第六部 六郷橋から大師橋 


   その1 六郷橋湿地 (その4:六郷ヨシ原で保全中のウラギク特集:2011年版)

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このページでは、六郷の葦原内の一部で暫定的に保全(自生の保護に留まらず人為的な自立支援を含む)を図っているウラギクの状況を特集して取り扱っています。

導入部として初めに2010年秋の開花から種子撒布の様子を紹介していますが、その後は既に終了した2011年版の経緯を時系列で詳細に掲載しています。


 
もともとウラギクの保全には一定程度の面積に密集した群生状態が必要だと考えていますが、とくに河川域では洪水に見舞われても生き残れるために、そのような密集状態にもっていくことは不可欠だと思います。
昨年は幸い洪水が無く、春先の激しい気温変動や夏季の猛暑にも耐え、カニの攻撃による被害も最小限に抑えることが出来たことで、秋になって推定300株程度の開花散実が見込まれるようになりました。その前年がひどい結果に終わっていただけに、この時点では一定の達成感がありましたが、そこで安穏とすることなく翌年に向けて領域面積の拡大を図る準備にとりかかりました。

当地は既にウラギクの適地ではなく、ここのウラギクは自力でカニを遠ざけたり、ヨシやアイアシとの競合に打ち勝てる状況にありません。そんな場所で野生種を人為的に保全しているのは、放置され荒れていく六郷地区の自然環境が再生されるまで、この地で進化してきた地域種の保存を図っておきたいというのが目的です。
淘汰を免れるべく多面的に人力でカバーしているのが保全の実情ですから、面倒を見切れる限界を考え、ウラギクが群集化できる期待領域は長さ約20メートル奥行き5メートルの100平米程度としました。増加分は上手に約25平米程度を造成し、昨年の群生地からヨシ群落側に2メートル程度間隔を明け、更に領域が通路に戻る部分の三角地帯をも加え合わせて40平米ほどを拡張することにしました。

(右のサムネイルにリンクした4枚の写真は、2010年秋で開花が始まった時点から、蕾が次々と開花していく時期に撮ったものです。)

造成地は少なくとも表層に近い部分の地下茎を除去する程度の準備はしたかったのですが、網の目のように地下を走る根茎を掘り出すのは想像以上の重労働であることが分かり、結局散実までの期間には殆ど実行できませんでした。耕すのは諦めましたがそれで漫然と過ごすことなく、何か少しはやっておきたいとの思いで、カニ対策を思案しました。
クロベンケイガニは地下に巣穴を巡らせ、あちこちに地上への出入口を設けています。今期はカニの攻撃からどのように防御するかを未だ決めていませんが、高さ20センチ程度の適当なフェンスが入手できれば、結局領域全体を囲うようになるのではないかと想定しています。(ただどんな素材ならカニが這い上がれないかはよく考える必要がある) フェンスで全体を囲った場合、領域内に存在するカニ穴は塞いで、この範囲に出てくる経路を諦めてもらうことにしたい訳ですが、どうしたらその趣旨が伝わるか思案し、根拠はありませんが石蓋を埋めてみることにしました。
堆積地には泥しかありませんから、六郷橋下の河原で石を拾ってヨシ原まで運びました。開花散実の時期までに数十キロもの石を数回運び、カニ穴ごとに石を木ハンで叩き込む作業を行いました。当地一帯のカニ穴の数は猛烈で、この程度のことでは焼け石に水ではないか・・・、隣に換わりの穴を掘られればそれまでだが・・・など、半信半疑の思いを抱きながらの作業でした。

(右のサムネイルにリンクした4枚の写真は、2010年秋の開花が最盛期だった時期に撮ったもので、爛熟期に入る前の花が一番綺麗な時期です。)

結局造成地で出来たことは、上物を除去した後は石を運んでは穴埋めする作業が殆どでした。ウラギクは猛暑の影響でかなりやつれた印象はありましたが、開花は見事で綿帽子の数も余りある出来でした。

カニはウラギクを餌にしているのか、単に遊んでしまうのか分かりませんが、放っておくと夏の間に、地面に近い根元の部分で茎の外周をぐるっと食べてしまいます。芯だけになって倒れたものには興味が無いようなので、カニがウラギクを襲う本意は不明です。カニにとって足場が広くとれ、適度な大きさに育った株で、根元に分岐した枝が無く、真直していて孤立してある株が最も先に餌食になります。
2010年は応急対策から始まったもので、一株ごとにゴムホースなどを使って根元部分の茎を被うガードを施しました。ガードは単純なものでしたが功を奏して喰われたものを5%程度に留め、その他の障害で育たなかったもの5%位を除いて、300〜400株程度が開花散実に至りました。
今年、仮に2000株程度育てるとすれば、個々にガードを施したりはしていられません。今期のカニ対策をどうするかは気の重い課題ですが、取り敢えずはこの種子を如何にして拡張造成した所定の領域に配分できるかが当面の課題です。

(右のサムネイルにリンクした4枚の写真は、2010年秋の花が終わった後から綿帽子が出来、散実が始まるまでの期間、約1ヶ月に撮ったものです。)

ウラギクの領域を増加させたとはいっても、種子を配分したい範囲は本体現株の周囲ですから、散実を自然に任せるか、人為的な介入を行うべきか迷うところです。ただ種子の量がべらぼうに多いことから、とりあえず11月下旬に相当量の種子の採取を行っておきました。
12月に入っても本体は未だ見た目満艦飾の綿帽子を抱えていまして、何事も無ければまだまだ半月はのどかな散実を続けていたでしょう。ところが12月3日に台風を凌ぐ程猛烈な強風に見舞われました。関東各地で突風被害が出るほどの猛烈な風でしたが、案の定綿帽子はこの日に殆ど飛んでしまい、4日にはほゞ皆坊主になっていました。
たった二日の違いで全く景色が変わりました。せめて東が吹いて呉れれば上手の造成地に・・と思いましたが、生憎の西風で、川下側のヨシくずの方に綿毛が雪のように積もっていました。

6日に新しい上手側の造成地に手を入れました。採取してあった種子の1/3を軽く植え、更に下手側に積みあがっていた綿毛を、ヨシくずごと運んでこちらに撒きました。それでも尚川下側には散りばめられた多くの綿毛が残りました。

(右のサムネイルにリンクした4枚の写真は、2010年散実が後期に入った時期の写真ですが、最後に突風明け直後の"宴の跡"という風情の景色を載せました。ここまでが昨季ということになります)

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【以下2011年版の経緯】

 
[12月下旬]

2010年12月23日、いつものようにカニ穴埋めに出かけましたが、雨水が捌けてなく周囲は水溜り状態で仕事にならず、帰ろうとした瞬間に驚く発見がありました。上手の一帯と下手の一帯にウラギクの大量の芽生えが始まっていたのです。下手の通路に出る近辺はヨシくずの吹き溜まりになっていますが、掻き分けてみるとその下もウラギクの双葉だらけでした。
普通3月下旬頃葉がやや大きくなった時点の芽生えを見つけて、精々その1〜2週間程度前に芽生えているものと思っていただけに、12月中に既に芽生えが始まったことに大変驚きました。数は数える気にはなりませんでしたが強いて言えば数千というレベルです。芽生えの脇に種子を放った後の綿毛が未だ見られる所もあり、散実と芽生えの間隔が短かく、芽生えが直近であったことが推測されます。

ウラギクは越年生の1年草とする図鑑が一般的だそうですが、12月は中旬頃から寒くなり始めていたものの、芽生えがあったのは12月下旬で、それから本格的な真冬の寒さになっていった訳ですから、いつもこうなのか不明ですが、この時点での芽生えは正直言って奇怪に思われました。

(右のサムネイルにリンクした5枚の写真は、2010年の暮れに実際に芽生えが始まったことを確認した二日後の撮影です。上段の最後に載せた「宴の跡」(No.670BB8)が12月4日で、芽生えを確認したのが23日ですから、この間3週間弱の期間になります。)

ロゼットで越冬する種のことは良く聞きますが、厳寒期を双葉で過ごすというのは何とも理解の難しい自然です。実際それからの寒気は厳しく、1月から2月に掛けて新芽には殆ど動きは無く、双葉のままでした。
当初の双葉は結構緑色をしたものがあったのですが、その後多くは赤紫色から土気色のくすんだ色をして、じっと耐えているような雰囲気でした。枯れてしまった訳ではなく成長を止めるため敢えて葉緑素の機能を消しているのではないかと想像していました。
芽生えが認められたのは、上手側の造成地と下手側の末尾一帯、及び本体に沿う根元周辺一帯でした。中央部の本体からヨシハラ側に2メートル幅程度造成した一帯には殆ど芽生えが無く、折角種の採取を行っていたことでもあるので、12月29日に中央部の種植えを行いました。せめて前日に種を水に浸しておくなどすれば良かったのでしょうが、元来がその日の体調や天候で動くタイプなので、急遽の決断となり乾いたものを撒くことになってしまいました。

(右のサムネイルにリンクした5枚の写真は、上と同じで芽生えが始まったことを確認した二日後の撮影です。上の方は川下側の造成地でヨシくずだらけの場所ですが、こちらの4枚は川上側の造成地のものや本体沿いの中央部分のものを載せています。川上側造成地は全体的に、何故かくっつき合い塊りになって出ている形のものが多く、今後どうなっていくのか想像が付きません。)

[1月初旬]

中央本体からヨシ原との間の造成地が心配です。ただ今は殆ど芽生えの無いこの部分にも自然の散布は当然あったはずで、地面はあまり触りたくは無く、春を待つべきか迷いましたが、結局手持ちの種子を使うことにしました。たまたま風が結構強い日で、ただ撒いただけでは種が飛んで行ってしまい意味が無いので、熊手のようなもので土を掻き種を撒いた上に土を被せる方法を採りました。

2月中旬に雪が降るなどあって寒気も底を付け、以後やや気温も上昇気味で、芽生えも次第に動きを見せるようになり、双葉が4葉になり、葉が膨らんでくるなどしてきました。3月に入るとかなり成長を始めるものが目に付くようになり、気にしていた中央部にもやや芽生えが確認できるようになってきました。
最も健全に発育しているように見えるのは、昨年の本体茎が枯れ残って絡み合っている下の部分で、散実を終えた本体がここまで遺骸を留めているのはそれなりの意味があるのでしょう。ウラギクは前年あった場所に次世代が引継がれる可能性が高い種と思います。

(右のサムネイルにリンクした5枚の写真は、年が明けた1月5日と2月10日の撮影です。芽生えからこの間殆ど変化らしい動きは無く、川上側の造成地にきのこのように塊り形に芽生えた場所はどこも年末時点と同じままでした。ただ青いものは少なく土色に同化しているような色をしているものが大半でした。)

[2月中旬〜下旬]

1月は殆ど何の変化も無かったので行っても仕方なく、ただ日照り続きを案じていましたが、天候が悪化するという予報があったので2月10日に久々見に行きました。
ウラギクに大した変化は無く、相変わらずでしたが、本体周辺に6ミリBB弾が50発ほど散在していたのが気になりました。この辺でサバイバルゲームなどしている気配は特に感じませんが、普段ここでBB弾を目にすることはありませんし、釣り人が谷を越えて来ているのにも初めて遭遇しました。
通路の通行は構いませんが、ウラギク領域内も同じような感じで、立ち位置からでは地表の全面にウラギクの芽生えがある実態は全く見えません。仮に踏み荒されても知らなかったと言われればどうしようもなく、何らかの対処が必要だと感じました。
連休中に川崎ラゾーナのホームセンターでプラスチックの杭を15本とナイロン製のロープを買ってきて、2月13日に通路とウラギク領域の境界に仕切りラインを設置しました。

(右のサムネイルにリンクした5枚の写真は、最初の3枚は2月13日の様子、後の2枚はウラギク領域を通路から仕切った状態です。初めて仕切ったのは13日でサムネイルはその時のものですが、リンクした写真はワイヤを張り直した後の27日の撮影です。最初の東向きの仕切り線は川上側の造成地の端から撮っていますが、この下に一杯出ているウラギクは未だ屈まないと全く見えません。2枚目の西向き写真で右手にモジャモジャとあるのは、昨年の本体茎の残骸で、もう半分くらいしか残っていませんが、この下が新芽にとっては最高の場所のようです。)

