第ニ部 ガス橋周辺 

  その3 ピンクのサクラとガス橋

ガス橋の桜並木はガス橋の川上側、丸子橋とガス橋の中間からガス橋に掛けての、多摩川左岸に展開する。ガス橋を渡った右岸の川下側河川敷に、ソメイヨシノとは違い、もっと赤い花を咲かせるサクラの小木が3本ある。

赤い桜で有名なのは寒緋桜(カンヒザクラ) といい、花弁が紡錘形までしか開かない特徴的な花をつける。寒緋桜に低木の豆桜を交配して作られたとされる「オカメ」という種類のサクラがある。図鑑によれば、オカメは庭木になる程度の大きさにしかならず、花は寒緋桜とは異なり、下向き傾向ながらも花弁が開ききると記されている。名前の由来は知らないが、何でも英国人の桜愛好家が作出したものということである。
ネット上でオカメとされているサクラの写真を探してみると、たいてい花芯が赤くなっていてこの桜とは花が違う。その他では資料はあまりないが、自然変異株とされる「染井紅」というのが、オシベが黄色で図鑑で見る限りではこれと最もよく似ている。「染井紅」が「染井吉野」の変異種という意味なのかどうかは分からなかった。

里桜と呼ばれる一般の園芸種(栽培種)は、成長しても庭木程度の大きさで止まり、大木にならないものが多いらしい。このピンクの桜も外見上大きくなりそうな雰囲気は感じられない。ソメイヨシノは例外的に大木化するが雑種とみなすのが通説で、野生種のエドヒガンを父種とし、オオシマザクラを母種とした交配により生まれたとする説が有力である。
ソメイヨシノの若芽に先立って花が咲く特徴は、エドヒガンの特徴を引継いだもので、花が大きいのはオオシマザクラの特徴といえる。ソメイヨシノの古木の樹皮は、縦裂が目立つようになって醜いが、この点もエドヒガンの血筋ということになる。(オオシマザクラも長寿だそうだが)エドヒガンは千年は楽に生きるようなので、ソメイヨシノがエドヒガンの遺伝子を強く引いていれば、世界中のソメイヨシノは当分安泰だ。

自家不和合性のソメイヨシノは台木に接ぎ木して苗を育てる。ただ人の常として、エドヒガンとオオシマザクラを交配させて、ソメイヨシノの第二の原木を作ろうとした人は結構居たことだろう。もし第二のソメイヨシノの作出に成功すれば、現木との間で交配が可能となり、実生(みしょう)の苗を得ることも出来るようになる。それがどうしたと言われてしまえば身も蓋もないが、本職・趣味人を問わずこの試みは繰返されてきたはずだ。
想像でものを言って申し訳ないが、結局第二のソメイヨシノは作られず、その代わりに数多(あまた)の似て非なる新種が作られたのではないだろうか。それが雑種の雑種たる所以(ゆえん)であり、もし仮に第二のソメイヨシノ(モドキ)が得られたとしても、それと現木との交配が又ソメイヨシノを生み出すことは保証されない。

偶然の交配で出来た雑種が生き延び、繁栄する(種のレベルにまで遺伝子が純化される)ためには、在来種より生存に適した何か強みを備えていなければならない。在来種は自然淘汰をくぐり抜けて来たという実績があり、偶然種が在来種に勝つのは、その時偶々(たまたま)環境が激変し、偶然種の方が新しい環境に対しより適性を持っていた、というような追い風に乗った場合に限られる。
生物が地上で進化を始めたのは4億年余り前。その後何度か環境の激変期があり、その時期生物種は大規模に革新された。いつの時代も雑種は頻繁に作られているだろうが、平時ではそれが新種として生き延びる可能性は皆無に近い。然し「人為」がそれまでの原則を変えた。在来種を絶滅させる一方、偶然種を保護したり、新種を作ったりしてきた。

世代期間が短い種についての品種改良は、親を限定して交配させ、次世代の中から望む形質を発現した個体を選別し、これを親にしてまた交配を繰返すという方法で行われる。
一方桜のように寿命が長くクローン再生が容易な樹木では、雑種一代限りの特異な形質であっても、(それを好ましいと思えば) そのままを増殖させ、半永久的に愉しむことが出来る。ソメイヨシノはまさにそうした事例の代表といえる。
自然界では疾(と)うの昔に亡びていた筈の個体が、伊藤伊兵衛に見初められて生き延び、毎年春になれば決して実を結ぶことのない花を一斉に咲かせる。ソメイヨシノの散る姿は、儚(はかな)さの象徴とされるが、大辞林によれば「はかない」は「何のかいもない」という意味でも使われ、その場合の「はかない」は「果無い」と書く。

