<参考26>  河川敷の春から初夏にかけての草木と花


     【アブラナ科】  ダイコン属 : ハマダイコン

 

2005年頃、春この辺りの河川敷で最も目に付く草花といえば、アブラナ科ダイコン属のハマダイコンであった。荒川方面などではセイヨウカラシナが一大繁茂し、ナノハナとは違う種類だという説明に追われていた頃だが、多摩川ではセイヨウカラシナはその後も大きな広がりを示すことはなく、このハマダイコンが圧倒的に優勢だった。

アブラナ科は十字花科とも呼ばれるように、花はすべて4枚の花弁が十文字(あるいはXの字)形に付く。
ハマダイコンは菜の花によく似た奔放な姿をしているが、花の色は黄色ではなく白ないし薄紫色で、彩色しているものも中心部は必ず白い。

ハマダイコンは海辺の砂浜で多く見られるためその名があるのだろうが、河川敷など普段湿気が強くない草地にも多く繁殖し、六郷川の河川敷でも、4月から5月中旬にかけて、万遍なく至るところで見られた。

「菜」(な)は「蔬」とも書き、もともと野菜類を総称する言葉だが、特にアブラナ科の植物を指して用いられることが多い。
実際に、野菜はアブラナ科のものが多く、大根・カブのほか、キャベツ・白菜・小松菜・タカナ・カラシナ・ブロッコリ・カリフラワーなど代表的な野菜が並ぶ。これらの野菜は花を咲かせれば皆菜の花ということになる。(因みに野菜で次に多いのはキク科で、春菊のほか、レタス・ごぼう・ふきなどがある。)
菜の花のうち、チリメンハクサイを基に、花を観賞する目的(切花用)で改良された品種を「花菜」(ハナナ)と呼ぶ。(房総地方で栽培される菜の花はハナナである。) 下に載せているオオアラセイトウが「紫花菜」と付けられたのは、アブラナ科であって野菜でなく、花は綺麗な紫色という意味になる。
野菜類は日本でその後品種改良されたものはあるが、原形はみな大陸から入ってきたものである。ダイコンは紀元前のエジプトで既に食用にされていたほど古くから栽培され、ギリシャ・ローマ時代を経て東洋に伝わった。従って日本での歴史も相応に古い。かつてはオオネと呼ばれていたらしいが、いつの間にかダイコンに変ったそうである。

左上の最初の群生写真は、川裏に古川薬師がある辺り。区民広場との境目になるここは、夏場はセイバンモロコシが割拠していたが、この時期は一面ハマダイコンになっていた。多摩川大橋上手の堤防側一帯にも大きな広がりが見られ、グランドが出来ている範囲でも、堤防法尻の刈られない場所は、遠目に白さを感じるほどこの花が咲いていた。

ズームした次の写真はどこと言って特徴は無く、大体みんなこんな感じという標準的な花の姿だが、もっと全体に白っぽい花も少なくない。
ハマダイコンは栽培種である食用のダイコンが野生化したものというのが通説で、実際通常の草に比べればかなり太い根をもっている。5月には種の膨らんだサヤを一杯実らせる(3枚目の写真)。このまま畑に撒き施肥して栽培すれば食用になると言う人もいる。
ハマダイコンはダイコンに限りなく近いものだが、大陸で野生化し種として確立したものが日本に入ってきたのだろう。ハマゴボウと呼ばれるアザミの一種は根も葉も食用になる。ハマダイコンも野大根と称して食膳に載っていた時代があるらしい。

2013年の再調査の折には、多摩川緑地から六郷橋緑地に至る範囲にはハマダイコンはあまり見られなくなったことが分った。
多摩川の汽水域で優勢な植生が換わっていくことは普通に起きていることで、チガヤ一色という時代から、ホソネズミムギばかりという時代もあり、ヘラオオバコが半分くらいまで増えた時代もあり、今ではどこもセイバンモロコシがほゞ全域を制圧している。
そんな過去の或る時期にこの辺りでハマダイコンがかなり優勢になったことがあったということだ。
植生が劇的に換わる場合、そのきっかけは多くの場合、堤防や河川敷の工事である。多摩川大橋から六郷橋方面(シャープ裏まで)に向けては、2005年から2006年に掛けて堤防の拡幅工事が行われ、持ち込まれた土で2倍に拡幅された。川表の新たな法面は勾配が緩やかにされ、高水護岸としてパネルが貼られ仕上げの土が塗られ芝が植えられた。狭くなった高水敷は30メートル幅で水路に造成され、右岸側では逆に湾曲部に洲状に堆積した部分が掘削除去された。
工事後当然ながら植生は一変し、その時からこの辺りでハマダイコンは激減した。左の花は2013年の撮影だが、場所はガス橋に近い雑草帯の中で、株数は少なかった。

