第一部 丸子橋周辺 

(丸子橋周辺の地図を表示)

  その2 多摩川台公園 (見晴し台・紫陽花)

多摩川台公園は武蔵野台地(洪積世=大氷河時代の堆積層)の南縁、渋沢栄一ゆかりの高級住宅地「田園調布」の一角(丸子地区の橋梁群がある上手の左岸)にある。海抜40メートルを超える亀甲山(かめのこやま)を含み、長さ700メートルほどの細長い丘陵全体を公園にしている。(面積は66000平米余り)
亀甲山古墳前の見晴台は(古墳に上ることは許されないので公園敷地の最高地というわけではないが)、高台の樹間から多摩川の上流側を望む絶好の位置に作られている。東京都が大田区に多摩川台公園を開設したのは、昭和28年(1953年)のことである。

二子橋方面から下ってきた多摩川は、左岸で亀甲山にぶつかり、裾を迂回するように右折して六郷・川崎方面に下っていく。近世の世田谷領と六郷領はこの亀甲山を境とした。
近世までの治水はこの天然の要害を利用し、下流域を優先的に護る形で考えられていたらしい。(増水時には出来れば世田谷領で出水させる。下流域では川崎宿や穀倉地のある右岸側の防衛を重視し、左岸側の堤防を相対的に低くするなどしていた。)

流水部は平時でも山腹一杯に迫るため、高水敷は左岸側で消滅し、その分右岸側に大きく広がっている。左岸側のこの区間は堤防上を車道が通るような格好に見えるが、実際には丘陵の裾部が堤防代わりとなり、上流側下流側それぞれの堤防に繋げられている。丘陵の斜面は急で、公園の上から真下の車道は覗き込まないと見えず、すぐ目の前に多摩川が流れているような風景になる。

右の [No.121a] は2003年の晩秋、見晴台から多摩川の上流方向を眺望している。川を広く望める場所は近辺に無く、川を含んだ構図は極めて限定的なものにならざるを得ない。これが有名なこの見晴台を象徴する図柄になる。[No.122a] は翌2004年の秋、ズームを退いて両側の立木を入れている。

東京都が都市化開発の波に席捲される以前、多摩川下流左岸のこの辺り(大田区田園調布から世田谷区野毛にかかる一帯)に、「荏原台古墳群」と呼ばれる50を超える古墳の所在が確認されていた。この公園内に往時の姿をとどめる「亀甲山(かめのこやま)古墳」は、全長107メートルの前方後円墳で、「荏原台古墳群」中最大とされ、昭和3年に国の史跡に指定された。北側には全長97メートルの東京都指定史跡「宝莱山(ほうらいさん)古墳」がある。本格的な発掘調査は行われていないというが、ともに4世紀頃に築造されたものと考えられている。
大きな二つの古墳の中間には6〜7世紀に築造されたとされる8基の古墳群があり、多摩川台公園はこれらの古墳群を中心に周辺一帯を整備して公園にしてある。園内には広く桜が植えられ桜の季節は花見客で大変にぎわう。桜はソメイヨシノが多いが、随所にヤマザクラも見られる。紫陽花(あじさい)園や、水生植物園、野草園があることでも知られる。
[No.123a] は2004年の春、位置は「見晴し台」の中心から少し北側に寄った位置のベンチ。このベンチ前の木はかなりの本数が切られた痕跡を残している。(下の方に見えている桜は、前のページに何枚も載せている「川表の桜」が見えているものである。)
[No.12Q] と小画像は2005年で、ほぼ同じ場所から、川より桜を重視する構図で撮った。春富士をズームした [No.129a] は2006年、(下で残照 [No.128a] を撮っている位置と同じ)見晴台の中央から撮ったもので、富士通のビルが北東斜面の裾に重なる。

多摩川の旧流路跡の1つに、亀甲山の裾から光明寺池の近くを通って多摩川大橋の手前で現流路に合流する北側流路跡が確認されている。
川道が固定するようになったのは、堅固な堤防が築造された近代以後のことで、川に堤防が無かった時代には、水源地が集中豪雨にみまわれる度に下流域は氾濫し、流路はそのつど大きく変わっていた。
現在この辺りの流路は武蔵野台地(左岸側)に寄りつき、多摩丘陵の側が広く空いているが、かつては南西側に寄って流れていた時期もあると考えられている。

