第三部 多摩川大橋周辺 

  その1 ガス橋から多摩川大橋へ

このページではガス橋の下手から多摩川大橋の下手までを下っていく。

[No.320] はガス橋下手の左岸河川敷で、上流向きにガス橋を望んだところ。ガス橋周辺の左岸は、工場が移転した跡地を数年掛かって再開発しているが、2003年頃から大型のマンションが続々と目に見える形になってきた。
ガス橋過ぎのキヤノン本社 ([No.219],[No.21P],[No.236]) は少しへこんでいてこの位置からでは社屋は見えにくいが、2002年に本社社屋を建設してからも敷地を広げ、この地にグループ最大の研究開発拠点を集積中だ。
その奥に建築中の高層ビルは三菱自動車の移転跡地に再開発中のマンションで、橋詰のキヤノンから新築中のマンション群まではスーパー堤防になる。左岸にやゝ遅れて右岸側の武蔵小杉一帯に大規模開発が行われるようになった。[No.320] でガス橋の左奥に見えているのは右岸丸子に建設中のNECルネッサンスシティのノースタワー。ルネッサンスシティを皮切りに、武蔵小杉一帯の工場跡地に再開発が進んで、超高層マンションが次々に建つようになってきた。[No.31C4] ではルネッサンスシティの陰になって見えていないビルも多く、実際には林立状態になってきている。

多摩川下流の低地を囲む北側の武蔵野台地は、洪積世(170万年前に始まる大氷河期)の堆積層に、数万年前の富士箱根等の火山の火山灰が積もって風化した関東ローム層が載った地層になっている。
洪積世は氷期が続いた後に氷が解ける間氷期の時期があり、海面は「氷河性海面変動」(グラシィアル・ユースタシイ)が約10万年毎に繰り返され、その高低差は最大100m以上に達したと考えられている。この辺りは間氷期が来るたびに海面下に沈んでいたということになる。

今から1万年前、沖積世が始まった当時、古多摩川は今より西南側を流れ、鶴見川は矢向付近で、また古呑川も河口に近い藤崎で古多摩川に注いでいたとされる。
縄文時代は今から1万年前、最後の氷期があけた後に草創期をむかえた。当時は気候の温暖化により海面が上昇を始めていたが、海面は未だ今より40メートル低く、干上がった東京湾には古東京川(今から12万年前頃にできたとされる)が流れていた。
(以下蛇足だが、東京湾は一般に駿河湾や富山湾など水深が深い湾の対極にある浅い湾と認識されている。然しそれは内湾のことで、浦賀水道の底から先には古東京川に侵蝕され2万年前頃に出来たとされる「東京海底谷」が存在し、観音崎沖から相模灘にかけて深さ1千メートル長さ40キロメートルもの峡谷が続いている。ここは深海ながら内湾からの豊富な栄養供給を受けられるという条件があり、世界でも稀な深海ザメ(ラブカ、ギンザメ、ゴブリンシャークなど)約40種や棘皮動物トリノアシなど古生代に起源を持つ生物などが生息し、多様な深海の生態系を形成している。)
(沖積世の多摩川沿海部海岸の変化、多摩川低地の生い立ちなどは [参考12]
9千年前頃から急速な海進が始まり、毎年2cmの勢いで海面が上昇した結果、2千年後の縄文時代中期には、後のデルタ平野の大方の部分は海面下に沈み、古多摩川東側の立川段丘面で生活していたと予想される最古の縄文人の遺跡は海成層に覆われてしまった。

[No.319] は2004年にはいった冬。右岸の堤防から冬枯れの河川敷越しに左岸の上流方面を見ている。この位置だと実際にはガス橋に重なるようにして丸子橋も見えている。(アーチは丸子橋) 撮影時期は上の[No.320] とほゞ同時期である。