2013年の調査では、川上側は1日だけ丸子橋まで足を伸ばした。堤防からは離れ、低水路に近い散策路沿いに進んだが、道中水路上の雑草帯に結構多くのハマダイコンを見て、こっちの方には未だハマダイコンがあるんだなァと思って感心していたが、丸子橋に着いて堤防を見てビックリ。
堤防の法面はハマダイコン一色で埋め尽くされていた。どうみても自然にというレベルではなく、意図的にハマダイコンを敷き詰めたようにした結果と思われる。

左の写真は道中の川岸側に見られたハマダイコンを散策路で撮ったもので、その下の写真は丸子橋からガス橋方向に向う側で、堤防法面を埋め尽くすハマダイコンを撮った。河川敷はグランドになっていて、水路側からはかなり離れている。



六郷界隈では打ち続く工事で駆除されてしまったようになって、一時ほどの繁栄は無く存在自身がここ数年は失われていたが、2015年には久々に結構綺麗なものが見られるようになった。
特に変わったところはないが、1枚を載せておく。場所は西六郷の川の一里塚(旧堤道路が堤防上に上がってくる信号のすぐ下手)のある場所の堤防下法尻に近い平面部で、撮影は4月中旬。

 


 

     【アブラナ科】  オオアラセイトウ属 : オオアラセイトウ (ムラサキハナナ:ショカッサイ)

 

同じアブラナ科に(ダイコン属ではないが)、ハマダイコンと紛らわしいハナダイコンというのがある。
これまで多摩川の沿岸でハナダイコンを見たことは無かったが、2013年の調査の時点でガス橋下手の荒地の中でハナダイコンらしき一株を見つけた。この界隈は春にはイネ科の大型種(多分クサヨシ)が密集して茂り、初夏には代ってクズが分厚く敷き詰められるようになり、容易に踏み込めるような状態ではないが、そんな中に一ヶ所だけ地面が見えるような不思議な場所がある。
下手側にカキドオシの群生とマルバハッカの群生が隣り合って広がり、そこに隣接して幾分高くなったような場所があって、何故かその周辺だけは透いた雰囲気になって、そこに園芸種に近いような種類が幾つか花を咲かせている。HLがよくやる花壇のような作り物など、何の囲いや仕切りがある訳ではなく、この辺り界隈と同様の荒地の一部に間違いないが、ここだけは何か違った草種が見られ、人手の関与が伺われるので、かつてか或いは今もか、誰かが荒地を開墾して遊んでいる可能性が高い。この花もそんな痕跡が伺われる範囲の一画で見つけた。

花の形はハマダイコンとよく似ていて、花弁の色は紫から赤紫色だが、ハマダイコンのように花心部が白いことはなく、ベタに着色しこのてのスミレのような感じに近い。
ハナダイコンの方は食用とは無縁で、鑑賞性に優れるためよく取上げられ、多くの名前で呼ばれてきた。
漢名は諸葛孔明との関わりからショカッサイ(諸葛菜)と呼ばれ、和名は牧野富太郎博士がオオアラセイトウ(大紫羅欄花)と命名した。
アラセイトウというのは欧州原産の栽培種ストックに付けられた和名である。ストックは切花用や園芸用に栽培され、八重咲きが好まれるが、一重咲きのものも出現する。オオアラセイトウという名前は、(アブラナ科ではあるが)似ているとは言えないアラセイトウを連想させ、違和感があったのではないかと思われ、一般的にはあまり使われず、ムラサキハナナ(紫花菜)とかシキンサイ(紫金菜)などの別名で呼ばれ、通称はハナダイコン(花大根)で通っている。

(ただし欧米やシベリアの北部に、正式名をハナダイコンというアブラナ科の別種があるので、紛らわしさを避けるためにも、ムラサキハナナのことを安易にハナダイコンと呼ぶべきではないとする指摘もあるので、ここでは以後ハナダイコンという呼称は控え、写真にはその他の名称を記した。)

(独)国立環境研究所の「侵入生物データベース」では、ショカッサイについて1894年に侵入情報があり、1939年から各地に導入、戦後拡大したとされている。移入元として中国南京の紫金山が記されていることから、別称として使われることがあるシキンサイというのはそこからきていると思われる。

