<参考19>  水位基準APと防潮堤計画


多摩川の工事計画では、水位の基準に"AP"が使用される。(AP は Arakawa Peil の略) AP は隅田川の河口近く霊岸島にあった量水標の零位を基準とした水位表記で、霊岸島の水位観測所が明治6年荒川の水位を測るために設置されたものであるため AP と書かれる。
霊岸島そのものは江戸時代初期の寛永元年(1624)(三代家光が将軍を継いだ翌年)に霊岸寺が創建されたのが始まりで、当時沼地葭原だった隅田川の砂洲を埋立て造成したところといわれる。今でも隅田川・日本橋川・亀島川の水路に囲まれ島状を留めている。 <参照> (参照図「京浜運河と埋立地」の最上部に注目。今も永代通りが亀島川を渡る橋に「霊岸橋」の名前が残る。) 量水標があったのは、中央大橋を隔てて佃島と向合う隅田川右岸で、佃島の北側(陸側)にあたる現・中央区新川丁目32番地先。

海抜(標高)何メートルという時に使用される TP(Tokyou Peil:東京湾平均海面:旧東京湾中等潮位)表記は、明治6年から6年間の霊岸島の毎日の水位測定値(満潮位と干潮位の平均値)を総平均し、その値をもって全国共通の海面基準としたもので、海抜ゼロメートル(TP±0)は、量水標の表示では AP+1.1344m の高さに相当する。大雑把にいうと AP±0 は大潮の時の干潮位になり、平均の満潮位は AP+2.10 の高さである。

日本で最初の量水標は明治5年に利根川河口に設置された「銚子量水標」。また東京湾の水位標としては、AP のほかに明治7年江戸川河口(堀江)に設置された YP (Yedogawa Peil)があり、YP は江戸川、利根川で使用されている。鶴見川・相模川では TP を使用しているとのことで、同じ管轄内の河川でも全く統一性はない。
霊岸島の観測所は位置を(亀島川の合流点付近に)移動して現在も継続しているらしいが、水準の検証機能は三浦半島油壷にある国土地理院の油壺検潮所が担うようになっているという。
(尚「日本水準原点」は明治24年(1891)千代田区永田町(旧陸地測量部:国会議事堂前の憲政記念館庭)に設置され、その高さは関東大震災後に修正された結果、現在海抜24.4140mとなっている。)


以下防潮堤計画については「多摩川誌」による。

東京湾沿岸地域は低地帯を形成している上、地盤沈下の影響を受け、江東ゼロメートル地帯の出現など、高潮を受けやすい条件を強めてきた。(江東区平井においては、大正7年から昭和13年までの20年間に1.6mという著しい沈下を示した。)
昭和9年(多摩川下流の直轄改修工事が完了した翌年にあたる)に護岸天端高をAP+3mとする計画が出来、昭和18年度を完成目標として高潮対策事業が進められることとなった。しかしこの事業が進めらる中、昭和13年9月1日に東京を襲った台風によりAP+2.89mの高潮位が記録され、昭和9年計画の改訂を余儀なくされた。この改訂計画もその後の第二次大戦などの影響により思うように進展せず、昭和19年にほぼ60%が消化されたのみで打ち切られた。
戦後の混乱が終息しつつあった昭和24年、キティ台風に伴う高潮でAP+3.15mの高潮位を記録し、海岸堤防の不完全な部分や河川への逆流により、東京湾沿岸部に相当の被害を発生させた。これを契機に東京都では江東デルタ地帯を中心とし、昭和30年完成を目標とした第1次高潮対策事業を開始した。その後地盤沈下が戦後の復興とともに再び激化し、一方では護岸等の施設の老朽化が顕著となり、従来の嵩上げ方式による工事が困難となったため、高潮対策の再検討が要請されるようになった。その検討の結果、護岸嵩上げ方式に代わって、防潮提により江東デルタ地帯を囲むいわゆる外郭堤防方式が採用されることとなり、大正6年の既往最大の高潮(AP+4.21m)を考慮した第2次高潮対策事業が立案され、昭和32年から着手された。
ところが昭和34年9月、伊勢湾を中心として災害史上稀にみる大被害を発生させた伊勢湾台風が来襲し、その潮位はNP+5.31m(TP+3.89m:AP換算+5.02)という予想を超えるものであった。そのため着手後間もない第2次高潮対策事業は急遽計画の改訂をせまられた。当時、伊勢湾台風級の高潮が東京を襲ったと仮定すれば約240km^2の地域が水没し、70万世帯3,000万人が被災すると予想された。そこで東京湾沿岸部においても、第2次高潮対策事業の計画高潮位であるAP+4.12mを伊勢湾台風級のものに対応するよう改訂し、これに対応した新たな東京湾高潮対策特別事業を昭和35年度より実施することになった。
荒川を中心とする江戸川から隅田川周辺一帯のみならず、多摩川下流部においても、海老取川左岸は満潮水位より低い地域で、伊勢湾台風級の超弩級台風の襲来があれば、六郷川北岸は品川に至る一帯が冠水すると想像されていたので、東京湾高潮対策特別事業の一環として、六郷川の沿海部でも高潮に対する防潮提事業が着手されることになったのである。

