<参考15>  羽田御台場


一般に「御台場」と名前が付くのは、江戸時代末期(1850年代以降)にペリー艦隊に対抗すべく、砲台築造のために作られた人工島のことであるが、羽田御台場はこれに先立つ天保改革の時期(1840年代)に築造され、短期間で廃止された砲台跡である。
羽田御台場は多摩川河口の左岸、鈴木新田先の出洲(江戸時代後期、羽田弁天の常夜灯が置かれていた)にあった。かつての羽田御台場跡地は、明治期には羽田3村の飛び地となり、それぞれの字に区分されている。近代以後は、(昭和7年から13年まで)東京府畜産奨励会によって経営された、コース長1マイルの競馬場がここに出来、毎年春秋2回競馬が開催されて賑わったという。
戦時体制下では軍需工場(字御台場に日本特殊鋼、東貫川の西に明電舎)が作られ、島の東側には戦時中高射砲陣地が置かれた。戦後占領軍による空港拡張によって、鈴木新田共々で全域が空港敷地に組込まれることになり、現在ではどこが御台場であったかなどの見分けは殆ど付かない。(羽田東急ホテルの東、空港局レーダーとの間辺りが旧東貫川の位置になるだろうか。)
御台場といえば第一感として品川沖のものを連想し、今では羽田に御台場跡があったことを知る人は少ない。以下「大田区史」の、天保年間の海防政策について記載された部分から抜粋し、(今はもう跡形もない)羽田御台場について紹介する。

徳川家慶(いえよし)は、浦賀奉行太田資統がアメリカ商船モリソン号を浦賀沖で打払う事件が起きた天保8年(1837)将軍となり、ペリーが初めて旗艦サスクエハナなど軍艦4隻を率いて浦賀に来航した嘉永5年(1853)在職のまま死去した12代将軍である。徳川家慶は天保12年(1841)5月、大御所家斉の死去を契機に、幕政改革を推進することを宣言した。この天保の改革は老中水野忠邦を中心に進められた。
この年には、アヘン戦争での清国の敗北が決定的となったことから、幕府の緊張は高まり、天保改革の柱の1つとして、海防政策や軍事面の近代化が取上げられた。(ただ折りしも将軍家慶の日光参詣が決定し、海防問題は将軍留守中の警護問題と重なっていく側面があった。)
水野忠邦は、高島秋帆(しゅうはん)を長崎から江戸に呼び出し、家臣を弟子入りさせ江川英龍(後鉄砲方兼勤に抜擢される)などに高島流砲術を学ばせた。西洋砲術の開祖と目され、長崎奉行直轄の鉄砲方を務めていた秋帆は、天保11年に洋式砲術採用の急務を説いた国防意見書を長崎奉行田口加賀守に提出していた。
水野忠邦は、天保12年6月、信濃松代藩主真田幸貫(ゆきつら)を老中に登用し、翌年9月に海防掛に任じた。(幸貫は同時に将軍留守中の御用取次を兼任した。) 以後、一連の海防政策は、幸貫を中心に展開されることになる。
真田幸貫は、松平定信(徳川吉宗の孫)の次男として生まれ、真田家の養子となって、文政5年(1823)八代目の松代藩主になった人で、武術を好み闊達で度量の大きい人物だったという。幸貫は海防掛に任ぜられると、腹心の佐久間象山を江川英龍のもとに入門させ、西洋砲術を学ばせ、意見を具申(「海防八策」)させる一方、既に天保10年に江戸湾岸を巡視測量して、改革意見書を提出していた英龍の提言を参考に、江戸湾防備体制の改革に着手する。(英龍は、江戸湾防備の最大のポイントとして浦賀水道の重要性を指摘し、台場の設置や、大型軍艦を製造して迎え撃つことを第一としていた。)