公園全体はアカマツ、ケヤキ、ナラ、クヌギ、ムクノキ、クスノキ、サクラ、イチョウ、ヤマモミジなど多くの樹木に覆われているが、この公園の樹木は雑木林風に管理されていて、都会には珍しい武蔵野の風情を醸し出している。桜も刈られていないので、華やかな桜並木とは違った”野の趣き”を味わうことができる。
右の [No.124a] は2004年にアジサイを撮影に行った時、緑が濃い季節の見晴台の雰囲気を撮ったもの。
下の [No.125a] は上に(その2)として載せている [No.122a] と同じ2004年の秋、赤いものが見えたので、柵を迂回し山肌に乗り出した位置で撮った。

見晴台は多摩川に面した雑木林の一部を切欠いて東屋を設けたもので、樹木で囲まれた大きな「窓」のような作りになっている。このように明度の落差が大きい条件で写真を撮ると、目で見た印象を再現できず、写真の限界を思い知ることが多い。
人の目は漫然と視野の全体を見るということはない。視線の移動に応じて、常に中心視が特定の視覚対象を捉え、視線を向けた対象が最も良く見えるように瞬時に露出条件を最適化している。人の視覚は(眼球を動かしながら)、視線の先で捉えた部分映像を集合して、全体視を形成している。
近くの木を見た時は暗さを感じず、すぐに遠くの景色を見ても明る過ぎると感じないのは、網膜の「中心窩(か)」に集積した視細胞により、中心視力の高い調節機能が働くためだが、見ている人にはイチイチ調節しているという意識はないので、頭の中ではそれぞれの見た目の印象が自然に合成され、全体像が形成されて記憶に残る。
一方写真の場合には、カメラが定める一つの露出条件で全体を記録せざるを得ないので、近くの木は暗く(最悪は黒ツブレ)、遠くの景色は白トビに近い状態になってしまうのが普通だ。ただCCD自身は、思い込まれているよりは多くの情報を、実際には記録しているのだが、ディスプレイの方が制約がきつく、情報を一面では表現しきれないために、白トビ黒ツブレの状態で表示しているケースも多い。(そのような写真を復元するには、(ヒトの視覚機構に準じ)部分露光の概念を援用して、明度彩度の適正化を図る。

以下の3枚は冬の夕景色を時系列で並べているが、[No.127a] は他の2枚と撮っている日が異なる。[No.126a] と [No.128a] は同じ日で好天だったが、[No.127a] は夕方に南側から雲が張り出し、日没がギリギリ間に合ったような空模様だった。
[No.126a] と [No.127a] は、[No.123a] で桜を撮っている位置で撮り、[No.128a] は見晴台の中央に戻っている。([No.128a] で右下が少し明るいのは、直下にある多摩堤通りの街灯-「参照」の左側参照) いずれも2005年1月初旬で、夕日は丹沢山地の南側の裾野に沈んでいる。 (日没時点の小画像は [No.127a] のものではなく、[No.126a] と [No.128a] を撮った日のものを使ってあるので、。小画像3枚は同じ日になる。)

夕景に続く「夕焼け雲」や「残照」の写真は、見た目の美しさを何とか留めたいと思うものだが、夕日や朝日を直接撮る写真はそれらとは違って、もともと肉眼では凝視できないような逆光条件を写真にするもので、所詮は無理の産物に過ぎず、(時折撮ってはみるものの)目標を持って追求するようなテーマとは思わない。
富士の真下にあるビルは(現地確認はしていないが、方角からみて多分)富士通。この建物は少し川下の方にある下沼部のNECルネッサンスシティや武蔵小杉のタワーブレイスに比べれば遥かに背の低い建物だが、位置がいいところにあり過ぎるために、残念ながら当地の景観を損ねる存在になっている。

