<参考18>  羽田空港沖合展開事業の詳細内容


昭和59年(1984)東京国際空港は、東京都が造成した羽田沖廃棄物埋立地(浚渫ヘドロや建設残土の投棄処分場)を活用した、北東側への沖合展開事業(オキテン)の第一期工事に着手した。分刻みで稼動中の空港に隣接した工事ということで、作業が夜間に限られるなど厳しい制約が課せられる一方、新A滑走路の多摩川側突端部にあたる予定海域には漁業補償の問題もあった。超軟弱地盤を改質し不同沈下にどう対処するかなど、技術的に難しい問題の克服と漁業補償交渉が並行して行われ工事は進められた。
地盤改良は埋土層(投棄された浚渫ヘドロと建設残土の混合物)については、3メートルほど掘削した後、ペーパードレーンを打込み、吸取紙のように水抜きし圧蜜沈下を促進させたが、その下の沖積粘土層の改質までは行っていないので、供用開始から10年後に50センチまでの沈下はあるものとして、その高さ分の余盛が施された。舗装構造は沈下を前提とし撓みを許容する構造として、下層路盤に剛性の高い水硬性スラグ(HMS)を使用したサンドウィッチ構造が初めて本格的に採用された。
こうして海側(木更津方向)に向かって離陸、海側から着陸する3000×60Mの新A滑走路(及びその誘導路)が、旧C滑走路の450m沖合の地点に(時計回りに5度角度を変え)、当初から予定の期日とされた昭和63年(1988)に完成させられた。この新A滑走路の完成に先立って、超軟弱地盤との格闘の末、地下にアクセス道路を初め、モノレール・環八・共同溝など多くのトンネルが作られ、同時に世界トップレベルの高密度地震観測網も設置された。

成田空港は新東京国際空港公団が事業を担当し、関西空港は第三セクターの関西国際空港(株)が事業主体になっている。然し羽田の沖展は大規模プロジェクトでありながら、運輸省の直轄事業として第一期工事が始められたという経緯がある。
沖合展開事業の第ニ期工事は、新A滑走路の更に沖合を埋め立て、旅客ターミナルや周辺施設を建設することがメインである。沖合に進むほど投棄されたヘドロは新しくまた深くなっていく。ヘドロの水抜きにはペーパードレーンに加え、サンドドレーン(砂杭)と、砂杭を職布で包んで壊れ難くしたパックドレーンが併用された。埋土層に厚さ2メートルのコンクリート表層を作り、この上に盛土してゆく。重機が載るくらいに安定すれば砂杭を打込む。盛土の荷重により砂杭部分をストローのようにして水分が排出され、ヘドロ層が圧蜜沈下していく。不同沈下の予測には、地盤の不均一性を確率モデルで表す数値シミュレーション解析法が開発された。
沖合展開事業第ニ期工事は、埋立ては東京都が行い、地盤改良とエプロン・誘導路・構内道路など空港施設の建設は運輸省が行った。旅客ターミナルは日本空港ビルディングが建設主体となり、格納庫や整備工場は各航空会社がそれぞれ行った。アクセス網については、湾岸道路が首都高道路公団、環状八号線は東京都、鉄道関係は京急・東京モノレール・鉄建公団など各々が施主となって工事を行い、これにユーティリティ関係の東電・NTT・東京ガスなどを加えると、関わる事業主体は官民合わせて20を超え、現場に出入する作業員の数は1万人という規模になった。輻輳した工事であったが統一的な指令系統がなく、しかも各工事は一斉に完了しなければならないという制約を負っていた。
ここでも稼動中の空港に隣接した工事ということで、保安上の理由から作業員が寝泊りする仮宿舎の設営は禁止され、作業員の通勤のため付近に渋滞を引起すなどの問題を生じた。工事面では各部で調整が行われ、先例主義を超えて共同仮設工事方式が採られたり、作業用仮設道路を4車線に拡張し舗装するなど、既成概念の壁を崩しながら対策が講じられていった。京急は第三期の平成10年(1998)11月に天空橋の下からビッグバード地下2階までを開通させるが、これは供用中の滑走路(旧B)の下をシールドマシンで掘り進むという世界に例を見ない工事箇所を含むものだった。

