月中旬から下旬に掛かる頃。干潟の終点になる六郷水門前の護岸で、正面のヨシに覆われた部分は六郷水門水路に浮かぶ出島。首を伸ばして周りを警戒しているのが親鳥で、くつろいで毛づくろいなどしているのは子供たち。

[No.659E] は [No.659D] と同時期。前のページでガマを撮っている [No.61ZF] と同じ場所(ガマ群落の川下側の端)で、夕方に川下方向を向いて撮っている。ここでも背中の膨らみ具合で親子の違いがはっきり分かる。(カルガが集まっているのは、岸からパンのミミを投げ入れている人がいるためである。パンを投げていると水面下に大形のコイも寄ってくる。コイはカモを無視するが、カモの方は足を気にして少しビビルようである。)
この時期は未だ家族の集団行動には変りがない。このように数家族が混合する状況が生まれると、親が他の家族の幼鳥を追払うので、あちこちでけたたましい水音があがる。
餌遣りの場合、護岸にはハトが群れているが、そこにたまたま犬が入って来るとハトは一斉に飛び立つ。このときカルガモは少し引くが、逃げてしまうことはなく、グェー・グェーと大声を張上げ、猛烈に抗議する。やがて餌が尽きると、三々五々家族ごとにそれぞれの家路についていく。
カルガモの人間に対する接し方は付かず離れずで、野生種の警戒心は失ってはいないから、鳩のようには人馴れしないが、岸から放られるパンで育つウエートも結構なものという現実があり、人が近付くことに対しては他の野生種ほど敏感ではない。

7月下旬になると、まとまった数のカルガモが上空を飛んでいる光景を見るようになる。水面を見ても風切羽が尾の付根まで伸び、(背中の扁平感は未だ残っているが)、これならもう飛べるのではないかと思わせるような当歳の数が増え、水域は徐々にバラけた雰囲気も感じられるようになってくる。

初夏にカルガモの家族が次々と干潟に出てきて、その数が日増しに増えてくる期間は、10日か精々2週間程度のもので、早生まれも遅生まれも体格にそれほど大きな差は開かない。ところが [No.659F] に載せたこの4羽連れだけは特段に遅かった。1ヶ月半くらい経って、ほかのものたちがもうかなり大きく、可愛げが無くなった中に、極端に小さなこの3羽が出てきた。
皆がいま卒業してきたところを、この3羽は一からやり始めるわけで、大丈夫かなァーという雰囲気はあったが、終始その小ささを目立たせながらも、トラブル無く順調に育った。
[No.659F] は8月中旬で、さすがにこの時期になると見かけの大きさにはもう遜色はない。ただし翼は未だ短く飛べる状態にはなっていない。

[No.659G] は [No.659E] と同じ場所の川上向き。8月も下旬に向かう頃で、カルガモの子育てはほゞ終了し、この界隈もすっかり落着きを取戻している。この時期にはカルガモの数は既に半減し、残っているのは総数で70〜80羽程度だろうか。メスが順次子供を引連れて飛び去っていくが、子育てしないで居残っていたオスたちも、この頃までにはかなりの数が姿を消している。
本州のカルガモは多くが留鳥といわれるが、当地のカルガモは子育てが終わると、そのまま留まることはない。9月には未だ半数ほどのカルガモは残留しのんびり過ごしているが、やがてオナガガモなどの冬鳥が大挙して飛来する時期になると、この残留組も追い出されるかのようにいずれかへ去っていく。(大体10月末位までに全体が入れ替わる)
繁殖地を引払った一族は海の方で再集合し、大きな群を作って行動するという噂を聞いたことがある。先祖は”渡り”だったという血が騒ぐのだろうか。秋から冬の間、彼らがどこへ行っているのかは知らない。
(下の参考図はきれいな写真ではないが、あの青く見える部分が、羽を広げた時に、こんな風に見えるのが参考になるかと思って。)

  (カルガモ)