1週間後に行ってみるとロープはズタズタに千切れていました。張っていたものが切れれば、全体がたるむのでそれで終わりと思いますが、風で切れる場合不思議なことに全長が4,5本あるいは6,7本に切れボロボロになっているものです。
風で切れれば何箇所も切れるというのは経験済みのことなので、今回も風で切れたものと判断しました。応急措置で繋いできましたが、仕切りは大切なので2ミリのワイヤロープを奮発して買い23日に交換しました。杭の安定性の関係で高さは20センチ程度と低いものですが、立入禁止の札も取り付け、仕切りの意味を表示しました。(仕切った様子の写真は上の方の最後に載せています。)

(右のサムネイルにリンクした5枚の写真は、いずれもワイヤを張り直した後の27日の撮影で、さすがにあちこち新芽も動き出してきた様子が伺われます。ただ写真は目立つところ、綺麗なところなどを選んで撮り勝ちなので、全体としてみればまだまだ精彩を欠く区域も多く、全体の状況としては撮ってきた写真の印象を割り引いて見ておかないと判断を誤ることになります。)

[3月中旬〜下旬]

3月11日東北から関東の太平洋沿岸に大地震があり近年では稀な大災害を生じました。東京湾での津波警報が解除された13日にヨシ原を見に行きました。
ウラギク前の通路の地面が黒っぽいものに覆われた場所が2箇所目に付きました。手前は地割れしていて黒っぽいものはその周辺に溢れていました。もう一箇所は擂り鉢状の穴が3箇所明いていて、黒っぽいものはそこから溢れ出し、一部はウラギク領域内にも流れ込んでいました。
黒っぽいものはよくよく調べると砂であることが分かりました。非常に細かい綺麗な砂で水と共に噴出したとみえ、濡れているため黒っぽく見えていることが分かりました。(後日乾いた後ではこの砂は逆に、右のサムネイルに見るように白く見えるようになりました。)
いわゆる液状化現象という類の現象でしょう。どの程度の深さから吹き上げたものか分かりませんが、鉄塔まで行ってみると途中にあちこち噴出跡が見られました。最大のものは穴は数十センチ流出は数十メートルに及んでいました。右のサムネイルはそうした穴の一つです。(但し鉄塔そのものの周辺では液状化は皆無でした)
カニがいる筈だと思って辺りを見回すと、アイアシ側で一匹見つけました。冬眠中に放り出されたのでしょうが即死のようでした。翌週も一匹見ました。こちらは砂だらけになって朦朧としておりましたが生きていました。

ウラギク近辺で大きな噴出があったのは2箇所で、川下側のものはウラギク領域にも流れ込んでいました。大半は砂ですが泥っぽい液状物を被ったところでは地表に皮膜を張ったようになりました。埋まってしまった一帯は多分ダメでしょうが、被った程度の範囲では克服するかも知れません。
よく見て回るとウラギク領域内にも小規模の噴出は数箇所あって、通路側から流れ込んで砂を被ってしまった部分を含め、被害は全面積の15%程度というところでしょうか。

3月になって日中15度程度まで気温が上がる日もあり、ウラギクは急に伸び始めるものが目立つようになりました。この時期は寒暖の差が大きい季節ですが、今の所昨年よりは穏やかに推移しています。

(右のサムネイルにリンクした6枚の写真は、3月中旬から下旬にかけて、この間撮ってきたウラギクの様子です。1,2月頃に比べればかなり大きくなったと実感されますが、中央部分がどうなるか、川上側造成地の新芽は皆育つのかなど疑問も多く、全容が見えてくるまでには未だ2ヶ月ほど掛かるでしょう。最後の写真は3月27日の撮影ですが、左側に剣山のように突出てきているものが何本も写っています。来るべきものが遂に来たなということで、これがこの地の主です。)

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[4月中旬]

例年3月下旬頃、堆積地の湿気たこの辺りに、芽生えて間もないような小さなウラギクを見つける時、周囲には青いものは何も無く、芽生え自身はトップを切っています。だが4月に入るとヨシの胎動が始まり状況は一変します。
実生の苗がチマチマ育っていくのを嘲笑うかのように、地下茎から伸び出し地表を貫いて出てきたヨシの伸びは猛烈に早いものです。新幹線が自転車を追い越していくほどの差があり、数週間放置すれば、伸びたヨシに囲まれたウラギクは日照を失い消滅してしまいます。
このウラギクの領域はそれ用に開墾した訳ではなく、種子の着床が確保されるように地上部を掃ったに過ぎません。昨年、地下茎を掘り出すなどということは素人が生半可な取り組みで出来る事ではないと知って、地下に手を付ける事を諦めた経緯があったので、4月になれば何が起きるかは十分承知していましたし覚悟もしていました。
ヨシ原に入ったのは4月中旬でした。冬場に焼いたり刈ったりしないヨシ群落では、前年の枯れた茎の下から一斉に新芽が伸び、遠目には青い袴を履いた様な姿になりますが、地上部を刈った場所では田んぼのように適度な間隔で生えてきます。
初日から3日間は鋏だけを持って行って作業に集中しました。右のサムネイルにリンクした6枚の写真は、3日間かけてヨシをほゞ刈り終えた翌日と翌々日に、ウラギクの領域の全景や新芽の様子を撮ったものです。6枚目はウラギクの領域がある場所から鉄塔方向に向う道に芽生えたヨシを撮ったもので、ウラギクの領域も造成地は概ねこんな感じでした。この頃のヨシは丈30センチ程度で、ウラギクの存在は無視され、剣山のように林立して生えていました。

ヨシは1メートル周囲に10本程度出ているとすれば、100平米で大雑把に1000本程度になります。1日200刈れれば5日か・・・ま、とにかくやるしかない。が、もしこの姿を原理主義者に見られれば、「何をしているのか!」とこっぴどく叱られるでしょう。しかしこの難解な作業の意味は私自身でも十分納得しているとは言いがたく、余人には到底説明しきれるものではありません。「この一画だけですから・・」と釈明し勘弁してもらうしかありません。
かつての自然愛好家は美しい自然を見たり、珍しい生物を探し歩いたりして受動的に自然を愉しんでいましたし、自然環境の保護は文明による開発を抑止することが全てであり、自然は触らなければ最良に保たれるものと信じていました。とりたてて言うまでもなく皆が原理主義者であり紛れはありませんでした。
多分オゾン層に穴が明いていることが分かり、フロンガスが禁止されるようになった頃から次第に、自然は気候変動(温暖化)や生物多様性など地球環境問題と関連して議論されるようになり、貴重な原生自然は世界自然遺産の称号を与えられるなど、自然のランク付けや意識の喚起運動が始まったように思います。
熱帯雨林の重要性が強調されるようになる一方、荒廃させてしまった自然環境を再生することにも関心が向くようになり、文明に侵されたまま放置されている自然も再生し維持管理することで価値ある自然に戻せば、貴重な自然が広がるという能動的な自然観が生まれました。再生は必ずしも過去の復元を目指す必要は無く、荒廃した自然環境を手入れして再生し、より価値のある自然として蘇えらせられれば良いとすべきでしょう。

などということを考えながら、黙々と作業を行いました。ウラギクを踏みながらの作業になるので、ウラギクがこの小ささの内に、しかも地面一帯が乾いている状態の時でないと作業は出来ません。ヨシは第一陣を伐られてもそれほど間をおかずに第二陣を出してきます。しかし取り敢えずヨシの勢いが殺がれることは間違いなく、この間にウラギクに出来るだけ成長してもらうことを期待します。ヨシには地下でおとなしく我慢していて欲しいのですが、そんな都合良いことは有り得ず、この鬩ぎ合いはこれから何ヶ月も続くのです。
大雑把な作業は概ね3日で終わり細かな手入れに移りました。ヨシを伐払ってみるとウラギクの全体の様子が分かるようになりました。中央部がやや薄いものの上手側下手側の両脇がしっかりしているので、このまま生育できればそこそこ纏まった形になりそうでした。液状化の流れ込みを強く被った2箇所の近辺は空白化していますが仕方ありません。
(右のサムネイルにリンクした写真は上の5枚と共に、葦を刈り終えた直後に撮ったものですが、最初の2枚67J1と67J2は上手の造成地に塊りのような形で芽生えたもの、(上掲した-67C3,67E5-など)がやっと動き出して、塊りの一部が伸び始めたところです。この上手側の造成地は19日の大雨のあとヨシ屑が集積し分厚く堆積して危うく全滅するところでした。偶々20日に立寄って発見し排除したのですが、この4メートル程度の領域はかなりダメージを負って、その後も生育は遅く総じて精彩がありません。)

[4月下旬]

ヨシ刈りに来た最後の日、未だ4月中旬だというのに道中でカニを見ました。ウラギクの周辺では未だ姿は目にしませんでしたが、ウラギクの領域内も4月になってボコボコに掘られています。カニが活動していることは間違いなく、石による穴埋めは実効無いと判断して止めにしました。
ところが1週間後の4月24日には、もうあちこちでカニを散見するようになり、ウラギクの領域内でも穴を覗くと、もうそこには待機したカニの姿が見える状態で、こんなに早く冬眠から覚めるのだとは知りませんでした。
今年防護フェンスをどうするか、決断時期が迫ってきました。3年目になる今年、結局ここのウラギクは行き場が無い可能性が高いと分かって、これ以上無理を続けるのはもういいか・・という気持ちも半分はあるのです。面倒を見るのは今年が最後だとすれば、大枚を投じてフェンスを作るという意欲はあまり湧きません。
劣化が著しい護岸側湿地の自然環境を再生すれば用地を作る広さは幾らでもあるのですが、河川事務所の管理方針では、河川領域は「人工」と「自然」の区分があって、自然のG空間ともなると、護岸などの親水部は雑草帯で固めれ、雑草帯のガードから水域側の生態系は一切手を触れないことになっています。
都市近郊にあって文明の都合で弄(いじ)り回された結果の自然生態系は、奥山などの安定相とは程遠く、環境は過渡期にあって各種生物が競合し覇を競って暴れるため、放置すれば荒廃した状態になっていくものです。好ましい自然生態系を実現したい場合には、人手による維持管理は必須です。ましてや再生となれば計画や工事内容もさることながら、成否はその後の維持管理に掛かると言っても過言ではなく、双方は一体不可分のものと考えなければなりません。
現状のように自然生態系の維持管理を面倒臭いと嫌がる人が主体なら、自然には触るべきではなくその資格もありません。放置を旨としたカビ臭い管理方針が自然環境の維持を重視するような管理方針に転換され、職員も自然生態系が劣化していくのは座視していられないという人に換わっていくには何年も掛かることでしょう。

[5月初旬]

フェンスの設置を決断し切れないのは、ここでしていることが自然再生そのものでなく、その準備作業のようなものに過ぎないということが最大の理由ですが、なかなか踏切れない理由はもう一つあります。それは確実にカニの通行を遮断出来ると考えられるフェンスの方式が思い付かないことです。どんなものを作ってもカニは乗り越えるでしょう。ただそれが如何にも面倒であったり、何らかのプレッシャーを与えるものになれば、こんな住み難いところに居る必要は無いと引き払ってこの領域から出ていく可能性があります。
領域の中に巣穴を持っている個体数は100〜200程度と思いますが、彼らの行動は不明で、昨年の経験では数百という大群が奥の方からやってきてウラギクを蹂躙していったケースもあります。フェンスがあったらそういう場面はどうなるのか。何事もやってみなければ分かりません。
ウラギクがロゼットを脱し茎を伸ばし始めるのは5月下旬頃です。茎がそこそこ生育した時点で或る日突然茎の根元が齧られるようになり、ウラギクは数日で倒されてしまいます。フェンスの有効性を高める工夫などの時間も必要で、フェンスを作るなら5月末頃までに完成させておくのが望ましく、連休中の着工は必須です。


迷った末結局作ることを決め、連休直前に寸法採りを行いました。5メートル位あると思っていた領域の厚みは中央部の最も厚い部分で3.5メートルしかなく、周囲は57メートル、面積はおよそ80平米でした。
ホームセンターに金網や杭などの素材は必要量の半分程度しか在庫が無く、追加仕入れは連休明けになるということで、連休中に出来るのは頑張っても通路面を除いた奥側の半分程度ということになりました。
右のサムネイルにリンクした写真は連休の終わりの時点で、フェンスは丁度奥側の半分について組立設置が了った所です。上の6枚はその時点でのウラギクをズームで撮ったもので、ロゼットは順調に成長し、大きいものは茎を伸ばし始める寸前という状態のものもあります。
下の4枚は半分完成したフェンスを撮ったものです。フェンス材は金網でプラ杭で挟みステンレス線で固定しています。更に金網は地面との固定に又釘と又釘形のロープ止めを補充使用しています。
通路及びアイアシ側を刈るのは東電の管轄ですが、今年は諸経費削減が目に見えていて除草が見送られる懸念もあり、日照の確保は必須ですから、そうなると6月に掛けてこちらの労働が倍加することになります。

