<参考10>  左岸の「旧堤道路」と「小向の渡し」


ガス橋のたもとから産業道路の大師橋北詰まで、環八の裏街道のような位置を走る都道424号線がある。
都道424号線は路線名を「ガス橋大師橋線」といい、全線ほぼ多摩川沿いを走り、ガス橋通りと産業道路の間を繋いでいる。この道路が通称「旧堤通り」と呼ばれるのは、大正後期から昭和初期に掛けて多摩川下流が大規模に改修される前まで、左岸の堤防が概ねこの通りの位置にあったことによる。

ガス橋から多摩川大橋までは堤防下(厳密には下ではなく土手の中腹の高さ:末尾[注]参照)を進み、多摩川大橋を潜った後、「トミンタワー多摩川二丁目」の前で堤防上に上がり、1キロメートル余りは堤防上を独占し、シャープ流通センター手前で左折して堤防を下りていく。
(「旧堤通り」が堤防上を走る区間は、堤防天端は片側1車線の車道となり、歩行者や自転車は危険で通行は不能だ。堤防の内側の端にはガードレールが付けられているが、川道側の路肩は特に補強されたりはしていない。たまたまこの区間は川が急カーブしているため、浸透防止のため高水護岸が施されているが、コンクリートブロックが貼り付けられているのは2/3程度の高さまで。万が一車が転落してくれば、下のサイクリング道路を行く人は一たまりもない。緊急車輌までが常用するこの道で、転落事故を目撃したことがないのは不思議に思える。
国土交通省は、「基本的には堤防天端は、一般の利用者や河川管理上から、真にやむを得ない場合以外は、車専用の道路として使用は致しません」との立場を表明しているが、 「真にやむを得ない場合」について明確な基準があるのかどうかは知らない。)
尚、多摩川大橋の上手側の堤防天端は荒れていて、堤防上を路面が通されていた形跡は窺われないので、ガス橋側の「旧堤通り」は当初から堤防下に作られていたと思われる。

「旧堤通り」はガス橋からシャープ流通センターまでの上手の側では、現在の多摩川堤防に密着する狭い道路だが、下手の大師橋までの間は川から数百メートル離れ、路線バスも通行するまともな道路に変身する。

「旧堤通り」は、シャープ流通センターの角で左折しながら堤防を下りると、京急六郷土手駅の北側を過ぎ、第一京浜国道(東海道)を横切り、以後大師橋までの間は現堤防の数百メートル北側を走る。六郷橋上手から大師橋までの旧堤防は、現在堤防がある位置より遥か北側にあったことになる。
実際明治19年の「荏原郡全図」を見ると、当時多摩川最下流左岸(六郷から羽田にかけて)の堤防は、現在の位置よりかなり内側で、概ね「旧堤通り」の位置にあったことが分かる。従って六郷村や羽田村の一部(現西六郷4,仲六郷4,東六郷3,南六郷3,2,1,本羽田1,2,3丁目の南縁側)は堤外地になっていたことになる。
旧提がシャープ流通センターの角で急激に左折していたのは、その先(川下側)が右岸側の小向村の飛び地になっていて、荏原郡と橘樹(たちばな)郡の境界線(今流に言えば都県境)が、その位置で川を横断していたからである。多摩川が一級河川になる前まで、その維持管理は地方自治体の責任とされていたので、荏原郡の側の堤防が境界線に沿って屈曲せざるを得なかったものと推察される。

