第七部 「河口」 周辺 

(河口周辺の地図を表示)

   その5 右岸堤防終端 (河口水準拠標地点)


(本ページは変化の激い地域となっているため、5年程の間に、新しい内容を上々に追記する形での改編になっています。記述内容が整理されていない面があり、重複や記述の前後など読み苦しい点があると思いますが、ご了承をお願いします。)

「新多摩川誌(第6章第2節2.3)」に「河口」についての記述があるのでここに転載しておく。
”ところで,多摩川の河口はどこだろうか.多摩川の幹線流路延長は,山梨県笠取山の山腹水干[みずひ]まで138kmだといわれてきた.その起点を示す0kmの距離標は,右岸では川崎市川崎区浮島町1番地となる工場敷地内の護岸,左岸では大田区羽田空港二丁目の空港内護岸に定められてある.後者の方は,一般の人が立ち入ることができる.この河口の原点,1966年(昭和41)に多摩川が,旧河川法に基づいて一級水系一級河川に指定されて建設省の管理下におかれたときに定められたという.だがこの時点で,羽田空港は返還後の拡張で沖合へ出張っており,右岸では神奈川県の京浜工業地帯造成事業による浮島埋立地が,3年前に完成していた.したがって,すでに実際の多摩川河口は,さらに沖合へと移動していたのだ.現行の0kmが,どのような根拠で設定されたのか,いまのところ詳らかでない”

(左右の図や写真には拡大画面へのリンクがあります。小画像をクリックしてください。)
はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
左の小画像は明治時代後期の多摩川河口周辺図である。河口に蝶のように開いている部分は、北側(左岸)が「羽田お台場」で、南側(右岸)は「三本葦」と「末広島」である。それぞれの周囲には、東貫澪、末広澪、八幡澪など多くの派川が流れ、洪水時には水路周辺の耕作地などは全て水を被る氾濫原状態になっていたものと推測される。
「羽田洲」と呼ばれていた大森・羽田・大師河原の海は、多摩川の運んでくる土砂が拡く押し出されて遠浅環境となっていた。
最初の参考図(左の小画像をクリック)は、明治後期の氾濫原に現在の水路を重ね、双方がどのような位置関係にあるかを見たものである。(道路や大師橋、空港監視レーダー、河口水準拠標埋設位置等を現風景の基準とし、原風景との比較を行ってほしい。)
 (色を反転した鳥居のマークは、排除される前の穴守稲荷と玉川弁天の位置を示す。)

多摩川下流部22キロメートルは、大正8年に始まる内務省の直轄改修工事により、堤防は(河口部分を除き)ほゞ現在位置に整備された。ただ改修工事は堤防整備が主たる内容で、計画が一応完成をみた昭和8年の時点でも、汽水域では低水路の蛇行を均したり水路を拡幅するなどのことは殆ど行われていない。
直轄改修工事計画では河口の川幅(堤防間距離)は630メートル、羽田量水標(現大師橋近傍)で558メートルと規定され(おそらく左岸の赤レンガ提が基準)、そこに入る土地は全て買上げとなったが、耕作地域のほゞ半分が水没することになった殿町では住民の驚きは大変なものだったと伝えられている。

左の参考図面(小画像をクリック)は、川崎河港水門の脇に建てられている説明板から河口部のみを写し取ったものを原図としている。原図には昭和12年の内務省の「川崎市都市計画図」からの抜粋という説明があり、黒い線は昭和18年に廃止となった大運河構想で、赤い線は都市計画街路となっている。
海老取川はほゞ南北に流れているので、本図は右回りに30度余り回転すると、真上が北になり現代地図との比較ができる。(図中紫色で上書きしてある矢線や文字は全て私が今回書込んだ注釈部分。)
矢印で引っ張って記号を拡大し「水神宮・法栄寺」と私が書いている元の場所には、原図では見難いが鳥居と卍の記号が記されていて、ここは堤防川裏に今でもそのまま残っているので、この前を通る街路線のようなものが現在の右岸堤防位置にあたると考えてよい。

本図では、東京自動車と末広島の間が「八幡澪」で仕切られているが、ここはかつて羽田の漁師が外湾方面に出入りする際、主たる航路にしていたといわれる派川の名残で、明治時代まで東京市と神奈川県の境界線はこの澪に沿っていた。
多摩川に河口と言える状況があったのは本図の頃までで、その後当地の環境は激変し、現在では多摩川に河口はなく、川を閉鎖水域を保ったまま沖に繋ぐ「河口延長水路」が3キロ近く続いている。 ”多摩川の河口” という言葉が何気なく使われることが多いが、多摩川にあるのは 「河口」 であり、あくまでカッコ付きであることを忘れてはならない。


いすゞ自動車川崎工場の裏手沿いに右岸の堤防道を進むと、やがて堤防敷の全体が幅100メートル程の「多摩運河」で遮(さえぎ)られるようになる。(ページ右上から周辺地図参照) そこで運河を超える手段は無く、運河の対岸(川岸側)は「日鉄鋼管」川崎工場の敷地になっていて、その先にはもはや堤防は存在しない。