[5月下旬]

連休初日に着工したフェンスはその後の休日を投入し、5月28日、雨雲が台風2号に追い立てられて関東も梅雨入りする中、雨中の工事強行で完成させました。このような軟弱な地盤にそれほどは深く打込んでいない杭やロープ留めを使用して作ったこのフェンスに、果たしてどれほどの耐久力があるのか不明ですが、とりあえずリング状に完結させれたことで、風雨に対して全体としてそこそこの抵抗性を示すことを期待しています。
(フェンスの組立は約1ヶ月掛かりましたが、この間も1日数百という数のヨシやアイアシの新芽刈りを並行して頻繁に行っています。それが当地がウラギクにとっては間借り状態であることの実態です。)
この日は雨とあってカニも出ているものが多く、50匹ほどを捕獲してフェンス内から追放しました。カニの巣穴はフェンスの中に100以上はあって、こんな小さい奴が・・と俄かには信じ難いほど小さな個体が大きな穴を幾つも隣接して明けています。深さは不明ですが隣接しているものは大抵地下で繋がっています。実際地下に網の目のような通路が張巡らされ、多くのカニが自由に往来しているのか、1匹ずつが近辺に数箇所の穴を明けて住いの拠点にしているだけなのか、どちらが実態なのかは不明ですが、地上に明いた穴の方がカニの数より遥かに多いように感じらます。
クロベンケイガニの成体は甲羅幅35ミリ甲羅の厳(いか)つい紋様と脚の毛深さが特徴。雄は鋏が大きい。繁殖は夏で抱卵した雌が大潮の満潮時に海に放卵するとされるが、この辺りの雌がどの辺りで放卵しているのか、稚ガニが何時頃上陸し遡上してきてこの辺りに定着するのかなどのことは一切知りません。

大きな穴を明けられた場所では、ウラギクの根が空間に浮いてしまったようになっている場所もあります。とにかくカニを捕獲しては追放し、カニを捕獲した穴では周辺の穴共々埋めていきます。又フェンスの下を潜っていると推定される穴は全て潰し埋めます。但し諸々の穴を全て埋めるというのはあくまで目標で、実際には埋めれば又掘られるというイタチゴッコが繰返されているので、これもヨシやアイアシの新芽刈り同様、当地がカニの棲息地盤の中にあり、間借り状態としてウラギクを育成している宿命の片側です。
カニはこのフェンスが障害ではなく、追われれば容易に網を上って逃げていきます。カニにとってフェンスの存在は大した問題ではないように思えます。カニの場合縄張りのようなものがあるのかどうか、フェンス内で捕獲した個体を追放し続ければ実数が減っていくのかどうかは不明ですが、フェンス中のものはフェンスを越えて出歩くとしても外のものがフェンスを越えて入ってくるという可能性は低いのではないかと思え、フェンス沿いに展開する地下通路の出入口を埋め続けることで往来を遮断し、領域内のカニの絶対数を減らせるのではないかと期待しています。フェンスの完成時以後の3日間で100匹ほど捕獲し、追放しましたがフェンス内の実数が減ったのかどうか調べようはありません。この期間に捕獲したのは大きい個体は約1割程度で8割ほどはかなり小さな未成体でした。

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[6月初旬]

クロベンケイガニは干潟の水溜りに棲むヤマトオサガニなどとは異なる陸のカニで、どこにでもいるありふれた種類ですが、体の表面を巡らせた水から酸素をとる微妙な呼吸法を採るため、必ず水場の近くで活動します。ヨシ原では地面に掘った巣穴の中に潮の干満に応じて水位が上下する水溜を持っていますが、長時間水中には居られる訳ではなく、乾燥の危険がある炎天下を出歩くようなこともありません。
大師橋の辺りから海側ではクロベンケイガニは姿を消しイワガニ類はアシハラガニに換わります。アシハラガニは干潟に無尽蔵に居るヤマトオサガニを捕まえて鋏をもぎ取って食べたりしていますが(爪の無いヤマトオサガニを多く見るのは食べられてしまっているから)、クロベンケイガニが居るのは干潟ではなく、他に小動物が殆ど居ないところですから、雑食性とはいえこれだけ多くの個体群が何を主食に繁殖しているのか不思議に思います。とにかく食べれるものは何でも食べているのでしょうから、ウラギクの茎もご馳走なのかもしれません。ウラギクが茎を伸ばし始めるまで後1ヶ月あるかないか、この時点までにクロベンケイガニを排除できなければ、伸びたウラギクの茎は齧り伐られてしまい一昨年のような哀れな結果になりかねません。

右側上下のサムネイルにリンクした19枚の写真は、5月末から6月初旬という時期のウラギクの様子を撮ったものです。周辺のものは大きく、中央で密集しているものは小さいという大きさの差が生じてきていますが、大半のものは依然として未だロゼットの状態にあります。

6月4、5日はウラギク保全地までの通路の除草を行いました。東電が全社で作業の見直しを行っているとあって、今年は鉄塔保全通路の除草が見送りになるケースも想定されます。6月に除草を行わないと、道中の通路は両側から猛烈に張り出してくるヨシやアイアシによって塞がってしまい、初夏にはもう往来不能の状況に陥ってしまいます。座視していていればこれまでやってきたことが無に帰する恐れもあるため、自力で通行路の確保に踏切ったものです。
専門の除草員は通常エンジン付きの肩掛け除草機を使いますが、最近では家庭で充電できるバッテリータイプの電動式のものも出ています。しかし購入費用もさることながら、やはり結構の重さがあり、除草機を除草場所まで持ち込むまでが容易で無いと判断して断念し、長柄のカマでコツコツやることにしました早めに始めないと太く成長したヨシがびっしりという状況になってからでは手刈りで切り拓くのは容易ではありません。
ヨシハラもこの辺りまで入ると、岸辺はともかく通路の辺りにはビンや金物は少なく、時期が早かったこともあって当初想像していた以上に能率よく刈取りが進みました。この2日間はウラギクの方の作業を軽めにして、道中の除草を重点におき、カマ1本をダメにする程度で当面の通行路を確保することが出来ました。

6月11,12日にはウラギクを囲ったフェンス内のカニの掃討作戦を決行しました。ウラギクは梅雨の期間に茎を伸ばし、ロゼット状態から一気に成長しますが、伸びた茎の根元部分がカニの格好の餌になり、茎が伸びた後ではもう何時倒されても不思議ではありません。従ってカニ対策は6月中が勝負でこの間はフェンス内に入られれば追い出すのイタチゴッコになりますが、ここで一定の勝利を収めることが必須で、夏場にまでカニ問題が持ち込まれるようではほゞ負けが見えていると言わざるを得ません。

[6月中旬〜下旬]

11日は午前中の雨が上がった後の3時頃から出かけ、フェンス内に入ったところ一目100匹ほど大型のものががうろついていて、あまりの光景にこれからしようとしていることが空しいことではないかという絶望感が頭をよぎりました。
しかし一瞬の後気を取り直し、当初の目的を実行することにしました。今年はウラギクも本数が多いので少しくらい喰われても・・という期待もあるのですが、カニの方もとにかく多いので、この連中に好きなようにされては、夏場にウラギクがボロボロにされてしまう恐れは強いと感じています。
とりあえず50匹ほどの大型ものを捕獲し追放した後、フェンス沿いで外部と通じていると思われる穴を重点的に封鎖すべく、バケツで外から土を運んでは穴を埋め、地盛を行うなどしました。
12日は薄日程度だったことが幸いし、今年最長となる4時間の作業でフェンス内の全域に対処しました。昨日の今日でさすがにウロウロしているカニが一目100匹見えるという状態ではありませんでしたが、掘られた穴はウラギクの陰に多く、よく見ればざっと200程度はあって、これを全て埋めるのは矢張り不可能への挑戦ではないのかという無力感を克服しながらの作業でした。
穴埋めの手順は先ず穴に居るカニを捕らえ、カニを取除けた穴はフェンス外から持ち込んだ土で埋めます。カニを捕らえるには細長いシャベルのような形をしたレジャーナイフを使いました。カニは穴の上から見ると足が見える位置で門番していますから、背後の地面にナイフを刺して脅し、出てきたところを捕まえます。この手順はそう難しいものではなく軍手をしていれば鋏は怖くありません。

目的はフェンスエリア内のカニの個体数を減らすことですから、穴の主を取り逃がしてしまっては意味がありません。取り逃がせば穴を埋めても又どこか別の所に穴を掘って棲み付くだけのことで状況は改善されません。ただ穴に入らず(ここに巣穴を持っていないのか、気が転倒して巣穴まで戻れないのか)逃げようとしてフェンス際などをうろついているものを相当数先に捕獲しているので、空の穴があっても不思議ではありません。
川下側の新造成地は殆ど全ての穴がヨシの地下茎を梁にしていて、地下茎を切るか引き抜くかしないと穴を潰すことが出来ません。川上側の新造成地では梁のような障害物は少ないものの、拳が入りそうなデカイ穴に信じられないほど小さいカニが1匹壁に張り付いているというケースもまゝあり、こういう場合にはカニを取り逃がすケースが屡(しばしば)でしたが仕方ありません。それでなくても穴埋め作業のため多くのウラギクを踏み潰したりしているので、ウラギクの陰を逃げ回る小さなカニを深追いするのはどうしても躊躇(ためら)いの気持ちが働きます。

6月18日はカニの穴埋め3日目です。ウラギクは大きくなってきましたがカニも随分大きなものが目立つようになりました。この日も同じようにカニを捕獲しては追放し穴埋めを行って帰ってきました。翌日も同じような気分で出かけましたが、フェンス内の光景を見て仰天しました。昨日100匹ほど捕獲し追放したばかりなのに、何と同じように一目100匹の状態になっているではないですか。

フェンスの下が透いているようなことはなく、この連中は皆高さ50センチの金網を乗り越えて入ってきたのに違いありません。追えば乗り越えて出て行くので金網が乗越えられることは知っていましたが、中に定着したものが外出するだけで、外から新参者がこれほど入ってきているとは思ってもいませんでした。しかしこれで事態ははっきりした訳で、カニを遮断するためにもう一策講じるか、もうここで諦め投了するか、最後の決断を迫られることになりました。
策を講じるとすれば、折角作ったフェンスを何とか生かしたいと考えます。金網は直立していますから、足が滑ってしまって登れなくなるような何かを貼ることしか考え付きません。ガムテープ、包装用のセロテープ、キッチンなどの補修に使うアルミテープ等々色々考えました。ただいずれにしても1段では跨がれてしまう恐れが強く、5センチ幅のものなら最低2段、安全を考慮すれば3段は必要です。金網の全周は55メートルあり貼ったものがどこかで剥がれ欠損箇所を生じれば全体が意味を失います。
相手が金網であることもあって、考慮したテープ類はいずれも接着力の耐久性に疑問符が付きました。そんな時、ホームセンターでカッティングシートなるものを紹介されました。素材は塩ビのような合成樹脂の薄いフィルムに接着剤を塗布したもので、屋外用で4年は保つという触れ込みでした。使ったことの無い初物でしたが、直感的にこれしかないと思い、50センチ幅のものを18メートル注文しました。
50センチ幅は鋏で3等分し、幅16センチの帯状にする積もりでした。金網の高さの内、杭の上に出る平滑部分の幅がその程度であることと、さすがに16センチは跨げないだろうという読みでした。

[7月初旬]

フェンスを作る際、金網自身は全体として57メートル買っていますが、加工上10メートル5本と7メートル1本の6本に分割して仕入れ、組立てられたフェンスには繋ぎ目が6箇所あります。継ぎ目は双方の金網2枚を重ねてステンレス線で仮縫いして繋いでいて、そのダブりが結構あるので、シートの長さは54メートルもあれば十分だろうと推測し、3分割を前提に18メートルを注文した訳です。
シートが入荷するまでに、打込みが浅すぎて地上部が長く、金網に上の余白が足りないような杭は取外して、打込み直して再設置するなどの準備態勢を整え、満を持して7月2日にシートの貼り付けを開始しました。
事前に幅16センチの帯状にはしておいたのですが、どのように貼っていったらよいか分からず、とりあえず1メートルに切って貼ってみようと思いましたが、接着面の紙を剥がした直後にフイルムが互いにくっ付き合いクチャクチャになってしまいました。このカッティングシートはフィルムが薄く接着面を広く曝したままで器用に扱えるような代物ではないと分かったので、長尺のまま順次紙を剥がしながら貼っていくことにしました。
ピンと張ってそのまま撫で付ければ綺麗に貼れる場所がある反面、弛みが出て皺になったり、傾斜状にずれていってしまうような場所も多く、このフィルムを貼るのは想像以上に大変な苦労でした。貼っていくうちにその事情が分かってきました。フェンスを組む際に金網に色々無理を強いていて、金網が随所で窪んだり凹んだり変形しています。そうした場所ではフィルムが金網に上手く追随出来ないため、なかなか綺麗に貼れないのだと分かりました。

