第七部 「河口」 周辺 

(河口周辺の地図を表示)

   その6 多摩運河を越えて浮島へ


多摩川の河口とされている多摩運河の先、右岸の側に3キロメートルほど続く浮島を、六郷川(多摩川)の範囲に含めるべきかどうかは迷った。この間の沿岸部は港が続くと想像はされるものの、岸と呼べる状態があるのかどうか確認したことはない。そもそも市民が立入れないようにしている一帯を、六郷川の延長に含めることに心理的な抵抗も大きい。
浮島地区が市民と触合う川の範囲に含まれないことは確かだが、対岸の空港敷地が似たような状況にあることでもあり、六郷川(多摩川)を見届けるという観点で取上げておくことにした。

明治末期から大正初期の頃(1910年代)に鶴見地先で埋立地の造成が始まり、昭和15年(1940)には「扇町」一帯に日本鋼管の製鉄工場群が展開した。京浜運河の開発は横浜港の方から順次東進する形をとり、多摩川沿岸の浮島に着工したのは昭和32年、完工したのは昭和38年のことである。
(京浜運河については、東京側に焦点を置いた歴史を [参考20] に記している。京浜運河一帯の全体図もそこに載せてあるので参考にしてほしい。


今多摩川の河口周辺は、両岸の干潟が沖合いまで埋立てられ、形の上では川は遥か遠くまで延長されたように見える。
確かに空港と浮島の間は、一見したところ幅広い水路の形状を成しており、洪水が流下する先には違いない。ただ平時にはそこはもはや海であって川という印象とは程遠い。
一級河川は国の管轄下にあるが、浮島は神奈川県営の埋立地で、工場用地とされ市民が立入る隙は無い。多摩運河の浮島橋から2.5kmほど行った先の方に、唯一浮島公園が造られていて、突堤の裏側の僅かな区間が海釣り波止場のような形で開放されているが、その先はまた国土交通省が広範囲に仕切って市民を立入らせないようにしている。

右の [No.76B] は左岸側(空港敷地)から浮島北端部(入口側)の多摩川沿岸を見たもの。右端の白い建物の位置が右岸の河口基準点で多摩運河の開口部がある所。中央の青い建物は「日鉄鋼管」の倉庫で、倉庫の背後から左側の敷地は「花王」である。 [No.76B] に写っているいる両端部をそれぞれ正面から撮った写真を以下 [No.761],[No.762] に掲げた。

川崎市街地側から浮島への道は「川崎縦貫道」(409号-浮島通り-大師通り-府中街道)の「浮島橋」1本だけだが、その上に首都高速神奈川5号川崎線が工事され、2002年4月末に「浮島」から「殿町」までが部分開通している。
「多摩川河口」と書かれた水準拠標が埋め込まれた多摩運河の角から、背後の浮島橋までは僅か300Mほどの至近距離だが、ここに道は無く直線的に通行することはできない。「河口」から浮島に渡るには、一旦堤防上を「殿町児童公園」まで戻り、409号線に出て進み直すしか方法はない。

多摩運河正面(浮島橋) [No.761] と、浮島側にある艀船桟橋の左側(花王)を見た [No.762] を撮った位置は、「その3 羽田飛行場」の方に載せている [No.73Q][No.73R] を撮った場所とほゞ同じである。
( [No.762] は台風一過で川は泥水化している。 [No.761] に写っている堤防終点位置の背後(運河の沿岸部)には、[No.764] に見えるように、この当時「三愛石油」の「LPガスターミナル」があった。)

多摩川右岸の堤防終端と向合う浮島側は、浮島橋までの正方区域が花王の工場用地になっているが、沿海部に沿った狭い一画だけ「日鉄鋼管」の倉庫がある。(日鉄鋼管はもと富士三機鋼管と称する会社だったが、昭和46年に新日鉄に吸収合併された。)
前ページの [No.755] に見られるように、日鉄鋼管の川(河口延長水路)側に艀(はしけ)用の平行桟橋がある。このような内航タンカー専用の繋留施設を設けた当時の事情について、「川崎市史」は以下のように記している。

「川崎港内における石油の輸送は、工場動力源が石炭から重油に切り替えられるに伴なって急増しつつあったが、市・県の新規埋立地に石油化学コンビナートが建設されるに及んでその増勢は一段と激しくなった。
このため、川崎港の内航小型タンカーは33年には334隻であったが、38年には616隻へと増加した。これらの内航タンカーは従来港内の運河や掘割を船溜りとしていたが、その数がふえるとともに航路の障害になる恐れを生じた。また、大型化に伴ない橋梁下を通過できないものが漸増した。しかも、内航タンカーはいずれも危険物を積んでいるだけに、場所を選ばず碇泊させるわけにはいかなかった。