この花を見つけたのは2013年4月12日で、翌日と2週間後の都合3度見ているのだが、生憎いつも撮影時間が16:30〜17:10頃になってしまっていた。
後で写真を整理しながら良く見ると、花の色がかなり違う写真があることが分って不思議な感じがしたが、時既に遅く詳細を確かめることは出来なかった。
撮っていたのは皆同じ株だと思うので、強いて今説明するとすれば、この花は光線か或いは時間帯に対する反応が敏感で、例えば陽が当たっていれば赤味に寄った発色をし、日が陰るに従って赤味を失って紫色が強く出るようになるとか、日没後にはほゞ完全な紫色を呈するなどという変化があるらしいと推測される。

オオアラセイトウと書いた上の3枚の写真は4月12日の撮影で、夕方4時53分から1分の間に立て続けに撮っている。撮り始めた時点では薄日程度は残っていたと思うが、3枚目のズームは明るめに撮っているが、実際にはもう完全に直陽は当たっていない状態である。
この日には未だ結構蕾みが認められたが、次に行けたのは2週間後になっていて、出かける際には、花はもう終わっているだろうという、半ば諦めの心境だった。
ところがさすがに蕾みこそもう殆ど無かったものの、花は未だ十分その雰囲気を持続していて驚いた。後ろの4枚はいずれもその日4月26日に撮ったものである。ショカッサイと書いた初めの2枚(全体と花のズーム)は夕方の4時32分から33分に掛けて撮ったもので、この写真を含めこの時間帯にこの花を6枚撮っているが、いずれも似たような色に撮れている。時間帯は12日の時より20分ほど早いが、やはり薄日が残っている程度の光条件だった。

上から5枚の写真だけであれば、特にこの花の色を問題にすることは無かったと思う。ところが後になって、まるで違う花ではないかと思わせるほど雰囲気の違う写真が残っていることを知って驚いた。
それが次に載せている2枚である。実は26日はこの周辺でいろいろな草を撮り終えると、一旦藪から出て、ガス橋まで行き橋を潜った先にあるベンチまで行って折り返している。深い意味は無いのだが、ガス橋まで行った場合のお決まりのコースとして、このベンチで小休止し、向かいのキヤノンを見るなどして又戻るということにしている。ただこの日は帰途に又藪に入って写真を撮り、その際5時4分から5分間ほどの間に、又この花の写真を6枚撮ったのである。その時には別に何の違和感も感じなかったが、後に写真を整理する段になって始めて、この時の6枚は花びらが極端に紫色に写っていることを知った。
不思議に思ってネット上にどんな色の花が載っているか調べてみたが、ここでいう上の5枚と下の2枚が半々程度の割合で載っていた。つまりどちらも珍しいものではないということらしいが、知らない人が見たらおそらくこれは個体差であって、双方は違う株だと思うだろう。

ネット上で見る花も、紫色べったりの色で炎天下に咲いているというようなものは見掛けなかった。つまり太陽光の直射に含まれる何かの光線要素か、或いはこの季節の時間帯的に日没に入るかどうかという時刻的な要素か何かが影響して、晴天の日中にはベタの紫色を呈することはない花が、一変してこのような色に変わるということのようで、その辺りは色彩的に一見したところ似ているようでも、アヤメ、ハショウブやスミレというような本源的に紫色を示すものとは違うのだろうと思わせる。

オオアラセイトウは中国が原産で、江戸時代に輸入され栽培されていたものが逃げ出して野生化したと言われている。長く人によって栽培されたものは、不自然な交配が繰返されたり交雑したりした結果、意図していなくても改質されていく場合が多い。遺伝子的にはかなりの安定度を示すようになっても、純粋に野生環境で生き続けてきた種とは何か異なる形質ができているということがあるかも知れない。因みにハマダイコンの場合には、個体差は結構あるものの、同じ花が日没後に色を変えるなどということはなく、野生化して久しい野草そのものという感じがする。

 


 

     【アブラナ科】  アブラナ属 : アブラナ (ナタネ:ナノハナ)

 

アブラナは種子から油を採るものはナタネと呼ばれるが、若い茎葉が食用にされる場合はアオナと呼ばれる。
ダイコンは冬野菜で、花が咲く前に採取されるため花を見ることはない。一方アブラナの畑栽培は種子から油を採るのことを目的とするため、陽春に一面の黄色い花畑の風景が実現することになる。

アブラナ類が葉菜として中国(漢)から伝来したのは弥生時代とされている。搾油が始まったのは平安時代で、室町時代には荏胡麻(エゴマ)油に代わって、ナタネ油が灯油、食用油の主力になった。
江戸時代までのナタネは黄褐色で赤種と呼ばれるが、明治時代に収穫量の多い(含油率が高い)黒褐色の黒種が導入され、とくに戦後では搾油するためのアブラナは殆どこの黒種に置き換わった。この品種をセイヨウアブラナと呼ぶ。

