<参考16>  羽田空港の黎明期からオキテンまで


大正時代、多摩川の河口一帯は浅瀬の砂浜で、干潮時には一面の干潟となり、軽い飛行機の滑走には好適な場所であった。この多摩川のデルタ地帯は俗に「三本ヨシ」と呼ばれ、日本の飛行機の黎明期は一時期ここで育(はぐく)まれた。
玉井清太郎は雑誌「飛行界」の記者相羽有の協力をえて、大正5年(1916)大師河原の側の出洲に飛行場を開設し、日本飛行学校を創立して、試作機を飛ばしたり、訓練生を指導したりした。清太郎は翌年自らが製作した玉井式3号機で帝都訪問飛行に出るが、3回目の飛行中に翼が折れ芝浦で墜落死してしまう。
弟の藤一郎(後に照高)は相羽とともに飛行学校の継続を図るが、同年秋の暴風雨と高潮によって格納庫もろともに飛行機を流失してしまい、日本飛行学校は壊滅、「三本ヨシ」での飛行訓練は停止のやむなきに至る。
その後相羽は日本自動車学校を創立して自動車に専念するようになるが、玉井藤一郎は羽田飛行機研究所を設立して、飛行家養成学校の再興を図る。大正10年(1921)末に玉井照高は羽田を引払って、神奈川県鶴見町生麦の埋立地に移転したので、羽田三本ヨシ飛行場は5年間利用されたことになる。 (以上、「史誌第14号」羽田空港の歴史(その1)より抜粋)

昭和4年(1929)逓信省航空局は、民間飛行場の用地として、鈴木新田に隣接した北側(江戸見崎の沖合)に埋立地を選定し、翌年工事に着手した。当地は葦原だったところが、大正末期から埋立造成されていたが、工場用地として買い手がつかないまま、逓信省によって買い取られることになったらしい。
昭和6年(1931)に面積16万坪(53ha)で、300M×15Mの滑走路1本を有する飛行場が完成し、東京飛行場がそれまでの立川陸軍飛行場から羽田に移転してきた。新飛行場には、(日本で最初に旅客輸送をはじめた)日本航空輸送研究所(昭和13年国策会社の大日本航空株式会社に)のほか、各新聞社や海防義会の格納庫が作られ、木骨羽布張りの複葉機から金属製の単葉機までが離発着し、民間航空のメッカとなった。(数年後には海老取川の水面を利用した、水上機の発着も行われるようになった。)
その後羽田飛行場は昭和14年に隣接する京浜電鉄運動場などを買収して拡張され、面積が22万坪(73ha)に広がり、滑走路は800M×80Mのもの2本が整備されるようになった。(下図、緑色太線

当時鈴木新田には3町あった。旧鈴木新田は中央東西に稲荷橋通りが走り、通りの南側多摩川までと島の西海老取川の側が「羽田鈴木町」。穴守稲荷の社は旧鈴木新田北東の角にあり、後にその北側に海水浴場などの造成が行われた。島の東側、穴守稲荷周辺が「羽田穴守町」。東側で北沖に海水浴場などが造成される以前、海老取川に沿う島の西側でも一部の追加造成があったが、その後北側全域が陸化され、逓信省によって飛行場か作られたこの北方埋立地が「羽田江戸見町」。鈴木新田の東側は、東貫川の先に旧御台場干拓地があり、羽田・鈴木・猟師町の3つに仕切られ各町御台場と呼ばれていた。 (戦前までの羽田3町と字御台場の位置を 下図、青色線囲み で示してある。)
尚昭和の初期までは、東貫川は細く蛇行した(澪のような)水路だったが、昭和20年の占領直後の航空写真では、5倍程度の幅に真っ直ぐ開削されている。大型船舶通行のため水路の位置に運河を掘ったのか、或いはどこかの埋立てのため必要になった土砂をここから調達したのか、いずれかの理由により戦時中に工事されたものだろう。