ガス橋を過ぎる辺りで水路はゆっくり左岸側に曲がり、矢口のポンプ所に向けて左岸側で急速に河川敷を減じ、右岸側(古市場)でゴルフ場が始まるようになる。つまりガス橋の辺りでは左岸側に余裕を生じているが、この部分では岸辺の散策路がかなり堤防側に寄っていて、川縁の側に最大幅50メートル程度の幅広い荒地がしばらく続くようになっている。
この荒地は雑草雑木に覆われ、岸辺は崖状で様子も定かに見極められず危険な雰囲気になっている。川縁の樹木は根が弱く、大きくなると台風や雷でダメージを受けて限界に達するケースが多いが、ここは平坦部に幅がって樹木にも余裕があるのか、巨木に近いような大きな木も混在している。
2013年は久々に植物調べを行うこととし、川下側は六郷水門から川上側はガス橋まで足を延ばした。(単発では空港沿岸から丸子橋まで見たが、単発では変化を掴めないのでHPを更新するまでには至らない)ガス橋まで来る主要な対象はここの荒地が広く余所の規模を超えるだけに内容に興味をそそられるためである。

ガス橋に近い側ではメダケらしいものが、皮がむけて?見慣れない変な格好をみせていたりと、如何にも荒地然とした汚い雰囲気。春先に一面を覆っていたイネ科の大型種が何であったか確認できない内に夏になり(時期が早かったのでセイバンモロコシやオギではない。、やや下手にオギの群落はあるが、オギは中央脈が明瞭なので見損なうことはない)、7月初めには一部にクサヨシの実った後の丸棒状態が見られたので、春の繁茂はクサヨシだったのかも知れない。汽水域のオニグルミはどこでもたわわに実って、汽水域でオニグルミは増える筈だとつくづく思う。やはり雌雄同株は繁殖には強い理屈を実践しているのがオニグルミだ。
散策路にキジバトが5、6羽居た。10年くらい前には南六郷の護岸でキジバトを見たが、その後すっかり姿を見せなくなり、久々にここで姿を見た。この”森”に棲んでいるのだろうか。人を見ると寄ってくるドバトとは違って、野生種なりの警戒感があって、近くの大柳に飛びすぐ移り飛び去ってしまったが、その一瞬をカメラが捕らえていたので載せておいた。

春にここの草深い藪に踏み込んでいくと、ある場所でやゝ開けた箇所に出る。そこでは上手側にはカキドオシの群生があり、屈めばぷーんと芳香が漂う。この辺には7星テントウが多く、未だ蛹の段階にあるものも目に付いた。群生は低く密生し立ち上がったり、蔓状に伸びるようなものも見掛けなかった。
夏になると花の終わったカキドウシに換わって、隣接したマルハバッカがミント臭を漂わせる。花は白くどちらかと言えば地味で、良く見れば結構特徴のある花だが、その気になって観察しなければ見過してしまうほど目立たない。
この場所は不思議な場所で、春はムラサキハナナなどを見たし、夏はブットレアが10株近く咲乱れ、オオキンケイギクやアラゲハンゴウソウなど近隣では見ない花が咲いている。HLが関わっているようには見えないが新旧入混じったような感じなので、かつて誰かが花畑のようなことをしていた跡地に、近在の誰かが園芸種を植えたりして遊んでいるのだろう。近くにはカンナの花が目立ち、ヒルガオの花も多く赤紫の色濃い花が多く見られたことが印象的だった。

春にイネ科に覆われていた一帯は、夏場にはクズに全面的に覆われていた。川下側から来ると、矢口橋を過ぎた辺りから川縁にクズの跋扈する様子が顕著で、中程度の柳は天辺まで上れれてしまっていておそらく枯らされるあろう。しばらくオギの群落が散策路に密接して続くため、川側の様子は全く分らない。その場所を過ぎると上に載せた領域に出るのだが、7月中旬頃には全面的にクズ覆われてしまっていて、イネ科は小型種以外には姿を見なくなっていた。
2013年の夏は長かった。早々と梅雨が明け、7月は猛暑が続いた。ところが夏真っ盛りの7月下旬に再び訪れると、この区域のクゼズは何故か減衰し、散策路からブットレアの場所までは殆ど抵抗無く入れるようになっていて、マルハバッカも散策路の際にまで出てきているものもあり、様相は一変していて狐につまれたような感じだった。
多摩川大橋から下手ではクズが繁栄している場所は無く、こっちの方で初めてクズを見た時にはアレチウリと見間違ってしまった。アレチウリが無い訳ではないが、全体を覆うように繁栄しているのはクズで、アレチウリはずっと少ない。秋になるとこれにカナムグラが加わって正に荒地の代表選手が出揃うという様相になる。