金網の下から上までの中間(杭があるため事実上はトップになる)にカニが滑って歩けない領域が連続してあれば目的の機能は果たされるので、見栄えや体裁はある程度で妥協して作業の進行を図り、初日には30メートルを貼って終わりにしました。 2日目は午前中に出て、昨日慣れた分スムースに貼れましたが、結局シートは2メートル分足りませんでした。最初に1メートルをダメにしていますから、フェンスの全周は55メートルあったことが分かりました。この日は大潮だったので、一旦切り上げて不足分のカッティングシートを買いにいき、午後に再度出直して全周を貼り終え、継ぎ目の補修などを行い、最後にカニの追い出しまで行いました。
フェンスを作るとき3日掛けて金網を張りましたが、その時は、張っている目の前で既に張り終えた金網をカニが気安く上り下りするのを見せつけられ、悔しい思いをしましたが、シートを貼った今回は大違いになったことを翌日実感することになりました。

杭もステップルも打込んでいるのは10センチ程度ですし、大潮の満潮時には地表まで水が上がるような軟弱な地盤ですから、特に上1/3にシートを張った後では風圧に曝され煽られれば基礎に掛かる負荷は倍増し、特に通路側でフェンス面が直立を維持しきれるかとても不安な状態にあります。 偶々7月4日は強風でした。不安があったので5日に時間を割いて行ってみると矢張り通路側の杭は植え込み部が相当緩んでいました。ただそのこともさることながら、フェンスの外周りに何十という数のカニが群れ、金網をよじ登ったりしている光景を見て驚きました。今まで自由に行き来していたフェンスが、最後のシート部分が突破できないため乗越えられず、うろたえた連中が右往左往してフェンスの周りがカニだらけになっているのです。

カッティングシートは成功でした。ただこれだけ大量のカニに攻められている状況を見ると、バリアはいつか破られるのではないかという不安に駆られるほどの光景でした。 フェンス内に未だ残っていたものも50程度居て、フェンスを乗越えて逃げようとするのですが、シート面に足が着けず、飛び降りるのも怖いらしくて爪をフェンストップに引っ掛けて外にぶら下がって居たりして、えらい様変わりでした。これまでカニを追放する気持ちで遠くに放していましたが、もうフェンスの外に出しさえすればいいので、逃げようとしてフェンスに取り付いたものは容易に処理できました。

2月下旬にウラギクが芽生えた領域を仕切るために通路面との境にワイヤーを張ったのですが、この時期はもう不要ですからこれを解体しそこで余った杭8本を通路側のフェンス強化に充てることにしました。
通路側で風に煽られたときがこのフェンスの最も弱い部分です。ワイヤーを解体して杭をフェンスの補強に回すことは、多分手間の掛かる作業としては最後のものと思われますが、カニの遮断に成功した今、少しでも風に耐えるフェンスであって欲しいとの思いは強く、そこまではどうしてもやりたい気持ちでした。
7月9日には関東も早い梅雨明けとなり、猛暑となって磨り減った体力ではもはや日中の作業に自信が無かったので、7月10日は早朝に出てワイヤー仕切線を解体し、追加して打込んだ杭を金網にステンレス線で固定するなど、可能な限りでフェンスの強化を図る作業を行いました。
フェンスの周辺には相変わらずカニが群れていましたが、先週ほどの数ではなくやゝ安心しました。フェンスの中にはもう殆どカニは見られず、小さいもの4匹を捕るのが精一杯というような状況で、ここまでは当初の目的は達成したと実感しました。

[7月下旬]

7月中旬になると台風6号が西から太平洋沿岸をゆっくり進み、東京も危ないかも・・・という状況になり、この機会に何かフェンスの耐風強化策はないかとホームセンターをうろついて、直径3センチの白木の丸杭をみつけました。ただ長さが1メートルありこのままでは大ハンマーなど持ち合わせない自分の装備では打込みきれない不安があるため、木工ルームに持ち込んで長さを70センチに詰めてもらいました。
当地の地盤は深く入るほど硬くなるというようなものではなく、地下は水を含んでぐちゃぐちゃというようなものですから、多分杭はあまり長くても意味は薄いと思います。実際に直径3センチの丸棒を打込んでみると結構強い抵抗があり、木ハンで打込むにはぎりぎりの硬さでここに使うには最適な代物でした。フェンスネット(亜鉛引き格子織網)の高さは45センチありますが、カッティングシートの下端までの高さは29センチになりますから、杭の長さ70センチから地上に残す29センチと尖らしてある先端部7センチ程度を差し引くと34センチが打込まれた実効長さということになります。実際これまでのプラ杭に比べれば格段に丈夫で、ステンレス線でネットをこの杭に固定すると、ふらふらしていたフェンスはこれまでとは比較にならないほどしっかりした感じになりました。
85センチ程度で買ってネットの高さ全体を支えたい所ですが、中〜小型のカニがフェンス周りにいつも20〜50匹ほどは居て、フェンス内に入ろう々として杭によじ登ったりもしているのでやむを得ません。通路面のフェンスにこの白木の杭を10本追加設置し、かなり安心できるようになりました。(台風は徳島から紀伊半島を掠めた後太平洋に離れ現実には強度試験は行われませんでしたが、値段が安い割にはかなり有効そうなので、いずれヨシ原側にも5本程度設置しておきたいと考えています。)

頻繁にヨシ原に行っているとタヌキやヘビなどの野生動物と遭遇することもあります。ただ今年は特に作業目的で入る場合が多く、道具類を背負っていてカメラを持ち合わせないことが多く、たとえ持っていても撮影できる態勢に無ければ見過ごさざるを得ません。7月23日の作業中にイトトンボを見ました。昨年も見ていますが滅多に見ることは無く、ウラギクの場所以外では見たことはありません。汽水域で繁殖できるトンボはヒヌマイトトンボだけという誤った思い込みがあったので緊張感が走りました。正体を確かめておく必要があると思い、翌日は作業より撮影重視で臨みイトトンボを待ちました。
イトトンボの撮影はとても難しいものです。大きさは3〜4センチ程度と小さく、本当はマクロで撮影しないと何を撮ったかよく分からない大きさなのですが、照準に手間取っていると見失ってしまいます。従ってとりあえずは並みのズームで撮ることを考えますが、トンボの翅は光を透過してしまいモニタには写りませんから、止まった葉先などをキャッチしてそこを目当てに撮るしかありません。似たような葉が続く場所では、どの葉が本命か見極めている余裕は無く、結局アテカンでバチバチやっておいて、写っていればラッキーというのが実際です。
今回も帰ってから開いてみたところボケた写真が1枚やっと撮れていたという状態でした。ボケてはいるものの、胴体に斑点は無く、尾の先が青いことなどのことは確認できましたから、相手はヒヌマイトトンボではなくアオモンイトトンボ(或いはアジアイトトンボ)らしいと分かりました。 (東京周辺で最も普通に見られるのはアオモンイトトンボで汽水でも平気で繁殖するそうですから正体は多分これでしょう。いつかマクロでいい写真が撮れたら差し替えますが、それまでHPにはNo.67U7として、この7月下旬項の中段の1枚目に載せておきます。)

今当地のウラギクの最大の懸案事項は、領域の中央部1/3程度の株に成長遅れがはっきりしてきたことです。(HPの写真は下段の1番目と2番目に載せています。)
通常7月下旬ともなればウラギクの姿格好が整ってくる時季ですが、このフェンス領域の中央部は一見したところイネ科の何かの種が群生しているかのような印象でここ1ヶ月殆ど変化がありません。川上側造成地のように種蒔したり、川下側に飛んで集積した綿帽子を運んだりした区域とは違い、種子が自然散布されたままの場所で、株が密集し過ぎて成長できなくなっているというのはいかにも不自然に思われます。ただ範囲の広さや場所を見ると液状化の影響を受けたためとも考えにくいところです。
成長遅れの一帯の地下がどうなっているか想像はできません。フェンスの外回りを巡回してフェンスの際に大きな穴を見つけると、外側から掘ってみることことにしていますが、10センチも掘ればヨシだかアイアシだかの地下茎が5,6本は出てきます。(その下を掘っていけばまだあるでしょう。) フェンスを潜って横断しているものは原則として外から引き抜くことにしていますが、長さが1メートル位あって、抜いた途端に先の方でウラギクの株が地盤ごと崩れるというケースも珍しいことではありません。成長遅れの原因は不明ですが、このままではこの一群が開花に至らず地上部が枯れないまま存続することが危惧されます。そうなればこの一帯の世代更新が不確実なものとなり来年に変な不確定要素を持ち越すことになります。
結局もし仮にこのままの状態で成長が見られなければ、正常な株の種子が散布される前のいずれかの時期にこれらの群集を剥ぎ取り地面を露出させる必要が生じることになるでしょう。事実上絶滅してしまった多摩川の系統のウラギクを、人為を尽くして何とか存続を図れないかと始めたことですが、経験の無いこととは言え、まあ自然の側も次々と課題を出してくるものだなァと感心してしまいます。

昨年はウラギクの地上部本体は7月にはもう出来上がっていて、8月はただ只管猛暑に耐え、殆ど変化は無く若干色褪せていくという様子でした。だが今年は8月に成長が遅れた丈の低い密集部分がどれだけ成長できるか、8月が勝負という状況になりました。
今年は昨年とは違い太平洋高気圧が弱く。猛暑日もある一方台風やらゲリラ豪雨やらと雨も多く、7月31日は久々の雨後の訪問となり、大量のカニの出迎えを受けました。何故このフェンスの周りにカニが集まるのか、理由は判りませんが、数百かと思わせるほどの大量のカニに囲まれていて、もしバリアがどこか一箇所でも破られればもう万事休すと思わせます。
こんな所に集まってきても何も得るものは無いと思われます。とすれば考えられることはカニにも縄張りがあって、フェンスで囲った場所が元々彼らの縄張りだったところで、それを取り返しに来ているという可能性ですが、中位のサイズの個体が大半で真偽の程は不明です。
フェンス内にも50匹程度は居るのでしょうが、小さいものがウラギクの中を走り回り素早くてとても捕らえることは出来ません。ただこの程度のことは仕方ないし散見する程度であれば実害はあっても高が知れているだろうと思い放ってあります。数ミリという小さいものは外から来たかも知れませんが、センチサイズのものは元から居たものである可能性が高く、彼らの方も逆にフェンスから外には出られないという制約を課されている訳ですが、それはどういうことになるのだろうかと思ったりします。
カッティングシートは金網が波打ったように撓んだ箇所で下側が剥がれ、中にカニが入り込んだりしていますが、上部がしっかり付いていれば突き抜けることは出来ません。ところが一方で上端の方が剥離し始めている箇所も出てきました。上部が剥がれてくると、雨が浸透して更に剥離が広がり易いし、虫やゴミが入ってバリアの要である平坦性が乱れかねません。上端で剥離が始まっている部分には、薄手のアルミテープを金網の上端を跨ぐような感じで貼り、シートの上端部が露出しないようにバリアの補修を行うようにしました。
カッティングシートは貼った直後には相当良いものがあったなという感じがしていましたが、次第に下から上からと剥離が目立つようになり、何とか今シーズンだけでも持ち堪えて欲しいという気持ちに変わってきました。

(小画像をクリックして下さい。写真用の別ウインドが開きます。左下に「次を見る」の矢印がある限り、クリックによってそれだけの枚数を順次開きます)

[8月初旬〜下旬]