六郷川から富士山までの距離は大雑把に、100km弱程度ではないかと思う。そのほゞ中間に丹沢山地があるが、地図で見ると丹沢は中間より幾分か(55%程度)富士山寄りになるようだ。方角は真西ではなく、勾配で1/5位真西から南に向いている。
[No.128a] で左端は「大山」である。大山は谷を挟んで丹沢山地の東隣にあるが、「丹沢・大山国定公園」と称されるところをみると、丹沢山地とは区別されているようだ。
丹沢と大山の境界は双方の登山口がある「ヤビツ峠」で、ここが北側の宮ヶ瀬湖と南側の平地(秦野方面)の分水嶺になっている。丹沢山地の表尾根は「ヤビツ峠」から西北に向い、「三ノ塔」を経て「塔ノ岳」に至る。(「三ノ塔」は丁度「大山」の陰に入るためこちらからは見えない。) 「塔ノ岳」から北側は裏丹沢と呼ばれ、「丹沢山」を経て最高峰「蛭ヶ岳」まで標高は増していく。更に西丹沢が「檜洞丸」を経て山梨県境の大室山へと続くが、六郷川から見る丹沢は、「蛭ヶ岳」の北側で急速に高度を減じるので、「大室山」方面は見えていないものと思われる。
ギャラリーでは当地を北限にし、多摩川緑地、大師橋緑地、羽田空港外縁など随所で富士山を撮っているが、共に写る丹沢との位置関係は微妙にずれている。例えば空港外縁で撮った [No.73M] では、富士山の南側輪郭線は丁度「大山」の頂上付近にあるが、当地では「塔ノ岳」を過ぎ「丹沢山」方向にまで寄っている。それだけ丹沢山地の標高も増しているので、川上側にくるほど富士山の見える範囲は小さくなる。

「残照」は、空気の澄んだ冬場の日没後に見られる美しい景色だが(美しさの程度は日によって異なる)、重要なポイントは、最も幽玄にして色濃い瞬間が、日没後40分ほど経過した後に訪れるということである。(「夕焼け」の諸々に関しては第4部で特集し、「残照」についても(その4)の後半で取上げているので、ここでは詳しくは触れない。)
日が没したらあとは暗くなるだけ、という認識では「残照」を捉えることは叶わない。大気の澄み具合を見慣れてくると、今日の残照は綺麗だろうとある程度予感できるようになる。そんな日は日没を撮ったら40分ほどじっと我慢してその瞬間に備える。瞬間とは言っても綺麗な時間は数分は持続するので慌てることはない。
この最高の瞬間は既に日暮れに差し掛かっていて、辺りはもうかなり暗くなっている。西空の山際に見える神秘的な美しさは、ヒトの目にはよく見えるが、カメラの自動露出で捕らえられる程の明るさはない。
多分割測光の自動露出では、周囲が暗いためカメラは必死で露光しようとする。(絞りが開放の場合1.5〜2秒位)。その結果空の部分は露出過多で白トビ状態となり、肝心の色は殆ど記録し得ない。(この場合の白トビは完全に飛んでいて事後の復元は殆ど不可能。)
周辺の黒ツブレを覚悟して、マニュアル設定で露出時間を抑えて(絞り開放の場合1/8〜1/2秒位)撮ることが必要になる。 左は自動、右は手動、光量を減じるほど赤味が増す関係があるので、最適値はその人の感性に拠る所となる。)


 
紫陽花(あじさい)苑は公園の東端にある。(ただしアジサイ自身はここだけでなく、野草園から水生植物園の石垣周辺にもある。)
紫陽花苑から水生植物池までの東側区域は、大正中頃から戦前まで多摩川の伏流水をくみ上げ、品川・大田一帯に飲み水を供給していた「調布浄水場」の跡地にあたる。(海水混入事件で調布堰堤が造られ、以後井戸は廃止されて表流水の取水に換わった。)
今湿性植物が植えられている池は浄水場時代に沈澱池だった所だが、その部分の建設工事により、亀甲山前方後円墳の内の後円部の南端を削ってしまったという苦い経験があるらしい。

2002年に多摩川台公園に初めて紫陽花を見に行ったのは、6月下旬に差し掛かる頃だったが、あいにく花は既に盛りを過ぎ、殆どの花が張りを失っていて印象は悪かった。

2003年は前年の轍を踏まないようにアジサイ情報に注意していたが、結局撮影に行ったのは前年より1日早いだけのほぼ同じ時期になった。
しかし花は今最盛期に差し掛かるという感じで、前年とは打って変わって若々しく、印象も一新させられた。 (2002年は桜が2週間も早かったように、花期が全般的に異常に早かったのである。)