[No.753] は堤防終点の手前で終点を見たところ。(左側から伸びている赤いトラスはA滑走路の着陸誘導灯) この写真では幅が100メートル近くもある運河自身が写っていないので、何故ここが終点なのか状況がイマイチ分かり難い。
この場所に行ったことの無い人には、対岸側からこの場所を見た [No.761] や、運河奥の浮島橋側から見た [No.763] , [No.764] などが、当地の状況を理解する上で参考になるだろう。他の写真を見比べる場合、終点位置に聳(そび)え立っている電信柱のような高い木柱が目安になる。(この木は頂上に風向計や風力計が取付けられ、計器類の支柱になっている。)

2004年に堤防に貼り付けられたコンクリートパネルが破損し大穴を生じた。潮の干満に応じて多摩運河を海水が出入するため、その水流を減じる目的で打たれた数十本の木製の杭も朽ちてボロボロになっていた。

多摩川右岸の堤防が多摩運河で切られるここに、建設省京浜工事事務所時代から引継がれた「水準拠標」埋め込まれ、河口の水位観測所もここにある。「水準拠標」には十字が刻まれ、多摩川河口と書かれている。

      (河口水準拠標)     (参考:左岸防潮堤上)

「水準拠標」というのは、水位観測のための基準となる高さを定めた標識で、多摩川河口と刻印されているが、「距離標」の意味でのゼロ地点(原点)を定めたものではなく、「河口」として発表される水位データはここで採られますというような意味だ。因みに、多摩運河の開口部と向かい合う左岸防潮堤の上端に、やはり建設省時代の「距離標」らしきものが植えられていて、こちらの十字には「建設省多摩川」と「0.0K」という刻印がある。(上に参考掲載した。Kはキロメートルの意味だろう。)
この二つの事実から、国交省河川事務所が定める「多摩川河口」の原点位置がこの近くにあることが想像される。[No.754] は堤防終端位置の手前で堤防下に下りて、多摩運河越しに浮島沿岸部を見ているが、距離表示の基点となる河口の「原点標」は多分これで見えている範囲のどこかにあるはずである。
多摩川の河口部では、昭和30年代から大型ジェット機の導入に合わせて左岸で羽田空港の拡張が始まり、右岸側でも京浜運河の完結を目指して川崎港東部周辺(千鳥町、夜光、浮島町など)の埋立造成が進んだ。その結果、多摩川では事実上河口が無くなり、「河口延長水路」が海の中に続く異様な光景になった。
多摩川の河口原点位置を定めた時期が、そのような改変が行われる前であったとすると、堤防終端となるこの位置を新規にゼロ基準にした場合、従前まで採られていた各種のデータは全て半端な位置のものになってしまう。建前上河口地点を変更したくなかったという事情は十分に推測される。

近代の多摩川河口部は氾濫原の状態で、土砂の堆積した三角州に何本もの澪(派川)が蛸足状に走り、中洲は耕作地などに利用されていた。左岸側では江戸時代に干拓された「鈴木新田」の先の「お台場」、右岸側では玉川弁天の「常夜灯」で知られ、いつしか右岸側に移って「三本葦」と呼ばれたが島状地が最後の陸地らしい部分だった。
  (大正時代に始まる改修工事前の河口近辺の流路図は右矢印をクリック。
本図は私製で、位置合せの根拠が少なく、上書した水際線(現堤防)の正確度は微妙。)
この時代に多摩川河口の原点位置を定めたとすれば、「三本葦」の海側の角辺りを採用するのが自然と思える。その後一帯は掘削されて水路の整理拡幅が図られる一方、浮島の埋立が行われて事実上河口の海岸は無くなり、河口延長水路が続くことになった。
京浜運河の終点(大師運河)から多摩川に抜ける水路として幅100Mの多摩運河が通されたが、以前「三本葦」があった海側の地点は、浮島側に入ってかろうじて残された。従前までの河口原点が保存されたことで、距離標は以前のものを踏襲することが可能になったわけである。(本図が正確なら)多摩運河の対岸から精々50メートル以内のどこかに、距離の原点標が残されているものと思われる。極端な場合は多摩運河のすぐ対岸側ということも有り得る。その地は「日鉄鋼管」か「花王」かいずれかの敷地内になる。)
[No.755] は [No.754] でも見えている艀船(はしけ)桟橋のズーム。(この桟橋については、次の「浮島」のページで詳しく説明している。)

[No.753] や [No.754] で正面に見える黒い建物は、多摩運河の対岸位置(浮島の北端)にある日鉄鋼管の倉庫のような建物である。堤防終点から見ると「黒い建物」という印象を受けるこの建物の全景は [No.76B] の中央に写っている。
[No.763] を見ると分るように、この建物は運河側の先端に庇(ひさし)があり、塗装のないこの庇の部分はひどく腐蝕している。実際は川に沿った細長いブルーの平屋であるが、堤防終点に行った経験のある人には、ボロボロに錆びた黒い建物としての印象が染み付いているのではないだろうか。(この頁の最後に2006年の写真を載せているが、この建屋は改修されて綺麗になり、懐かしい景観は今はもう見られない。)

[No.757] はASRとその背後のJAL系整備場を撮ったもの。羽田空港にはASRが2ヶ所ある。ここからだと、もう一つの方は、4つ並んだ格納庫の一番左(JAS)の屋根上右端に先端だけが僅かに見える。(ASR:Airport Surveillance Radar:空港監視レーダー)
この構図は絵になり易かったので、ここの写真は何枚もある。JAL整備場の大きな建物はレーダーの直ぐ後ろにあるように見えるが、実際にはレーダーの後ろ側を東京モノレールが走り、その下は環八道路になっていて、その縁に空港敷地を仕切るフェンスがある。整備場の建物はそのフェンスの向う側(空港敷地内)に建てられていた。
(この一画は羽田空港の再拡張によって新しく国際線ターミナルが作られることになり、この整備場は既に撤去され、2006年はここもコアジサシの営巣地になった。)