多摩川の筏流しは大正時代まで続いたが、今ヨシ原が出来ているあたりの根っこの部分は筏繋場の拠点になっていた。この辺りは元々流路が川崎側に湾曲していたため、澪筋が右岸に寄り、左岸側には格好の後背地が出来ていた。
(江戸時代多摩川を利用した水運の権益は羽田猟師町に集中し、荷役の請負は羽田猟師町の舟元が独占していた。ただ筏宿に限って八幡塚村の方に活気があったのは、このような立地条件のためではないか。)
明治期には当地に最大100枚もの筏が繋がれ、左岸の川っぷちは「箱番」と呼ばれる小屋掛け(筏宿の事務所)や材木問屋の店、倉庫などが並んでいたという。
多摩川下流部の水路は、明治大正時代までは、現在の低水路よりはるかに細い蛇行した水路だったが、川崎宿を過ぎたあとは、右岸の河港水門の下手から、(現在の川幅を斜めに横切るように)左岸の六郷水門の下手に向い、大師橋緑地の上手で反転して、また右岸中瀬の方向に向うようになっていた。(地図を見れば分かるが、東京都と神奈川県の都県境は、六郷橋から大師橋の間で奇妙に蛇行している。この当時に水路の中間に引かれた境界線が、現在でもそのまま踏襲されているからである。)

多摩川下流の水質や底質の汚染がそれほど酷くなかった昭和30年代、六郷橋下手左岸の高水敷は一面の畑で、沿岸部にヨシなどの抽水植物は見られず、干潮時に出洲や干潟が出現するという環境もなかった。川はマハゼやカレイなどが釣れる環境だったが、水鳥は鉄塔周辺の小さな中洲にサギが見られる程度だったと記憶している。

大正中期から昭和初期にかけて内務省の直轄改修工事が行われ、計画高水量が得られるように大幅な河身改修が図られた。ただその時点では、低水路が大幅に拡幅されたという資料はなく、今ヨシ原が出来たりしている部分の高水敷が削られ、左岸側で水路が大幅に拡大されたのはその以後のことと考えられる。
何らかの理由で高水敷が抉り取られた跡に、年月を経るうちに自然と土砂が溜まって洲が出来、ヨシの発達が砂泥の堆積を促進するという相乗効果がはたらいて、昭和末期には、ヨシ原はほゞ現状に近い広さにまで拡がった。中洲が(出洲の状態ではあるが)六郷水門前まで伸びる一方、鉄塔周辺の陸化が進んで、いつしか左岸との間は土砂で塞がるようになり、左岸側の水路は通水性が失われた潟湖(せきこ)の状態になった。潟湖には洪水の度に上流側から泥が運び込まれて沈積し、ついに干潮時には干上がるまでに浅くなったのだろう。



 
この干潟で繁殖する鳥は、オオヨシキリ、カルガモのほかにもう一種類いる。それはクイナ(水鶏)科のバン(鷭)である。(バンの繁殖は初夏だけではない。)
以下このページの後半では、カルガモとほゞ同時期に繁殖が見られたバンの子育ての模様を紹介する。

バンはニワトリのように専ら歩く鳥で、泳ぐことは苦にしない。体長はハトを一回り小さくした程度しかなく、干潟ではカルガモに比べると相当小さく見える。
バンの成鳥は遠目には黒く見えるが、カラスのような漆黒ではなく、首から胸は幾らか青み掛かった灰黒色で光沢があり、背中(主翼)の側は茶褐色に近い黒褐色になっている。体の両脇と尾羽の下側に白い部分があり、嘴(くちばし)から額板までの赤色と、嘴先端部の黄色はともに鮮やかで、体色とのコントラストを際立たせる。
足は脚の基部に赤色バンドがあり、その下は全体に黄緑色。足は体に不釣合いなほど大きい。脚は太く趾(ゆび)も長いが水かきは無い。
「クルルッ」という鋭い鳴き声で、ガマの茂みの中から聞こえることが多く、鳴き声は結構頻繁に耳にする。カルガモより遥かに警戒心が強く、通常人前にはあまり出てこないので、生息数などの実態は把握しにくいが、(2005年この湿地には)精々3〜4ペア程度しか居ないのではないかというのが実感だ。