今羽田空港の新しいシンボルとなった「羽田スカイアーチ」は、湾岸道路を挟む東西のターミナル地区を結ぶ双子の連絡橋を吊るための、世界初の「主塔アーチ型斜張橋」構造の主塔部分である。沖合展開地区は中央に高速湾岸線が走り、この高速道路を9ヶ所の連絡橋が跨いでいる。空域制限区域にあって橋の高さは厳しく制限されるため、斜張橋は高く伸びた主塔を採用することが出来ない。こうした制約のもとで、新らしい羽田空港のランドマークとして考え出されたのが、アーチから鼓(つづみ)状に織られたケーブルで橋桁を吊るこの連絡橋だった。羽田スカイアーチ」は長さ160メートル高さ44.5メートル、南北二つの橋桁を28本のケーブルで支えている。紫がかった赤い色は正確には「ラセットブラウン」と呼ばれる特注色、橋の命名は公募による。工事に2年半を要し、平成5年(1993)3月に完成した。

第ニ期工事はターミナルの建設とともに、誘導路とエプロン(駐機場)の舗装工事が行われた。エプロン(駐機場)は、ローディングエプロンの他、ナイトステイエプロン、メンテナンスエプロン、コンパススイングエプロン(磁気コンバス点検用)など各種のエプロンが整備され、総面積は120ha(東京ディズニーランドの2.6倍)、舗装面積は普通の道路に換算すると数百キロに及ぶほど大規模なものだ。
ターミナル周りのローディングエプロン(31ha)には、PCリフトアップ工法が採用されている。この区域は航空機の出入が激しく多くの荷重がかかる。軟弱地盤の宿命から、コンクリート舗装部分は、供用開始後10年で30センチまでの残留沈下が起こると見込まれ、不同沈下によりコンクリートに破損を生じた場合、いかにして速やかに補修できるかが課題である。PCリフトアップ工法は、不同沈下により撓みを生じても、引張応力に強いPC(予圧コンクリート)を使い、これをパネル化(100m×75m、厚さ18cmのPC版)して敷詰める。地盤が沈下を起こした場合、そこのPC版をコンピューター制御によって一様にジャッキアップし、路盤との間の隙間からグラウト材(セメントミルク)を注入し陥没部分を充填する補修方法である。世界初のこの工法による補修は、1996年初めて現実に実施されたが、最終の離発着が終了した夜間に開始され、翌朝始発便の発着が始まるまでの間に完了し成功している。
平成5年(1993)新旅客ターミナルは西ターミナル(ビッグバード)が完成し、使用に供されることになった。9月26日空港は平常通り営業され、その夜、航空機87機、地上支援車輌2700台をはじめとする全ての機能は6時間の内に新空港に移動した。翌27日は何事も無かったかのように、新ターミナルでエアライン各社のカウンターやテナントが営業し、アクセス道路、立体駐車場がオープンし、モノレールが地下駅に到着した。

第三期工事は新ターミナルの更に沖合に造成された埋立地の地盤を改良し、新C滑走路、新B滑走路、誘導路、エプロン、東ターミナルビルなどを建設する。沖合展開事業の中でもっとも規模の大きい最後の工事である。
第一期、第二期工事同様、第三期においても、地盤改良工事はその第一歩であり、第二期地区の施設建設に並行して、すでに工事は行われていた。
第三期の地盤改良工区は、湾岸道路の東側沖に位置し、工事開始直前まで浚渫ヘドロや建設残土の投棄が行われていた場所である。この工事ではヘドロ層とその下の沖積粘土層が改質の対象となった。
地盤の不均一性を確率モデルで表す数値シミュレーション解析法が、実際に現場で初めて本格的に活用され、不同沈下の予測を踏まえた地盤設計が導入された。