      (参考:2003年正月左岸ASR近辺の護岸状態)

[No.759] は管制塔を遠望する位置でモノレールを撮った。A滑走路の離陸を撮ろうとするとこの位置から少し右寄りになる。(右側はビッグバード(西ターミナル))
下の [No.760] は右(海側)に振って格納庫を見ている。格納庫は東西の整備地区それぞれに各四つあり。こちら西側では左の2つがJAS、以下JAL,ANAの順に並んでいる。その右が敷地の端になり、ここには給油施設の貯槽(三愛石油羽田支社)がある。(マスタープランではANAの格納庫の海側に隣接してもう一棟建つようになっていて、貯油基地はその陰に入って見えないはずであるが、実際に貯油基地が見えるということは、格納庫のその部分が建てられなかったことを示している。)
モノレールは格納庫に差し掛かる所で低くなっていくが、ここで環八道路共々左折し、地下に入っていく。( [No.73T] 参照) オキテンが始まる前の飛行場では、メインの滑走路だった旧C滑走路がここまで伸びていて、旧空港敷地は川沿いにはモノレールが左折している地点まであった。こちら側からそのことだけを見ると、オキテンによる増設部は以外に小さいと思うかもしれないが、実際には空港全体が移転する一大拡張だった。
旧空港は海老取川沿いの旧B滑走路と六郷川沿いの旧C滑走路がかぎ型に伸びていただけだったが、オキテンによる敷地の造成は、かぎ型の内部を全て埋立てた上、さらに沖合に1.5キロメートル程度はみ出し、敷地は凡そ3倍に膨れたのである。
 (羽田空港の拡張史については [参考16] にオリジナル画像を載せている

[No.75B] はA滑走路に着陸する様子をズームで撮った。
現在の空港には滑走路が3本ある。この右岸の側から離着陸がよく見えるのはA滑走路、ターミナルの向う側に1700メートル離れて、A滑走路と平行なC滑走路がある。 A,C滑走路にほぼ直交し、横風時の着陸用にB滑走路があり、扇形に展開している空港敷地の要の方向に深く入ってくる。A,C滑走路は3000メートル、B滑走路は2500メートルである。
滑走路が3本あれば、形式的には離着陸の方向は12通りあることになるが、実際に使用されているケースとしては、7通りしか見たことはない。制約が無いのは沖合いにあるC滑走路だけで、北西側・南東側いずれの方向にも離発着する。
A、B滑走路は共に海側コースしか使われない。A滑走路の北西側は平和島上空、B滑走路の南西側は川崎の臨海コンビナート上空が飛行コースとなるが、陸側に飛ぶことは慣習として行われない。(A滑走路には例外的に早朝北側に離陸するケース(ハミングバード)があるという。B滑走路が着陸専用なのかどうかは知らないが離陸は見たことがない。)
空港の再拡張によって、多摩川の河口先に2500メートルのD滑走路が造られる。向きはB滑走路とほゞ平行で、海側(浦安方向)ルートのみの使用と思われる。直下を航行する大型コンテナ船(マスト高さ55M)に配慮して、この滑走路は離発着面の全体を標高15Mと高くし、更に第一航路側では滑走路面に0.1度の傾斜を付けて、端では2.1M高い標高17.1Mとする。浦安市街地上空を外すため、ILS(計器着陸装置)の誘導は海側へ2度オフセットすることも決まっている。諸般の妥協が安全面に影響を及ぼさないことを祈るしかない。

   (羽田空港の再拡張については [参考27] に詳細な経緯を載せている

大正7年(1918)7月の内務省告示で認定された多摩川下流の直轄改修工事には、「河口の派川のうち舟運に必要な左右各1本を残し、その他はすべて締め切り、流末の低水路を平均干潮面以下12尺に浚渫(しゅんせつ)する」と書かれた部分がある。
「河口の派川は左右各1本を残し・・」について、左岸には海老取川の外に「東貫の澪」しかなかったので紛れはないが、右岸の側の低水路は結構複雑だった。舟運に多く利用されていたのは、海老取川の対岸辺りから出てしばし本流と平行し、末広島の西側を通って川崎沖に出る「八幡の澪」だったが、「東貫の澪」のほゞ対岸位置から、中洲と末広島の間を抜けて「八幡の澪」に合流する水路や、明治の初期まで本流だった名残になる、末広島と三本葦(旧常夜灯)の間を抜ける澪も存続していた。
明治時代、河口区域での東京府と神奈川県の境界線は、多摩川の本流ではなく「八幡の澪」に沿って引かれていた。(本流の右岸側も羽田各村に属していたことになる。)

この例のように、多摩川は暴れ川だったから、堤防が完備していない時代には、氾濫して水路の位置が変わってしまうことは度々あった。その結果明治時代まで多くの沿川村が対岸に飛地を保有していたが、こうした飛び地が介在することにより、その間が無堤部になったり、あるいは築堤が不十分になるという治水上の不統一が起きていた。根本的な治水対策を講ずるには、先ずもって村界を現実の流路に従って変更しておくことが必要になったのである。