フェンスを張ったのはウラギクが未だ小さかった5月で、通路側については、2月下旬に芽生えが踏みにじられないようにワイヤーを張って仕切り線としていたその内側を目安にフェンスを設置しました。ウラギクは概ねフェンスの内側で成長していきましたが、種子の散布は自然に任せていたのでフェンス外にも当然芽生えたものがあり、4月頃には惜しいように感じた株を移植によってフェンス内に取り込んだりしましたが、その後は他の色々な作業に追われて余裕が無く、フェンス外は基本的には放棄すると決めたため、結果的にあちこちに結構の数のウラギクが残されることになりました。
通路面でカニに曝される株は、根元から幾本にも枝分かれした形に生育すればカニに齧られないことは昨年証明されています。今年通路面に残された株は大半のものが枝分かれタイプに成長しましたが、下手側、上手側のヨシ原近くには単独で茎を真直させた株もありました。特に下手側はフェンスネットの買付け量が不足し、群生の中を遮るようにフェンスを設置せざるを得なかっため、フェンス外の株がカニだらけのフェンスに密接した位置にあり、枝分かれしない真直タイプの茎の株は予想通り喰われてしまって います。昨年までに見慣れた根元の茎が表層を齧られて芯だけになったものが数株、それ以外に通路側も含め齧り倒されたような株も認められました。
川上側にもフェンス外の株は数株ありますが、ヨシの群落がウラギクに迫りヨシがウラギクを囲うような位置にフェンスを設定したため、フェンス外のウラギクはフェンスから幾分離れた場所でヨシに接しカニの姿ををあまり見ない場所に出ています。立派な育ちとは言えない株ですが、今の所こちら側は未だ餌食になっていません。
8月中旬は猛暑の復活日もあれば10月並の気温20度というような日もあって雨にも見舞われました。満潮時は切込水路の落橋した残骸であるアングルは50センチほど水没し、周辺通路がある岸は水を被ります。大潮でウラギク側に渡れない日は通路の除草を行っていますが、ヨシやアイアシだけでなく、細道に群れるセイタカアワダチソウが最大の難物です。茎は草とは思えないほど太く硬く、地面に近い下の方は近寄り難いほど薄汚いものです。

フェンスの強化もこの間少しずつ行ってきていて、白木の杭も通路側で13本全周で22本にまで増やしました。
フェンス内にウラギクの生えていないスペースが何箇所かあり、こういうところではヨシの太い地下茎の端が僅かに覗いていたりします。こういうところを掘ると地下茎は縦に並行して何本もあって、30センチ程度掘っただけではびくともしません。1メートルほどの地下に横茎があってそこから上に伸びてきているのでしょう。地下のヨシを弱体化させることは一貫した方針ですから、このようなところでは、地下茎が掘り出せないからといって放置する訳ではありません。こういう地下茎が地上部から空気を取込んでいる可能性がありますので、可能な限り掘ってなるだけ深い所で切断し埋めなおします。ただしヨシの地下茎との格闘が始まると夢中に成り、後日に極端な疲労を残すことは散々経験済みで、この日は気温が低かったことでついつい罠に嵌ってしまいました。
このところの見回りで気になることは、カッティングシートを貼付けた上端部の剥離が目立つようになってきていることで、大雨がまた来るという予報が気になり、21日は天候は怪しかったのですが補修に出かけました。
剥離が起きている部分の補修(アルミテープによりトップを跨ぐように貼って上端をカバリングする)を行いましたが、途中で俄かに暗くなり雨が落ちてきました。雷雨になれば退避場所もないので、終盤作業を急いで大きな補修箇所を一応了らせ、ずぶぬれになって引き上げました。この二日は自粛レベルを超えてしまい、翌週は案の定体調を崩し回復に4日を要しました。

8月28日は一転して夏日が復活しました。忘れていた暑さ対策を諸々整え、今年の8月はウラギクはどうなったのか、不安と楽しみが半々という気分で、カメラを持ち過労にならないことを肝に銘じて出かけました。

昨年のこの時期はウラギクは既に出来上がっていて、8月は猛暑でやつれ精彩を欠いたという印象の変化だけでしたが、今年はまったく異なり、緑は依然として瑞々しく、枯れた株や黄変した葉を多く抱える株は極く少なく、フェンス内は緑一色で極めて好調さを感じさせる印象でした。
昨年の経験から、カニに曝される場所では、蛸足のように地面すれすれの根元で枝分かれさせた株が生き残り、茎を真直させた格好良い株は茎の根元を全周齧り取られて枯れてしまうことが分かっています。昨年は300株程度でしたから、応急的に全株の茎をプラスティック素材でガードしてカニの悪戯を防御しましたが、今年は総体を金網のフェンスで囲い上部にカニが滑って超えられないシートを貼ってバリアとし、その方式でここまで”カニ害”の防御に成功しています。
フェンスの中のウラギクは真直して見えますが、よく調べてみると枝分かれしてそれぞれが上に向って伸びている株も結構あることが分かりました。さすがに根元で胡坐(あぐら)を掻いたように枝を横に広げている格好のものはありません。枝別れすること自身は先天的な性質として具わっているものと思いますが、地面に張り付くような位置で多くの枝を分岐する独特の格好はこの地の生き方に基づく後天的な変異ではないでしょうか。本来の茎の姿は真直したものと思いますので、カニに喰われないように遺伝子が進化し始めた株が混じり、昨年その種子も混じって散布されましたし、春小さいうちに通路面からフェンス内に移植した株も多く、それらが這い蹲(つくば)るように枝分かれする遺伝子を引継いでいた可能性もあります。いずれにしてもフェンス外で生き残っている株は、非情なようでも今年は開花しても種子を作らせない積もりです。
最大の懸案である成長が遅れた密集部ですが、かなり成長して丈の低い株が密集した領域は狭まったものの、未だその差は歴然で結局どうなるのか予測が付きません。1メートル近くに生育した株ではそろそろ花芽の用意を始めようかという気配まである一方、30センチ程度の低い密集株では葉が未だ若草色を留めるほどの差があります。昨年は一斉に開花しましたが今年は一斉開花は想像しにくいところです。

 
[9月初旬〜下旬]

台風12号は8月の末に小笠原近海に停滞し、そのまま北上するという予報だったため、関東にくるかも知れないと思いました。しかしその後一時西進し、それからゆっくり北上したため四国への上陸となり山陰に抜けるコースをとりました。
ただこの台風は行く手を高気圧に遮られ続け、偏西風にも乗れなかったため何しろ動きが遅く、9月に入った頃には九州を除く日本列島全体に影響を及ぼし続け、特に紀伊半島には大雨や崖崩れにより甚大な被害を与え、幾つものせき止め湖を生じました。9月4日には未だ岡山から鳥取辺りにいましたが、東京ではやっと抜けたという感じで薄日となったため、ウラギクへの影響を確かめるべく、ヨシ原に向かうことにしました。
生憎の小潮で干潮時といえども120センチ程度の水位があり、ヨシ原への水路を渡るための余裕は平時でも20〜30センチしかないところです。腹を括るため先に六郷橋の下へ出て川の様子を確認しました。案の定濁流の流れは尋常ではなく、この速さでは水位は40〜50センチ位は高まっていると感じ、足は潜らなければ渡れないだろうと覚悟しました。道中も相当水がついていて相当悪い予感がありましたが、いざ水路についてみると、大潮の満潮時よりは20センチほど低いものの、冠水したアングルが濁水で見えないほどの増水ぶりで、行こうか戻ろうか一瞬躊躇しました。ただウラギクの様子を確認しないと、フェンスが壊れたりしていれば直さなければならないので、意を決して30センチほど潜り、アングルを足探りする状態で一歩々進み何とか渡りきりました。高さ140〜150センチ程度のところにあるアングルは未だしっかりしているのですが、脇に打込まれている鉄管は朽ちて2.3本を残すのみとなっており、掴み所が乏しくバランスをとることが難しいため通常満潮時は渡らないものときめていますが、こういう場合は仕方なく最大限の注意を払いつつということになります。

フェンス周りは水が捌けておらず、周囲や内部は全体水に浸かっています。ただ泥水を被った痕跡は無く、長く続いた雨水が溜まったまま捌ききれていないのが現状のようです。シートも事前の8月にかなり補修していましたから、この間の強風で特に危うくなった場所はありませんでした。

9月10,11日は夏日がぶり返して暑く、危うく暑さ負けしかねないところでした。
行けば必ずフェンス内のヨシは刈りますが、ヨシ刈りを主要な作業におけば、この頃でも30〜40本程度は容易に発見されます。さすがに太いものはありませんが、丈はウラギクに近いものが結構混在してきます。今年は台風対策という面で当初から密集群落の形成を目指してきましたので、もう一杯に茂ったこの時期ではフェンス内で動き回ればそれだけウラギクを踏み倒してしまうので、ヨシをみつけてもその刈取りは単純ではありません。どこから入ってどういう経路でそこに到達するかをよく検討してから入ります。それでも幾らかの踏みつけは避けられませんから、犠牲を払って入った以上はその周辺に更にヨシが無いかをよく確かめ、届く限りのヨシを刈ってからフェンスを出るようにしています。
中央や主要な領域では直真した茎の株が密集していますが、フェンス際には枝分かれしてひどく乱れた格好の株もあり、多くの枝を出している株では、枯れた枝を有し精彩を欠いた株も目立ちます。あまりに汚い株についてはある程度の剪定を行いますが、こうした株についても開花させるかどうかに迷います。
地表面で蛸足のように多くの枝を分岐し横に這うような格好をした後上に伸びる形がカニに齧られない典型的なスタイルで、事実フェンス外に残された株の多くはそうした格好をしています。フェンス内にあるものの中に何故そのような格好になるものが出てくるのか、変異株がフェンス際に多いことから後天的なものとも思えますが、当地で世代を繰返す内にある程度遺伝子に変化を来たしているものが出てきている可能性もあり、これから開花や種子散布の時期を迎えるに当たって、決断を迫られるテーマです。

9月10,11日は丈の高い成長の良い株では、先端に花芽のような特異な変化が始まっています。12日が中秋の名月に当り、例年中秋の名月から一ヵ月後が開花の目安日になりますから、もうその時期は間近と実感しています。ただ浮かれている訳ではなく、この日もシートの補修が主要な作業でした。フェンス自身の強度は白木の杭を22本まで打った時点でもう腹をくくっていますが、シートは継ぎ接ぎの感じになっていて、常に弱そうなところを見つけては補修を掛けていく必要があります。

10月は開花があり11月は種子の撒布に向けて今年の集大成に入ります。本番は何かと忙しいことが予想されるので9月の連休が続く間に気になる2カ所は見ておこうと思い、17日は殿町と本羽田の視察に出ました。近時体力がめっきり弱くなっていて自信は無かったのですが、幻滅した場所を今更見てどうなるものでもないとは思っても、1年間一度も見なかったでも済まないだろうという気持ちが優先しました。
六郷橋で右岸に渡り大師橋を潜って殿町へ。大仰な看板が2枚、浅瀬には何か採る人が数名。ヨシを探ってウラギクをやっと一箇所にか細いもので4,5本見つけました。花を付けれるかどうか不明なほど貧弱な個体でした。ここは汽水域で唯一まともな自生地でしたが、長年人が荒らすに任せていたためこれで事実上の絶滅状態になったということでしょう。
帰途は大師橋を渡りコーナンに寄って補修材を仕入れ、本羽田1丁目で岸辺に降りました。ここは多摩川の汽水域には珍しく、岸辺に長閑(のどか)な雰囲気があり、地元民にも愛されていた貴重な場所でした。広い干潟にはイセウキヤガラが大群落を形成し、他所では見られない夏の貴重な風物で、干潮時には親子連れが干潟に下りて戯れる姿も見られたものです。今はもう風景は一変し、長閑さは何も感じられず、干潟はヨシが占領し暗く重苦しい雰囲気に蔽われています。護岸もヨシで埋まり通行することさえ出来ません。これが正しく「二次遷移」を放置した場合の自然な成り行きです。

河川事務所の「環管計画」に於ける自然空間とは「自然のまま放置する空間」のことであり、人が手を入れない自然が人や生き物にとって一番良い自然なのだという考えが背後にあります。実際はどうでしょうか。ここで見るように人が感じる良い自然は次々に失われ、植生もヨシ一色に変わって多様性は失われていきます。人が一旦手を付けた自然は、手付かずで長く安定してきた自然とは全く違うのです。都市近郊の二次遷移も手付かずの原生自然も区別が付かない、幼稚な自然観がもたらす矛盾の最たるものが六郷地区にあります。

私にとっては強行軍だった17日の視察の反動が出て18日は寝たきりの状態で、19日にやっとヨシ原に出向き、ウラギクが一斉に蕾を持ったことを確認しました。背丈の低かった領域も精一杯伸びた時点で蕾を持って、高さがマチマチながら一斉開花になると想像できる状況になりました。