昭和20年(1945)9月、敗戦により東京飛行場は占領軍に接収され、「ハネダエアベース」と呼ばれるようになる。占領軍は大型機を離発着出来るようにするため、海老取川東側全域に(48時間以内の)強制退去令を出し、1200世帯3000人の住民を追出して直ちに飛行場拡張工事に取掛かった。空港用地は飛行場があった江戸見町から鈴木町、穴守町の羽田3町を合せ、字御台場も併合したL字型の一大敷地になった。
占領軍は1945年11月に着工し、A滑走路に必要なL字の中間部分の埋め立てから滑走路の敷設までを半年で仕上げた。総面積は旧飛行場の約3.5倍にあたる257.4ha(78万7千坪)となり、A:2150×45m,B:1676×45m 2本のアスファルト舗装された滑走路が作られ、エプロン(駐機場)、管制塔、事務所、宿舎などが作られた。東西に伸びるA滑走路は、旧飛行場から東貫運河北部を埋めて御台場の端を超える位置まで通され、南北に伸びるB滑走路は旧飛行場の北端から鈴木新田南端の弁天橋近くまで通された。(下図、黄色線
「ハネダエアベース」は連合国の公用機や米軍輸送機(MATS)だけでなく、昭和25年(1950)6月連合軍最高司令官の覚書によって民間航空輸送事業にも用いられたが、このときは外国航空会社(ノースウエスト、パンアメリカン、英国海外、カナダ太平洋など7社)が乗り入れ、極東路線の拠点空港として利用した。

当時日本には航空禁止令が布告され(1945.11.18「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」)日本人が空を飛ぶことは固く禁止されていた。昭和26年になってGHQの意向を受け日本航空が設立された。(ノースウエスト等外航7社によるJDAC(Japan Domestic Airline Company)構想に対し、「カボタージュ(Cabotage)」の原則を盾に自国の営業権を主張し認められたもので、運航・整備は米国に委託するという条件付きだった。)
航空禁止令が解除されたのは翌年の昭和27年(1952)で、7月に「航空法」が施行された。
日本航空はこの年自主運行を開始するが、その半年前ノースウエスト航空からのチャーター機マーチン202A型機「もく星号」が、早くも伊豆大島の三原山に墜落していた。昭和28年8月旧日本航空は解散し、航空法に基づき新たに日本航空(JAL)が発足した。(JALが完全に民営化されたのは1987年。)
昭和27年日本ヘリコプター輸送と極東航空が設立された。昭和32年日本ヘリコプター輸送は極東航空との合併を前提に全日本空輸と名称を変更し、翌年極東航空を合併して全日空(ANA)が誕生した。
(昭和39年(1964)日東航空・富士航空・北日本航空の3社が合併して日本国内航空となり、昭和46年(1971)最後のローカル航空会社だった東亜航空が日本国内航空と合併して東亜国内航空が誕生、昭和63年(1988)社名を日本エアシステム(JAS)に変更し航空業界の第三勢力になった。)

昭和27年(1952)講和条約発効によって飛行場は占領軍から返還され、「東京国際空港」と改称して新たなスタートを切った。昭和29年(1954)には羽田御台場の東側を造成し、A滑走路を多摩川の際まで伸ばし 2550m に延長した。(下図、青色線 部分を追加) 昭和30年(1955)には、民間資本による新ターミナルビルとハイドラント給油施設が竣工した。翌31年1月航空管制業務が在日米軍から運輸省に引継がれると(正式に航空管制権が移管され、米軍が立川へ移ったのは昭和33年7月)、4月には「空港整備法」が制定公布され、第一種空港に指定された東京国際空港は、施設の整備・運営を国費でまかない、国が管理を行うものと定められた。(当時日本の主要空港は羽田を除く千歳・小牧・伊丹・板付などがなお在日米軍の管理下にあるという状況だった。)
「空港整備法」の制定を受け、ジェット化、エレクトロニクス化の趨勢に備えるべく、昭和32年度(1957)を初年度とする一大整備計画が実施された。(昭和34年に大型ジェット機としてボーイング707型とダグラスDC8型機が国際線に就航しており、日本航空がジェット機 ダグラスDC-8 を導入したのは昭和35年である。) 昭和36年A滑走路はさらに北西側が延長され(下図未記入)、A滑走路と平行に新たにC滑走路(3150×60m)が新設された。(下図、臙脂色線) ローディングエプロン(駐機場)は22バースが増設され、航空保安施設、ターミナルビルも一新された。(空港面積は新たな埋立によって約360haとなった。) これらの工事はオリンピックの行われた昭和39年(1964)までには完成し、東京モノレールと首都高速道路1号線も開通して、空港アクセス交通の大量化に対処した。
昭和46年(1971)にB滑走路の北側延長工事が完成(2500×45m)したことにより(下図、赤色線 部分を延長)、東京国際空港は当初計画の基本形態を一応完成させ、東京国際空港の原形ともいえる体制が出来上がった。(3滑走路態勢が出来上がったこの時点の空港敷地の大きさを 下図、緑色線囲み で示してある。昭和30年代までの敷地はB滑走路延長部分が無く、ここの所がやや張出した程度の3角形状をしていた。)
日本航空は1970年からジャンボジェットB747型機を導入。(1990年からはハイテクジャンボB747-400が就航している。) 3滑走路態勢は長くは続かず、この間の大幅な増便によりエプロン不足が深刻化、A滑走路を潰してエプロン38バースを増設するなど苦肉の策が講じられ(1970年代からA滑走路は実質的に使われていない)、運輸省は昭和47年には早くも羽田沖を埋立て海上空港を建設する計画案を東京都に申入れている。