多摩川の高潮対策事業は、東京都大田区の海老取川から六郷橋までの左岸約4.1キロメートル、神奈川県川崎市下河原の多摩運河から六郷橋までの右岸約5.6キロメートルを計画区域とし、防潮堤(高潮堤)を築堤するものである。
防潮堤計画は、昭和24年のキティ台風の進路に伊勢湾台風級の台風が襲来した場合を想定し、その際の気象、海象条件による高潮位に対処しうる高さを前提に検討を行う一方、建設省士木研究所において多摩川高潮区間の50分の1の模型実験による検討を加えた。その結果防潮堤の計画堤防高として、既応最大の大正6年10月高潮の潮位AP+4.21mより2.3m高い AP+6.50m が採用されることになった。
防潮堤の法線については、右岸側は概ね既存の堤防法線に沿い、とくに防潮堤の築造によって河川の流水を阻害しないように配慮し、左岸の羽田地区については、洪水流量の疎通に支障を与えない限度とされた。大師橋上下流付近は極端な屈曲を整正し、波の集中を防止するよう法線を前面に出すこととした。防潮堤の構造については,堤防に直接当る強力な波力および堤防を越す波に対処するため、表法・裏法及び天端の3面ともコンクリートで被覆することとした。また法先の洗堀(せんくつ)及び基礎からの吸い出しを防止するため、基礎に鋼矢板を施工することとされた。天端幅は将来の維持・管理を考慮して6mの幅員をとった。
旧河口周辺に高潮対策が施され、羽田空港の沿岸部から本羽田(大師橋緑地の川下側の端)までの左岸に、防潮堤が建設されたのは昭和41年(1966)頃のことと思われる。


昭和24年のキティ台風も東京の北西部を通過したが、既応最大の高潮位AP+4.21mを記録した大正6年の台風は、土佐沖から潮岬の海上を通り、9月30日夜半に御前崎付近に上陸、箱根の西から丹沢、大宮を経て東北、北海道を縦断しオホーツク海に抜けるコースをとった。被害状況は死者・行方不明者が全国で1301名、内東京府563名、神奈川県60名であり、全壊家屋は全国で43,000戸余り、内東京府3,258戸、神奈川県1,475戸など、東京府下に大きな被害を出した。
東京府では前後2回にわたって高潮が押し寄せ、激しい波浪を伴う高潮により、多摩川河口付近の河川堤防・護岸などが決壊し、河口付近の干拓地の被害は甚大だった。多摩川左岸の荏原郡羽田地方では鈴木新田が全面的に浸水し、穴守稲荷で海水が道路上180センチを超える高さに達したという。一方右岸側の橘樹郡も、河口部右岸に位置する大師河原村を中心に民家が倒壊・流出するなどして、死者・行方不明者32名に及ぶ激甚な被害を受けた。大師河原では延長500メートルにわたって堤防が決壊し、大師河原村だけで家屋の全半壊250戸死者22名を数えている。(鶴見川の氾濫と海水の逆流の双方を受け塩浜地区で大半の家屋が倒壊する最大の被害になった。)

