<参考17>  狛江水害事件のあらまし


昭和49年8月31日から9月1日に掛けて、台風16号 (9月1日18時過ぎ高知県に上陸、瀬戸内海、中国地方を横断して2日夜半に島根県から日本海に抜けた) の影響で、多摩川の水源地方に集中豪雨があった。(小河内で総降雨量495mm)
当地は右岸側に二ヵ領用水(宿河原)取水口がある対岸位置にあたり、右岸から川を横断する堰堤(えんてい)が設置されていた。(平時には水流は堰堤中央部の水門を抜け、洪水時には堰堤全域でオーバーフローするようになっていた。)
堤防が決壊したのは左岸側で、左岸の高水敷は低水路から中途半端な小提で仕切られており、結果的には、堤防をダブルにしたようなこの特殊な構造が、不幸な事態を導くことになった。(右岸から伸びた宿河原取水堰は、左岸側では本提まで達しておらず、高水敷を仕切るこの小提の末端に篏入(かんにゅう)して終わっていた。下図参照)

台風性の洪水は大抵2日で終わる。この水害が起きた時の増水時間も、延々と続く長いものではなかったが、その間に左岸で小提周辺の低水護岸が崩れ、堰堤取付部の前後で小提が崩落する事態になった。堰堤手前の小提が決壊したため、堰堤に突当った濁流が横向きに噴出し、高水敷を浸食する迂回流を生じることになった。迂回流の凸部は高水敷(幅45メートル)を浸食し続け、やがて本堤防の裾に達した。迂回流に洗掘される形になった本堤防(堤防敷の幅20メートル)は程なくして破れ、幅数百メートルに渡って抉(えぐ)りとられてしまったのである。
本提が抉られた時点では水位は既に下がっていたため、洪水が市中に氾濫するという状況にはならなかったが、堤防川裏の造成地にあった家屋のうち十数軒が、提内地にはみ出した迂回流に呑み込まれ流出した。


昭和49年9月1日、台風16号の影響で小河内ダムは未曾有の放水量となり(9月1日16時頃に最大670m^3/s)、1日15時に石原基準点で H.W.L 4.36m に対して 3.86m の最高水位を記録し、田園調布では1日17時に H.W.L 10.35m に対して 8.4m の水位を記録した。最大流量は石原地点で1日16時過ぎ約 4,200m^3/s となった。

二ヵ領用水宿河原取水口のある対岸、左岸の狛江市猪方地先で小提末端部の堰堤取付護岸が崩れ始めたのは1日午後1時過ぎ、午後3時には堰堤上流側の小提で越水し、急激に高水敷の浸食が進んだ。午後4時頃には堰堤上流部小提の決壊が始まった。この後川の水位は最高位に達し、高水敷への流水は本堤防法先に進み、流下してテニスコートを横切る迂回流となった。午後6時過ぎ本堤防の法先の浸食が始まった。午後7時頃本堤防の一部が崩れ始め、1時間後には完全に決壊した。その後決壊部分が拡がり提内地の浸食が始まった。夜半から保全区域に建つ住宅の流失が始まり、未明には本堤防の決壊幅は200メートルに及んだ。2日午後2時半頃狛江市の要請を受けた自衛隊が堰堤の爆破を試みたが、両岸の民家のガラス戸をメチャクチャにしただけで、堰堤はビクともしなかった。翌3日も迂回流の水勢は衰えず民家の流出が続き、全体で19棟の住宅が流出した。(堤防260m,宅地3,000m^2 が流出、36世帯111人が被災した。左図)
4日建設省が堰堤中央部の爆破を決行、爆破は9回に及び、幅20メートル深さ1.8メートルの流出口を開いた。堰堤破壊口に流量が振向けられるようになって、迂回流の締切作業が進み、6日早朝に小提決壊口の締切に成功した。


水害の経過は概ね以上のようなことだったが、この災害は不可抗力の天災ではなく、十分予知し得た危険な状態を放置していた管理者の怠慢による人災と結論された。この事件が引起された背景には、当時の河川管理者に河川敷に対する重大な認識の誤りがあったのである。
当時高水敷(幅45メートル)は遊園地のような利用が図られていたが、対岸の二ヵ領用水取水用の堰堤が設置されていた位置から川上側では、中途半端な堤防(コンクリート3面張り、高水敷からの高さ1.5メートル)を築き、高水敷を低水路から締め切るようなつくりにしていた。(堰堤は本堤防に至らずこの小提に篏入されて終わっていた。)
やむを得ず川道内に構築される建造物(堰の放水門や橋梁など)は、平時には河積阻害率などとして計算され、高水量に対する影響は掌握されているが、万一洪水によって壊れてしまえばその影響は計り知れない。洪水流下の障害物に変貌するおそれは極めて強く、少なくとも堤防が決壊する前に先に壊れることがないよう、設計強度や維持管理には万全の配慮がなされなければならない。
高水敷の意味はその言葉からも分かるように、(平時に河川敷としての利用が為されているか否かを問わず)、洪水時には川底になると位置付けられた場所である。本提で仕切られた川道内に、洪水の自由流下を妨げるような構築物(この場合の小提)を作ることは常識を外れたことだが、当局の甘い認識は「川道内に作られたものは先に壊れてはならない」という原則をも蔑(ないがし)ろにするものだった。
水害が起きた時の増水時間は、さほど長いものではなかったが、中途半端な発想で作られたと思われる小提は下流側の取付護岸から崩れだし、やがて堰堤の上流側が決壊した。堰堤の接合部上の小提が決壊したことで、濁流は堰堤の取付角から横向きに噴出し、高水敷を浸食して迂回流を形成するようになった。迂回流はやがて堤防法尻に達して堤防を洗掘し、本川の増水がピークを過ぎた後になって本堤防が決壊する事態となった。
本堤防が決壊した時点では既に水位が下がっていたため、本堤防が決壊しながら洪水が市中に流入しないという、一見奇妙な現象が起きることになったが、堤防川裏(本来は河川保全区域だった)に造成されていた宅地の家屋十数軒が、提内地にはみ出した迂回流に呑み込まれ流出するという災害が引起された。