アジサイはソメイヨシノと同じように、園芸用の固有種は日本が原産らしく、万葉集にも「あじさゐ」として出てくる。アジサイ色といえば独特の青紫色を思い浮かべるが、最近のアジサイは(園芸種のご多分に漏れず)、欧州で品種改良された「セイヨウアジサイ」など色は様々で、赤紫や白などいろいろな花を見かける。

この公園のアジサイは、種類はそれほど多いようには見えないが、古来のアジサイを象徴する青色系統の花は少な目で、全体的に暖色系統の割合が多いように思える。仔細に見ていくと同じような赤系でも色は微妙に違い、苑中央に植えられた紅の濃いものが特に目を惹く。(この花かどうか定かではないが)プレートには「テラピンク」と書かれていた。実際の花の色はピンクではなく、かなり赤に近い鮮やかな赤紫色をしている。[No.12Ba]

2003年は昼前から小雨が降りはじめ、撮影中を通して止むことはなかった。幸い空は明るかったので、紫陽花を鑑賞するには最適だったかも知れない。ただ被写体が滴(しずく)に濡れたような状態は、必ずしもウェブ写真撮影に適した条件とはいえない。(花をアップで撮る場合は問題ないが、幾分広い範囲を雰囲気として撮ると、散りばめられた水滴が輝点ノイズのように写ってしまう。)

2004年は、アジサイが6月初旬頃になりそうだという情勢はキャッチしていたが、所要があってその頃には行けず、撮影したのは中旬になってからだった。赤いものは既に褪色気味のものが多く、色鮮やかなものは少なかったが、白やピンクのものは未だ綺麗だった。
2004年は2003年とは逆に、晴天で日差しが強過ぎ、花びらが反射で光ってしまうという難点があった。
写真はその後のものも追加してある。上から6枚が2003年の撮影、次の8枚は2004年、その下6枚は2005年、最後の2枚は2007年の撮影。なかなかいい時期に巡り合せない(大抵来るのが遅すぎる)ということもあるのだろうが、ここのアジサイは(特に中央部分では)年々冴えない雰囲気になっていくように思われ残念だ。

昨今では園芸種の花は様々な色が作られ、アジサイも青い色が一般的とはいえないが、本々のアジサイの鑑賞性には青い色の花が珍しいという意味も大きかったに違いない。(青い花が少ないのは空の色に隠れて昆虫が見つけにくいからだろうか?)

”青いバラ”は世界に共通する「不可能の代名詞」で、その道では究極の挑戦対象になっているそうだが、バイオ技術が進んだ今でも、純粋な”青いバラ”は未だ作れないようだ。青色系の花としては、ヒヤシンス,朝顔などを思いつくが、矢車草のように純粋な青でなく、紫色が掛かっている場合も多い。青色の遺伝子は花の色としては希少なものらしい。

生物界で青色が特異なのは植物だけではない。熱帯魚がカラフルな魚類だが、青の色素を持つ種類は殆ど発見されていない。ルリスズメダイやネオンテトラなど青色が美しい魚の体色は、色素細胞による発色ではなく「構造色」と呼ばれる干渉反射光による。
赤色や黄色の色素胞は、カロテノイドやプテリジンといった色素を持っているが、構造色を発色する「虹色素胞」(イリドフォア)は色素ではなく、「反射小板」と呼ばれる微細な板状物を組合わせた反射構造体を多数内包している。(反射小板は高屈折率で光反射性の大きな物質である核酸塩基のグアニンを主体としたプリン体で作られている。)

コバルトブルーやメタリックブルーに輝く体色の発現は、光を吸収する色素の存在により反対色が見えているのではなく、運動性虹色素胞の存在により反射光が干渉して特定の波長に偏ったための発色である。構造色は反射光が干渉した結果だから、反射小板の間隔が変われば強められる波長は変わる。熱帯魚のブルーの発色は、環境刺激や生理的な要因によってその色合いを微妙に(藍〜緑)変えることが知られている。また干渉光は見る方向によって強められる波長が幾らか異なり、それが構造色独特のキラキラした輝きを感じさせる。「虹色素胞」と呼ばれる所以はここにある。 (構造色についての説明は 「O plus E (2001.3)」 より、藤井良三先生の論文などから引用させて頂きました。)