明治40,43年の2度の大水害を契機として、多摩川の抜本的な河身改修を求める住民の声が高まるが、神奈川沿川五ヵ村の住民代表が、治水のための河身改修だけではなく、同時に町村区域変更の請願も行っていたのはこのような事情に基ずく。
明治45年に成立した「東京府神奈川県境変更に関する法律」で、「東京府荏原郡羽田町の大字羽田、大字羽田猟師、大字鈴木新田がそれぞれ、多摩川以南に保有していた飛び地は全て神奈川県橘樹郡大師河原村に編入する」など、合計12箇所について境界を変更することが定められ、このとき初めて厳密に多摩川が府県の境界線になったのである。

大正時代に始まる直轄改修工事以降、昭和中期の高潮対策工事に至る間に、河口区域の低水路では右岸の側で大規模な手入れが行われた。左岸のレンガ堤を基準に川幅630メートルで右岸の堤防を築堤し、その中に入る中洲や三本葦などの出洲は削り、或いは均すなどして河口の低水路を大胆に統合し、本流出口水路の大幅な拡幅を図った。(右岸側で残された派川があったのかどうか知らないが、改修規模から見れば八幡澪など右岸側の派川はこの時点で全て消滅したと考えるのが自然だ。)
現在建前上の河口とされている地点は、右岸で干拓され陸化していた三本葦の先端部と推定されるが、左岸の側でも御台場埋立地の先端部が概ねその対岸位置になっていた。


東京湾の実情に詳しいような人から、「上空から見たら多摩川の河口域に多くの干潟が残っていることが分かり感動した」などというコメントが出てくることがある。
「残っている」という現状認識は明らかに誤りだが、識者やNPOの世話役などの中にも、そう思っている人は意外に多いのではないか。
多摩川の汽水域で今何が起きているのか殆ど知られていないのは、大森・羽田界隈に漁業権が存在せず、環境の利害に最も敏感な漁業者集団が居ないため、自然環境が話題になるときに、観察者の居ない当地が蚊帳の外の置かれてしまうからである。
多摩川の汽水域は今急速に変貌しつつある。水路の岸側は土砂が堆積して浅瀬化し、平時水路の幅は縮減されて干潮時には水路の周囲に多くの干潟が出現する。また干潟自身も更なる堆積や葦の膨張によって陸化への過程を辿っている。
多摩川の汽水域では、干潟が「残っている」のではなく、日々造成されているが、それは陸化への過渡期現象として起きていることで、造成が続く一方(泥の流出でなく古い干潟から陸化していくことによる)干潟の消滅も並行して進んでいる。

多摩川の汽水域では、戦後から昭和30〜40年代にかけて、大規模に高水敷を掘削し、低水路の拡幅、澪筋の直線化を図るなどの河身改修を行ったが、同時に(治水事業とは無関係な次元で)この川から河口を奪うという終世癒えない虐待行為も行った。

今、川は自ら蛇行水路時代の「原風景」を求めて突き進んでいるように見えるが、河口や派川群から成る氾濫原を失うという歪んだ制約の中で行われているだけに、原風景の完全回復ということはあり得ない。
それでも身を捩るようにして自ら改変を試みている川が、どのような結果に行き着こうとしているのか全く予測はできない。

対岸(左岸)の正面に海老取川の分岐口(弁天橋)が見える辺りから、緩いカーブを経て多摩運河(河口)の直前に至るまでの間、堤防の内側は「いすゞ自動車川崎工場」の敷地になっていた。
いすゞ自動車は2004年5月に66年の歴史のあった当工場を閉鎖した。2002年からの中期計画でディーゼルエンジンを栃木工場に、(5000車種を超えるといわれる)全トラックの生産ラインを藤沢工場に、ピックアップトラックをタイ工場に集中し、各部門の生産ラインの一元化を図ったのである。
いすゞ自動車は昭和初期に石川島造船所の自動車部門が独立したことに起源を持つが、昭和12年には「東京自動車」を設立し、翌昭和13年(1938)に当地での操業を開始している。(1941年に「ヂーゼル自動車工業株式会社」と改称、1949年に商号を現在の「いすゞ自動車株式会社」に変更した。一時経営危機が囁かれる状況に陥っていたが、近年トヨタとの提携や、北米に再進出など、社業の好調さを伺わせるニュースが伝えられている。)

大師橋から多摩運河までの右岸、最後の堤防が続く一帯(約2.5Km)では、右岸側の低水路は相当浅瀬化が進行していて、干潮時には広範囲に干潟が出現する。
左の3段に配した6枚の写真は、最近(2007.4)この界隈の干潟の様子を撮ったものである。(最大に潮が干いた時点を撮ったというわけではない。)
上の2枚 [No.75Aa] [No.75Ea] は大師橋と多摩運河の中間で、堤防が南側に緩くカーブしていく辺りで撮っている。(ここより川上側の干潟については、前頁「その4 大師橋から「河口」までの右岸」の方に載せている)
この辺りでは一時的に、堤防下にヨシなどの植生が見られない裸の堤防敷が続き、満潮時には高水護岸パネルを貼った法面の下側が直接水に洗われる状態になるが、干潮時には一転して見渡すような広範囲に干潟が出現する。澪筋は遥か遠く左岸寄りにあり、航路確保のための浚渫は専ら左岸側で行われる。右岸側では、環境が手付かずで放置され、年々土砂の堆積が継続し浅瀬化が進行しているのである。
次の2枚 [No.75M] [No.75K] はカーブ地点と多摩運河の中間辺で、アサクアサノリが野生で生延びていることが確認されたのは、主としてこの辺りのヨシ群落。
最後の2枚は多摩運河に近い位置で、干潟の先の方に出て、周囲全体を見渡している。 [No.75J] は川上向き、[No.75N] は対岸(左岸:羽田空港敷地)向きである。[No.75N] でモノレールの軌道が水面に写っている所が本水路にあたる。干潮時の水路幅と右岸側の浅瀬化した部分の幅は同程度だろうか。