矢口橋のやゝ上手の水際にヤマグワの木が2本ある。右の写真は2013年4月に撮ったヤマグワ。緑色の実のように見えるのは花で、ヤマグワは雌雄異株であり、これは雄花であるため受精して実になっていくことはない。7月この辺りも地面はアレチウリで覆われていたが、流石に幹を這い上がっていくほどの様子は無く、根元周辺を埋め尽くすに留まっていた。然し木に勢いは感じられず、葉も虫食いが目立った。
ところが翌2014年5月に当地を訪れるとNo.31F1のように赤い実から黒く熟し掛かった実まで、多様な実が鈴生りで、昨年の青いものは出来立ての実であることが分かった。多摩川大橋から矢口橋までの河川敷の端(水路側)にはヤマグワの大きな木が5〜6本植えられていることが分かったが、皆同じような実を付けていて、これらは雌株では無く雌雄同株ではないかと思われた。
養蚕の歴史は古く、稲作と軌を一にすると言っても過言ではないほどである。5〜6000年前の中国で野生種の「クワコ」を飼い馴らしてカイコを作り出したとされる。クワの葉には他の植物のような「忌避物質」が殆ど含まれていないため、自然にもクワの木でクワコが繁殖していたものと思われるが、クワコを原種として養蚕用に大きな繭を作るよう、飛べなくなるほど身体も大きく改良されたものがカイコである。日本には弥生時代に伝来したと考えられ、カイコの品種は数百種に及ぶ。当然餌として栽培されたクワの方にも改良が加えられ、世界には1800種ものクワの品種があるとされる。

最終氷期が終わってから1千年ほど経ったころ海進は最頂期に達した。海面は今より4メートル程高くなり、海は多摩川沿いで等々力緑地辺りに達し、鶴見川(早淵川)に沿って形成された溺れ谷は横浜市都筑区に広がっていた。呑川沿いでは海は台地に浸入し、入江は仲池上の辺りにあった。
5.500年ほど前を境に海退に転じ、縄文時代中期には、多摩川沿いの海岸線は丸子の辺まで退いた。この時期から多摩川の運ぶ土砂により、沿岸部の埋め立て作用が始まり、東京湾沿岸部の泥質は砂質に、即ち干潟は砂浜に変貌していく。
1,500年前の古墳時代、海岸の先端部は小向辺りまで入っているが、沖積平野の堆積は進み、北側は武蔵野台地の南側が蒲田の南方一帯まで陸化した。西側も多摩丘陵と下末吉台地の中間部が塞がり、沖積平野は鶴見まで陸化が進んでいる。

[No.311] は2003年の冬、 [No.319] を撮った位置よりは川上寄りで、第二部に載せているピンクの桜を撮影した近辺。こちらは河原に出て川下側を向いている。化粧直しした清掃工場の煙突が中心で、右端に多摩川大橋の先にあるトミンタワーが見えている。
下の [No.316b] は、上の [No.311] と同じ清掃工場の辺りを左岸の川下側から撮ったもの。

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)
 
(「矢口橋」の表記)