台風15号は沖縄近海で一回転した後、急速に勢力を強めながら北東に向かい、9月21日午後2時頃中心気圧950hPaという最大級の勢力で静岡県浜松市に上陸、速度を速め甲府、宇都宮辺りを通って午後10時頃福島県で日本海に抜け東北方面に向かいました。首都圏は風速25メートル以上の暴風雨圏に巻き込まれ、殆どの交通がストップしたことで多くの帰宅困難者を出しました。大田区では3時頃から風雨が強くなり、4時から6時半頃の間は特に強く完全に暴風雨の中に曝された状況でした。
暴風の時間は長く、瞬間の突風のこともあり、5時頃にはヨシ原のウラギクはこれでお仕舞いだろうと覚悟を決めました。ただ唯一の頼りは多摩川の水位がそれほど上がらなかったことで、ひどい洪水にならず、風だけなら密集陣形を築いてフェンスで囲った今年の体制に一縷の望みもあると微かな期待は抱いていました。

23日に応急補修用具を携えてヨシ原に向いました。最悪全滅とか全流出の場合もあり得るという覚悟はしていましたが、河川敷を降りたところから細道に入る場所のボロボロの桟橋が予想外に殆ど損傷を受けていないのを見て意を強くしました。
水路のアングルはヨシ屑で覆われ先ずその除去から始めなければなりませんでしたが、ウラギクのフェンスは無傷で存続し、想定していた範囲の内最上級の結果でした。全体は50センチ程度の深さで泥水を被ったとみえ、下半分は乾いた泥で葉が全て白化していましたが、大半の株では上部が無傷で残ったため問題になるとは思われず、丈の低い一帯で首の下が殆ど白化という状態が懸念されますが、真直状態は堅持しているため当面雨は予想されていないものの耐え切ると判断しました。
詳細に巡回して回ると、ウラギクの茎が折れてしまったものは僅か4、5本程度でした。ただヨシ原側のフェンス内でスペースが少し開いた場所にヨシ屑が集中的に吹付けられた場所があり、ここで10株程度がなぎ倒された様子が認められました。全身白化の状態ですから泥水に押付けられていたのでしょうが、大勢は7分程度まで起き上がっていて、折れてしまった茎は分岐形の中の1本だけでした。
草は個体が危機に瀕すると繁殖行動を速める傾向があるように感じています。蕾は猛烈な数で順調に膨らんできていますが、台風15号がどういう影響を与えたか、見かけ上ではダメージを負ったようには見えませんが、25日にはもう赤味が差してきている蕾があり正常な過程を踏んでいるのかどうか、何とか落ち着いてじっくり進んで欲しいと念じていますが・・・。

フェンス内のカニが大きくなってきたことは嫌な傾向です。ミリサイズだったものが皆1センチ程度になってきて、このところ穴も随分増えました。スペースの明いた場所にはカニの糞が多く目立つようになり、あと1ヶ月程度とは思うものの、どういうことになるのか気がかりではあります。

(小画像をクリックして下さい。写真用の別ウインドが開きます。左下に「次を見る」の矢印がある限り、クリックによってそれだけの枚数を順次開きます)

[10月初旬・中旬・下旬]

中秋の名月(今年は9月12日)から1週間ほど経つと、ウラギクは一斉に蕾を持ちます。ただこの時点での蕾は小さいもので、葉も未だ青々していて開花の雰囲気はありません。実際本格的な開花は中秋の名月からほゞ1ヶ月後に始まります。
蕾が一斉であったように開花もほゞ一斉で、4,5日の間に全ての蕾が開花するのではないかと思わせるような満開期を迎えます。この本核的な開花に先立って、10日位前から小さ目の花がパラパラ咲くようになります。何かを打診しているのか、昆虫に合図でも送っているのではないかと思わせる先行開花ですが、この期間は意外に長く、先行開花が見られるようになってから全体の本格開花が始まるまでは10日ほどを要します。
9月に蕾を持ってから(今年は2度台風の洗礼を受けた)、蕾を膨らませていく過程が進行しますが、10月に入って先行開花が見られるようになる頃には、蕾はかなり大きくなり、やや色付きも始まって、逆に草本体の方は葉も色あせ黄ばんできて、全てを花に託し、種子に繋げて世代を引継いでいくという1年草ならではの思いが見る者に伝わってきます。

9月は台風の影響もあってか、カニバリアのシートに波打ちのような皺が入りだし困惑していました。シートの剥がれはトップさえ補修しておけば裏から突き抜けられることはありませんが、表面の皺を足掛かりに、表面から越えられては手の打ちようがありません。9月末頃は猛烈なカニ群でしたから遂に万策尽きたかという心境でしたが、30日の夏日を境に一時気温が急降下し、11月下旬の気候などと言われたことが幸いしてか、カニは急に減り不安は解消したかに思えました。
ところがその後再び気温が高まり、夏日が続くようになってカニも復活、この時期に遂に上手側で幅30センチほどシートが吹き飛んでしまい、発見するまでの数日間フェンスネットが裸で放置されていたため、大型個体が何匹か入ってしまいました。

今年蕾が一斉に開花したのは10月16日でした。周辺に散開している株を除くと、群集本体の蕾は3〜4日の内に殆どの蕾が開花し、この期間を過ぎると先に咲いた花からすぼみ始めるものも出てくるため、厳密に満開と言える期間はほんの3〜4日程度ということになります。その意味で言えば今年の満開は10月16〜19日辺りでしたが、昨年の記録を見るとこの期間が完全に一致していることが分かりました。
ただこの期間を過ぎてしまうと景観が急速に衰えるということではなく、特に当地ほどの密集した状況では、すぼんでいく花より咲いている花の艶やかさ優り、その後も1週間程度は十分鑑賞に堪える期間が続くといえます。ウラギクの場合には咲き終わった花は枯れてしまうのではなく、花びらこそ萎れ消滅してしまいますが、中央の筒状花の跡には冠毛が密接して伸び、第二幕(綿帽子の展開)に備え暫時すぼんでいるという感じになりますから、咲き終わった花が混在することで全体がそれほど見苦しく見えるようにはならないということも景観の維持に貢献しているでしょう。
これほど広範囲に密集して咲くウラギクを見るのは初めてでしたが、ウラギクの艶やかさを再認識させられました。この辺のウラギクは蕾は濃い紫色をしていますが、咲いた花びらは薄っすら紫掛かってはいるものの殆ど白色に近く、その時点ではカントウヨメナなど他の野菊と変わらない清楚な感じの花です。ただウラギクの場合はこのままで終わることはなく、中央の筒状花が黄色から赤味を帯びた褐色に変わります。更に茎の全体も次第に赤味を帯び、花がすぼむ頃には赤味の濃い赤褐色に変わっていきます。従って満開の後期には離れて見れば花びらの白が勝って見えるものの、近付いて見ればそこにはもう清楚なイメージは無く、むしろ絢爛豪華のイメージを感じさせるように変わっています。
(右に満開時の写真を2段、計21枚載せてあります。この内下段の方の18日に撮っている写真、特に13番から16番辺りのものがウラギクならではの艶やかさを感じさせる写真になります。)

当地のウラギクに携わってから3年目になる今年も無事開花に至りました。昨年は当地でウラギクを育成することの不自然さを知らされた年でしたが、多摩川系統のウラギクの種子を維持するという大義名分の下、なお過酷な風雨に耐えるように規模を拡大し、しかも密集した群落を形成することを目指して取組んできました。偶々2度の台風に見舞われる試練がありましたが、今年の群集で一定程度の風雨には十分耐えて存続し得るという実績も確認できました。
推定で千株はあろうかというウラギクの満開の景観を見て、率直にいろいろやってきたことが報われたという喜びや満足感はありました。 然し思い通りになったことで余計、当事者なればこそ感じてきた”不自然さ”が脳裏を過ぎり、このことは何時までも続けるものではないとはっきり思うようになりました。
遺伝子を残すという大義名分がこの不自然な行為を正当化する根拠足りうるためには、ここで繋いでいく種子を撒布してウラギクが自生していけるような自然な用地が確保されるという確かな展望が無ければなりません。河川事務所の環境管理計画が「生態系保持空間」と称して植生の二次遷移を放置し続けてきた結果、今や左岸の水辺は悉くヨシに制圧されてしまい、現状ではウラギクが自生していけるような場所は無く、往時のウラギクを再生するためには、六郷地区について大規模な自然再生を行いその一環として、かつての浸蝕地を改質するなどの方法によって用地を創出することが前提になります。
自然再生事業は当初の再生工事もさることながら、その後にきちんと監視を行い自然生態系を更に良い方向に導くように整備し続ける努力が遥かに重要であり、そのための体制を整えることが成否を決定付けると言って過言ではありません。六郷地区の自然再生を推進法に則った事業として行うようにもっていけるか否かは未定ながら、いずれにしても自然再生を行う為には地域の多様な主体が連携することは必須要件となります。右岸側の川崎市と異なり多摩川の自然環境に全く関わろうとしない地元大田区を引込むことが大前提になる訳ですが、そのハードルは極めて高く見え、現実的な可能性は限りなくゼロに近いと考えざるを得ません。

満開のウラギクを見て、これまで大義名分としてきたことは単なる夢に過ぎないのではないかと思うようになり、今後の成行きを見て、不自然な行為はそれを正当化するだけの根拠が無いことがはっきりすれば、その段階で人為を撤収し最終的には当地は自然に還し、ウラギクは放棄せざるを得ないという道筋も思い描くようになりました。

左岸の六郷橋から大師橋の間は、自然生態系を再生させる素材としての潜在的な可能性は高く、汽水域ならではの自然公園を作るまでの要素はあると見ています。ただ長く放置されてきたため、現状の荒廃が著しいだけでなく、六郷地区の湿地は人為起源の特殊な生立ちがあって、自然再生を行うとした場合、単純に過去の復元をそっくり目標に出来る訳ではなく、価値ある自然生態系を創出する考えで臨まなければなければならない範囲も多くを占めることになります。
六郷地区は昭和10年代に六郷橋から300メートルほど川下で、左岸側に川幅を200メートル直角に広げるような異常な掘削が行われ、そこから六郷水門までの縮減された高水敷に低水護岸が作りなおされました。この掘削が極めて不自然な形で行われたため、その後掘削位置から上手側の六郷橋までの間は浸蝕されてボロボロに流出する一方、下手側にはデッドスペースに土砂が沈積し、掘削の際残された鉄塔島からも堆積も広がってヨシ原が形成され、流れに沿う旧沿岸部一帯には堆積によって新たな川岸の復元が図られていきました。流路に沿う堆積の発達によって本流から遮られることになった護岸側の水域が次第に浅瀬化し、六郷水門側のみで本流と繋がる潟湖型の塩沼地となって現在に至っているのが六郷地区と呼ばれる区域です。
(六郷地区の湿地の起源となった異常掘削やその後の浸蝕、堆積などの変遷過程を主に空中写真で見たものを以下のページに載せてあります。  六郷橋緑地先湿地の形成過程

六郷地区の自然再生は、洪水による土砂の堆積によって埋まってしまい泥沼化している西側領域で、ヨシ原から護岸までを覆いつくしているヨシを掘削除去して干潟を再生することが眼目ですが、塩沼地として復元する範囲を本流からの切込水路が残る位置に届く領域まで行えば、上手側にも本流との交流口が出来ることになり、六郷水門水路からこの切込水路までの塩沼地全体に、常時本流との還流が生じるようになり、泥沼状態にあるヨシを大胆に掘削除去し負荷を軽減することと相俟って、現在護岸からヨシ原一帯を覆う著しい嫌気状態が大きく改善される期待が持てるようになります。