右岸堤防の最後となる1キロメートルは、旧いすゞ自動車川崎工場の裏手をいく。(工場のフェンス際には、鈴木町一帯の「味の素」同様、立木が植えられ、所々に監視所のようなものが見られるだけだった。)
いすゞ自動車川崎工場は製造ライン移転を延期していたが、2004年5月には閉鎖され、敷地の西側(大師橋寄り)は都市基盤整備公団(現「UR都市機構」)に、東側(多摩運河側18万平方M)は「ヨドバシカメラ」に売却された。工場建屋等の解体撤去作業はほゞ2005年に完了し、2006年夏跡地は完全な更地の状態になっていた。

[No.752] は河口に続く堤防道の最後のカーブ。ここまで来ると前方に海が開け、このように天気がいいと対岸の房総半島沿岸が見える。
(「正面の煙突は袖ヶ浦の火力発電所ではないかと思う。好天日に「河口」の左岸から見えるアクアラインの「風の塔」や「海ホタル」は、こちらの右岸側からでは浮島の陰になり見えない。)
ここの堤防天端(てんぱ)面はガタガタ道だったが、これを撮影した後の2003年、光ファイバー埋設工事が行われた際に舗装された。

2005年にいすゞ自動車が撤収すると敷地全体は直ちに更地化され、堤防に沿う樹林帯は大きなダメージを受け、所々で樹木が消滅し樹林帯はボロボロという印象になった。
その後上手側のUR都市機構が購入した側はスーパー堤防工事が行われることになり、カイズカイブキは全て除去され堤防は裸になった。一方ヨドバシカメラが購入した下手側も、敷地の大半を占めるUR都市に隣接する側は更地のままで、カイズカイブキは失われたり、残っているものもひどく痛んだりしていて、かつての威厳に満ちた印象は何も残っていない。
堤防が裸にされて既に久しい。左に載せた2枚は以前を懐かしみ10年前の写真ストックを掘り返して探したものの再掲で、現在これが存続している訳ではない。ただ「河口」に近いヨドバシカメラがアッセンブリーセンターなどを建てている僅かな範囲では、カイズカイブキがかつての印象を留めているやに見えるが、仰々しい塀に囲われてしまっていてよくは見えない。
いすゞ時代のカイズカイブキについては、前章「その4 大師橋から多摩運河までの右岸」にも何枚か載せているが、([No.74U6][No.747]など)、よく見れば分かるように、これら上手の戦前に立地した区間のカイズカイブキは堤防下の側帯に植樹されている。これに対して昭和30年代に埋め立て完成後払い下げられた下手側(かつて八幡澪があった場所から下手側の区域)では、(ここに載せた写真でも分かるように)カイズカイブキは堤防敷ではなく、堤内地を仕切るフェンスの内側に植樹されている。従ってヨドバシカメラはカイズカイブキを敷地共々で買取ったことになり、自らが建物を建てる僅かな範囲については、存続利用する積りでこれを大切に取り扱ったと考えられる。

左の [No.751a] は2006年6月現在、川裏の更地化されたいすゞ自動車跡地。微かに見えている首都高速川崎縦貫線の浮島橋の左にある球形タンクは三愛石油で、ここが右岸堤防の終端位置になる多摩運河の手前岸になる。(タンクの左の建物は対岸の花王、多摩運河と球形タンクの位置関係は、浮島橋の上から撮った [No.764] を参照)
更地化されたこの土地には、「空港神奈川口」の主要部が建設される予定になっている。ここは広い立入禁止区域で、犬猫なども近付かないため、コアジサシの格好の繁殖場になったが、工場の基礎を掘起したた後に土が補充されていないため、一帯は窪地化して雨水が溜まり、巣は相当のダメージを受けたようだと聞いている。
次の [No.751b] は半年後だが、奥の方ヨドバシカメラが購入した側では、再奥(多摩運河側)で横幅一杯の長さのアッセンブリーセンターが建っていた。その方向にはカイズカイブキが残されている様子も窺えるが、火炎状を留める僅かな部分は、ヨドバシカメラが堤防との間に大仰なフェンスを作ってカイズカイブキを取り込んだ形にしてしまったため正面からではカイズカイブキの雄姿は殆ど見ることが出来ない。(左の小画像も同じ時期の撮影で未だ整地作業が行われている。)

堤防の川裏がこの規模で再開発となるケースは珍しい。「神奈川口」については、架橋の位置も決っていない現状で、その行方については未だ不確定の要素が多い。ただ「神奈川口」の動静とは関係なく、京浜河川事務所がこの地区にスーパー堤防を造るだろうということは、半ば公然の事実と受止められていた。2007年初頭、地元の意向も不明なまま、当該敷地の一部でスーパー堤防工事が開始された。3枚目の [No.75Y] は2008年でスーパー堤防区間に巨大な地盛が行われていた様子を撮ったものである。

