第一部 丸子橋周辺 

(丸子橋周辺の地図を表示)

  その1 亀甲山裾から丸子橋へ

(小さな写真にはそれぞれ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)


亀甲山(かめのこやま)は丸子橋のすぐ上手の左岸 (東急電鉄「多摩川」駅前)にあり、現在一帯は古墳群を含む多摩川台公園として整備されている。(周辺の地図がある場合は、ページトップの右端にある「地図を表示」をクリック。)
この地は川が天然の要害(武蔵野台地)に接して氾濫の恐れがなく、近世には左岸側の治水上の要衝の地と考えられた。幕府はこの地を境にして、川下側に広がる沖積平野を直轄領(六郷領)とし、多摩川もこの辺りから河口までは六郷川と呼ばれた。(六郷川という呼称は昭和の中頃まで地元で一般的に使用されていた。)
六郷川は多摩川に対しては、海水が遡上するその汽水域に対応し、調布堰の存在によって(川の水位が潮の干満の影響を受ける)感潮域の部分にもほゞ一致する。写真集の始点となるこの地点は(多摩川の最下流部に属するが)、六郷川としてはその上限の地であり、同時に北限・西限の地になっている。

多摩川の中下流域は、左岸の武蔵野台地と右岸の多摩丘陵に挟まれた幅数キロメートルの谷底平野を下るが、近代に本格的な堤防が築かれるまでは、大洪水によって屡(しばしば)谷底平野に刻む流路位置を変遷させていた。

現在の水路位置は(おそらく近世以後大きな変化はなく)、当地の上手で亀甲山に向かって急転回し、ここから丸子橋に至る700メートル程の間は武蔵野台地の崖下に張りついたような不自然な流れ方をしている。
ここでは亀甲山が天然の要害となり、川は決して氾濫することはない。そのような理由で近世には当地が防災上の基点となり、六郷領を護るため上流側の彦根藩世田谷領は冷遇された。(ただ下流側では六郷領より、対岸の川崎領の防衛が重視されていた。)

初めの [No.115b] は「周辺地図」に「始点」と記した位置。左岸堤防下で上流の方向を見ている。(住所は田園調布4丁目地先) 堤防の川表に植えられた六郷川北限のソメイヨシノで、[No.11N] は階段脇の木を反対側から見たところ。 [No.116a] は階段上で川の方向を向いて撮っている。
六郷川の堤には多くの桜並木が作られているが、当然のことながらこの丸子地区より川下の桜は、全て堤防の川裏に植えられている。この辺りは背後が丘陵で堤防決壊のおそれがないため、サクラが数本1列に川中側(堤防の川表=堤防を境に水路のある側)に植えられている。六郷川の川沿いで川の水を背景に桜が撮れるのはこの地点しかない。このページではこの貴重なシチュエーションを生かした写真を優先的に配置した。

右の3枚は、高水敷の先の方に出て、下流方向を向いて撮っている。[No.112] は初夏で緑が濃い頃、[No.11H] は同じ場所の冬。[No.11M] は桜が綺麗な季節で少し川下に進んだ位置で撮っている。 (周辺図を見てもらえば分るように、ここから川下側はほぼ南向きになり、丸子橋を川上側から綺麗に撮るのは結構難しい。)

当地は満潮時にかん水(塩水)が上るほぼ上限にあたる。比重の重いかん水が川底側に浸入してくるのを防止する目的で、(高さ1メートル余りの)堰堤(えんてい)が作られている。その関係で堰の上手は軽い貯水池のような雰囲気になっている。
かつてここの左岸で飲料水を汲み上げていた時期があるが、昭和8年(1933)に、玉川水道(調布浄水場)から給水されていた水道水の塩分濃度が急上昇し、2ヶ月も続くという事件があった。この原因について「多摩川誌」は、「砂利採取と河川改修が行われ、かつ取水量の増加と流量が低下したことが合わさり、海水の遡上がおき、その結果塩分濃度が増加した」と結論している。
(玉川水道は当初、東横線鉄橋付近の井戸から多摩川の伏流水を取水し、調布浄水場と玉川浄水場で浄水し、大田区の約50万人に給水していた。塩水混入事件以後、抜本的な対策として防潮兼取水用の堰堤が作られ、調布堰建設以後、旧来の伏流水取水から表流水取水に切り替えられた。その後水質悪化が進んだため調布浄水場は1970年に廃止された。当地での取水は工業用水用が継続されているようである。)

