第一部 丸子橋周辺 

(丸子橋周辺の地図を表示)

  その5 丸子の鉄道橋梁群

明治期の郊外電車の発達は、まず利用者が見込まれる街道沿いに展開し、多摩川流域の台地部では遅れていた。大正時代に渋沢栄一により田園調布の開発が提唱され、大正7年に着手、12年には販売が開始された。こうした趨勢に合わせた田園都市開発の路線として、大正12年に目黒蒲田電鉄が開通、大正15年には東京横浜電鉄の丸子多摩川−神奈川間が開通し、昭和2年には渋谷までの全線が開通した。

東急電鉄の前身は、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道や東京横浜電鉄などを合併して昭和14年に出来た東京横浜電鉄である。戦時体制で小田急・京王・京急を合併して東京急行電鉄となり、戦後3社が分離した後も東急電鉄の名称を継続した。
東急東横線多摩川鉄橋の東詰に多摩川駅(旧多摩川園前駅)がある。以前は東横線(渋谷−桜木町)と目蒲線(目黒−蒲田)の下りは田園調布駅で並び、次の多摩川園前まで1駅間は並行して走った。多摩川園前を出ると東横線はそのまま真っ直ぐに多摩川を渡り、一方目蒲線は別れて川沿いに南下していく形になっていた。
最近、都営三田線と営団南北線がつながって目黒まで延び、東急線とも相互乗入れすることになって、目黒からの東急線(旧目蒲線)は多摩川駅で東横線と別れず、そのまま川を渡り武蔵小杉まで行くようになった。この目黒から武蔵小杉までの区間を目黒線と呼ぶ。
一方(JR京浜東北線)蒲田駅から六郷川の北側を西進する線は、目黒線との接点になる多摩川駅で折り返す多摩川線に変わった。
[No.151b] は桜の最盛期に亀甲山から撮った苦心作。丸子橋近辺で川は、ほぼ北から南に流れる。この地域で川上側から川下向きに撮った写真が少ないのは、季節や時間帯を問わず概ね逆光になるためである。左端の松の後ろに丸子橋のアーチが見えている。正面の高層ビル2棟はNECの玉川ルネッサンスシティ。

大正15年に架けられた東横線の丸子鉄橋はトラス橋だったが、複々線化に伴って架け替えられたものと思われる。 [No.152a] は丸子橋の上から、東急電鉄線多摩川鉄橋を見たもの。背後は亀甲山で、川中に調布浄水場時代の名残である防潮堰堤(えんてい:横断堤防)が見られる。[No.153] は秋風が吹き始める頃。

東海道新幹線の多摩川橋梁は、全長408メートルのプレートガーダー橋で、昭和39年5月に竣工している。後ろに見えるトラスは隣に架かる横須賀線多摩川橋梁で、旧「品鶴線(ひんかくせん)」の多摩川鉄橋を利用したものである。
(右下の小画像は右岸堤防上から見たものだが、ギャラリーの [No.154] は左岸堤防から見たもので、背後のビルは「六郷川目標建造物」([参考25] )の一つに挙げているNEC玉川事業所内の自社ビルで、撮影当時はこの1棟しかなかった。)
(新幹線の写真が少ないのは、川上からの左岸は逆光になるし、右岸はネットが邪魔して景色が悪い、川下からでは両岸とも品鶴線のトラスの陰になるという訳で、ここでの新幹線の撮影条件が極めて悪いためである。)

「品鶴線」は昭和4年に品川−鶴見間に敷設された貨物専用線で、東海道本線の別線(品川〜大井間で分かれ、川崎〜鶴見間で合流する)として貨物列車のみが運行されていた。
陸上の貨物輸送は殆どがトラック便という時代になって、貨物鉄道のウエートは低くなり、貨物用の操車場は遊休地として売却され、鉄路の方は旅客線に振替えられるケースが多い。(ただ最近環境に対する配慮から鉄道によるコンテナ輸送が見直されつつある。)

横須賀線は以前は川崎(東海道線)を通っていたが、昭和55年(1980)品鶴線に振替えられて「新川崎」と「西大井」が出来た。東海道線の混雑緩和が主目的だったと思われるが、埼京線との結合など将来計画が視野に入っていたのかも知れない。
今でも貨物列車は残っているようだが、旅客線は横須賀線のほかいろいろな車輌がココを通っている。紅白に塗られ写真写りがいいのは成田エキスプレス。湘南新宿線は宇都宮線若しくは高崎線から赤羽経由で新宿に乗入れ、(りんかい線と接続する)大崎を経て品鶴線に入り、大船で湘南方面と横須賀方面に分岐する。(湘南新宿ラインは2004.10のダイヤ改正で新宿折返しが無くなり、全列車が大船-大宮間を直通するようになったようである。)