川下側で川に出られる最後の道路が堤防に突き当たる場所の左手にあるのが「殿町第二公園」(かつては「河口」周辺でイベントが行われる際などに集合場所になることが多かった、何の変哲もないトイレ付きの広場で、その当時は「殿町第二児童公園」と呼ばれていた) 2012年には全面的に改修され、トイレは堤防側に大きく作り直され、児童用の設備も擁した近代的な公園に様変わり、殿町再開発の一拠点として整備された。道路の右側から「河口」に向って、かつていすゞ自動車の川崎工場があった移転跡地が続く。このうちの上手側、残り1.6Km標の近傍から残り1Km標の近傍まで約650mの間が地盛されスーパー堤防に作り変えられた。
最初の [No.75Z1] はスーパー堤防の天端面で、地盛した分旧来の堤防よりかなり高い。フェンス外に植えられた樹木数本は、試験植樹として数年前に植えられたオオシマザクラやツバキだが、いすゞ時代の樹林帯を復元しようとする気配はこれまでのところ感じられない。次の [No.75Z2] は水路側の法面で、芝になっているが、法面の表面にコンクリートパネルを貼った後に土を被せたものではないか。堤防下は狭いながら平面の通路になっていて、端がコンクリートで覆われている。おそらく直立護岸方式で、このコンクリートの下がシートパイルになっているのだろう。この日は満潮時で、根固めブロックを並べているのかどうかの確認は出来なかった。3枚目は残り1km 標の近傍で、スーパー堤防が終わる場所では通常堤防の天端面へ傾斜で繋がっている。国交省は一級河川の管理者として、流域全体の安全に等しく配慮しなければならない立場だが、スーパー堤防を広めるに当たって「強化された所の人は安全」という信じ難いキャッチフレーズを使い続けてきた。ここのスーパー堤防を見ると、正しくその実体を見せ付けられる思いがする。あくまで一つの川の堤防の一部に変りは無いと考えると、この突出度は異様としか言いようが無い。


2006.2.2、当区域川表の塩招地に、天然のアサクサノリが生延びていることが、DNA鑑定により確認されたという報道があった。大森、羽田や大師河原の内湾漁業が終焉してから既に久しく、アサクサノリは東京湾では絶滅したものと思われていたそうである。
今では当地域に漁民の影は無く、海苔ヒビの痕跡などもないが、近世には大森海岸の江戸前海苔は幕府御用(「御膳海苔」)を務めた高級品だった。近代には海面が自由化されて、羽田や大師河原もアサクサノリの養殖に参入し、多摩川河口周辺の洲で採れるアサクサノリは全国で高い評価を受けていた。
(現在日本で食べられている海苔は後年導入されたスサビノリで、アサクサノリは藻類レッドリストに「絶滅危惧T類」として記載される絶滅危惧種になっている。)
報道のあった翌日の土曜日は午後3時が干潮とあって、「河口」周辺は「観察会」で大変な賑わいとなり、採集したものを持帰る人も少なくなかった。(左の小画像はこの時撮らせてもらったものだが、もちろんこのような格好で自生しているわけではない。)

生物の多様性維持というスローガンは、野生生物が自ら繁殖していけるような自然環境そのものを保全或いは復元することを目指し、環境の改善によって稀少生物が自然に蘇ることを目的としている。絶滅が危惧される野生生物を人工的に繁殖させようとする試みは、地球環境保護とは異質の経済活動であり、双方を混同すべきではない。

左の小画像は2002年夏の撮影で、写っている建物のうち、ASR背後のJALの整備場、屋根がブルーの平屋(日航エアポートエンジニアリング)、羽田東急ホテル等は既に無く、一昔前という懐かしい印象がある。これは満潮時に近い時間帯の風景。
一方ギャラリーの [No.75Fa] は干潮時で、上に載せた [No.75Ca] からヨシの外縁を回って干潟を辿り多摩運河手前の場所に出てきたところで、ヨシを背にして海の方向(房総の姉ヶ崎方向)を向いて撮っている。干潮時にはこれだけ広範囲に干潟が出現する。

アサクサノリ報道以後、河川事務所はこの一帯の堤防下湿地について、「関係者以外は立入らないように」という意味不明の看板を立てた。
東京湾の干潟環境が大半消滅してしまった中で、殿町地先の干潟が研究者などの関心を惹くようになったことはあるが、護るべきはアサクサノリではなく、その環境の全体であることを取り違えていないだろうか。地域住民の締め出しは本末転倒である。
都会の中で護るべき自然(野生)環境がある場合、その存在価値は都会の住民や子供に自然と触合う場を提供できる面が大きい。自然環境を大切に思う気持ちも触合えばこそ生まれ、環境保護の主役はその地域住民以外にありえない。
(湾奥の谷津干潟は偶然に残された。三番瀬もラムサール条約への登録を目指していると聞くが、保護再生の活動には地域住民が積極的に関わっていることと思う。)