左岸の高水敷は水路が亀甲山に衝突するところで消滅し、以後しばらくの間は山裾が川に洗われて崖のように険しくなり、低水路に沿った通行は出来なくなっている。崖の先に堰堤(下 [No.113] に掲載)があり、東急東横線の橋梁、丸子橋(中原街道)、東海道新幹線、JR品鶴線(横須賀線)の順で橋梁が続く。このページでは先ず亀甲山裾を上って川を眺望し、以下堰堤、丸子橋の順に下っていく。堰堤の次は丸子橋の前に東急東横線があるが、「その5」に鉄道橋梁群を特集したので東急の丸子橋梁はそちらにまとめた。
左の [No.111] は右岸の側から、亀甲山〜丸子橋の全景を見たものである。川が左岸に急接近した反動で、右岸の側には大きな後退地が生じ、河川敷は最大幅300メートル近くに達する。低水路は見えないが流れは山裾に沿っている。(左端は高水敷が消滅した先にあたり、このページの上の方に掲載した写真を撮っている位置は、この写真の左に外れた辺りになる。)

近世に六郷領のために(狛江から引かれた)六郷用水は、今ではここから海側は埋められ消滅しているが、世田谷からここまでは「丸子川」と名前を変えその痕跡を留めている。六郷用水は狛江で取水後、傾斜地を求めて武蔵野台地の方向に向かい、台地の縁に沿って下ってくるが、亀甲山付近で多摩川に再接近するように出てくる。亀甲山では用水は水面から10メートル近く上がった山肌沿いを通されていた。

現在では旧六郷用水の高さで山腹を切り欠き、「多摩堤通り」が通されている。ガードレールがあって堤防天端のように見えるのは道路で、その裏には山肌が遥か上まで続いている。丘陵の上に多摩川台公園が作られ、4〜5世紀の亀甲山古墳と宝來山古墳を両翼とする古墳群が保存されている。古代から当地が要衝の地であったことが窺われる。

次の5枚 [No.11A][No.11E][No.11B][No.11F][No.11G] は、高水敷の消滅する手前(水路が山裾にぶつかって迂回するところ)の崖状地の手前で、上流方向を向いて左岸の川岸を写している。遠くに松が数本見えている辺りが撮影開始地点になる。
古墳群を擁した多摩川台公園は北側1/3程度のところ(宝來山方向)で切り通され、公園の散策路は「虹橋」によってこの道路を跨ぐようになっている。この切り通し道路が「多摩堤通り」に出たところは、丸子川が北寄りから堤防に合流してくる地点とも重なる。初めの方に載せた桜脇の階段はその位置にあり、ここで川に下りると河川敷に松がある場所に出ることになる。(そこで堤防は終り以後しばらく亀甲山の山肌が堤防に代わる。)

右下の晩秋の風景を撮った [No.119][No.11K][No.11L] は、高水敷の端からさらに山裾を登ったような場所で撮っている。多摩川が急転回し流路が左岸に迫ってくる様子を真正面から見ていることになるのでこういう景色になる。上流側で流路が分岐しているように見えるのは、その辺りに中州が出来ているためである。
2003年の晩秋にこの撮影位置を発見したが、六郷川が最も美しく撮れ、好きなポイントの一つになった。2003年の時は既に紅葉は末期で、冬景色に近い印象だったので、2004年秋は早めに訪れ、紅葉の綺麗な [No.11K] [No.11L] などを撮った。[No.11K] と [No.11L] は同じ日の撮影で、[No.11L] は丁度花が咲いている右の写真 [No.11B] と同じ桜の紅葉姿を撮ったことになる。2005年春の桜の時期に同じ場所で [No.119a] を撮り2003年晩秋の写真と差替えた。