(通常の洪水は勾配に沿って下るので、流量に応じた断面容量があり、流路に洪水の流下を妨げる障害物などが無ければ、洪水が直ちに氾濫したり災害を引起したりすることはない。
素人的な発想で最悪のパターンを予想すると、台風の接近で集中豪雨があって事前に多摩川が増水している状況があり、超弩級の台風が北北東に進路をとって駿河湾から相模灘の辺りで上陸し、東京の北西部を通り抜けるようなケース。台風による南東の風が関東山地の東側斜面に吹き付け、奥多摩周辺は大雨となって多摩川の増水は激しくなる。運悪く大潮で東京湾が満潮の時間帯とする。河口付近は低気圧による吸い上げと、南東の風による吹付けによって大きな高潮がおきる。潮位が高まることはそれだけで洪水の流下を妨げるが、急速な高潮発生で海水が逆流してくるようだと、河口の上側で流下する洪水と衝突し、蛇行した部分の堤防に想像以上の高波が押上げられるおそれがある。
とりあえず海老取川口から大師橋上手に掛けて防潮堤が完備され、大師橋下から上手の左岸法線が70m程度前面に出されたのは、模型実験の結果その辺りが最も危険だと判断されたのであろう。)

自然状態の川道は直線的に下るものは少なく、地形や地質に左右されて蛇行する。蛇行が始まると屈曲部に水圧が集中するので、衝突部はますます深く抉られて蛇行は激しくなる。長い年月の内には大きな氾濫が起きたりして、長くなり過ぎた流路にショートカットが生じ、取残された部分が三日月湖になったりする。堤防によって川道を閉じ込めている河川では、水路の蛇行が三日月湖を作るまでに進行する余地はないので、自然の内に蛇行が均されることはない。


海老取川に近い玉川弁天の下から、現防潮堤の数十メートル裏側になる旧猟師町外縁通りに沿い、旧提の赤レンガ壁が今も残されている。この旧レンガ提は「羽田の渡し」跡の石碑の所(首都高の下)で現在の防潮堤に接近する場所に出てくるが、大師橋に向かってまた川から離れ、大師橋を過ぎてからは都道(旧提通り)に沿い、児童公園の前を通って本羽田公園入口まで続く。(赤レンガ提の残る位置については、羽田の渡し周辺の 旧流路図 に記載している。)
左岸の大師橋近辺から上手にかかる部分は旧流路が蛇行する頂点にあたり、かつての水域は後に赤レンガ提が築かれたこの辺りまで来ていたのではないか。正蔵院前では都道の位置が川っ淵になっていたと思われる。
(国土交通省のHPでは旧レンガ提の川上側は「大師橋のたもとまで」と記しているがこれは誤りで、大師橋を過ぎ本羽田公園の角まで残されている。なお国交省のHPに掲載されている旧レンガ提の位置を示す地図そのものも誤りで、レンガ提の位置が実際とはかなり違う場所に書かれている。国交省のHPの杜撰さについては、橋に関して 丸子鉄道橋のページ でも触れている。)
下の写真は現存する旧レンガ堤防の一部である。左が川下側になる順に並べてある。