第三期の工区では、水抜きして地盤を固める必要のある層は厚く、ドレーンを打込む必要のある深さは最大で海面下50メートルにも達する。然し現場は稼動中の空港に隣接し空域制限地域であるため、使える機械の高さには限界があり、最大でも海面下28メートルの深さまでしかドレーンを打込めない。「未貫通ドレーン」では、ドレーンが及ばない深さにある粘土層の水は、上層部の排水につられて鉛直方向に引上げられ、それからドレーンを伝って排水されることになる。未貫通ドレーンについて実測データに基づいた経験則は確立しておらず、未貫通ドレーンを有効に設計するために、圧蜜排水挙動を解析し要因分析することが求められた。ドレーンが届かない深さでの水抜きがどのように進むか、どの程度の時間を掛ければ地盤が安定するか、などが重要なポイントであった。
第三期の工区ではまた、改良を必要とする層が厚い(深い)だけでなく、異質な2層に亘っていることも課題となった。下層の沖積粘土層を対象にバーティカルドレーンを設計すると、さらに軟弱な上層の粘土層にとっては過小で不十分なものになり、所定の期間を超えて、その沈下が長く続くことになる。そこで上層のヘドロ層の圧蜜を促進し、両地盤が期間内に同時に所定の安定した地盤に変えられるよう、別途、ヘドロ層の圧蜜を促進する専用ドレーンが追加打設された。このヘドロ層専用の追加ドレーンは「補間ドレーン」と呼ばれる。補間ドレーンを有効に利用するため、未貫通ドレーンと同様に、有限要素法による解析手法が採られ、補間ドレーンの種類・本数・配置などが割り出された。
こうして地盤改良工事を終え、盛土用の余分の土砂は木更津市の農地造成現場に運ばれた。土砂が撤去されると舗装工事などの後工程に進み、平成8年(1996)9月新A滑走路と平行し1700m海側に離れた位置に新C滑走路が完成した。新C滑走路は新A滑走路と同規模で、24時間離発着体制をとれる滑走路として翌平成9年3月供用が開始された。平成12年にはB滑走路の380m海側の位置に、新たに作り直された2500×60Mの(南風時の着陸用)新B滑走路も完成した。
(新B滑走路の供用に合わせた発着調整基準の改定に伴い、羽田空港の国内定期便の発着枠は、従来の1日640回から、平成14年(2002)に1日754回に拡大されることとなった。また平成12年(2000)12月に、深夜・早朝の国際旅客チャーター便及び国際ビジネス機の運航を認める旨の方針が国から出されたことで、国際航空機能の向上が見込まれている。(「東京ベイエリア21の策定にあたって」より)

新C滑走路は埋め立て間もない地盤であることから、地下水位が高く、使用後の残留沈下が10年間で1.5m見込まれ、上げ越しによる施工で対応している他、リサイクル材を有効活用した路床排水層の対策を図っている。新B滑走路は、首都圏における大規模地震発生に備える耐震強化滑走路と位置付け、液状化対策の地盤改良を行い、緊急物資等の輸送を確保するものとしている。また旧空港施設からの廃材をリサイクルした新設舗装材も使われている。
旅客ターミナルは平成15年に(新C滑走路の側に)東ターミナルが完成する予定になっている。東ターミナルが完成した時点で、立体駐車場は双方合わせた7100台分が確保される。両ターミナルは湾岸道路を跨ぐ連絡橋(スカイアーチ)でも往来できるが、連絡通路やモノレール及び京急の延伸など、主として地下部分で結合され、アクセスサービスレベルの同等化が図られる。跡地を除いた総敷地面積は以前の3倍の1100haになる。

 (以上この [参考18] 「羽田空港沖合展開事業の詳細」についての内容は、大半の部分が、「羽田空港物語」(上之郷利昭著 講談社)からの引用に基づいて記述しています。)



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