構造色の発現は魚類に特有なことではなく、孔雀の羽にある目のような紋様、モルフォを代表格とする蝶の鮮やかな羽の色(青系)、「玉虫色」という言葉の由来にもなった或る種のコガネムシ(緑系)など、鳥類や昆虫にも良く知られた例がある。

非生物にも(生物のように波長を変えたりはしないが)、構造色と同じような干渉光を見せるものは存在する。自然界では真珠がその代表例、人工物としては帝人がナノテク技術を使って開発した干渉性発色繊維「モルフォテックス」が有名。可視光とコンパチブルな間隔で光を多重反射する積層構造体になっていることが必須要件である。

「虹」は太陽光線が自然のプリズム作用でスペクトルに分解されたもの。日本では「虹は七色」が常識だが、欧米では虹は六色と言うらしい。日本のように青と紫の間に「藍」という1色を設けない。(indigo blue という英語はあるが、藍(あい)色は紫に含めている。)
アメリカのアルパート H マンセル(1858〜1918)が創案し、1905年に発表した有名な色表示の体系である「マンセル表色系」では、基本色は虹の六色から更に「橙」を除いた五色を採用している。この五色(赤・黄・緑・青・紫)の夫々の中間に各1色を認めれば、虹は(日本の虹色に黄緑と青緑の2色を足した)九色という見方も成り立つ。

ヒトが色覚によって存在を知ることが出来る可視光線というのは、太陽から放射される電磁波のうち、波長が概ね380nm〜770nmの範囲の光線を言う。単色光の色は波長によって変わる。色に於けるこの属性を「色相」と呼ぶ。
ヒトの網膜が光の強さに対してどの程度敏感かという感度を、光の波長を変えて測定した「視感度曲線」は、昼間視で550nmにピークを持ち両端にいくほど感度は低下していく。
赤外線、紫外線はヒトには見えない。つまり可視領域の両端に近づくほど色の弁別感度は落ちていく訳で、波長がどの程度違ったら違う色として識別できるかというのは色によって異なることになる。
弁別感度が最も高いのは550nm〜590nmの範囲の黄色光で、波長が1nm異なれば違う色として区別できる。従ってこの範囲の黄色だけで40色あることになる。可視光線全域ということでは、平均的に2nmの波長の差があれば違う色として識別出来るとされ、結局「色相」はおよそ200種類の色から成り立っているということになる。

光の三原色、赤、緑、青に各2色の加法混色である、黄、シアン、マゼンタの3色を加えた6色の色相環では、向き合った色は互いに相手の色要素を全く含まない「補色」の関係になる。(補色同士は等量混合されると無彩色化する。補色になっているかどうかは、半分ずつ塗り分けたコマを回すなどの方法で確かめられる。) 暗所(月の無い夜など)で、明暗により物の輪郭を識別する視覚を「薄明視」(はくめいし)と呼ぶ。哺乳類は先祖の時代(恐竜類が跋扈した中生代)に長く夜行性の生活を強いられていたため、その間に薄明視の能力が高まったという説がある。
逆に哺乳類は他の高等動物に比べると色覚能力は劣り、多くの種属では視物質の数は2種類しかない。後期霊長類に進化して独特の双眼立体視を得、真猿類に至ってやっと色覚も3色を獲得するようになった。それでもヒトは依然として色覚の感受性(200種)より、明暗に対する感度の方が鋭敏であり、500段階の明度を識別出来るとされている。

薄明視の主役である視物質ロドプシン(桿体)は、網膜の周辺部まで一様に分布し、その数は昼間視の主役である視物質(錐体)より20倍も多い。一方錐体は黄斑の中心部にある微小な凹み(中心窩:fovea)に集中的に分布し、この高度集積が凝視能力(高解像力)を実現している。昼間視で明度が判別できるのは、3色の視物質それぞれが感知した信号から、何らかの計算法により総光量(刺激和)を算出しているものと想像される。

最後に植物における色の感受性について。植物は光を生育のエネルギー源として利用するが、葉緑素(アンテナ色素)がキャッチするのは主として赤色光であることが知られている。(それ故草木の葉は赤の補色である緑に見える) ところが植物を赤色光ばかりで栽培するとまともな形に発育しなかったり(青色光が無いと茎が太くならない)、(植物種によっては)緑色光が無いと花を作らない、など色々な特性のあることが分かってきたそうである。



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