かつてエコロジーというと感傷とかロマンというイメージが強かったが、現在では、人類が末永く存続するためには、(経済活動を抑制してでも)野生生物が共存しうる環境を護ることが必須であり、そのような自然環境には人類の経済活動が生み出す成果に比肩しうる価値があるという認識も広まりつつある。
エコロジーとエコノミーは共通の語源に発するといわれるが、その両立は未だ特異な事例に限られ、大局的には両者が対立する構図が一般的だ。
近年空疎化の進む京浜臨海埋立地の実情は、その地がかつての役割を終えつつあることを物語っている。100年先の孫子の代にどのような地球を残してやれるのかという視点で考えた場合、埋立地を元の干潟に戻そうと努める道が最善であることは疑いも無い。しかし現実には膨張した首都圏の防災拠点を造ったり、空港の神奈川口を契機に臨空産業を誘致しようとする構想などが先行している。
多摩川の汽水域に生態系保持空間を設定したことは、パッシブな意味で環境保護に貢献してきた。しかし六郷干潟がゴミに埋まり、親水部やヨシ群落にホームレスが野放図に入植している実態からは、河川事務所がアクティブにも環境保護に取組んでいるという姿勢は到底窺えない。当地区でも、もし川裏に土地取得出来ない場所が生じれば、川表の干潟を潰してでもスーパー堤防と整合性がとれるような堤防強化を図るのではないか...、という噂が、まことしやかに語られるほど疑心暗鬼を生じているのである。

2003年12月に国土交通省と関係自治体の間で、羽田空港再拡張(沖合に第4滑走路を建設し近隣への国際線も導入する)の費用負担について話合いがついた。神奈川県・横浜市・川崎市は合わせて300億円を拠出することになったが、この際新たに「空港の神奈川口」を作ることが約束された。(「空港の神奈川口」建設は、いすゞ自動車の移転跡地を塩浜地区一帯再開発の起爆剤として最大限活用しようという構想による)
2005.3.23 国交省は、羽田空港再拡張工事が鹿島を中心とするJV(鹿島・大林・五洋・佐伯・清水・新日鐵・JFEエンジ・大成・東亜・東洋・西松・前田・三菱重工・みらい・若築 異工種建設工事共同企業体)によって 5,985億円(税抜 5,700億円)で落札されたと発表した。(造船業界が推すメガフロート案が応札できなかったことで、実質的には無競争だった。)
千葉県は騒音問題などで難色を示していたが、着陸時に浦安市の市街地上空通過を回避するなどの飛行ルート修正提案を受け大筋で合意、この間に米軍横田基地が空域を返還するなど周辺の条件整備も進んだ。2006年末に千葉県漁連に対する漁業補償が解決し、2007.3.30埋立工事はようやく着工、羽田空港の再拡張計画は当初計画より1年遅れ、2010年10月の供用開始に向け現実的に動き出した。(国交省は2008年度政府予算概算要求で、アジアゲートウェイ構想の要として、羽田空港の新滑走路建設に1248億円を要求した。- 2007.8.30 日経新聞)


神奈川口協議会では、新たな架橋を含め塩浜一帯の再開発を模索しているが、多摩川旧河口の沿岸部は、神奈川口構想実現の起爆剤を担う最重要箇所になっている。その一方で(従前からトビハゼやウラギクが知られてはいたが)、たまたまアサクサノリのことが重なって、この干潟が野生生物の繁殖地として環境面でも脚光を浴びることになった。
今後当地がエコノミーとエコロジーの鬩(せめ)ぎ合いの場となることは必定だ。多摩川にスーパー堤防を造っている間にも、太平洋や北洋などに水没していく島々のあることを忘れてはならない。地球共生の理念は、自分さえ良ければという発想を克服することから始まる。共感を寄せる人は未だ少数かもしれないが、日本人の叡智を集め、時代を先取りした地球共生の範を世界に示すことが出来ればと願う。

左上 [No.75G] [No.75L] の2枚は、多摩運河の手前辺りの干潟で撮っている。[No.75G] は川下(海)向きで、右手(右岸)側の塀はヨドバシカメラ、低水路にあるのは最後の葦群落、奥は浮島方面になる。左岸側には東京モノレールやその先にA滑走路の誘導灯トラスなどが見えている。川上向きでは、遠く大師橋の斜張橋の主塔が参考になる。
下の [No.75P] は洲の先の方で、水路の波立ちを見ている。上潮が始まると、川上から流下してくる水流と、多摩運河の方から上げてくる海水が、ここでぶつかって不自然な波立ちを生じる。次の [No.75Q] は波立ちをズームした。但し撮影時期は [No.75P] より5年近く前のものである。