ここで撮影することになったバンの親子は、ガマの比較的小さな茂みを住処にしていた。
このガマは上手側にある大きな群生地からは離れていて、根付いたのは比較的新しくここ数年のうちに急に拡がった場所である。(ここを川下向きに見た景色は前頁の [No.51R] に載せている。手前がガマでその先は左岸から張出したヨシ、川中に見えているのは近年出洲上に急速に発達しているヨシである。(隣のヨシの方から反対に川上向きに見たところは [No.51S] に載せている。) 出洲上のヨシや隣に護岸側から張出したヨシは、後になって以下に掲載するバンの子育てと密接な関連を持つことになる。)

ヒナの発見は8月中旬で、それは衝撃的な一瞬だった。普段見慣れない黒い毛玉のようなものが幾つかころがっていて、アレッ何だろうと思い、近寄ってよく見るとその毛玉のような物体は動いていた。全身の黒、顔の赤という配色が親とそっくりなので、それがバンのヒナであることはじきに分かったが、あまりに無防備に剥き出されたこの状態を見て、何か異常事態が生じたのに違いないと思った。必死に動き回る親鳥と、頼りなく放置された雛鳥に、哀れな末路は時間の問題としか思えず、「まだ生きているのになァ・・」 と焦ったものである。

親鳥は両方とも餌取りにいってしまう場合も多く、ヒナはガマの茂みを出たところに放置されていて、自ら餌を啄(つい)ばむような格好をしているものもいたが、休んでいてほとんど動かないものもいた。
親鳥は干潟の表面で餌を採り、絶え間なくヒナのもとに運んでいたが、咥(くわ)えてくるのは遠目では見えないほど小さなもので、何を与えていたのかは分からない。
外敵に対する備えはまったく感じられず、ただ幸運に期待しているとしか思えない絶望的な状況だったが、差し迫った危険が見えているわけでもないので、少し冷静さを取り戻し、そのうちヒナを観察しようという気になってきた。
ヒナをよく見ると、真っ黒な全身に、頭が禿げ上がった河童のような顔つき、クモヒトデを思わせる巨大な足など、外観からはむしろグロテスクに近い印象を受ける。
その一方、親がやってくると、キューピットのように、小さな肩羽をいっぱいに広げ、餌を貰う時には万歳した肩羽をパタパタと扇いで全身で喜びを表現する。
ヒナに漂うどうにもならない無力感と、親に感謝するかのような可愛らしい仕草は、(強いカルガモでは感じることのない)、新鮮な感動であり驚きだった。

観察しているうちには、危険を感じとると茂みの中に身を隠す行動も見せるようになり、身を隠す際のヒナの足取りの確かさを見てようやく、これは何か異常事態が発生したのではなく、正常な子育ての一部なのではないかと思えるようになってきた。 ([No.65A]〜[No.65F] までは、ヒナを初めて見付けたその日の撮影。)
ヒナを見付けた日は想像を超える危うい光景に、こちらも結構気が動転してしまったが、次の日以後は期待と不安を持ってここに出向き、一家が見れるときには、落ち着いて観察することが出来るようになった。
[No.65G]〜[No.65P] はヒナを初めて見付けた日の二日後に撮ったものである。この日ヒナは4羽から5羽に増えていた。明らかに遅れて生まれてきたと思しき1羽がいて、親も少し気に掛けているようだった。親の雌雄は区別できていないが、一方の親が小さな1羽を別に面倒みている光景は結構よくみられた。
(大体この手の繁殖モノは、本当に可愛いのは初めの1週間程度、というのが相場と決まっているので、最初の数日は意識して精力的に撮った。)

これらのヒナが何時生まれたのかは正確には分からない。ただヒナを見付けた前の日に、同じ場所を通り掛かったとき、バンが1羽慌しく行き来していたのは見ている。普通警戒心が強く、それまでここで身をさらして餌獲りする姿は見なかったので、珍しいとは思ったが、行けば逃げるだけだろうと思ってそのまま通り過ぎていた。
この辺りの野鳥に詳しい人から、さらにその前日に、ここでバンがカルガモを追い払っているところを見たという話を聞いた。そうしてみると、私が始めて見付けた日の2〜3日前頃、最初の4羽がほゞ同時に孵化し、その後2〜3日遅れて1羽が孵化したのではないかと想像される。
普通に考えると、この大きさのうちにはヒナは茂みの中に置いておいて、専ら親が餌を運んできたらよかろうと思えるが、おそらくその期間は精々2〜3日で、ヒナがすぐ干潟に出てくるのは干潟で繁殖する種の本態なのだろう。
干潟に出ていく決断は、抱卵終了の宣言でもあるので、孵化しない卵を何日待ち続けるのか、親にとって難しい判断が迫られる場合もあるものと想像される。