こうした事態にかんがみ、川崎市は39年3月ごろから、末広町の多摩川側に油艀(内航タンカー)専用の平行桟橋を新設することを計画した。この桟橋計画は、連絡通路にあたる場所が三井物産の所有地で、富士三機鋼管がこれを借りて同社多摩川倉庫への道路としていること、対象地区において河川区域と港湾区域が重複していること、また同区域に漁業権が設定されていること、などのため解決に手間どったものの、40年4月には着工の運びとなり、41年2月に全長495メートルの桟橋が完成した。」

左の [No.763] [No.764] は浮島橋の上から多摩川側(空港側)を見たもの。角に木の柱(風向計)が立って見える位置が水準拠標の埋め込まれた堤防の終点にあたる。
[No.764] の6年後に撮った [No.76E] では、球形タンクのあった場所が更地化されている。この一画には10年9月までに、全日空が機内食製造工場などのビルを建設する。
その下の [No.765] は浮島橋の上から、多摩川とは反対方向になる川崎港方面を遠望したもの。右手が小島町で左手が浮島町である。正面突当りは千鳥町になるが、そこで運河は十文字になっている。右折する方向は末広運河と呼ばれ、京急大師線終点の小島新田駅(塩浜の川崎貨物駅)裏手の大師河原ポンプ場に至り終点。左折すると大師運河を通って京浜運河全体の終点部(川崎港口)に至る。横浜方面に直進すれば、千鳥運河を経て、京浜運河の内側に巡らされた小運河を進むようになる。

内務省港湾調査会が昭和2年(1927)に策定した京浜運河計画は、横浜港から東京港まで1万トン級の船舶が航行できる運河を開削し、掘った土砂によって内側を埋立てて工場用地を造成し、臨海工業地帯を開発して生産力増強を図ることを目的としたものだった。
神奈川側では大正初期の頃から沿岸開発に着手していたこともあって、鶴見川河口から順次運河の開削と埋立地の造成・工場進出が進んだ。
一方東京側では対象となった沿岸地域が伝統的な漁業地域だったため、漁業従事者の抵抗が強く、戦時体制を背景にした補償交渉がやっと決着したのが昭和15年ということで、工事は着手して程なく戦局悪化により中断することになった。
占領軍が鈴木新田を中心とする一画にハネダエアベース(羽田空港の前身となった軍民共用空港)を作ったことが、当地のその後の運命を決定付けた。
戦後東京側では工場用地造成という目的を喪失して、運河の開削自身は半ば推進力を失った格好になるが、返還された羽田空港の拡張整備が進み、空港との絡みで湾岸の開発が進展することになる。東京オリンピック開催を控えた時期に、海外渡航の自由化なども並行して、羽田空港用地は大幅に拡張され、空港への大量アクセス網整備という目的をもって、湾岸の埋立工事も急ピッチで進行するようになった。

神奈川側では戦後も京浜運河構想が、川崎港港湾整備という形に変って推進される。昭和28年に県営埋立事業が再開され、31年には港湾施設計画と臨海工業地帯造成計画からなる本格的な港湾計画が策定された。
埋立て事業は戦時中に打ち切りになっていた、京浜運河東側部分の工事を続行するものだったが、東京側で羽田空港が拡張となり、京浜運河が東京港に延長される可能性が無くなったことから、多摩川河口沿いの海面埋立て事業は旧計画から大幅に変更され、千鳥町の東側は運河を終結させ大面積を埋立てることになった。
大師河原の地先は満潮時には水没する出洲のような地形だったが、私有地であったため、県企業庁は昭和31年末に29万坪弱の広さのこの土地を、2億4,000万円余りを投じて買収した。計画は19万3千坪を大師河原から地続きで埋め、そこで幅100メートル水深3メートルの多摩運河を隔て、その先に100万坪余りの浮島を埋立てる。西隣の千鳥町との間には幅350メートル水深9メートルの大師運河を設け、浮島の西南端と京浜運河防波堤東端の間を川崎港の港口にするというものだった。

昭和31年から川崎漁協などに対し漁業の喪失等に関する補償交渉が行われ、昭和32年までに総額6億円に近い補償額が決定し、神奈川県・川崎市・東亜港湾工業の三者が埋立計画面積比率に従って負担することになった。(主たる受持ち区域は、県が浮島、市が千鳥町、東亜港湾工業が夜光である。)
工事はその後数度の計画変更を行い、埋立区域は沖側へ約33万坪が拡張されるなどして、昭和38年3月に竣工した。当初の事業予算は55億円程度であったが、実際には91億円を超える費用を要した。(大師運河を挟む西隣の「千鳥町」とこの「浮島町」には、主に日石化学、東燃石化の石油化学コンビナートが建設された。)