NECは創立100周年記念事業の一環として、玉川事業所内に「玉川ルネッサンスシティ」と称する自社ビルの建設を行っている。[No.154] に見えているのは2000年に完成した1棟目だが、2004年に入った頃、隣に建設している2棟目が遠くからでも見えるようになってきた。春には完成する予定とされていたが若干遅れているようである。1棟目より50メートル程度高く地上160メートルになる。
左の小画像は2004年2月に、工事中の様子を丸子橋梁群下手の右岸堤防上から見たところ。右の2棟目の屋上工事部が左の1棟目の上に出た頃だが、この後新棟がどんどん高く差を開いていった。2棟はかなり高い位置で連絡通路によって結ばれている。

2004年2月はじめ、この辺りに来たついでに工事中のビルを間近で見てみることにした。右岸の新幹線橋梁上手で堤防を降りて道路を下った。この辺りは上丸子山王町という。
川裏にある日枝神社の角を右折し、南部沿線道路(下平間で府中街道から分岐する)を突っ切って進むとJR南武線に突き当たり、正面にこのビルがそびえて見えるところに出る。少し下ったところが「向河原」の駅で、東西に走る道路がNEC玉川事業所を南北に分断している。玉川ルネッサンスシティのビルは南エリア(本工場側)に建てられていた。

事業所の西側は品鶴線及び並走する新幹線で仕切られ、その西側(不二サッシ工場跡地)は再開発用地となり、府中街道までの間が広く更地化されている。NEC玉川事業所の南側(中丸子)の道路に品鶴線の踏切があるが、ここに今にも崩れそうな雰囲気の渡線橋があった。[No.155a] はこの上から撮った。左端が高架になっている新幹線で、新幹線は丁度この地点で品鶴線と分離する。品鶴線は真っ直ぐ南に下って鶴見に行き、新幹線は西寄りに進んで新横浜方面に向かう。
ひどく腐食した渡線橋に上がってみて、界隈の老朽化が気になった。品鶴線の多摩川鉄橋は昭和3年に出来たままだとすれば、既に80年近く経過している。湘南新宿ラインは大幅に増強される趨勢にあるが、この橋は六郷川の現役の中では群を抜いて古い橋である。


2002年8月7日、丸子地区の[東横線鉄橋から新幹線橋梁の間]で愛嬌をふりまく若いアゴヒゲアザラシ1頭(タマちゃん)が発見され話題になった。自立しようとしているうちに群れからはぐれ、北極圏から流されてきたらしいとのことだった。

多摩川は上流域が環境基準のAA〜Aに格付けされる水質を誇るが、水道水を取水した後で流水のほとんどが下水処理水に代わる典型的な都市河川である。(羽村取水堰で取水されずに放流されるのは2m^3/secだけ)
多摩地区の開発造成に伴う生活排水の垂れ流しなどにより、多摩川の有機物汚染が特に酷(ひど)くなったのは1970年代で、昭和54年には中下流域のBODは河川の常識とされる10ppmを遥かに超え14ppmに達していた。その後下水道事業が進展し(現在多摩地区に6ヵ所の下水処理場がある)、ここ数年に水質改善は著しい成果を上げている。近年丸子の4kmほど上の二子地区で、アユの魚影が濃くなってきたことなどが報告されている。(多摩川中・下流の環境基準は、平成12年度にC,DからBに類型指定の変更がなされた。) 
因みに、2000年のBOD測定値は、丸子(田園調布堰上)で、年平均1.5 (75%値は1.8; データの幅は3.8〜0.7)、六郷橋で、年平均2.3 (75%値は2.9; データの幅は9.0〜0.9)、大師橋で、年平均2.1 (75%値は2.6; データの幅は5.9〜0.7) などとなっている。
(平成15年の国交省のデータによると、一級河川のうちBODが低い方の上位は、北海道の後志利別川、三重県の宮川、富山県の黒部川などで0.5〜0.6ppm。悪い方は、大和川、綾瀬川、鶴見川の順で、平均値は5.3〜4.3ppm。 BODの詳細は [参考24]

(水族館の人気者アシカは芸をするとイワシのような魚をご褒美に貰うが、)アザラシの主食は魚ではなく底生の小動物(ナマコ、イカ、ホタテガイなど)とのことで、水質は良くなったとしても底質の改善度はどうなのだろうか、「タマちゃん」を保護するべきか、放置しておくのが良いのか、など議論が沸騰し始めた。
ところが二子玉川で「世田谷区たまがわ花火大会」があった17日からプッツリと姿が見られなくなり、19日には八丈島でUターンした台風13号が関東の南方海上を東北方面に向かって通過し、東日本に大雨を降らせた。多摩川は3メートルほど増水し、川は濁水泥水となり流速を増した。台風の余波で流されてしまったらしいこのアザラシは以後消息不明となったが、8月25になって鶴見川の鷹野大橋付近で目撃され、翌26日綱島街道大綱橋隣の東横線鉄橋下で元気にしている姿が確認された。
鶴見川の大綱橋は地図上では、丸子橋から直線距離5キロメートル余りの所だが、東京湾を回る行程は40キロメートルになる。多摩川と鶴見川を結ぶ短絡路は無く、近道するとしても、精々河口近くで多摩運河に入り、千鳥運河、塩浜運河などを抜けて京浜運河に出て、鶴見川の河口に至る経路をとる程度だ。