「矢口橋」というのは聞き慣れない橋だと思われるが、矢口ポンプ所の排水路が高水敷を横切る上に架けられた橋にこの名前がある。水門水路は2007年に新装成った。この辺りでは矢口橋や清掃工場の煙突くらいしかポイントが無いので、数年に一度の写真更新も又同じような景色になる。(遠景はNECの横に武蔵小杉界隈の高層ビルが数棟見えている。)
東京都は2008年4月から、家庭ごみの収集法を改定するが、分別のきまりが区によって異なることが物議を醸している。不燃ゴミ(金属やガラスなど)については紛れがないが、可燃ゴミと資源ゴミの境が区によって異なる。包装材のうち紙パック、ペットボトル、発泡スチレン(ミートトレーなど)類などは、すべての区に於いて分別してリサイクルするが、その他雑多な包装材(透明スチレン容器、小さなポリ袋、カップ麺容器など)を分別するのか、可燃ゴミとして一括廃棄するのか定かでないようだ。
リサイクルする再処理施設は各区にそれぞれ在る訳ではないので、分別法が統一されていないと矛盾を生じる。もともとゴミを分別してリサイクルしようという発想は、環境対策だけではなく、資源の乏しい我が国で、市場原理に任せていてはコスト的にも破綻してしまう将来事情を見通して始められた筈で、焼却炉の性能が上がったから、プラスチックも可燃ゴミとして扱えるようになったという説明は、努力したいという住民意識を逆撫でし、時代に逆行する行政の姿勢を露呈したものと言わざるを得ない。

右の [No.314a] は多摩川大橋の川上側で対岸の鹿島田方面を見ている。高層ビルはサウザンドタワーと新川崎三井ビル。(新川崎三井ビルはツインタワーだが、多摩川大橋の辺りから見ると2棟が重なって1棟に見える。) この日は晴れていたが雲が多く、この時間帯は強い光が雲間から差し、スミアが出ないギリギリの逆光写真になった。似た光景を川下側であと4枚撮っているが、以下の写真は「第4部 その1」の方に掲載している。
(川上側から順に、[No.41E],[No.41B],[No.41C],[No.41D]

左岸北側を走る東急多摩川線(旧目蒲線)は、蒲田を出ると 「矢口の渡し」,「武蔵新田(にった)」 と多摩川所縁(ゆかり)の駅名が続く。14世紀の南北朝時代末期(正平13年=1358)、足利基氏に組みする竹沢右京亮と江戸遠江守に謀られ、ここ「矢口の渡し」で非業の死を遂げた新田義興(義貞の第二子)の霊を鎮魂するために建立された新田神社は、左岸から700メートル程北側に離れた位置にある。その当時(鎌倉街道が多摩川を渡る)矢口の渡しは、その辺りにあったとする説が有力だが、中世には川全体が南流していたという説もあり、双方に整合性はあるのだろうか。

旧矢口の渡しの200メートル下流に作られた多摩川大橋は、第二京浜国道が多摩川を渡る道路橋である。総工費1293万円を投じて旧東海道が整備され、京浜国道(現第一京浜国道)として完成したのは昭和2年だが、それも数年で飽和状態となり、新たに作られることになったのがこの京浜第二国道である。
こちらは従来の道路とは関係なく、岡を崩し田畑を埋めて新しい構想で作られることになった。昭和11年に起工、6か年計画、工費1300万円の予定で開始された。道幅は第一京浜より3m広い25mとし、交差する電車線路を高架にして踏切を無くし、環七と交差する松原橋で我国で初となる立体交差を試み、電線を地下に埋設して電柱を無くすなど、様々な新しい設計が取入れられた。
第二京浜国道は昭和11年に着工されたものの、日支事変の影響で工事は延び、やがて太平洋戦争に突入し、多摩川大橋の橋脚工事が終わったところで工事は中止になってしまう。しかし多摩川を挟んだ地域に軍需品工場が急増し、輸送のため架橋は緊急要事となった。苦心惨憺のうえ昭和20年3月に巾4mの木橋が架けられたが、4月15日の空襲で焼夷弾の雨を浴びて焼け落ち、僅か15日のはかない運命に終わった。