昭和35年(池田内閣の所得倍増計画が打出された年)夏、日本航空が国内線へのジェット旅客機導入に踏み切り、このことが羽田空港周辺の航空機騒音問題を一気に深刻化させることになった。
昭和30年代のメイン滑走路は(旧)A滑走路だが、この滑走路を北西側に離陸(進入も同様)すると、森が崎の上空を経て「入新井」の上空に飛んでいく。

(今では学校名程度にしか残っていない「入新井」について説明しておく。
家康が海岸伝いに東海道53次を整備するまで、東海道は後に池上街道(平間街道)と呼ばれるようになった経路が本道で、現在のJR大森駅の南方にこの街道の「新井宿」があった。
寛政6年(1794)将軍家斉の命で、江戸近郊を巡視踏査した時の記録である、古河古松軒による「四神地名録」に、新井宿村の桃雲寺という禅院で聞いた話として、「古しへは此所海辺にして、往来は寺のうへなる岡を通行せしよし。古名は荒藺(アライ)が崎と称せし当国の名所にて、定家卿の歌有り」云々と書かれている。
明治の前期まで一帯は新井宿村と呼ばれ、海側に不入斗(いりやまず)村、その南側に界隈で最大規模の大森村があった。明治22年の町村制施行により新井宿と不入斗の両村が合併することになり、両村の村名を折衷して入新井村と称することになった。その後一帯は一時「新井町」になったりするが、現在では新井宿、不入斗、入新井の旧村名は3つとも消えてしまい、大森北・西・東の味気ない町名に統一されている。入新井はほぼ大森北に相当する。明治22年の町村制で5ヵ村が合併してできた旧六郷村が、現在では、西・東・南・仲六郷に統一され、旧村名が全滅してしまった事情に似通っている。)

昭和35年(1960)9月、入新井1丁目東町会の呼びかけにより、約30町会が集まって「羽田空港周辺航空機爆音被害防止協議会」が結成され、A滑走路の方向を海の方に変え、B滑走路をジェット機が使用できるように延長することなど3項目の要求を決議した。
協議会への参加は活動開始後1ヵ月で113町会に膨れ、5万人の署名を集めて国会請願や関係機関への陳情を行った結果、12月に地元・運輸省航空局・東京都公害部・航空会社の四者からなる「東京国際空港騒音防止委員会」が発足、オブザーバーとして大田・品川両区長が出席することになった。
同じ頃東京都公害部と運輸省航空局は合同で、コースの真下にある小中学校七校に於けるジェット機騒音の本格的な測定を行った。実態はジェット機が頭上を飛んだ時には計測限度の130ホンを超えるところがでるほど酷いものだったが、結果の公表は3ヵ月遅れた上、発表は肝心のジェット機騒音の数値を発表せず、抽象的で恣意的な内容にされた。
東京オリンピックを控え、航空機需要にこたえるための空港の拡張整備は、A滑走路の再延長、新たなC滑走路の建設、ターミナルビルの増改築など着々と進む一方、爆音被害軽減対策としては、殆ど効果のない騒音軽減運行方式や、極めて不徹底な深夜便発着禁止措置がとられたに過ぎなかった。国も航空会社も高度経済成長路線をひた走り、オリンピックの成功が最優先されていた。首都高速1号羽田線、モノレールが相次いで開通し、東海道新幹線も同じ頃開通している。海外渡航が自由化されて羽田空港の利用者は膨れ上がり、こうした時代背景のもとで、運輸省は航空会社に配慮し、騒音防止のための実効ある対策は何ら打出さなかったのである。
昭和41年は航空機事故が相次ぐ最悪の年になった。2月札幌発の全日空ボーイング727型機が着陸直前に羽田沖で墜落し乗員乗客133人全員が死亡、3月香港発のカナダ太平洋航空DC-8型機が羽田空港着陸に失敗、滑走路で炎上し乗員乗客の内64人が死亡、翌日羽田発香港行きの英国BOACボーイング707型機が富士山麓に墜落し乗員乗客124人全員が死亡、その他にも日航コンベア808型機が羽田空港で大破炎上、大阪発松山行きの全日空YS-11型機が松山沖に墜落して乗員乗客50人全員が死亡する事故が起きている。
羽田空港を中心に航空機事故が続発したことにより、羽田空港の混雑解消は喫緊の課題と受止められ、新東京国際空港の予定地が千葉県成田市に決定されるが、成田空港が開港し、中華航空1社を除く国際線が羽田から成田へ移転したのは昭和53年(1978)のことで、実にこの間12年の歳月を要した。空港周辺の住民は増加する一方のジェット機の離発着によって、間隔がますます短くなる爆音被害に苛(さいな)まれ、いつ巻き添えをくうかわからない事故の恐怖にさらされ続けたのである。