カルガモは干潟に出てからの行動範囲は広く、昼間は頻繁に動き回っていて、一定の住処を持っているのかどうか分からないが、バンの場合、ヒナが小さいうちは、概ね営巣していた周辺で行動し、その辺りに住処を構えている。
ヒナは自身でも餌採りをしているが、親も熱心に餌を与えている。親が子に餌を与える光景はカルガモでは絶対見ないので、カルガモとバンの子育ての大きな差異の一つといえる。
カルガモの場合子育てする親は通常1羽だが、ヒナは親に従って動き、一家はバラけることなく必ず集団で行動する。バンの場合住処の周辺では、一家(ここの場合7羽)が一箇所でまとまって見られることはむしろ稀で、親がそれぞれにヒナを何羽か、別の場所で面倒見ているというケースが多い。このことも、カルガモとの大きな違いといえる。
この日は干潮時だけでなく、潮が差してきた夕方にも見に行った。何羽かは数メートル離れた隣のヨシ叢に渡って摂餌したが、ヒナは既に十分泳げることを立証した。
何羽かはテトラポッドの周囲を回り、親はコンクリ壁に着いたコケだか藻のようなものを、嘴で削ぎ取って与えていた。

干潟を本流から仕切っている出洲の表面は、夏には一面緑が覆っているが、台風が来ると一夜にして緑は消失してしまう。コンクリの表面に付くコケも同様に他愛ないもので、ボラの稚魚が集(たか)っているのを見るが、採れるとしてもその程度のごく薄いものである。私は未だこの子育ての状態が常態なのかどうか半信半疑だったので、この光景を見て、いかにも食料が不足しているという印象を受けた。(実態のほどはもちろん不明。)

[No.65Q]〜[No.65U] は更に二日後の撮影。(推定で孵化後1週間余り経っている。)
ヒナに目立った変化は起きていないが、ヒナは積極的に親を追って歩くようになり、干潟にへたり込んでじっとしているような光景は殆ど見なくなった。
右下の [No.65T] で、ヒナの背後に、ガマの間に巣のようなものが透けて見える。水が退いている時間帯にはこの「巣」は空中に浮いた感じになるが、[No.65T] のように満潮時には、その下面が丁度水面の高さにくるような位置になっている。今のヒナたちは、おそらく茂みの中で生まれた。外から透けて見えるこの高台は、抱卵のための巣とは思えない。

一旦作り掛けたものの不都合があって放棄した巣の跡とも考えられるが、子育てに入った以後になって、親は枯れかかったようなガマの茎を、あちこちで嘴で折取るなどしてはここに運び、この「巣」の手入れを続けた。
その後、親、ヒナを問わず、この上に上がるようになった。護岸からでは中の様子まではよく分からないが、親もヒナも長くここでじっとしていることはなく、結構頻繁に上がったり下りたりしていた。夜間に寝床として使っているのではないかというのが私の推測だったが、後日分かったことによれば、これに似た居場所は他所にも何箇所か作ってあって、それが茂み全体を住処としている所以のものらしい。
右下の [No.65U] はゴミだらけだが、茂みの周辺としては珍しく一家を捉えているので載せた。(ヒナ1羽は後ろ向き。) 干潟には毎日潮の干満に応じて汽水が出入りし、浮遊物の景色は毎日少しずつ変わっていく。上げ潮に乗って下流からゴミが運ばれてくるが、引き潮の際にはゴミはどこかに引っかかって留まってしまうものが多く、辺りのゴミは次第に増えてくる。台風などがないと大量のゴミはなかなか捌けず、狭い水路はゴミで埋まって塞がってしまうほどになる。