「旧堤通り」との関係から大雑把に言えば、シャープ流通センターから先(川下側)の左岸の堤防は、直轄改修工事の際新しく造られた堤防(新堤)ということになるが、厳密にいうと新提はもう少し川上側の古川村地先辺りから造られたようである。
六郷川の川道は、多摩川大橋を過ぎると程なくして大きな逆S字のカーブに入っていく。水路は古川薬師の先まで右に回り続けてから変曲点に向かうが、現在の堤防はこの湾曲の最終部分では低水路に追随せず、古川薬師の地点からそのまま直進してしまうので、堤防と低水路の間に次第に高水敷が拡がっていく。シャープ流通センターは高水敷が急激に広がり、広大な多摩川緑地が形成される入口に位置している。
ところが明治大正時代の古い地図を見ると、旧提はシャープ流通センター辺りまでは川岸に沿っていて、そこで急角度に左折し今の河川敷を直角に横切るように川岸から離れていくようになっている。 つまり旧提は左折点に至る前の部分も、現在の堤防の位置にではなく、もっと川岸寄りの別の位置に存在していたと推測されるのである。言い換えれば、新堤はシャープ流通センターから先だけを造ったのではなく、もっと川上側(古川地区辺り)から造ったと考えないと、古い地図に見られるような旧提の急角度での左折は説明できない。
左折点まで水路沿いにあった旧提部分は、改修工事によって新提が内側に築造された後、削平され高水敷に同化されたのであろう。

旧提そのものは小向村の飛び地の手前で左折し、流水部分から離れていくが、堤防道はそのまま直進していく短い分岐があり、その終点が村の境界線でそこに「小向の渡し」があった。
「小向の渡し」は一般的な多摩川の渡しの中には出てこない場合が多い。それは「小向の渡し」が街道を繋ぐ渡しではなく、荒れる多摩川が生んだ典型的な「作場渡し」(流路の変遷によって田畑が分断され、飛地耕作の為に川を渡る必要が生じた農民のローカルな渡し)だったからである。
(ただし「大田区史(下巻)」には多摩川の渡しに関連して、幕末における渡船場の関門機能が説明されていて、そこに以下のような記述部分がある。 「安政5年(1857)日米通商条約によって外国人遊歩区域が指定され、東は多摩川、西は酒匂川をもって境界とし〜(中略)〜、六郷渡船場には外国人警護の番所が設置され〜(中略)〜。しかし外国人への投石や殺害事件が相ついだため、幕府は安政7年(1860)に六郷渡船場に加えて、多摩川・相模川・鶴見川筋の渡船場に見張小屋を建て、外国人の保護と浪人などに対する監視を命じた。多摩川では羽田の渡しより甲州街道日野の渡しまで17ヵ所に見張小屋が設置されたが、それには丸子、二子の渡しなどの往還筋ばかりではなく、小向、古市場、下野毛など、いわゆる作場渡しまで対象となり、小屋の設置、番人の常駐など、組織的な関門の機能がみられる。」)


「小向の渡し」が何処にあったか正確な位置は分からないが、河川敷に「区民広場」と称する陸上用のトラックが作られている前面の辺りに違いない。(多摩川緑地の川上側の端にあたる)
ここは旧護岸が150メートルほどに亘って崩落しているが、川上側の旧護岸延長線と川下側の旧護岸とが繋がらないことは明らかで、区民広場から次のサッカーグランドの境目に寄る辺りで、10メートル程度急激に川幅が拡がっていた形跡がある。新護岸がかなり引いた位置に作られているため、旧護岸が崩落した跡は、川上側では抉(えぐ)られているが、川下側は大潮の干潮時にはかなり干上がる湿地となり、この区間で最大のヨシとオギの繁茂地になっている。
この場所だけ何故旧護岸が崩落したのか原因は分からない。もしかすると大正12年(1923)の関東大震災以来手付かずのままなのかも知れないが...それにしてはかん水が上るこの位置で、剥き出しになった鉄筋が思いの外腐食していないのは不思議に思える。崩落の原因はともかく、かつて川岸が5〜10メートル、澪筋に直角な部分を有していたとすれば、そこが小さな船着場を設けるには格好な場所であったと想像するのは難くない。段差になる近辺に1本だけ朽ちた木の杭が残っている。ただこの杭は細いので、これが何の名残なのかは推測できない。
(左の空中写真は初めの2枚は米軍の撮影、3枚目は出所不明だが昭和30年代頃の撮影ではないか。1枚目は多摩川緑地の全体をカバーしていて、高水敷側に細長く水域のあることが分る。2枚目はその部分の拡大になり上手で低水護岸が2重になっていることが見てとれる。3枚目はその2重になった部分の詳細が分り、ここが「小向の渡し」跡であることはほゞ間違いないと思われる。ここには桟橋だけでなく船溜まりのような作りになっていたことが窺われる。護岸の内側の水域は2枚目の写真で明らかなように、かなり川下側に延びていて、現在その辺りに「瓢箪池」と呼ばれる釣堀が残されている。)