昭和40年代前半は、四大公害病(新潟水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病・水俣病)の被害者が次々と提訴に踏切り、深刻な被害にあっていた大阪空港周辺でも川西市の住民が損害賠償と飛行差止め請求の訴訟を起こすなど、国民の公害に対する関心が高まり、航空機騒音も騒音公害または空港公害と認識されるようになった時期である。
航空機騒音問題は航空界の将来の発展に暗雲を及ぼしかねないとの危機感が航空関係者の間に強まり、昭和42年国の対策を制度化した「航空機騒音防止法」が制定、施行されることになった。これは障害が著しい空港を特定飛行場に指定し、学校・病院など公共施設の防音工事を助成したり、一定区域内の建物移転等の補償について定めたものである。
昭和48年環境庁は航空機騒音に関わる環境基準を告示し、期間内に環境基準を達成することが困難な地域の住民には、家屋の防音工事などを行うものとした。その結果翌49年に航空機騒音防止法が改正され、指定区域内の一般住宅についても、防音工事の助成がなされることになった。(大田区では50年10月から民家の防音工事助成がスタートし、工事件数は初年度の349件から年々増加、58年には1729件のピークに達した。なお発足当初は原則として一世帯1室であったが、54年度には最大5室までが助成対象になっている。)

昭和43年(1966)中曽根運輸大臣は美濃部都知事に、羽田空港の整備拡充のためB滑走路を延長するための用地造成の協力を求めた。大田区議会は再検討を求める意見書を提出したが、工事は地元の反対を無視して始められ46年には完成した。その後も爆音被害解消問題は進展せず、墜落事故の恐怖に加え、道路交通量の増大に伴う慢性的な交通渋滞がもたらす排気ガスにより大気汚染が進行するなど、空港公害の様相を呈してきていた。
運輸省はこのような状況であるにもかかわらず、昭和47年2月羽田沖を埋立てて海上空港を建設する計画案を東京都に申し入れ、協力を要請した。これに対し大田区議会は猛反発し、3月には「空港を移転すべきである」との意見書を決議、橋爪区長も羽田空港拡張のための海域埋立てに反対を表明した。空港周辺の住民は、航空機爆音被害の軽減や墜落事故の不安解消に向けた改善や対策が遅々として進まないことに業を煮やしていた。こうした住民の声を背景に、大田区議会は遂に空港の撤去決議へと進んでいくことになる。
大田区議会は現状の航空機による生活環境の破壊を憂慮し、羽田空港の拡張には一貫して反対してきたが、運輸省当局が地元の立場を無視し、羽田空港の大拡張を計画していたことに憤りをあらたにした。昭和48年10月9日区議会は、「航空運輸事業の公共性のみを重視し、地域住民の生活環境を無視した当局の計画には絶対反対」を表明し、「区民生活の安全と快適な生活環境が確保されない限り、東京国際空港の撤去を要求する」との決議文を採択、運輸省と全面対決する姿勢を鮮明にした。8月に準公選によって就任したばかりの天野区長も、区議会の決議に全面的に賛意を表した。
運輸省の計画に不信感を強めていた区議会は、羽田空港の対策を専管する「羽田空港対策特別委員会」を設置し、一方区長部局にも公害対策課に空港対策担当が新設され、以後大田区の空港問題はこのニ組織が車の両輪となって展開していくことになる。
昭和50年2月、区長と区議会議長の連名で運輸大臣に、「現空港を撤去し沖合いに移転させること」「新空港は現空港と同一面積で拡張しないこと」「撤去後の跡地は区民に開放すること」など8項目の航空機公害防止対策を早急に講ずるよう要望した。この年大阪空港公害訴訟の控訴審判決があり、この判決内容を羽田空港にも適用するように、大田区は運輸省航空局長に対し、「夜間の離発着禁止」「大阪空港の飛行制限を羽田空港で埋合せないこと」「B滑走路の内陸側500メートルを使用しないこと」の三項目を要望した。
議会と行政が足並みをそろえるのと時を同じくして、空港周辺の住民の動きも活発となり、各地区に羽田空港移転対策協議会が設立され、52年2月には大同団結して連合協議会が結成され、移転促進住民大会が開催された。大会では移転の早期実現決議が採択され、これを携えて運輸大臣、環境庁長官、衆参両院議長に要望活動が展開された。