その下の [No.11C][No.11D] はさらに下手の位置にあるサクラを撮ったもの。ここはもう崖状で川の方から行けるところではない。この2枚は道路(多摩堤通り)側からフェンス越しに撮っている。(この2枚と同じ桜を多摩川台公園の中からズームで撮ったものを「その3」( [No.13J] )に載せている。)


洪積世最後の氷期(ヴェルム氷期)には東京湾は乾上っていたが、約1万年前「後氷期」(沖積世)に入ると逆に海進により、縄文前期には海は二子玉川辺りまで上り、その後次第に海は退いて、縄文後期の頃には、多摩川の河口はここ調布(丸子橋)の辺りにあったとされる。
  (流域の地形や海岸線についての詳しい説明は [参考12] を参照

大和朝廷による行政区画(7世紀中頃)では、中央は5畿、地方は7道に編成され、それぞれは国府を繋ぐ公的な道路によって結ばれていた。交通は唐の駅路制度に習い、駅路に30里(16km)ごとに駅家(うまや)を設け駅馬が配備された。武蔵国(むさしのくに)が組込まれていた東山道は、近江から美濃・飛騨・信濃を通って上野(こうずけ)・下野(しもつけ)に入り、陸奥・出羽に至る内陸山道である。因みに古代の東海道には、駿河から相模に至ると海路で浦賀水道を渡り、上総・下総・常陸と行く時期があった。
畿内から武蔵国(国府:府中)に行くのに、群馬方面まで行って下ってくるのはいかにも遠回りであることから、『続日本記』によれば、奈良時代の771年に武蔵国の所属が東海道に変更され、街道としての東海道も相模から武蔵を経て陸路で上総に入る経路が本道になったとされる。
平安時代の『延喜式』によれば、東海道は武蔵国で、−店屋−小高−大井−豊嶋−、という駅家を通っている。小高は川崎市高津区末長のあたり、大井は今の品川区大井と解釈され、この間を真直ぐに進むと丸子付近で多摩川を渡っていたことになる。

鎌倉・室町時代の東海道も丸子の渡しを利用していたと考えられている。ただ府中への分岐の重要性が薄れるにつれ、相模からの街道筋は北へ寄ることなく、中原街道を通って直接丸子の渡しに出る経路へと、次第に変わっていったようである。
「六郷の渡し」が関東に入る表玄関として賑わうようになったのは、江戸時代に東海道53次が海沿いに整備されるようになってからのことで、それ以前の古代から中世までは、西方から多摩川を越える場合の主要な渡し口は丸子地区にあったとみなされる。
中原街道は、相州中原(現平塚市)から江戸に通じ、江戸と相模地方を結ぶ主要な街道になっていた。特に徳川家康が東海道平塚宿郊外の中原の地に御殿を築き(道中の小杉にも御殿があった)、鷹狩などにしばしば用いたことから、この街道は一層にぎわいを増し、江戸時代も初期の頃までは丸子の渡しが江戸の玄関口になっていたのである。
(中原街道沿いにあった小杉村は、後世の町名改正により、「小杉御殿町」/「小杉陣屋町」/「小杉町」/「小杉」に、川側の上丸子村は「丸子通」/「新丸子町」/「新丸子東」/「上丸子天神町」/「上丸子八幡町」/「上丸子山王町」/「上丸子」に細分化されている。)

多摩堤通りは亀甲山の山肌を切欠いて通されているが、山との境目に「丸子川」と称する流れが並行している。一見したところドブ川のようにしか見えないこの堀は、慶長年間に代官小泉次太夫によって開鑿(かいさく)された有名な「六郷用水」の名残である。(いま丸子川は東急線手前の位置で締切られ、底に溝を切って多摩川に落とされている。)
六郷用水は幕府の直轄領であった六郷領を灌漑するために作られた農業用水だが、何故か六郷領の始まるこの地より10キロメートルも遡った和泉村(現狛江市)で取水され、そのためここから取水口までの用水路を開削するのに8年間の工期を費やしている。
六郷領用水を引くに際し、次太夫がこの辺りを取水口にすることが出来なかったのは、夢に出てきた木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)のお告げによるとする、浅間神社の伝承があるが、真実はどうだったのだろうか。
右の小画像は季節は秋だが、上の方に桜を掲載している [No.11N] とほゞ同じ場所で、幾分か水面方向に下りた位置から亀甲山を見上げて撮っている。直ぐ川下に堰堤ができ、今ではここは浅い貯水池のようになって、それだけ水面が高まっているが、それでも丸子川のある多摩堤通りまではこれだけの高さがある。(ガードレールやフェンスが微かに見えている位置に丸子川もある。) 次太夫がここから10kmも遡って六郷用水を取水した謎を解くカギは、当地のこの景色の中に顕れていると思われる。詳細は以下に記述した。
   ([参考 8] 丸子川と六郷用水