幸貫は江戸湾の防備体制を強化し、併せて諸藩の軍事体制の近代化をはかるべく、相模国の海岸と房総沿岸の御備場(おそなえば)の警衛を、幕府主導(代官支配)から譜代大名を中核とする体制に切替えた。即ち、浦賀奉行の持ち場を減じ、観音崎台場、城ヶ島遠見番所から鎌倉辺りまでを川越藩の管轄地とし、安房・上総については、富津、竹ヶ岡備場に加え洲ノ崎(館山湾突先)に備場を新設、白子に遠見番所を設置して、忍(おし)藩に警衛させるなど、幕府官僚に代え両藩に沿海防備の任務を命じた。
また下田奉行を再設置するとともに、観音崎・富津より内は、公儀御備場として幕府直轄のもとに置き、内湾防備の中核の役割を担うべく、新たに羽田奉行を設置した。羽田奉行には安房・上総御備場御用を務めていた田中一郎右衛門勝行を任命した。
水野忠邦は天保13年7月、異国船打ち払い令を改め、薪水給与令を出す。老中真田幸貫は、江戸湾(観音崎・富津ラインより内湾)の防備の要となる台場「海門内之御備場」の用地選定のため、天保13年10月勘定吟味役川村修就(ながたか)に命じて、江戸湾沿岸の巡視を行わせた。川村修就は水野政権を支える官僚の1人で、代々(抜け荷摘発などを行う)幕府御庭番の家筋であったが、天保の改革がはじまると、勘定吟味役に抜擢され、武器掛、浦々御備場御用取次などを兼任した。同年12月、修就は巡視報告書で台場の候補地として、羽田村の地先と本牧本郷村の地先をあげ、結論として羽田村の洲先が最適であると進言した。
修就は勘定奉行岡本成とともに、下田・羽田御備場の御用取扱を命じられ、羽田台場の築造に取り掛かる。天保14年2月に老中真田幸貫、堀田正睦(まさよし)らによる予定地の見分が行われる。3月は出洲が顕れる季節に当たり台場の築造は本格化する。
天保14年3月に幕府が明らかにした、緊急時の異国船取り扱いをめぐる大綱では、1.異国船は、(三浦半島先端の)城ヶ島と(内房館山湾突先の)洲ノ崎までの所で差し止める。順風などによりこの線を越えた場合は、(浦賀水道最狭部の)観音崎と富津岬までの所で差し押さえる。2.取り扱いは穏やかに行い、速やかに届ける。もしこの線を強引に突破された時にはただちに打ち払う、と定めている。
天保14年4月には将軍家慶が日光参詣に出発し、田中勝行は羽田に詰め台場築造は突貫工事で行われるようになる。(ただ同時に工事が行われていた下田備場とともに、将軍不在時の対応として間に合わせ的なものという色彩が濃く、台場は後年の品川台場に比べれば遥かに小規模なものだったし、台場を維持するため鈴木新田に作られた番所も仮設段階のものだったといわれる。)

天保14年(1843)9月、老中水野忠邦は江戸・大坂10里四方内を天領に組入れる「上知令(あげちれい)」を出した。生産性の高い江戸と大坂の近郊を幕府直轄とし、幕府の支配体制と財政を強化するとともに、対外的な防備体制を強化することを目的としていた。しかし、土地は公儀のものとする強権的な上知令は、和歌山藩主をはじめとする大名の反対にあい、旗本も、領地は先祖の功名により神君家康公より賜わったものだと反発したため、結果的に忠邦は幕閣内で孤立することになる。
天保14年閏9月、上知令失敗の責任をとって忠邦は老中を罷免され失脚した。老中堀田正睦をはじめ勘定奉行岡本成など、水野政権を支えてきた腹心の官僚たちも次々に御役御免となり、左遷させられた。反対派の老中阿部正弘らが政権を握ったことにより、天保の改革は僅か2年半で挫折し軍事改革も白紙に戻されることになった。
羽田奉行、下田奉行は廃止され、翌弘化元年(1844)5月、海防掛の真田幸貫が病気を名目に辞任、江川英龍も鉄砲方を罷免され一代官に退いた。羽田奉行田中勝行は浦賀奉行に転役となり、与力同心もそれぞれ鉄砲方に配置換えとなった。奉行所の施設引渡しが完了し、羽田台場が廃止されたのは10月に入ってからである。この時台場構築に協力した地元3村(羽田村、羽田猟師町、鈴木新田)に手当てが与えられている。

反射炉を築き大小砲を鋳造した韮山の代官で、黒船来航後復活し、勘定吟味役として海防の議に参与した、江川太郎左衛門英龍の海防構想は、江戸湾全域に台場を作る大規模なもので、羽田も当然その候補地に含まれていたが、嘉永年間に幕府が実際に大砲を設置した台場は品川沖の数箇所に止まった。
天保の改革期以降、羽田に再び砲台が設置されることは無かった。羽田は確かに地図上では、江戸内湾の防衛上要衝の地と見なされるが、地形的には多摩川河口の砂洲が発達した遠浅の海浜であり、敵を迎え撃つ防衛の拠点として軍港を設営するのに不適当であったのみならず、大型船が接岸出来ないため、砲台を築造するための資材を洋上運搬することさえ難しかった。当時の大砲の射程は高々2〜3キロメートルであったから、上陸をめざして接近してくる艦艇を打払う場合はともかく、江戸湾への侵入を計り遥か沖合を通過する敵艦船を、この地の大砲で打払うことは現実的ではなかったのである。



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