翌朝、一家はこのガマの茂みから突如姿を消した。朝が引き潮だったが、7時台に来ていたという人の話では、来たときには既に一家は当所を去り、中洲(この干潟と本流を仕切る出洲)に移動していたとのことだった。
当所は護岸から地続きで、子供は石を投げるし、干潮時には人が降りることも多く、大型犬が降りているのさえ見たことがある。バンの子育てには極めて不向きな場所である。さらにそうした環境ばかりでなく、護岸から餌を投げる人もいるので、ハトが大挙して舞い降りたりカルガモが寄ってきたりして、親がそれらを追うのに必死の光景も見ていた。
バンの親にとって何が一番想定外だったかは知る由もないが、当所からの退去を決断したことは当然の成り行きとも思われ、やれ一安心とホッとする一方、もう少し撮り続けたかったという残念な気持ちもあった。
中洲は満潮時には水没するが、近年ヨシが点々と定着を始め、2005年には6ヵ所に円形のヨシ叢が形成された。バンの一家は3番目のヨシ叢に居を構えたようで、ざっと100メートル程離れた川下方向で、動き回るバンが肉眼では米粒くらいに見えた。

朝の時点では、一家はてっきり引越してしまったものと思ったが、実はその日の夕方に一家は又この住処に戻ってきたのである。
夕方は満潮に近い水位だった。夕方4:20過ぎにテーブル状護岸に立って中洲を見ていると、たまたま一家がまとまって3番のヨシ叢を発ち、2番のヨシ叢に向かって泳ぎ出した。([No.65V] はその時の写真、右岸の堤防が近くに見えるが、この辺りの川幅(=堤防間の距離)はほゞ500メートルで、ここから対岸までは300メートル以上ある。) 2番に着くと数分休んで1番に向かった。1番でもしばらくヨシの中に入っていたが、そのうち姿を現し、今度はどうやらこちらに向かっているようだと分かった。
やがて1羽が後れ始めたが無視された。無事流路を横断し切ると住処の隣にあるヨシ叢に入り、遅れてきた1羽もここで合流した。数分休み最後の泳ぎを終えてガマの住処に辿り着いたのは、中洲の3番ヨシ叢を発った25分後だった。生れて初めての遠泳はこうして無事終わったが、翌日のことを考えれば、この日はよい日に恵まれたといえるだろう。(小画像は隣のヨシに向かう途中、[No.65V] は隣のヨシを発って住処のガマに着く間近。)

翌日も一家はほゞ同じ時刻に中洲を発ったが、この日は5メートル位の強風が吹き、前日より遥かに厳しい条件になった。
[No.65X] は中洲を出て中間くらいの位置だが、前日も後れていた遅生れの1羽は、この日は集団から大きく離された。(左端にポツンと写っている。) この後向い風にあおられて流され、テトラポットに打付けられそうなところまで漂ってきた。
下に載せた参考写真(1)は、遅生れの1羽が、テトラポットに打寄せられれ、疲れてよれよれになっているところをテーブル護岸の上から撮ったもの。

   (バン1)

[No.65Y] は先行していった一群の方で、ヒナはもとより、成鳥も前屈みで必死にならなければ進めないような様子を写している。
結局先団は昨日とほゞ同じ時間で泳ぎきり、流された1羽も遅れはしたが、自力でヨシ叢にたどり着いた。(小画像はこの日の最終行程、隣のヨシ叢から出てガマに向かうところ。)

バンは泳ぐことを苦にしないが、足は大きいものの水掻きはなく、泳ぐスピードはカルガモの半分くらいしか出ない。そのため水上では瞬発力が働かず、地上より危険な状態であることを親はよく知っている。
遠泳の初日には、先行する親は途中で2度止まって振返った。だがそれは後ろがどの程度付いてきているかを確かめるようなもので、後れたものを待ってやるという素振りはなかった。遠泳の二日目は親自身が必死だったという状況でもあり、後ろのことは全くお構いなしで泳ぎきった。
野生の動物が、弱い子を助けながら育てるというケースはまず無い。動物に個の意識は無く、子育てでは種の保存本能しか働かない。弱い子が淘汰されるのは彼らの望みである。もし弱い遺伝子が生き延びて、次世代を作るようなことになれば、種としての存続に悪影響を及ぼすことを、進化の過程で叩き込まれているからである。
ただ遅生まれの1羽は、偶然遅く生れただけで、遺伝子が弱いわけではなく、早生れの兄弟に伍して試練を乗越えていければ、逆に強い個体に育つ可能性を持っている。親もそれを知っているので、付いてくることを期待して同等に扱っていると推測できる。