昭和22年架橋工事は再開され、昭和24年4月着工以来14年振りに開通した。(第二京浜国道は全路線の舗装が終わった昭和34年から、第一京浜に代わって国道1号線になった。)(以上「大田区の歩み」より)
橋が出来て矢口の渡しは廃止となった。明治30年に和田英作画伯が矢口の渡しの風景を写生した「波頭の夕暮」という有名な作品(油彩画)がある。(東京芸大美術館に展示)

右の赤い潅木 [No.312a] は左岸多摩川大橋上手。この一画は一寸した公園風の体裁で、夾竹桃などの低木が植えられている。(背後はオギが茂り、そこを掻き分けると低水護岸に出る。) ガス橋の桜の紅葉を撮りにいった帰り道、ここの刈り込まれたドウダンツツジが見事に紅葉していたのでこれも秋の一景にした。
10年後の春に、ここでドウダンツツジの花を撮った。更に翌年の真冬(2月初め)には冬芽を撮った。遠目には何も無いような雰囲気だったが、近付いてみると赤い新芽が一杯出始めていた。

多摩川大橋は全長436メートル幅員22.8メートルの、ゲルバー桁橋である。(ゲルバータイプは、橋桁を連続した剛体構造にするのではなく、桁をヒンジで接続して応力のニゲ余地を持たせ、支承部が不等沈下を起こした場合にも、桁が歪んだり捩れたりしにくいという特徴がある。) 

多摩川大橋はI型プレート4本から成る典型的なプレートガーダーだが、昭和59年に川下側に隣接して架けられた送電専用橋(東電・NTT共用)がランガーで造られたため、遠目にはこれと重なってアーチ橋のように見える。
丸子橋のように頑丈そうで重量感があるアーチ橋はローゼ桁橋と呼ばれ、この写真に見るようにアーチもリブも細く貧弱で、見るからに華奢(きゃしゃ)なアーチ橋はランガー桁橋と呼ばれる。
国道1号線が一級河川を渡る橋がランガーというのは違和感に満ちた光景だが、近づいて見れば双方は橋台が高水護岸で繋がっている程度で、全く別の橋であることが分かる。
たかがケーブルの渡河橋にアーチが使われたのは、流水部を1径間で済ませ工費を節約するためではないかと推測される。隣の多摩川大橋は流水中に2ヵ所の橋脚を有しているが、この送電専用橋では流水部に橋脚を作ることなく、3倍の長さを保たせ流水部を一跨ぎで越えている。このように実用本意で設計されたため、アーチの長さは3等分されず、最後のアーチが小さい見た目不恰好なものになった。(No.312 が分かり易い)
多摩川大橋は(昭和32年末)わが国で最初の水銀灯がともされ話題になった橋でもある。

[No.315][No.317] の2枚は同じ日に撮ったもの。この日の天気はそれ程良いというものではなく、夕焼けに大した期待はなかったが、全く予想外の収穫があった。完全に無風というほどではなかったが、川面が凪(な)いで鏡のように景色を映していたのである。
この辺りは感潮域の中ほどで、川底は既にガス橋のあたりで海抜ゼロメートルを切っている。川は実際には海水で満ちていて川に勾配はなく、比重の小さい淡水はかん水上に広がるように下っていく。満ち潮時は海水が丸子橋の辺りまで川底に入り込んでくるので、下ってくる淡水としては、川底が徐々に高くなってくるような按配になり、厚みが失われていく。潮が満ちてくる過程では、川は事実上その勾配が逆転したような感じになる。水は流れ下ることはなく、池に溜まるようにただ水位だけが上昇していく。
([No.315] で送電専用橋の橋桁の下側に点々と覗いて見える赤い照明は、隣の多摩川大橋上を行く自動車のテールランプ。[No.316] の位置からでは多摩川大橋は完全に隠れて見えない。[No.317] で橋下に点々と見える灯りは、右岸の堤防沿いに走る川崎市道「幸多摩線」の街路灯が見えている。)



   [目次に戻る]