堤防復旧後、国は流された宅地約3000平米は元に戻し、爆風による近隣への2次災害2300万円余りについて補償を行ったものの、流出家屋等の弁償をしなかったので、被災住民は国家賠償を求めて提訴した。
小提が崩壊した原因について、二審の判決では裏側からの伏流水の浸透圧に耐えられず護岸の一部が剥離したことが災害の発端になったとしたが、多摩川のような急流河川では、中流の川底に礫の堆積した層が出来るのは専門家にとっては常識であり、表流水は当然伏流水を伴なっていることを考えなければならない。
当地にあった二ヵ領用水の宿河原取水堰は、終戦直後に改修されたもので、資材の乏しい時期に大変な苦労をして建設されたという。(爆破の効果がなかなか上がらなかったのは、素材の緻密さが相当低かったことが一因と想像される。)
この堰堤は戦前に上流側の上河原堰堤改修に実績のあった「透過堰堤」と呼ばれる方式で、伏流水を遮らないように、放水門以外の部分では矢板などの基礎を深く打込まないように苦心して設計されていた。堰堤の設計時には伏流水に対する認識は十二分にあったことになる。
一方堤防が決壊した狛江市猪方の辺りは、古い時代には洪水時の遊水地となっていた環境で、新提が出来た後でも水を集めやすく沼の多い地形だったという。このような河川保全区域に無定見な宅地造成が行われ、結果的に洪水はその地を求めて突進んだ格好になった。

洪水が真直ぐに流下させられていれば、本提は表流水に対しまだ十分余裕があった。然し地中では氾濫した伏流水が不透性のシルト層に遮られて高水敷に湧昇し、小提の一部を基礎から崩してしまった可能性が高い。破れた小提の残骸は洪水の障害物となり、堰に遮られた洪水が小提の決壊口から噴出する形になった。この異常な迂回流が高水敷を抉り、遂には本提までを突き崩してしまったのである。
川道の中に作られた建築物が即ち水害に直結するものではない。この時も小河内ダムそのものは水害に関係しないとされたし、宿河原の取水堰も、(必要以上に高過ぎた、可動部の幅が狭すぎたなどの指摘はあるものの)、壊れることはなかったので、洪水の流下を致命的に妨げたとは言えない。
河川管理上の最大の過失は、堰を支える構造物の強度が、堰の高さや可動部の幅に比して、あまりに脆弱なものだったことを見過ごしてきたことにある。左岸高水敷の小提は飾りではなく、水流を止めようとする意図をもって作られていた。だが仮に乗越えられても外側に本提があるという意識が無かったはずはない。
高水式を洪水から護ろうとした本末転倒の発想が、容易に瓦解し障害化しうるおそれのある構築物を、洪水時の流下断面内に放置し続けるという怠慢につながったのである。

狛江水害訴訟は昭和51年から平成4年まで16年間(1976〜1992)に亘って争われ、一審から差戻控訴審まで合計4回の判決が出された。
最終的に裁判所は、この水害は管理者が「災害の発生を予見することは可能であったのに、災害の発生を回避するための対策を講じなかった」人災であると断罪し、国に損害の賠償(5億9千万円余り)を命じる判決が確定したのである。

  (以上参考書 「新多摩川誌」; 「水恩の人(多摩川治水と平賀栄治)」 小林孝雄著 出版文化社発行)

この水害が起きた翌年の昭和50年4月、河川整備基本方針では、従来計画の高水流量(日野橋で 3,330m^3/sec)を、基準点石原で 6,500m^3/sec に改定した。ただ国土交通省が「多摩川水系河川整備基本方針」の中で、この改定を述べた後に引続く箇所で、「さらに、多摩川において破堤氾濫が発生した場合、壊滅的な被害が予想され経済社会活動に甚大な影響を与えることが懸念されるため、超過洪水対策として昭和63年3月に工事実施基本計画に高規格堤防の整備を位置づけた」と書いていることは、読む人に、狛江の水害は予想を超える天災であり、かかる大規模な洪水になれば堤防が現実に決壊することがある、かのような印象を与えるものである。
狛江水害訴訟で裁判所が結論したのは、堰堤の高さや可動部の幅に比して、その取付護岸や小提などの強度が際立って低かったという点で、そのため計画高水流量程度の洪水で容易に災害が発生する危険性があったと認定し、これを見過ごしてきた管理者(国)の過失(怠慢)が違法に当たると判決したのであって、災害が想定以上の規模の洪水によって起きたとか、本堤防の規格が不十分であったというようなことは言っていない。
狛江水害は、災害であったが同時に事件でもあった。国土交通省が反省すべきは、意識レベルの低さや防災に掛ける真剣さにあったはずである。無尽蔵に税金を注ぎ込んでスーパー堤防を建造するが如き発想は、遊んでいても責任を問われるような災害が起きないようにしたいという意図に発し、上記の文章はそのために狛江水害を引合いにし、世論を恣意的に誘導しようとするものと言われてもしかたないのではないか。



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