[No.65Z][No.65ZA] は、強風下の遠泳から四日目で、最初に発見した日から10日目にあたる。[No.65Z] には一家全員が写っている。住処の周辺ではいつもバラけて行動しているが、遠出の際の移動だけは全員がまとまって行動する。(見ることが出来たのは帰ってくるところばかりで、中洲に向かうところは一度も見ていないが多分同じだろう。)
この日も偶然、私が着いた時刻に一家は中洲を発ったが、それは午後3時過ぎという早い時刻で、潮は未だあまり上げてきておらず、一家はピクニック気分で干潟を渡ってきた。
この頃は大体毎日中洲を往復していたようだが、移動時刻に規則性は感じられない。初日にわざわざ満潮を待って帰途に着き、二日目も親はあえて試練を課した。単に鍛えるということだけが目的なら、いつも満潮時に移動しそうなものだが、この日は楽チンの行程を採っている。初期の親の行動には、早期に子供たちに可能な限りの試練を与え、篩(ふる)いにかけるというまでの特別の意思が感じられる。
[No.65ZB] はそれから四日目、[No.65ZC] は更にその四日後で、発見から18日目にあたる。(双方ともたまたま幼鳥は4羽しか写っていないが、遅生れの1羽はこの時期にはもう区別できない大きさなので、ここで写真から外れているのがそれということではない。)

[No.65ZD][No.65ZE][No.65ZF] は発見から20日目で9月に入っている。ヒナが全身黒い綿毛に覆われていたのは [No.65ZA] までで、[No.65ZB] では黒毛が剥げ始めたものが現れ、[No.65ZC] では全員がハゲチョロケになっている。
[No.65ZD]〜[No.65ZF] は逆光気味で見難いが、背中には茶色の羽が生え、頭にもうっすらと毛が生え初めている。黒毛が抜け落ちるとともに、嘴の赤や黄色は色が褪せ、全体に親とは違うコントラストのぼやけた印象に変わっていく。

2週間目頃から時折、親がヒナの頭をつついて叱っているような光景を目にするようになった。付き従ってくる子を叱って、自立を促しているとも受け取れるが、その一方で餌を与える行為も依然として続けているので、親の行動は不思議に思える。
鳥類の子育ては多様だ。梟や燕のように高所に巣をかける種はもちろん、コアジサシのように巣は地上にあっても生きた小魚を主食にするような種では、巣立ちの前まで親が子に餌を与え続ける。一方カルガモのように親は全く餌を与えず、当初から子が100%自活して育つ種もある。バンはちょうどその中間的な子育てをするので、このような一見矛盾した行動になるのだろうか。

[No.65ZG] は [No.65ZF] の六日後。台風(14号)が日本海を通過し、結構長時間荒れた日の翌日。この時一家は中洲の切れ目(6番ヨシ叢の先:六郷水門前)にいた。(この場所の全景は前頁の [No.51Y] [No.51Z] などに載せている)
一家の無事は確認できたが、中洲上を動き回る影はどうしても6つしか確認できなかった。その後住処の方で、幼鳥だけがまとまって毛繕いしている光景などを見たが、そこでも幼鳥は4羽しか居なかった。
[No.65ZH][No.65ZJ] は [No.65ZG] の二日後で、夕方5時近く西日もかなり傾いた頃。幼鳥1羽がたまたま住処の隣のヨシ叢の側にいたので撮らせてもらった。羽は綺麗に生え替っていたが、下段で紹介している川上側で前に撮った幼鳥に比べるとほっそりしているかなという印象だった。
([No.65ZJ] の翌日、幼鳥4羽は親と共に突如川上側のガマ群落の端に現れた。そこは2ヶ月前に、下段で紹介している別の家族を撮っていた場所で、一家は中洲を経由しここへ来たようだった。この驚くべき展開によって、下の方に書いている縄張り論などの想像は一気に怪しいものになった。)
[No.65ZK] は [No.65ZJ] の三日後(発見から丸一ヵ月後)、[No.65ZL] は更にその六日後で、この時はいずれも住処の周辺にいた。