羽田空港はぎりぎりの場所に設計して沖合展開を図り、国際線は成田空港に移転した。その時点でもはや羽田で出来ることはなく、なお足らざれば後は首都圏第三空港を作るしかないと言われた。ところが東京の一極集中推進を掲げる石原都知事が誕生すると事態は一変し、多摩川に1000メートルはみ出す形でD滑走路建設が強行され、滑走路は井桁状になった。更に経済的な観点しか眼中に無い神奈川側などの強い要望に押されて国際線の再開が俎上に上り、学者やシンクタンク、マスコミなどが挙って煽ったため国交省も腰砕けとなって、羽田空港の再国際化も図られることになった。
国際線用のターミナルやエプロンを作る場所は、オキテン後の変換予定地になっていた多摩川側の旧A滑走路跡しかなく、国交省はこの地を地元返還するというオキテン開始時の約束を反故にして、川側に国際線基地を建設した。ただこの場所は井桁状滑走路の外になり、エプロンに入ってくるために地上を飛行機が動き回り、A滑走路を飛行機が恒常的に地上で横断する事態が避けられない。無理を重ねた羽田空港の再開発が幾つもの危険を孕んでいることは当然の結果であり、今後3年掛けて便数の倍増を図る予定になっているが、1分刻みの運用となって、何時どのような惨事が引起されても何ら不思議ではないが、その責任は経済合理主義にのみ捉われて、一方的に推進してきた連中の側にだけではなく、それを許容してきた我々の側にもあることを肝に銘じておきたい。
左の1枚目と2枚目は国際線基地の建設途上の撮影。1枚目にはD滑走路まで見渡せるように高く作りなおされた新管制塔が写っている。2枚目は建設中の国際線ターミナルのズームだが、モノレールの軌道もここではターミナルに直結するように引きなおされた。(京急は地下に自前で新駅を作った) 3枚目は完成し営業を開始した後で撮ったもので、古い方の管制塔もまだ見える。手前側に見える水鳥は殆どがスズガモである。

堤防上に古い200メートル標がある。(多摩運河は幅が100メートルあるので、200メートル標は堤防終端から100メートルほど上手にある) ここから上手に50メートルほどの間、堤防下は砂地の広場が広がっている。ここは堤防下になり低水路の範囲には違いないが、水路側の砂干潟より幾分高く、おそらく通常の水位では満潮時にも冠水しないと思われる。
このような地形が何時ごろから出来ていたのか記憶は定かでない。湾曲部以外の場所では岸辺に堆積が生じ、一般にはヨシが繁茂し、殿町2丁目の方にはヨシが切れて泥干潟になったり、地面が硬い砂地になっている場所があるが、ここのようにさらさらの柔らかい砂地の地面ではない。ただ当初は自然に生じたと思われるこの地を、露骨に人為的に改変する動きが現れた。確認しているのは2008年頃からだが、その象徴的な存在がこの柱である。「多摩川河口」と切り抜いた板金を貼り付けた木製の柱で、広場のほゞ中央に植え込まれていた。恰も公園化するかのような振る舞いだが、当地は京浜河川事務所が生態系保持空間と位置づけている範囲にあり、公的な措置とは考えられない。他に多くのベンチ類が持ち込まれ、周辺には花壇が作られて、カンナのような毒々しい花が植えられたり、野菜畑が作られたりもしていた。
初めの3枚は2009年10月に撮ったもので、凡その広場の様子が分かるように多方面から撮っている。4枚目は2010年6月で大勢に変化は見られなかったが、良く見ると柱の字の色が転換している。5枚目は同じ日に堤防上の「河口」側から撮ったものである。
2009年に河川事務所に宛て、当地の人為的な改変を止めさせるように注意を喚起したが、この頃までは何事も変わったようにはみえなかった。ところが2012年4月に当地を訪れたところ、柱は消滅していて堤防下の野菜畑のような箇所も無くなっていた。ただ残念なことに上手側の縁に作られている花壇は存続していて、アブラナ科の黄色い花が咲いていた。

こういう場所で園芸種を見せられては興醒めも甚だしく、花壇は無条件で撤去して貰わなければならない。
海浜砂丘植物として代表的なものとしては、コウボウシバやハマヒルガオがある。コウボウシバはカヤツリグサ科スゲ属の一種で、シオクグに似て幾らか小型にしたような感じの地下茎を伸ばし線状葉を出す種類。(多摩川の汽水域ではとにかくヨシの拡大が甚だしく、他の種は次々に滅ぼされていく状況にあるので、シオクグもかつてほどには残っていない。)
ハマヒルガオは良く知られた海浜植物で、通常は砂浜の奥側辺りにあって、匍匐して茎は砂に埋まり葉だけが見えるケースも多い。ところがここではどういう事情によるのか、ハマヒルガオは下の砂地には無く、2009年には200メートル標近傍の天端の角で見つけた。その様子を撮ったものが最初に載せた [No.75W1] だが、この位置で法面を降りながら調べてみると、次の [No.75W2] のように、ハマヒルガオがセイバンモロコシなどと戦っている姿があった。ここは堤防なので地面は土だし、年に何度かは除草が入る場所でもある。下の砂地には花壇が作られて園芸種や栽培種が持ち込まれる一方、ハマヒルガオは堤防に追いやられて、大型のイネ科などとの闘いを強いられ、容赦なく刈取りも受ける。「生態系保持空間」とは名ばかりで異様な植生の状況だ。3枚目の [No.75W3] は2012年4月に同じ場所で撮ったもので、ハマヒルガオは辛うじて生き残っていたが、その勢力は1/5程度にまで減少していた。
一方コウボウシバの方は砂地の広場には無く、堤防下を伝って堤防終端の方向に向う途上のヨシの近くに僅か数株程度を認めた。この辺りは雑多な汚い植生で、法面は一面ヘクソカズラに覆われ、さながら手抜きされた裏庭といった風情で、コウボウシバはヘクソカズラやオニドコロ、ヤブガラシなどに混じって絶滅寸前という状況だった。4枚目の [No.75W4] はそのとき撮ったものである。ところが2012年4月に当地を訪れたとき、広場の砂地にコウボウシバが数十株植わっていて驚いた。その様子を撮ったものが最後の [No.75W5] である。自然に復活して蘇ったものとは到底考えられない。



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