この間川崎港の貨物取扱量は激増し、石油タンカーや鉄鉱石輸送船が大型化してゆく傾向があったため、京浜運河計画全体の見直しも図られている。31年の計画では、水深を9メートルから12メートルに深める航路の幅は200メートルとし、海側は埋立てることになっていたが、600〜700メートルある水域は全て航路として活用するように変り、塩浜運河や大師運河などの水深も9メートルから12メートルに変更された。

浮島の埋立てが開始された昭和32年に、京浜運河の防波堤外(海側)の造成も始められ、昭和50年(1975)に「扇島」が完成して、日本鋼管が京浜製鉄所(銑鋼一貫施設)を建設し翌年操業を開始した。東の「東扇島」は昭和54年に完成し、ここには海運増強を図るための、外貿用バースや関連施設などが整備されているが、ここは別名「シビルポートアイランド」と呼ばれ、「川崎マリエン」(港湾振興会館)などに市民と触れ合う施設も出来、埠頭は趣味の釣り人によく知られる場所ともなっている。

浮島は県営の海上埋立地で、厳密に言えば沿岸はもはや多摩川ではない。区割りされた企業用地には隙間がないので、一般市民が岸辺に近づくことは出来ない。従って写真は浮島橋で撮り終えると、次はもう浮島先端に近い浮島公園まで、川の見えない道路を約2.4km只管(ひたすら)走るしかない。
浮島公園の手前に、公園に隣接してフェリーの川崎港があった。フェリーの川崎港は、海側は車や貨物専用の領域で、コンテナが積まれたりしていた。乗船者は歩道橋のような専用通路を伝って海側の桟橋までいく。[No.770] [No.76A] は桟橋に向かうこの通路の上で撮った。A滑走路に離着陸する飛行機は頭上の少し海側を通過していく。

[No.766] は浮島公園の一角から停泊中のフェリーを撮ったもの。フェリーの桟橋は浮島公園の前にあり、この当時浮島公園からは、マリンエキスプレスの貨物置場などに遮られ空港方向はよく見えなかった。

昭和40年(1965)、日本カーフェリーが川崎(浮島)〜木更津間で開業し、6年後には新たに川崎港と日向細島港を結ぶ「京浜航路」を開設した。(当初は6,000トン級2隻を就航させたが、数年後には10,000トン級の高速船に切り替えている。)
「日本カーフェリー」は90年シーコムに買収され、92年には社名が「マリンエキスプレス」に変わった。この時期、京浜航路には12,000トン級のカーフェリー(全長170メートル) 「パシフィックエキスプレス」,「フェニックスエキスプレス」 が相次いで就航した。94年には日向行きに加え宮崎行きの路線も開設され、02年からは宮崎線が那智勝浦に、日向線は高知に寄港するようになった。

平成9年(1997)東京湾アクアラインが開通したため、創業から32年間続き、中型船が日に22往復していた木更津航路は廃止になった。

浮島の先端部に首都高速湾岸線と東京湾アクアラインが交差する「浮島JCT」がある。(湾岸道路は空港から浮島までの海底トンネルを「多摩川トンネル」と称している。次の東扇島・扇島の間は「川崎航路トンネル」という。以下「鶴見つばさ橋」で鶴見川を渡り、大黒埠頭を経由し、「横浜ベイブリッジ」で横浜港を跨いで本牧に至る。)
[No.767] は浮島公園から見た施設の陸上景観と、沖合い5キロにあるアクアラインの換気施設「風の塔」。(この位置は[参考20]に掲載した詳細地図に記してある。)
「風の塔」は基盤が直径200メートルほどある人工島にあり、直径100メートル深さ75メートルの鉄筋コンクリート製の中央部本体に大小2気筒が植込まれている。(大:排気用高さ90m、小:吸気用高さ75m) 浮島JCTと海ホタルとの中間地点にあり、トンネル掘削中はシールドマシンの基地になった。左岸の空港側から見た風の塔は [No.73R] にある。

「風の塔」は多摩川の河口の方から見ると、ちょうど2本の排気筒が重なる向きになるので、中央部が光った縞模様の輪が見えるだけで、全体がどういう形のものかさっぱり分からない。そこでネット上から分かり易い写真を拝借して参考とした。
  川崎人工島は横(直角方向)から見るとこのような形になっている。(風の塔:水野テクノリサーチ社HPより拝借) 多摩川方向からはこれを左側から見ていることになる。