 
[No.65Z1] から [No.65Z13] までのバンの後半の写真は、(幼鳥の生育段階としてはほゞ上のものと繋がるが)、2ヶ月ほど早い時期に、上とは異なる場所で、別の家族を撮ったものである。

上に紹介したバンの一家を発見する前(6月から7月にかけて)、上手側の大きなガマ群落の端で、バンの別の家族を既に40日ほど追いかけて撮影していた。ただその時の撮影では、バンの子は黒い綿毛が抜けて茶色の毛に生え替る時期から始まっていて、生れたばかりの初期のヒナは見ていなかった。
(熱心なバード・ウオッチャーはもう少し前から観察していたかも知れないが、私もカルガモは5月から撮っていたので、バンが人前に出てきていれば、そう何日も見過ごすことは無かっただろうと思う。)
川上側のガマ群落は大きく茂みが広いというだけでなく、干潮時には護岸と反対のヨシ原に面した水路が干潟になるので、そちらに出て子育てしていれば岸からは陰になって見えない。幼少の期間人目に触れることがなかったのは、ガマ群落の裏側で育てられていたという可能性が強い。(上手のガマは3ヶ所あるので、確認された幼鳥が実際にはどの辺りで営巣され孵化したものかは定かでない。)

[No.65Z1]〜[No.65Z6] の6枚は6月中旬の同じ日で、[No.65Z7][No.65Z8] の2枚もその翌日なので、この8枚はほゞ同じ時期の撮影といってよい。
この区域でも最大5羽の幼鳥を同時に見る時があった。孵化した日がずれていたのか、その後の成長過程で違いが生じたのかは分からないが、5羽の成長度合にはかなり差あり、このとき黒い綿毛を残しているのが1羽いた。
バンのヒナも歩きだした段階ではもう自分で餌を採れるが、親も必死に餌を与えるという事情は、その後上の生まれたての家族を発見してよく分かったが、この時にも、産毛段階のヒナに対して、親が餌をわざわざ持っていって、口移しで与えているシーンを何度か見ていて、カルガモとの違いを確認していた。
カルガモの親子は常に行動を共にするが、親は子供の面倒をみず、近付くものを追い払う警備役に徹している。一方バンの親が羽の生え換わった以後の幼鳥と一緒にいるケースは少なく、バンの親子は自由勝手に行動していて、危険を察知した場合にも、バンの親は我先に逃げてしまい、ヒナも本能的に親の後を追っていくことはない。

バンの親は干潟に出てからも幼い子の面倒をみる。子供が幼いうちは周囲にも気を遣い、中洲に渡った家族の場合、周囲にいる(いわば先住民ともいうような)サギやシギを追い散らしている光景も見られた。
ただバンはカルガモのように常に連隊行動をしているわけではなく、子が毛が生え変わる段階まで成長すると、外敵から子供を護るような行動はしなくなるし、子も安全に関しては親を頼る素振りはみせず、自分の判断で独自に避難したりする。このようなバンの親子関係は、子が飛べるようになるまで2ヶ月ほど、親が体を張って子を護り続けるカルガモではありえないことである。
もっともこの場所は岸からpanを投げる人がいるところで、panを求めてカルガモが大集合する区域である。もともとカルガモが数の上で圧倒的に優位なところに、小さなバンが出てくる形になるので、バンは半身の及び腰という姿勢にならざるをえない事情があった。周囲との力関係がこれほどではなかった場合、この時期のバンの親が他の鳥たちに対して、どのような対応をするのかは確認していない。