「神奈川県橘樹郡御幸村大字小向の内、多摩川以北を東京府荏原郡六郷村に編入す」など、多摩川を跨ぐ飛び地12箇所についての境界を変更し、多摩川を実質的な府県境と定める法律が施工されたのは明治45年のことで、「多摩川における渡しから橋への史的変遷」(平野順治著)には、「小向の渡し」は大正10年ごろ廃止されたと記されている。

「消え行く筏道」(平野順治著)の中に、『東京西南部の地図を見ますと、東海道をはじめとして、平間街道、中原街道、大山街道、鎌倉街道など、ほとんどの幹線道路は南北に走っています。これは過去の長い歴史が描いた政治、経済、文化の流れに他なりませんが、東西を結ぶ道には、これといったものが見当たりません。それだけに、多摩川に沿ってほぼ東西に伸びている「筏道」は、うねうねと曲がりくねった細い道ながら、流域の人々にとっては、生活の道、産業の道、情報の道として、かけがえのないものであったわけです。』という記述がある。
古い時代、筏道として利用されていた堤防は道路の意味を持っていた。筏宿は羽田猟師町と八幡塚村にあったので、左岸を伝う「旧堤通り」が筏道の最川下側の部分になっていたことは間違いない。(但し厳密に言うと、旧筏道は多摩川大橋上の矢口の渡しがあった地点で現在の堤防位置からは離れていくので、堤防が道路としての実績を持つのは多摩川大橋上手の東八幡神社のところまで。) 現在の都道424号線は昔の伝統を引継いだ上で、さらにガス橋までの部分を追加した形だが、昭和7年(1932年)、蒲田・羽田・六郷・矢口の4町が蒲田区として東京市に編入された時、この道は既に「府73号調布川崎線」として認知されていたことを裏付ける資料がある。

(「大田区地図集成」(大田区立郷土博物館)の中に、昭和7年に東京市が作成したと思われる「新区内町界町名整理案図(荏原郡)」(使われた原図は昭和4年前後のものではないかとの解説がある)が載っている。その内「蒲田区 其ノ三 六郷町」を見ると、新堤防は現在地にほぼ出来ているが、一方現都道424号線のラインも、全線に未だムカデ足のような土圍(=土堤)のヒゲ記号が付記され、堤防状態のまま残されていたことが分かる。ここにはそれぞれ、六郷橋から川下側は「府六十号鈴木新田川崎道」、川上側は「府七十三号調布川崎道」と添記されている。旧提道路の川下側がいつ削平されたかは不明。)

明治時代までの六郷川の川幅(堤防間隔)は現在より広く、流水路は幅広い河原の中でさまざまに向きを変えていたと思われる。(明治前期の地図には、六郷橋から大師橋までの間に、現在は存在しない蛇行が複数箇所認められる。ただし河口に近い辺りの平時の流水部の幅については、現在の方が当時より格段に広くなっている。)
現在都道424号線が堤防上から下りてくる、西六郷4丁目(シャープ流通センター角近傍)の地点から、六郷橋を経て大師橋に至る部分の左岸の現堤防は、直轄改修工事の時期に新設されたものだが、この新たな堤防の構築によって、左岸側の川幅は、六郷橋周辺で50〜60メートル、上流側で150〜200メートル、下流側で300メートル程度狭められたことになる。(河道断面の容量は河原の削平や低水路の浚渫などによって確保された。)
この新提の築造によって、六郷橋北詰にある北野神社をはじめ、それまで堤外になっていた左岸の居住地の大半が堤防内に入ることになったのである。