近世(江戸時代)、六郷川の主な渡船場は、概ね現在橋の架かっている近くにあった。そのうち幕府が『新編武蔵風土記稿』の中で、「公ヨリ命ゼラレシ渡」と記していたのは、東海道の「六郷の渡し」だけで (多摩川全域としては甲州街道の「日野の渡し」、日光街道の「拝島の渡し」の合せて3ヵ所が官許の渡しだった)、羽田猟師町にあった「羽田の渡し(六郎左衛門の渡し)」、鎌倉街道(下道)の「矢口の渡し(古市場の渡し)」、中原街道の「丸子の渡し」などは、いずれも村持ち即ち地元村営の渡しだった。
東海道53次が太平洋沿岸沿いに整備され、一般の旅人にとって中原街道は脇街道になっていくが、江戸の発展に従って、沿道の産物(平塚の食用酢、秦野の煙草、大山の薪炭など)を江戸に送る物資の輸送路として大きな役割を果たすように替わっていく。
近代になって中原街道沿いの近郊町村は、東京市という大消費地を控えた野菜の供給地となり、中原街道は農家の荷車が行き交うようになる。上りの荷は穀類・野菜・果実・花卉(かき)などで、下りの荷は下肥(人糞)であったという。 (この項、平野順治著「多摩川における渡しから橋への史的変遷」などによる)

左の2枚は丸子橋の上手にある調布堰堤を左右両岸から見たもの。(河口から約13.4km地点になる。見出しの小画像は全景で、左岸側東急東横線の橋梁下から見ている)

丸子の渡しがあったのは今の丸子橋の新幹線側で、当時右岸の河原は北側を「松原」南側を「山谷」と称したが、現在では「上丸子八幡町」と呼ばれている。渡船場があった当時は、河原に川魚料亭などが軒を連ね、丸子通りにかけて繁華街を形成していたというが、大正7年、直轄改修工事により新提が造られることになって、堤外の集落は移転することになり、山谷にあった八幡様も南側に隣接する日枝神社(上丸子山王町)に合祀されることになった。八幡社や山王権現社のある一画は「品鶴線」によって分断された格好だが、新幹線角にある「大楽院」は「日吉山神宮寺」と号し、新提が街道と交叉する位置にあった江戸中期造立の「北向観音」は、大楽院の境内に移されたという。(「川崎の町名」より)

旧丸子橋は昭和7年東京府と神奈川県の工費折半で起工、昭和10年に完成した。全長398メートル幅11メートル、3連の鋼アーチとRCが連続する美しい橋だった。(ただし、歩道の幅が85センチメートルしかなく、自動車通行が最優先された橋だった。) 丸子の渡しは新提が築堤され、丸子橋が開通した時点で廃止された。

平成12年6月に開通した最新の丸子橋は、長さ405メートル幅25メートル、旧橋の景観イメージを継承した、鋼ローゼ桁橋(2連)と3径間連続RC箱桁橋から成っている。新橋は車道が2車線から4車線に、歩道が各4mの両側歩道へと拡幅され、景観、造りともに界隈で随一の近代的な美しさを誇る。
六郷橋や大師橋は堤防を大きく跨いで作られたが、丸子橋では橋と堤防上に段差が無く、堤防からスムースに橋に乗れるのは自転車にとっては好感だ。
ここから 川下側で近年本格的な架け替えが行われたのは、六郷橋と大師橋(途上)だが、いずれも先ず片側3車線分の新橋を架橋し、旧橋を撤去した後、反対側3車線分を隣接して架橋し、見掛け上2本の橋を合体して完成形とする方法が採られている。
一方この新丸子橋では、6車線でなく4車線ということもあり、まったく違う方法が採られた。平成5年に仮橋を作って交通を暫時切替え、7年掛けて旧橋の撤去と新橋の架設を一気に行った。全体工事には長年月を要したが、流水部に掛かる鋼ローゼ桁部は、支間長103mの鋼桁2連をほぼ同時に架設し、一渇水期内に施工を完了させたとされる。