昭和52年(1977)2月美濃部都知事は、田村運輸大臣との会談で、羽田空港の沖合移転をすすめるため地元を含めた当事者間の話し合いの場の設置を提案、8月に運輸省・東京都・地元(大田区,品川区)で構成する「羽田空港移転問題協議会」(通称「三者協」)が設立された。委員には運輸省航空局飛行場部長、東京都都市計画局技監、大田区助役、品川区助役が就任した。
12月の第七回三者協議会で、運輸省は羽田空港の沖合展開試案を提示した。大田区はB滑走路が残ることには絶対反対の姿勢をとり、新A・C滑走路の方位変更を要求した。区議会羽田空港対策特別委員会と地元住民の羽田空港移転対策連合協議会は懇談会をもち、沖合移転に対する基本姿勢を確認しあった。翌53年10月の第十一回三者協議会で大田区は、試案のままでは地元住民は受け入れられない、国が試案にこだわるのであれば白紙にするしかない、との意見を鮮明に打出した。
次の三者協は2年半後の昭和56年4月に開かれ、運輸省は地元の要望を取入れた計画修正案を提示した。地元の連合協議会は、航空機騒音を一日でも早く軽減することが重要との立場から、移転後の空港規模が拡張されることには意見をさしはさまないとの判断をなし、条件を付して修正案を了解することとした。区議会特別委員会は地元の要望を含め、修正案について18項目にわたる問題点の提起を行った。運輸省は6月の三者協議会でその対応を示し、特別委員会が経過をとりまとめた報告書を本会議に提出、区議会は対応の内容を評価して修正案に同意した。
昭和53年に成田が開港した後も、地方空港からの新規羽田乗入れが相次ぎ、羽田空港の混雑は限界に達していた。運輸省としては、羽田のキャパシティーを増強し過密を打開することが課題であり、騒音対策に限定した現状規模での移転要請はのむことが出来ない事情があった。結局、東京都が廃棄物処分場としていた羽田沖を埋立て、空港敷地を沖合いに拡張した上で諸施設を住宅地から引き離す、ということで双方の妥協が図られたのである。
区議会の意思を受け、大田区長と品川区長が相次いで修正案に同意し、これを受けて鈴木都知事は修正案に同意する旨塩川運輸大臣に回答した。昭和56年(1981)8月6日運輸省に於いて、天野大田区長・多賀品川区長立会いのもと、運輸大臣・都知事間で修正案に同意する確認書の調印が行われた。(空港跡地については、「東京都が取得し、その利用計画について地元区の要望を充分配慮する」とされた。)
羽田空港の沖合展開計画案は翌57年2月の第十八回三者協議会で示され、58年2月に東京国際空港整備基本計画が正式に決定、昭和59年(1984)1月「東京国際空港沖合展開事業」が着工となった。

羽田空港の沖合展開マスタープランは大雑把に以下のようなっている。
用地について、沖合の廃棄物処分場を中心に新たに857haの用地を確保し、既存用地408haの一部も合わせ総面積を1100haに拡張する。既存用地の内空港施設に含まれない165haの跡地は、地元に開放し都市施設として活用する。
滑走路の作り方は、先ず現C滑走路の450m北東側に、海域(木更津側)を飛行コースとする新A滑走路を作る。次いで新A滑走路の1700m沖合に新A滑走路と平行に新C滑走路を作り、2本の滑走路で進入と離陸を使い分ける。(ともに滑走路の長さは3000mとする) 新A新C滑走路の方位を現C滑走路からみて時計回りに5度修正し、新C滑走路から陸側に離陸した場合にも、すぐ右旋回することで市街地への騒音を抑えられるようにする。横風(南風)時の着陸用であるB滑走路も、東南東側に380mずらした位置に新B滑走路を作り直す。
(新A〜新C間の1700m、B〜新B間の380mという数値は、東京港第一航路を航行する船舶に支障が無いように配慮した数値であり、同じ理由により新B滑走路の長さは3000mでなく2500mに限定された。)
羽田空港の沖合展開事業は、工事期間中も稼動し続ける空港の機能を損なわないように、段階的に整備を行っていくこととし、主要工事としては、第一期は新A滑走路の供用、第二期は新ターミナル建設と移転、第三期は新C、新B滑走路の供用と東ターミナル建設の順とした。 (沖合展開事業については別に、[参考18] としてまとめてある。)



   [参考集・目次]