「浮島JCT」を含む浮島先端の沿岸部は国交省が広範囲に占有し、僅かに公園寄りのごく一部を海釣り波止場として開放している。[No.769] は海釣り波止場からフェリーを見たもの。船尾の先に空港の南端にある給油施設のタンクが見えている。

中国経済の爆発期を迎えて世界的に原油が高騰するようになったが、「マリンエキスプレス」は2004年には、燃料となるC重油の急騰により採算がとれなくなった。看板路線として34年間続いてきた京浜航路は2005年6月をもって遂に運行休止に追込まれた。
「フェニックスエキスプレス」は分社化されて存続した「宮崎カーフェリー」(貝塚航路)に移ったが、「パシフィックエキスプレス」は韓国に売却されたときいている。
(ここに撮った写真は [No.766],[No.769] 共にパシフィックエキスプレスの方である。)

[No.768] は浮島の先端付近から空港方面、A滑走路を離陸してくる様子を見たもの。この位置は多摩川の延長線になるが、これはもう紛れも無く海の景観である。背景は森ヶ崎から昭和島、京浜島の辺りになり、六郷川周辺で日頃見慣れた建物は一つも無い。

浮島は堤防伝いには来れない上、先端までは結構距離もあって自転車で来るのは容易ではない。晴天を見込んで家を出ても途中で曇ってしまうことがある。
A滑走路とC滑走路は平行だから、今日はAを使っているナと見定めて出掛けても安心はできない。突如Cを飛ぶように切り替えられ、待機中の飛行機がゾロゾロと沖に行ってしまうこともマゝある。


羽田空港は再拡張の工事中で、2010年には新規開港となる予定だ。浮島公園の右前方洋上に埋立と桟橋を併用した「D滑走路島」が建設され、島は多摩川の河口延長水路に桟橋形で約1キロメートルはみ出してくる。
D滑走路の建設によって増加する発着枠は、一部が国際線にも振り向けられる。このため空港島とは別に、もと羽田東急ホテルがあった東側辺りに新国際線ターミナルが建設される。更に空港はそこから多摩川を跨ぎ対岸(川崎市)にまで伸びて「空港の神奈川口」が形成されるという協議も行われている。

いすゞ自動車の移転跡地を中心とする多摩運河の上手側一帯は再開発され、空港関連施設やコンベンションセンター、ホテルなどが林立するように大変身する。河口周辺がこれから大きく様変わりし景観が一変することは間違いない。

そもそも空港の沖合移転(オキテン)は1981年に、移転跡地を地元に返還する(跡地の利用計画について地元区の要望を十分配慮する)約束で始められた。オキテンは間も無く当初計画の全てを完了するが、事態は当初想定されていなかったような「再拡張」に向かって突進んでいる。再拡張は海に向かうだけでなく、前空港の移転跡地を侵食することは間違いない。地元住民の要望は十分に配慮されているだろうか。
(1982年2月の「三者協議会」でオキテンが合意された当時、既存用地の内から「地元に開放し都市施設として活用する」と約束した跡地の広さは 165ha あった。2002年に「羽田空港の再拡張」が決まった時、国交省は移転後の「跡地」は53haになると大幅な縮減を発表した。その後更に「神奈川口」が作られることになり、地元に開放される「跡地」はどうなるのか全く不明だ。)

左下の [No.76G] [No.76H] は、フェリーの川崎港が廃止となり、浮島公園から見通せるようになった、A滑走路への着陸風景を撮った。

国交省の当初の再拡張案では、この第四の滑走路(D滑走路)は2003年度中に着工して2009年度の供用開始を目指していたが、着工は遅れ完成は2010年にずれ込んだ。
再拡張により羽田空港の年間発着回数は段階的に増加が図られ、2012年には40万7千回に拡充されることになっている。1日当りの発着回数は1100回に増え、国内線では飛行機を小型化し増便することが可能になる。
当初の方針では、この滑走路の完成に合わせて、羽田空港に再度国際定期便を就航させ、増やされる発着回数13万回のうち、3万回を近距離の国際定期便に充てることが予定されていた。国内線の空港として羽田から最も遠い石垣空港までの距離を目安とし、それより近いソウルや上海などが候補に上がっていた。(国際線旅客数は推定700万人)

国交省はこれまで、羽田は国内線用、国際線は成田、という原則を堅持する方針を示していたが、利便性や経済合理主義の面で、羽田のより広域な国際化を求める声は日増しに強まり、羽田をアジアのハブ空港に!という主張さえ聞かれるようになった。
こうした周辺の空気を受け、国交省は2008年の5月には、国際線に充てる発着便数を、当初計画の年3万回から年6万回に倍増し、航路についてもソウル、上海に留まらず、北京、香港、さらに欧米等への拡張を示唆するなど、方針を大きく転回する気配を見せている。



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