[No.65Z9][No.65Z10] は1週間後で、幼鳥が珍しくガマの茂みを出て植生護岸の側に来ていた。次の [No.65Z11] は更に1週間後の6月末で、[No.65Z12] は7月中旬、最後の [No.65Z13] は7月下旬の撮影である。
[No.65Z13] は最初の撮影日から40日経過している。顔はかなりすっきりして成鳥に似てきたが、色やコントラストは淡く、未だ幼鳥の雰囲気を強く残している。
[No.65Z10] と [No.65Z13] はたまたま同じようなアングルになった。双方の撮影期間は丁度1ヶ月明いていて、(同じ個体という保証はないが)、翼の伸び具合など1ヶ月の成長度合を比較してみることができる。

飛翔能力が弱く足が大きいことは、クイナの仲間に共通の特徴として知られるが、そのほかにも、幼鳥の時期には、色が淡くコントラストが弱いので、成鳥のようにその存在が目立たないこと、雌雄は同色で外見からは識別できず、夏羽冬羽の区別もないことなどの特徴が図鑑に記載されている。

バンは歩く以外の能力は、カルガモより遥かに劣る。飛んで逃げるところを見ないし、水上で瞬発力が働かないことも歴然としている。こうした能力の差が、カルガモの自信ある態度とバンの警戒心の強さという差になって表れているように思える。
1981年に発見され、国の天然記念物に指定されている沖縄のヤンバルクイナは、ニワトリ程度にしか飛べないらしい。しかしこのバンは、東北地方や北海道では留鳥でなく夏鳥とされている。(冬場は他所に行くわけだが、歩いて "渡る" のだろうか?)
実際に飛んでいるところを見たことはないが、一度だけ(川下側の撮影場所で)親が巣のような高みの場所から、ガマの茎先を超えて澪筋側に飛び下りるところを見た。大仰な羽ばたきで、やはりニワトリ程度にしか飛べないのではないかと思わせる、落ちるような感じの飛び方だった。
バンの大きな足は地上を駆けるのに有力なだけでなく、長い趾(ゆび)は掴む機能にも優れていて、器用に浮いているものの上を歩いたり、細いものを伝って上り下りするのも得意だ。下の参考写真(2)はガマの茎の上を歩く姿で、こんな芸当はカルガモには出来ない。

   (バン2)

バンもカルガモ同様、毎年繁殖し幼鳥が育っているが、その割に当地の生息数が増えてきているような気配はない。
下段の川上側の繁殖地では3〜4羽は明らかに生育したと思われるが、そこでも7月下旬以降プッツリとその姿を見なくなった。(親らしいいつもの声は聞こえる。)

バンは姿が見えなくても、鋭い鳴き声がガマの茂みからよく聞こえる。これは同じ仲間の個体に対して、縄張りを主張していると考えるのが妥当ではないだろうか。どの程度の範囲を縄張りとして仕切るのか不明だが、当地のガマの群落は既に分割割拠された状態で、他所から新参者が入り込む余地はないのではないか。
上段で紹介した川下側の無謀とも思える子育ては、若いペアが苦し紛れに、まだ小さいが新しいため空白域となっていたガマの茂みに営巣したもので、勢い開き直ったような子育てを行わざるをえなかったものと推測される。
若いペアの企ては(これを書いている時点までのところでは、少なくとも4羽について)成功したように見えるが、それでも当地の許容量はまた充満してしまったことになり、新世代は当地で伴侶を待つことなく、いずれ新天地を求め去っていかざるを得ないだろう。

   (バン3)   (バン4)   (バン5)



2006年はカルガモの親子連れが未だ出てこない5月中旬に、早くも1番池から2番池の間を行き来するヒナ6羽連れのバン親子が見られ、次いで3番池手前の大きなガマ叢でも孵化が確認された。2005年夏に繁殖が見られた上掲の小さなガマ叢でも、連日必死の巣作りが認められたものの、孵化には至っていない。この小さなガマ叢は中央部分が倒壊した前年の茎で覆われ、その上にゴミが集積していて新芽が出ていない。営巣は周辺の密度が薄い部分で行われたが、5月では未だガマの背丈が低いこともあって、満潮時に卵が水没しないだけの巣の高さを確保することが困難のようだった。



   [目次に戻る]