<参考2>  六郷周辺の町村名の変遷


明治21年(1888)に公布された市制・町村制は、近代的な法体制に対応する地方自治制を整備するために、独立した自治を担える新町村を創出することを目的としていた。内務省による町村合併の基準では、合併後の戸数は300〜500戸が標準とされ、歴史上著名な名称は新町村名として保存するように注意され、旧町村名は新町村の大字(あざ)とすることなどが指示されていた。
東京府の場合には、区部(15区)には市制、郡部(6郡)には町村制を施行するが、同時に首都機能を確保するために、区部の拡張を図るという基本方針があった。そのため東京市域案は、従来の区部に周辺農村部を広範囲に組込んだ拡張案が提出された。東京市域拡張案は有力な町村を抜かれることになる郡部の反発を招き、郡部と区部の対立に発展したが、結局府知事は当初の方針を変更せず市域拡張案を押し通した。
新たな町村制は、それまでの町村数を1/5に減らす統廃合を強行するもので、合併先や新村名をめぐって利害対立を生じ、最終案がまとまるまでにかなりの紛糾もあった。現大田区域はそれまでの41ヵ村が9ヵ村に統合整理されることになったが、当初から規模的に単独で一村を形成する方針であった大森村は別として、馬込村が周辺との対立の収拾が付かず、荏原郡長の裁定によりほぼ単独でそのまま新村に移行することになった。 (六郷川沿岸は「矢口」「六郷」「羽田」の3村となり、他の地区は「蒲田」「大森」「入新井」「馬込」「池上」「調布」の6村になった。)

六郷一帯は第一次案では、新村名を「八幡塚村」とし、旧「八幡塚村」「雑色村」「町屋村」「古川村」「高畑村」を合併する、とされていたが、第二次案では村名が一転して「六郷村」に変わり、そのまま最終案として上申された。周辺では、いずれも代表1村を存続名として、新しい村が生まれることになったが、六郷の5ヶ村についての村名は「八幡塚村」ではなく「六郷村」と決定し施行された。新村名選定の理由は、「古来より荏原郡南部を六郷領と称し、其の称呼汎(ひろ)く遠近に伝播し、最も著名なるに依り」とされている。
六郷川沿川について見てみると、今の田園調布一帯は沼部で、亀甲山から北側が「上沼部村」、南側が「下沼部村」で、沼部の南側は「峯村」(旧流路の東側は「鵜ノ木村」)だったが、これら4ヶ村を統合して「調布村」が出来た。(現在では調布市というのがずっと上流側になる狛江市の西側にあり、丸子橋上手の量水標を調布と呼ぶのはピンとこないが、かつてこの辺を調布村と称していた名残である。)
調布村ができた南側には、「下丸子村」、「矢口村」があり、その川下側は、多摩川を跨ぐ形で「古市場村」、その先は「今泉村」、「原村」と続いていたが、「矢口村」が存続名となり、六郷村の西側一帯の9ヵ村(矢口・古市場・下丸子・今泉・原・安方・小林・蓮沼・道塚)が「矢口村」に統合された。(六郷と矢口の境界にあたる「道塚村」は、古来 "六郷" の一画に位置付けられていたが、このとき何故か矢口村の方に入ることになった。)
六郷村の東側については大森村の南側の海岸までが統合され、存続名を「羽田村」とした。ここは第一次案では旧羽田村のほか、「羽田猟師町」「鈴木新田」「萩中村」を合併するとされていたが、第二次案で旧「萩中村」が蒲田村に回るようになった。しかし最終案では旧「萩中村」は再び羽田村に戻され、更にそれまで蒲田村に統合されることになっていた旧「糀谷村」(明治11年に、それまでの「下袋」「麹谷」「浜竹」の3村を統合した)も羽田村の方に変更された。
(町村の統廃合が行われた当時、下沼部、矢口、古市場、古川、八幡塚等々の村には対岸側に飛び地があり、逆に下丸子の南側に中丸子の飛び地があり、「小向渡船場」を含む辺りが小向村の飛び地になっていたなど、右岸の村の境界が左岸にくい込んでいる地点もあったが、この時点では旧村の境界線は新村にそのまま引継がれた。これらの飛び地が一括して処理されたのは明治45年のことである。)