左は旧猟師町中心辺りの羽田6丁目。現在では旧提は塀がわりになり、家の入口部分は切り欠かれているが、今でも昇降用の石段が残されている所がある。写真は川上向きで中央に新大師橋下り橋の主塔が見えている。
中央は川下向き。上手から大師橋を潜って右折したところで、羽田水門の舟溜り沿いになる。(下に掲げた羽田水門の写真でも背後にこの赤レンガが写っている。) 左側が防潮堤裏通りに続く旧猟師町の外縁道路で、右側は大師橋下から防潮堤に上る歩道になっている。ここのレンガが他所より綺麗に見えるのは、川表の面が見えているせいかもしれない。写真では分かり難いが、根元の部分(かつての水衝部)は曲面に仕上げられている。
右は正蔵院隣の都立つばさ総合高校前。写真は川上向き、レンガ提はここで終わっている。直轄改修工事の年度別工事状況によると、築堤工事は大正10年から始まっているが、羽田地先については大正13年に始まり昭和6年に終わっている。赤レンガ提はこの時期に作られたものである。
正面に見えるのは本羽田公園で、公園の左側に植えられた桜並木に沿った道を行くと堤防に出る。内務省の直轄改修工事が行われる前の旧提は、公園の右側を直進する方向になっている。直轄改修工事で左岸の側に造った新提は、羽田本町の端になるこの辺りでは、蛇行して北上する流路に沿って切り上げ、旧提位置に繋げていた気配がある。防潮堤が作られる前は、この桜並木の通りが堤防だったのではないか。


防潮堤の工事に際しては、高潮による波の集中を避けるため、防潮堤建設に合せて流路の屈曲を正すことにしていたので、先行して低水路を浚渫し、蛇行を均すように澪筋を通し直す工事を行ったのではないか。澪筋の蛇行を軽減させることで、それまで食い込んでいた箇所の水域を後退させ、川岸を前進させた上で防潮堤を建設したものと想像される。
今正蔵院前の道路際から防潮堤を越え川の水際まで100mほどの距離がある。改修される前の明治期の川幅(水路幅)は150m程度とされるので、その中心線を東京と神奈川の境界線にしていたと仮定すると、現状では左岸防潮堤外の陸地20〜30メートル分は神奈川県側に越境している勘定になる。

現在防潮堤は左岸では海老取川を越えた川下側にも一部見られる。一方計画にある左岸の3.1kmより川上の区域と右岸(河口から六郷橋)の全域には防潮堤は見られない。右岸では当該区域は程度の差はあるが、ほぼ全域に高水護岸が施されているものの、波返しが付いたコンクリート製の防潮堤はみとめられない。
又「多摩川誌」には下図とは別に、高水敷のあるところに設置するとする防潮堤の定規図も載っている。法先に水衝部が無いという前提から、洗堀(せんくつ)防止用の基礎部が省略されたタイプで、外観からでは基礎のことは分からないが、大師橋下から大師橋緑地端まではそちらのタイプに近いものかもしれない。

本館の方では [No.717] [No.71F] [No.721] などに防潮堤が写っている。参考のためこれらとは別に、左岸の防潮堤の写真を川下側から順に3点示しておく。(矢印にカーソルをのせるだけ)

    (羽田第一水門)     (旧猟師町)     (大師橋上手)

 
以下の図は防潮堤の構造を示す一例を「多摩川誌」から写したものである。
原典多摩川誌;「図3-5-4 多摩川堤防定規図(左岸1.5K〜3.1K)」

左岸の河口から 1.5km〜3.1km というと、海老取川口から旧猟師町沿岸を通って、大師橋を過ぎ、大師橋緑地が始まる辺りまでに該当する。(現状では2ヵ所で船溜り用の水門が切り欠かれている。)
川表の側は厚さ50センチのコンクリート製で、通常堤防とは逆比率 1:2 のスロープとされ、高さ1メートルの波返し頂上での余裕高さは2.7メートルになる。 天端面は幅6メートルの通路状で1/50の傾斜が付けられている。(基礎図にあるS.Pはシートパイル(鋼矢板)、R.C.Pはコンクリート杭を示すと思われる。)



   [参考集・目次]