ヨシを根茎もろともに除去するためには深さ5メートルは掘削する必要があるそうで(当然埋め戻しが必要になる)、泥沼化している西側領域のみならず、六郷水門からほゞ全域に亘ってヨシが点々と護岸(一部では高水敷にまで)に及んでいる現況を考えれば、再生工事は河川敷を巻き込んだ大工事にならざるを得ないと推測されます。
自然再生では塩沼地の復元領域だけではなく、切込水路から六郷橋までの間(旧浸蝕地)も同時にヨシ類を根茎から除去し地質改良しなければなりませんが、切込水路位置から本流に沿う幅50〜100メートル程度はヨシ原や塩沼地と縁を切るために河川敷のレベルで完全陸化を図る必要があり、その後の六郷橋までの200〜300メートル程度の間を、例えばウラギクを自生させる用地に適用させる可能性が生まれます。(往時のウラギクもこの旧浸蝕地一帯が主要部であったと思われる) 湿性植物を適用させるためには地盤を河川敷からは幾らか切下げる必要がありますが、ウラギクやシオクグなどの場合には満潮時にぎりぎり冠水する程度の高さでよく、石垣造りの現在の護岸は存続させられます。
六郷地区ではウラギクだけでなく、イセウキヤガラやシオクグなどカヤツリグサの系統も拡張するヨシによって潰されてきました。ヒメガマやフトイなどもヨシの圧迫を受けはじめており、自然再生ではヨシとヨシ以外の植物種を如何にして住み分けさせるかは重要なテーマの一つです。(当初住み分けさせても必ずヨシが感染してきますから、監視を怠らず感染を早期に発見して除去する体制の構築は重要です) 又干潟の再生には植生だけでなく野鳥類や魚介類、昆虫類など多様な生物種が関わりますから、再生プランの青写真は多方面の専門家を加えたメンバー構成で最適なものを描く必要があると思います。

対岸になる川崎市は環境局緑政部に多摩川施策推進課を設置「多摩川プラン」を策定し、プランの推進拠点として二ヶ領せせらぎ館を開館(現状では水辺の学校は3校を誘致している)、重点エリアを設定しNPO法人多摩川エコミュージアムと官民協働で様々な活動を行い市民参加の川作りを進めています。 他方大田区は河川敷を広く占有しまくって、各種のグランドや区民広場などを運営してはいるものの、その全てがあくまで空地の有効利用に過ぎません。むしろ水辺には近付かない姿勢を徹底し、川の環境に関係する物事からは完全に引いてしまっています。多摩川流域リバーミュージアムを提唱している京浜河川事務所としては、1河川の両岸で川に対する取り組み姿勢がこのようにアンバランスであることは好ましくないという思いを明確に打ち出すべきでしょう。

3年間ヨシ原のウラギクの面倒を見てきたのは、我が家から近いという地の利があって続けてこられた面が大きいのですが、ヨシ原内の往復通路には危険な箇所があり、満潮時にはヨシ原に渡れないなどの制約もあります。当地のウラギクを継続するための目下最大の懸案は、切込水路を安全に渡れるように改善してもらえるか、桟橋の腐った板は交換してもらえるかどうかなどに関わっています。(改善を要請していますが、こうした負担軽減をして貰えるかどうかは継続の可否に関わる重要な要素です。)
今年、ウラギクに関して費やした私のエネルギー配分は、大雑把に言えば、ヨシの地上部を徹底的に刈取るのに1/3、カニの侵入を遮断する為の工作や補修に1/3、現地を往復する通路やウラギク周りの除草に1/3という感じでした。通行に危険が伴う以外にもいろいろ難しい問題を克服しながら行ってきたのが実情で、資材や道具類に掛かる費用もばかにならない金額でした。 あの地は地上こそ刈っていますが地下はヨシの根茎が縦横に走り、初夏のヨシの芽生えは猛烈な数と勢いで、放置すれば直にウラギクは覆われてしまいます。この地に特異なカニ対策の必要性があるのも通常ウラギクが存在しないような環境で無理をしている証左に外なりません。(通常ウラギクはシオクグなどと混生し、雑食性のクロベンケイガニが地面を自由に歩き回るようなような場所には生えていません)
自然に抗してウラギクを維持することが如何に大変なことであるかは3年やってみてよく分かりました。(この地で人為を解けばウラギクが消滅するのに数年は要しないでしょう。) ダラダラ続けていくような対象でないことはもうはっきりしていて、当地に換わる自生地について何の展望も無ければ、(仮に通行が改善されたとしても) 当地のウラギクを継続するための動機付けの部分が持続しません。ただ六郷地区については自然再生の話が無い訳ではなく、これが将来ビジョンに繋がる方向に進むのか、消滅してしまうのか、あと1年は種子を繋ぐ努力を継続し、その様子を見届けようという気持ちまで失ってしまった訳ではありません。
京浜河川事務所が本気で協議会を立ち上げる方針であれば(法に則って実施されている自然再生事業には霞ヶ浦の例など河川事務所が実施主体になっているケースもある)、法第4条により大田区には必要な協力をしなければならない責務が生じると思いますが、そうした形になる前に河川事務所には指導性を発揮してもらい、大田区を多摩川の環境問題に引き出す努力を求めたいと思います。あと1年というのは実際にはその推移を見守る期間ということになるでしょう。

 
[11月中旬・下旬]

10月下旬から11月中旬に掛けてはウラギクにとっては種の熟成期間で外見上大きな変化は見られません。
だが私の方はこの時期の土日はフェンスの補修で結構忙しい状態でした。カッティングシートは屋外用で4年は持つという触れ込みでしたが、実際にはこの頃もう耐候性に限界が感じられ劣化が問題になってきていました。特にフェンスの西側区間(川上側)で何かと問題が起きました。10月下旬には先にシートが30センチほどの幅で千切れフェンスの金網がむき出し状態となった場所の近傍で、又剥離が生じ大型のカニに入られてしまいました。ただカニは常に東側に多く集中し西側には少ないことが幸いし、フェンスの金網が剥きだしで何日間か無防備だった間に入った個体数は案外少なかったと思われます。
そういえば昨年も種子撒布の終盤時期に突風のような猛烈な西風が吹いて、残っていた綿帽子を一掃し綿毛が下手側に大量に降り積もったことがありました。上手側に用地を拡大していて、当然そこにも種子は飛んできていたと思われますが、下手側に降り積もった綿毛があまりに多かったので、ヨシ屑ごと上手側に運んで撒いたことを思い出しました。この地は強い風が吹く場合には必ず西風のようで、フェンスは応急処置後もこの西端で何度も修復を要しました。
然し11月初旬のある日、カニがカッティングシートのある所でフェンスを乗越えていくところを目撃してショックを受けました。9月頃からカッティングシートに横皺が入りだしていたことは分かっていましたが、皺は日を追って深くなり上下が折り重なるように段を生じるまでになっていました。カニはこの折り重なった皺に足を掛けフェンスを乗越えていたのです。

カニとは半年向き合ってきましたが、彼らは実によく学習するし工夫もすると感心していましたが、遂にやられたかという点では無念な思いがありました。もう入られても実害は無い時期だし・・というこちらの気の緩みもあって、この間何かと弱点を突かれ、大型の個体が多分数十匹程度は入ってしまったと思います。ウラギクが密集している中で捕らえることなど到底出来ません。入った方はもう出られない訳ですから、中で冬眠することになるのでしょう。
カニが入ってからあちこち穴を掘られるようになりました。カニの存在がヨシの地下茎を利すると聞いていますが、それ以外にはカニが入ったことが今後どういう意味を持ってくるのか何とも分かりません。

11月中旬には偶然この西端で泥濘(ぬかるみ)に滑り、よろけてフェンスの上に倒れてしまいました。プラスティックの杭2本が折れ、フェンスはゆがんで支持を失い危うくなりました。この時期は”もうあと1年きり”という気持ちが強くなっていた時期ですが、このままという訳にもいかず、とかく弱点が目立つこの西端区間を白木の杭3本によって補強し修復を行いました。

種子の撒布は花に比べれば遥かに長い期間を掛けて行われます。花満開の時期から1ヵ月後にはほゞ全面で綿帽子が出来撒布が始まっていますが、種子の撒布は通常12月中旬まで続きます。
11月中旬から下旬頃の綿帽子の写真には、一般の花の萼(がく)にあたる総苞片(そうほうへん)が未だ冠毛を閉じているものから、総苞片が裂け冠毛が球状展開した綿帽子、更に種子が飛んでしまって花床に総苞片だけが残され痕跡になったものと3段階のものが写ります。花は同時に咲いているように見えた株でも、綿帽子は同時ではなくあるものを意図的に遅らせる工夫が働いているように思われます。

綿帽子といえばタンポポのものを見慣れていますが、タンポポの綿帽子は冠毛が先で複数に分岐して直角に展開し球状の表面を形成します。種子が飛んでいくのもタケコプターの羽を増やしたような格好をしているでしょう。然し一般には例えばノゲシなどの綿帽子もウラギクと同じように冠毛が放射状に展開しただけのもので、種子は綿毛を何本か付けただけの羽根突きの羽のような格好で飛んでいきます。ノゲシは綿毛が細く密で綿の印象そのものですが、ウラギクの冠毛は幾らか太く綿帽子も端正なものは少なく、乱れて野生的なものが多い特徴があります。

花で言えば満開に当たる綿帽子の最盛期は11月下旬でした。種子の数は少なくとも数十万はあるでしょう。フェンスの中は綿毛が降り積もり、北側フェンス近くは降り積もった綿毛が10センチほどになり、雨が降ってこれが地面に染み付くと、その上に又次の綿毛が降り積もっていくという状態で、これが皆芽生えたら一体どういうことになるのか、自然に間引かれる機構が働かなければ全部が育つということは地の栄養などの面で有り得ないと思われます。
今年はフェンスがあり、その中はほゞ全域に密集した枯親が残ります。こんな条件で芽生えはどのように行われるのか、少なくとも厳冬の間は昨年のように吹き曝しの厳しさは緩和されるでしょうが、日照を必要とする段階では密集した親の遺骸は逆に弊害になります。然し親の枯茎には根も付いていますから、下手に抜けば新しく芽生えた方も地崩れして抜けてしまいます。一方ヨシはどう出てくるのか、全ては始めての経験で何がどうなるのか想像も付きません。

 

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[12月初旬・中旬・下旬]

12月4日、ある程度の予感はあったのですが、北側フェンス沿いの中央部でウラギクの新世代の芽吹きが始まっていました。未だ綿帽子が多く残る状況の中で、地面に降り積もった綿毛を吹き飛ばすと、その下にもう緑色の芽生えが広がっていたのです。10日前にはありませんでしたから、この10日間の内の出来事です。更に12月10日には南側や西側フェンスの際にも芽生えが見られ、南面の東端近くではフェンス外でもフェンス際に芽生えを見つけました。
この間寒波の襲来もあり、さすがに12月に入ってからはもうカニの気配は全く感じませんが、フェンスの中にやたらに穴が目立つようになりました。来年カニバリアをどうするか何も決めていませんが、シートの剥離部などを放置していると、どんどん広がってしまいますので、来年使えるかどうかも定まらないまま、12月もシートの補修作業に追われました。
カッティングシートは場所によってはもう柔軟性を失ったパリパリの状態いなっていて、うっかり皺伸ばしを行おうとすると却って大きな亀裂が入って破損してしまいかねません。多くの場所で2段ほどの深い横皺が入ってしまっただけでなく、シートが収縮するのか横に引っ張られる力も働くようで、繋いだ箇所などで下端側から真上に向って割けてしまう症状も出てくるようになりました。いずれもアルミテープで応急補修を行っていますが、このテープは屋外用ではなく、古いものから劣化してボロボロになってくる状態です。
フェンスの金網は地表から数センチの高さまでが赤錆状態で腐食しています。おそらく大潮の満潮時に決まってそこまで水没しているということなのではないでしょうか。驚くべきことに北側のフェンスではその辺りの金網の小さな穴に芽生えが出てきている場所が数箇所もあったことです。こんな狭い穴に茎を通しても成長することは考えられませんが、何せ夥しい量の種子が飛んでいるため、至る所で種子の芽生えが見られます。
芽生えは北側から始まりましたが、次第に南側や東西の両端近辺や、フェンス沿いのフェンス外にも芽生えは広がり、12月末の時点では通路の半分くらいまでの範囲に芽生えの気配が感じられるまでになりました。
12月末には本体の大半は既に枯れた状態でしたが、相変わらずかなりの綿帽子も残っていて、綿帽子が越年するという初めて見る光景になりました。さすがに既に芽生えが密集している上に降った綿毛(種子)はどうにもならない様子ですが、やがてはどこかに散っていくでしょう。とにかく2012年はフェンスを中心としながらも、相当広範囲にウラギクが広がる状態が生まれそうな気がいます。ただそれがそのまま開花まで成長しきるか否かは不明で、春から夏がどんなことになるのか又初めての経験をすることになるでしょう。