現在丸子橋の左岸側に「田園調布」観測所がある。多摩川の河川管理で、量水標名などに「調布」の名前が出てくるが、「調布」という町名は、明治21年(1888)の町村制施行時に、亀甲山から北側の「上沼部村」、南側の「下沼部村」、沼部の南側の「峯村」、旧流路東側の「鵜ノ木村」の4ヶ村を統合して、当地に「調布村」が作られたことに由来する。
(昭和7年に旧調布村大字下沼部の地が「田園調布」と改名した。)

多摩川に於ける当地の位置づけは、流路の変動範囲が2〜3kmの幅に限定される山間(やまあい)の状況が、この辺りでほぼ終わるという点にある。この下流側になるガス橋辺りで、左岸の武蔵野台地・右岸の多摩丘陵(に続く下末吉台地)が終わり、川下側に河口のデルタ平野が広がるようになる。
多摩川は急流河川に属するが、当地の川上側で流れは急速に緩やかになる。川の勾配をみると、二子玉川の上流側辺りで1/500程度、調布(丸子橋)に掛けて1/700程度が最後の勾配らしいもので、以下上平間(ガス橋)から古川(多摩川大橋)辺りまでで川底は勾配を失い、実質的に川はそこで海に注いでいることになる。

以下、川崎(六郷橋)、羽田(河口)にかけて川は、川底側には鹹水(かんすい)を湛(たた)え、川の水は潮の干満に応じて上下する海水面上に、滑走するように広がりながら流下していく。
ただし大きな水量が激しく流下する洪水時には、河口に至る最下流域といえども、海面に対する流下勾配が必要になる。その場合には二子玉川から調布までが1/1000、古川までが1/1500、小向から川下でも1/2000程度の勾配が想定されている。洪水時に水位の上昇が最も著しいのは、(平時に川が急速に勾配を失う位置にあたっている)この近辺で、直轄改修工事時代の計画高水位では、調布の水位上昇は8Mが見込まれていた。

右の [No.11Q,R,S] は新丸子橋の特徴的な部分を捉えたもの。
親柱は街灯風の作りで、大げさでなく控え目な大きさ、橋の名称をサイドによって漢字と平仮名を使い分けて表示する書き方などは最近の標準式といえる。

新丸子橋の歩道は、見た目の印象では新六郷橋や新大師橋の歩道より広く感じられる。高覧は新六郷橋に見られるような鉄柵のイメージは無く、人が歩いて渡るための橋としての装いがあり、そこには単なる手摺以上の「ヒューマンな美的装飾性」が感じられる。

旧丸子橋の親柱が、新丸子橋と向合うような場所(多摩堤通りの脇)に保存されている。
一つには「丸子橋」と表字され、もう一つには「昭和九年拾弐月成」と表字されている。
この場所は堤防上の高さにあり、背後の下は蒲田に行く東急「多摩川線」の線路になっている。なおここを通る「多摩堤通り」は小田急線の成城学園前を出て野川とともに下り、二子玉川から丸子の間で多摩川左岸に沿うが、全線が多摩川沿いという分けではない。丸子橋のあとは、多摩川線に添って光明寺前を通り抜け、一旦ガス橋通りを経由した形をとってから左折して蒲田方面に向かう。(JR蒲田駅を大森寄りのガードで潜り呑川を渡って第一京浜に至る。)
ガス橋通りに出た時点でガス橋の橋詰まで進み、ガス橋に乗らずに左折すれば旧提通りになる。旧提通りは改修前の左岸旧提に沿って大師橋(産業道路)まで続く。



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