「タマちゃん」は30日海に向かって下っていく姿を最後に再び姿を消したが、9月12日横浜駅に近い帷子(かたぴら)川の平沼橋近辺で発見され、15日には更に南の(みなとみらいに開口する)大岡川に居るところが確認された。
当初タマちゃんの移動について、7日,25日はいずれも大潮で、17日,30日は小潮だったとの指摘があったが、次の大潮にあたる9月7日近辺には姿を現さず、12日は既に小潮に入っていたため、移動の理由や時期的な関係については掴みきれていない。
結局帷子(かたびら)川の居心地が一番良かったのか、秋になって再び帷子川に舞い戻っていることが確認された。
暑さが和らぎ栄養状態にも不安が起きていないという様子から、以前ほどの大騒ぎにはならなくなったが、「タマちゃん」が流行語大賞に選ばれた12月3日も、18日振りに西区の帷子川に姿を現し、コンクリート護岸の日だまりで、ごろごろとくつろいでいた。
年が明けた2003年には「ニシタマオ」とする住民票が発行されたが、肝心のタマちゃんはその後荒川(朝霞市の辺り)に移動し、2004年4月頃を最後に姿を消した。

環境省が発表した2001年度の水質汚濁状況によると、タマちゃんが出没した河川のBOD値は、多摩川中・下流域:2.0ppm、鶴見川下流:5.2ppm、帷子川:1.9ppm、大岡川:2.3ppm となっていて、帷子川は中では一番良い数値になっている。因みに、全国河川の最高は苫小牧幌内川上流、苫小牧川上流、小荒川上流(青森県)が並び、最悪は春木川(千葉県)だった。(2002.12.25 東京新聞)
(なお帷子川を西横浜から八王子街道沿いに西北西に遡ると、旭区の西北端・若葉台で消滅する。その手前から八王子街道に沿って上る支流は横浜水道と呼ばれ、東名横浜ICの南側を通り境川に達する。境川は津久井方面に発し東進の後ほぼ真南に下って江ノ島に開口する川である。帷子川は多摩丘陵の南側境界の目安とされる。)


以下余談になるが、国土交通省京浜河川事務所のホームページに載っている多摩川の橋の写真館は誤りだらけだ。公的なサイトということで信じきっている人が結構多いように見受けるが、参考にする場合には十分な注意が必要である。

東急線の丸子橋梁を幅7メートルのワーレントラスと記載している。(現況ではトラスは見えないし、複々線化されている橋の幅員が7メートルというのは不自然だ。大正末期に作られた古い橋のデータをそのまま記載してあるのだと思う。)
六郷橋の説明は現況に対して不正確なデータになっている。(竣工を昭和59年としているが、同年は上り橋の暫定供用を開始した年で、6車線道路としての供用開始は昭和62年、橋の完成は平成9年である。復員の17メートルというのは根拠不明で、実際には34メートル余りある。)
橋の構造形式にやたらトラスという文字が目立つが、六郷川に架かる10本の橋のうち、全径間トラスというのは京急線の六郷鉄橋だけである。(JRの2本の六郷橋梁は流水部を跨ぐ部分のみがトラスで、避溢橋は双方ともコンクリート桁橋になっている。トラスとは無縁で紛れのない鋼箱桁(プレートガーダー)橋と思える六郷橋や新幹線丸子橋梁の構造形式にまでトラスの文字が見えるのは不可解だ。上掲した旧品鶴線(現横須賀線、湘南新宿線、成田エクスプレス等)の丸子橋梁も厳密に言うと両岸の避溢(ひいつ)橋はトラスではない。)
ついでながら、同サイトに載っている羽田の「旧レンガ提」の位置を示す地図は誤りである。レンガ提は旧羽田猟師町の河岸にあたる位置にあった。現状では、本羽田公園の端から旧提通り沿いに大師橋に至り、橋を抜けたあとは羽田の渡し跡で沿岸(防潮堤)に接近し、その後裏通りに沿って羽田弁天社の場所まで続いている。京浜河川事務所の地図では、龍王院前の羽田街道にマークが施されているが、レンガ提があるのはそこではないし、その長さも図示されているよりは遥かに長いものである。



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