 
多摩川は多摩川大橋を過ぎると右折し、直に六郷橋の手前で今度は左折します。従ってここでは流路は半円状の特徴的な形をしていますが、洪水時には大きな慣性力が働くため常に外側が攻められて削られ、半円形は年々強調され深くなってこぶのようになっていきます。 (但しここでの左折については家康がしたことと考える説があります。中世までの川はここでは直進し、後に出来た川崎宿の背後を回るような形で流れていたという南流説があります。左折せず「尻手」の方向に直進すると「南河原」という地名が残っている、北条氏の時代の分限帳に「江戸川崎」と書かれている、「六郷川」という呼称は江戸時代以前には使われていない、明治時代まで川崎側に「八幡塚」の飛び地があった、川崎側に流路があった痕跡が数々ある、等々を根拠にしています。実際この辺りは多摩川の三角州平野ですから一面に高低差は殆ど無く、大洪水の度に氾濫していたような地域で、まともな堤防が無かった時代に不自然な形の流路が長続きするはずはなく、もしこのようなこぶ状水路が古くからあったとしたら、とっくに短絡路が出来ていたはずだとは考えられます。)
半円のほゞ中心部に六郷の渡しがありました。近世の初期には流路は北野天神(今は左岸堤防の川裏になる)のすぐ前を流れていたと言われていますが、川がここで左旋回しているため、江戸時代の間に洪水によって右岸の川崎側が3百メートル余り抉られ、渡し場の周辺にあった舟場町は最終的には消滅を余儀なくされ、逆に左岸の六郷側には大きな平地が形成されるようになりました。
半円のほゞ中心部に六郷の渡しがありました。近世の初期には流路は北野天神(今は左岸堤防の川裏になる)のすぐ前を流れていたと言われていますが、川がここで左旋回していたため、江戸時代の間に洪水によって右岸の川崎側が3百メートル程抉られ、渡し場の周辺にあった河原町は最終的には消滅を余儀なくされ、逆に左岸の六郷側には大きな平地が形成されるようになりました。この左岸側の大きな緑地は、上手側からJRまでの「多摩川緑地」はかつてゴルフ場になっていたため、川岸に球止めの土手が作られ雲竜柳などが植えられたりしたままで、岸辺には特段の魅力はありません。一方六郷橋から下手側の「六郷橋緑地」は戦時中の異常掘削により幅が半減させられましたが、河川敷は親水部までが平坦で、しかも本流は堆積地で遮られるようになったため河川敷は穏やかな塩沼地に接し、絶好な親水公園の条件が整っています。(汽水域でも沼部辺りまで遡ると高水敷と低水路は4メートルほどの高低差になり、親水部は崖状になって水辺に寝転ぶような条件にはなりません。)

東京都下水道局が「六郷橋緑地」のほゞ中央部の川裏に「雑色ポンプ所」を作った時、稼動させるに当たって、目前の湿地環境の保全に配慮し、排水路を六郷水門水路まで暗渠にして河川敷に埋める工事をした際、(多分河川事務所が)同時に護岸を改修し小石をネットに詰めたマット状の素材で素朴な護岸に作り換えました。平成3年の工事明けの年からしばらく、護岸と塩沼地のヒメガマ群落の間の水路にはバンの幼鳥が泳ぎ、フトイの周辺の干潟にはトビハゼが活動するなど、岸辺の周辺は人も生物も長閑な環境でした。塩沼地は六郷橋側が早くに埋まって六郷水門側でのみ本流と繋がる潟湖型になっていたため、雑色ポンプ所から上手側(塩沼地の西側)は既に土砂の堆積が進んでヨシ原からヨシが張り出してくる傾向にあり、更に奥の方は干潟が半ば埋まった状態でひどく嫌気化し、泥沼のような状況で一面汚いヨシに覆われるなど、六郷地区の環境は西側では劣化が進んでいましたが、少なくとも雑色ポンプ所の上手辺りから川下側へ六郷水門までの区間は気持ちよく住民が憩える貴重な親水空間がありました。然しその親水公園のような気持ちの良い環境があったのは束の間のことでした。
河川敷は大田区が占有しグランドや緑地公園を運営していて、地面は芝やクローバーになっていますが、岸辺の一帯は河川事務所の管轄になっていて、何の管理も行われず放置されてきたため、オギやセイタカアワダチソウなどの様々な外来種が跋扈して年々踏み込むことさえ出来ないひどい荒地と化し、湿地の植物を隔てる水路はあちこちで堆積地のヨシ群落から飛んできたヨシが定着して塞がれてしまい、岸辺の全体は荒廃の極みという状況になっています。

六郷橋緑地の貴重な親水部を荒地化させ、湿地の環境も劣化させるに任せている不作為の状況を河川事務所がどう考えているのか、「多摩川の自然を守る会」の機関紙10月号に河川環境課に対する質問として投稿してみました。
過去の例からするとまともな回答は期待しにくいと会の代表から聞いてはいましたが、回答文は想像以上に内容の無い一般論と建前の羅列でした(11月号に回答の全文が載っています)。敢えてこの回答文から汲み取って翻訳するならば、「河川事務所が除草するのは堤防のみであって、元々高水敷を刈ることはしないのだよ」という説明になるでしょうか。

この回答文を見て、河川事務所が個別の課題については何も知らないのだという現実を今更ながら知らされました。所長をはじめ、環境課長、職員など彼らは全て転属が常態ですから、京浜には精々2,3年しか居ない訳で、おそらく何の引継ぎも受けず何も知らないまま又何も残さずに去っていくのです。個別の質問には答えようが無いのでしょう。

六郷橋緑地の岸辺の雑草帯は、六郷水門から上手に進むと雑色ポンプ所の手前で急に幅を増すようにされていて、このことだけでも何らかの意図を伺わせます。拡大した荒地の中に「この辺りで草を刈るな」を第一項とする看板が立てられています。恰も希少種か何かがあるかのような印象を受けますが、辺りは外来雑草の藪になっていて、貴重な植物が仮に有ったとしたらそれこそ大変でしょう。そんな状況ではない荒地化した雑草の中に埋没するように看板を立て続けている偽装的な現実には空しさを禁じ得ません。
平成3年に親水公園のような貴重な環境を作ったとき、河川事務所には岸辺だけにとどまらず湿地側の自然生態系の保全などにも関わる何らかの意図があったはずです。ただ誤った自然観が災いして意図は実現せず、結果的に現在の荒廃状況を現出するに至ってしまったのでしょう。
河川事務所は六郷地区の自然再生の素案を作るに際しコンサルティング会社に委託した気配があり、彼らが岸辺の雑草帯をバッファーゾーンと記載していたため、(何の意図かも分からないまま)私もその呼称を使いました。10月号でバッファーゾーンについて質問した時点では、雑色ポンプ所の排水暗渠を埋める河川敷工事の際、護岸まで作り直して親水公園のような体裁を整えた、その意図と背後にあった自然観の片鱗でも読み取れたら・・・と思ったのですが、何代も経った今単に「河川事務所は高水敷の雑草まで刈ることはない」という無味乾燥な建前だけが述べられ、具体的に聞いている質問にはかすりもしない開き直ったようにさえ感じられる回答でした。

転属を前提に着任している彼らが、何も知らないのはある程度仕方ないとしても、そのために活動の指針として「多摩川水系河川整備基本方針」が出来ているのではないでしょうか。そこには「人と川とのふれあいを増進させるため、高齢化社会にも配慮し、水辺に近づきやすく、また、水にふれあい、和めるよう水質改善や親水空間の整備などを関係機関等と一体になって取り組む」という一文があります。六郷橋緑地の一帯にあった絶好の岸辺をひどい荒地に変えてしまったのが、単に「河川事務所は高水敷まで草刈はしない」という建前による不作為であるならば、「河川整備基本方針」は空文化しているも同然ということになります。何のための基本方針なのでしょうか。

六郷橋緑地の先になる南六郷1丁目の護岸は六郷橋緑地に先だってマット状に改修されていますが高水敷の雑草は刈られません。そこに引き続く本羽田1丁目は、前面が蛇行水路時代の名残として大きな干潟が出来ていて、夏場はイセウキヤガラの大群落が眺められ、冬場は様々な野鳥を見ることが出来、この辺りの親水空間は景観も優れ他に類を見ない貴重な環境でしたが、放置され続けている内にイセウキヤガラはヨシに蹂躙され群落は今断末魔を迎えています。
ヨシは岸辺にも上がりこみ湿地の環境はめちゃくちゃになってしまいました。ここで大きなイセウキヤガラの群落を失ったことで、多摩川の汽水域の水辺の植生は遂にヨシだけになってしまったと言って過言ではありません。(ヨシ以外では六郷地区に僅かにヒメガマの群落が残っている程度) 河川環境課は植生の多様性の保全や重要な親水空間の確保については無為無策だったといって憚りません。一体何を考えて仕事をしているのでしょうか。

平成18年12月「(財)河川環境管理財団」から「多摩川における生態系保持空間の管理保全方策について」というレポートが出て、後半は河口域を対象にした内容になっていました。然し執筆者は六郷地区が殿町など他の河口干潟とは異なる異常な生立ちを有していることは全く知らないようで、周辺環境の置かれた状況を広く把握して自然再生の方向を見出そうとする思考はなく、ヨシ原を保全するための一般の管理手法を延々と述べ、ヨシの夏枯れ対策を六郷で試みるよう提言してレポートを終えていました。
河川事務所は早速コンサルティング会社を使い、小型の重機を持ち込んで雑色ポンプ所の上手で嫌気条件下のヨシ群集を一部掘削したりしましたが、掘った泥で干潟の岸側を埋め立てたり、ヨシをあちこちに撒き散らすなどで、湿地の混沌に輪を掛け、干潟の消滅傾向を促進するだけの惨憺たる結果でした。現在の六郷地区の自然再生プランの素案は、同じコンサルティング会社が関与していますが、環境の一要素に過ぎないヨシだけに目を奪われ、自然再生という、より上位の視点を欠いた前非を反省したとみえ、嫌気条件下にまで広がった不健全なヨシは、助けるのではなく根茎まで完全に掘削除去して干潟環境の全体を再生すべきだと変わったのは、その部分に限っては進歩だったと評価されます。が、環境に関して一番良く知っているのは長年その近辺に暮らしている住民です。河川事務所は初めから学者やコンサルティング会社を頼るのではなく、先ずは関連する自治体やNPOに住民を加えた拡大流域協議会のようなものを立ち上げ、そこに問題を提起して基本的な事項を整理するような手順を踏んでいれば、六郷地区でもこのような無駄な回り道をすることは無かったでしょう。専門性を問われる段階に入った場合に初めてしかるべきスタッフを頼みにするのが順序だと思います。
学者には専門がありますし環境問題に熱意があって見識も高い学者がいる一方、環境問題には何の関心も無く権威を振り回すだけの不適任な学者だっているかも知れません。人選を誤れば委員会が機能せず物事が進まなくなることは十分あり得ることで、あれもこれもお願いしていますという形式的なことでなく、それぞれに議論の中身や進捗状況を開示していく位の気概をもって進めてほしいものです。


2010年末のウラギクの芽生えから始まったこの2011年のウラギク特集は、今回新たな芽生えを確認したことで一巡したことになり、これをもって一応終了と致します。このページの本文は概ね、「多摩川の自然を守る会」の機関紙「川のしんぶん」に寄稿したものの転載ですが、このページはその本文に逐次付随した関連写真を付けていくことで、この1年間の活動やウラギクの推移を記録として残す意味で制作したものです。


2012年の当地はウラギクの範囲が一層拡大され、秋には無事これまでにない最大規模で満開を迎えました。同時にこの年には多くの新たな発見があり、保全活動の様相も一変することになりました。然し色々な事情から、この年を限りに、従来のような自立支援の形での保全活動は打ち切り、当地から撤収することを決断するに至りました。2013年は当地が自然に復していくのを見守りながら、古い場所から順次ヨシが混然としてくるような状況になる中で、新たに広がった場所での発育が良く、有終の美を飾れるような気配でした。ところが、かつて無かったような大きな株群が蕾を持った9月の中旬に、想定し得なかった事態が発生して強制終了を余儀なくされ、有終の美を見ることなく、敢え無く終わってしまうことになりました。当地が自然に復していく段階を見ることも叶わない形で、多摩川からウラギクは完全に消滅してしまうこととなりました。
2012,2013年の推移は全て記録してあり、「川のしんぶん」には逐一その経過を寄稿してきましたが、このホームページに新たなページを作ることは多大の労力を要するため、現時点では作業に取掛かってはいませんが、いずれ時間に余裕が出来れば、2012年の最盛期の様子と、2013年の推移、終焉に至る経過を合わせて紹介する新たなページを作る積りです。



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