町村制施行後トップを切って、明治30年に大森村が町に昇格し、続いて明治40年に羽田村が、大正11年に蒲田村が町となった。六郷村の市街地化は遅く、昭和3年(1928)矢口村などとともに最後のグループとして町に移行した。
昭和7年(1932)10月に東京市の市域拡張が行われ、それまでの郡名が廃止されて、東京市周辺の5郡(豊島,荏原,足立,多摩,葛飾)が東京市に編入されることになった。従来の15区と、旧5郡から新たに編成された20区をあわせ、大東京市は35区でスタートすることになった。この時荏原郡の19町村は、品川,目黒,荏原,大森,蒲田,世田谷の6区に編成され、蒲田区は蒲田・羽田・六郷・矢口の4町を合体して成立した。
この時期には「六郷町」は旧八幡塚村一帯の町名に限定され、旧六郷町には新たに旧村名が復活した形で、雑色町、高畑町、町屋町(旧古川村を含む)が出来ている。昔八幡塚村は雑色村を飛び越した蒲田新宿の側に飛び地を持っていて、「出村」と呼ばれていたが、この出村を中心とした北辺に出雲町が出来、結局旧六郷町は再び5町から成る構成になった。

昭和16年、戦局の悪化に伴い、戦時統制の一環として国による行政の一元化が図られることになる。自治体権限は後退し事実上府県制に逆戻りすることになるが、この時期に旧六郷町は一転して全て「六郷」と呼ばれるようになった。即ち、六郷に、西・仲・東・南の付いた各町名が生まれ、旧村名は全て消滅してしまうことになったのである。
(当地では「東の東は南になる」という新説(??)が導入された。すなわち、古川・高畑など西側一帯を西六郷とし、JRと第一京浜の間を仲六郷、その東側を東六郷としたが、東六郷の更に東側の地域を南六郷と命名したのである。北六郷というのはなく、南六郷が何の南にあたるのかは不明で、この時期の町名決定が如何に杜撰でいい加減なものだったかということを如実に示している。尚この時期の丁目割は西六郷が3丁目までしかなく、逆に東六郷が4丁目まであるなど現在と同じではない。)
同時期、矢口の側では「下丸子町」「原町」「道塚町」など、羽田の側でも「萩中町」「糀谷町」など旧村名が存続しており、六郷で旧村名が全滅してしまったのはむしろ例外的であった。この地域では明治22年に八幡塚の名前が消滅しているが、昭和17年にはその他の旧村名も悉く息の根を絶たれたことになる。(その後の住居表示変更によって、「原」や「道塚」も消え「多摩川」や「新蒲田」が生まれた。何故そうまでして町名をいじりたがるのか、何か役所が無理やり自分達の仕事を作り出しているとしか思えない。)
大戦後の昭和22年(1947)、東京の35区を23区に統合再編することが決まり、大森区と蒲田区は統合され、両区から1字をとって大田区と命名された。同時に東京の各区は特別区となり、市に準ずる資格をもち、区長も官吏から公選によるものに変わった。
(旧村名は高畑神社、古川薬師、雑色駅、古い学校名などの固有名詞として僅かに名残を留めている。近時、南六郷の六郷川沿岸に忽然と「雑色ポンプ場」なる呼称が現れた。誰の命名かは知らないが、地名を弄(もてあそ)ぶ無神経さには不快感を禁じえない。)

東海道の宿駅であった川崎町は、大正2年(1913)橘樹(たちばな)郡役所が神奈川町から移り、ほぼ現市域の行政・経済の中心地となった。大正13年(1924)には、川崎町を中心とし、大師町・御幸村の3町村を統合した川崎市となり、その後多摩川に沿う町村を次々に編入、昭和47年(1972)には政令指定都市となって、区制を施行するようになった。多摩川沿いに伸びた形で(約34KM)、面積は市発足当時の7倍ほどになっている。


   [参考集・目次]