[No.236][No.237][No.238] は一転して、左岸の下流側からガス橋を遠望している。
丸子地区の品鶴線橋梁下手から、ガス橋を通り、多摩川大橋にいたる左岸側は、(矢口橋の近辺を除き)露骨な低水護岸は認められない。(少なくとも近年施工されたと思しき気配は感じられない。)
ガス橋の下手のこの辺りでは、沿岸から幅10メートル程度が荒地となり、多様な雑草が繁茂する環境になっている。低水路の縁はかなりの段差になっているが、この段差が維持されているのは、植生による締め付け効果が大きいだろうと思われる。水際は抜きん出てヨシが多い。
整地された河川敷と澪筋側の荒地との境界に、岸の見えない「岸辺の散策路」が作られている。手が入らないと散策路は雑草で覆い被されてしまうが、大規模な草刈時にはヨシも刈られ、荒地は丸裸にされてしまう...。
などと思っていたら、そういうことではなく、この区域に大規模な護岸工事が施される前兆だった。河川敷に波消ブロックの型枠が運び込まれ(50あるのか100あるのか数え切れない)、コンクリートミキサー車が入り込んで、現場生産を始めた。

多摩川大橋とガス橋の間の左岸(多摩川大橋寄り)は、2003年度の渇水期工事により大規模な護岸改修が施された。特に矢口橋から下手の河川敷では、従来の慣行であった護岸縁に雑草雑木帯を残す方式が取り止めになり、河川敷は低水護岸までが一体のすっきりした整地構造になった。(実際そうなったのは数年で、その後やはり護岸側は雑草雑木帯に戻った。)
従来(その意図は知らないが)、岸辺の散策路から低水護岸先までの狭い範囲は、除草などの手を入れない自然状態に放置されている。そこでは野草(帰化植物)が覇権を争い、オニグルミ、ヤナギ、トウネズミモチなどの立木も生育している。矢口橋近辺でこの構造を廃したことは、今後水際の管理方針を変更する姿勢を示すものだろうか。
水際にヨシなどを繁茂させることは、水質浄化に一定の役割を持つだろうが、群落を作らない程度では高が知れている。むしろ水際を荒れたままに放置していることが、ホームレスの進出を誘発し河川環境を悪化させていることは否定できない。
2004年度の渇水期には、多摩川大橋の川上側で護岸工事が行われる。当該区域の低水護岸は比較的新しく、何故改修するのか不明だが、どのように整備されるのかによって、今後の水際管理方針を窺い知ることが出来るように思う。

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)
 
(改架前のガス橋、リヤカーが通れる程度の人道部)

 
一般に架橋工事などの河川工事は、数ヶ月で終えられる工程は渇水期(冬季)に実施される。ただし六郷川は全域が「感潮域」に属するので、渇水期という表現は適切ではないかもしれない。感潮域の渇水期とは、「平常時を超えた増水が起きない時期」という意味に解釈すればよいだろう。(なお2004年12月5日、時期外れの台風27号を台湾で引継いだ低気圧が異常に発達して日本列島を襲った。東京では未明の4時頃から明け方まで暴風雨に曝され、瞬間最大風速は40メートルに達した。)

昭和前期までのガス橋は上に参考掲示したような、人道橋兼用とは言え、人が通れる幅はリヤカーや乳母車が通れる程度のものだった。これが本格的な車道を備えた橋に改架されたのは昭和35年のことである。
左のガス橋「橋史」は、ガス橋拡張期成同盟委員長の名前で、川崎側の橋詰めに掲げられた(昭和35年6月)掲示板で、ガス橋の起源や拡張の経緯を紹介している。
ネット検索によれば、織戸四郎氏は1923年(大正12年)砕石業「織戸組」を個人商店として創業した。「織戸組」は1955年に会社組織に変更(未上場、本社川崎市中原区)、砂利生産販売、土木工事事業を二本の柱としている。多摩川、相模川で磨かれた砂利を地域発展の礎として供給し、神奈川県下はもとより山梨・静岡に山林を所有して砕石工場を開設しているとされる。



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