[補足1]  上の3枚の航空写真について若干補足しておく。

上から2枚は終戦直後に米軍が撮ったものだが、この時点では既に左岸には直轄改修工事による新しい堤防が出来ていて、旧堤道路と呼ばれる都道は堤防に突き当たる位置で、堤防上に上がり多摩川大橋方面に向かうようになっている。
小向の渡しは、左岸の安養寺と右岸の妙光寺の中間にあって、右に載せた明治時代の地図で見られるように、今旧堤道路と呼ばれる道路は真直ぐ小向の渡船場に向っていて、右岸側も真向いから道が続いていた。(当時の地図では船の字ではなく俗字である舩の字が充てられている)
3枚目の写真は、よくこんな写真が残っていたものだと感心させられるほど、左岸側の渡船場跡の様子を捉えている。右岸側では既に渡船場の痕跡は無く、上手側に川崎競馬の練習馬場が出来ていることが見て取れる。(1周1200mの調教用のダートコース)
「川崎競馬50年史」によれば、川崎競馬場が竣工し第1回の県営川崎競馬が開催されたのは昭和25年1月だそうが、場所が狭く厩舎を抱える余裕が無かったため、御幸町小向に厩舎村が作られた。河川敷に練習馬場が設けられ、調教時には道路を跨ぎ堤防を上がり降りして馬場に出るようになっている。昭和48年(1973)9月に、厩舎管理体制強化のため小向きゅう舎駐在事務所を設置し、その後小向厩舎地区に厩舎が増えていったようだが、逆にこの練習馬場が何時出来たのかは分からなかった。この写真では厩舎が並んでいるように見えるが、馬房数不足を補うために調教師が競馬場周辺に独自の厩舎(外厩)を開設することが認められていた制度は2001年11月に廃止され、現在はこの場所には厩舎は無い。



[補足2]

内務省東京土木出張所が発行した『多摩川改修工事概要』(1935年)に、「多摩川改修工事は、大正7年度より昭和8年度に至る16ケ年の継続、総工費金7,339,551円30銭(事務費129,570円80銭、事業費7,209,980円50銭)を以て、左岸東京府北多摩郡砧村、右岸神奈川県橘樹郡高津町以下、海に至る約22粁間を施行したるものなり」、「一朝洪水を起すときは水害を報じ、直接の損失額1ケ年平均145万余円(自大正7年、至昭和2年平均)に及ぶの状態にして、明治43年の大洪水に於ては、羽村堰より下流の田園を浸し、又道路を押流し、下流京浜間鉄道の如きは不通数日に及べり。此水害面積10,300ヘクタールなり 」、「改修区域は左岸北多摩郡砧村、右岸橘横郡高津町以下、左岸東京市蒲田区、右岸川崎市大師河原に至る区間にして、計画高水量は既往の洪水流量を参酌して4,170立方米と定め、河幅は上流に於て383米、河口に於て545米となし、其両岸に堤防を築造せり。堤防は天端の高計画高水位上1.5米、馬踏5.5米、両法2割法にして、川裏に天端より1.8米下に幅員3.6米の小段を付せり」などの記述部分がある。
”川裏の小段”は、ガス橋〜丸子橋間のサクラ並木の辺りにはっきり見られるが、ガス橋〜多摩川大橋間の都道424号線は、ガス橋を過ぎたその続きの位置になる。(尚、現在の基準高水量は毎秒8,700立方メートル(河道で6500)、堤防の余裕高は2.0メートルに改められている。)

   [参考集・目次]