在来種のアブラナは、茎葉が鮮緑色で、花弁は10mm未満と小さく、ガク片は水平に開いて付いているが、セイヨウアブラナの茎葉は粉白緑色で、花弁は10〜15mmと大きく、ガク片が立上るような形でついていることで見分けられる。
菜の花畑は以前に比べれば減っているが、ナタネ油の需要は灯油こそ減ったものの、食用、薬用、工業用などでは増えており、輸入に切り替わっているのが現状らしい。

千葉県の県花になっている菜の花はハナナで、在来種の系統。また京の「菜の花漬」は、黄色く膨らんだ頃の蕾を摘んで漬けたもので、やはり在来種の系統を受け継いでいる。
菜の花は優秀な蜜源としても知られ、養蜂家は菜の花の花期に合せ、九州から北海道まで採蜜のため移動していく。




 


  

     【アブラナ科】  ヤマガラシ属 : セイヨウカラシナ

  

春の河川敷でアブラナ科の黄色い花は広範囲に見られるが、花壇などに人為的に植えられているのは、全体の色合いが淡く黄色が鮮やかに見える。これが菜の花畑として歌に歌われたアブラナで、春の早い時期に花期を迎える特徴がある。(前記したハナナは寒咲きと称し冬から咲いているものがあるが、通常の菜の花の花期は3〜4月である。)
一方河川敷に自生する黄色のアブラナ科の花は、近年ではほとんどがセイヨウカラシナに換っているとされ、こちらは本家の菜の花より花期が1ヶ月ほど後れる。
セイヨウカラシナはセイヨウアブラナとは又違うアブラナ科の帰化植物である。セイヨウカラシナの花は黄色が赤味掛かっているとか、やや小振りであるなどと言われるが、私のような素人は葉の付き方で区別することになる。アブラナの葉は茎を抱き込むようにして茎に付き、セイヨウカラシナの葉は茎を抱かず末端で茎に付く。

近年セイヨウカラシナが地方河川の高水敷などに大群落を形成しているケースが報告されているが、六郷川の河川敷ではまだそれほどは見掛けない。この辺りの河川敷を見る限りでは、むしろハマダイコンの方が年々増えてきているように感じる。ただし岸辺などにハマダイコンに混じって群生しているのは皆セイヨウカラシナである。アブラナも河川敷の澪筋側に僅かに点在して認められるが、多摩川緑地の周辺では、大田区が花壇にアブラナをよく植えているので、そうしたものが起源になっているものが多いのではないか。
六郷川の河川敷はどこも頻繁な工事があり、のべつ掘返され土が持込まれるという事情があるため、生態系は常に過渡期にあり、極相で何が優占種になるような環境なのか判断が付かないという特徴がある。2002〜03年の乾季に護岸工事が行われた多摩川大橋上手の左岸、工事直後の裸地で真っ先に芽を出し、次々とその数を増していったのはセイヨウカラシナだった。
(写真のアブラナは3月下旬に花壇のものを撮影した。セイヨウカラシナは群生、アップとも4月下旬から5月初旬に撮影したもの。)



2013年春の調査の時点では、セイヨウカラシナは益々減少していて、多摩川大橋を過ぎてガス橋に近付く辺りで幾らか見られた。水路側の荒地にも水際などにチラホラあったが、左に一枚載せたのは、散策路添いで、堤防側になる河川敷の端にあったものである。

 


  

     【アブラナ科】  キバナハタザオ属 : カキネガラシ

 

カキネガラシはヨーロッパ原産で明治時代に渡来したとされる。
カキネガラシの特徴は何と言ってもその姿形にある。茎を四方八方に伸ばし万歳するように大きな円弧を描くように曲がるものが多いが、グチャグチャに絡み合ったりするものもあり様々だ。いずれにしても見た目に乱れた感じを与えることには違いない。
丈は1メートルに達するような大きなものはなく、平均50〜60センチ程度である。密接して群生するものを見たことが無いので、本当に垣根を形成したようになるのかは分らない。
花はアブラナ科に特有の黄色の4弁花だが、花は極めて小さく径はせいぜい1センチにも満たない程度である。咲く場所は伸びた茎の先端の場合が多い一方、茎が枝分かれするその付け根付近にもあったりとマチマチである。元々黄色は焦点が合わせ難い上、花はミリオーダーの小ささのため、デジカメのマクロでこの花を鮮明に撮るのは至難の技である。

写真は2008年6月初めの頃、多摩川大橋の下手の本流側の荒地で撮ったもの。この当時この辺り(多摩川大橋からヤマハヨットの間)にはカキネガラシが多く見られた。然しその後この辺りでは全く姿を見なくなり、2013年には六郷橋の下手(六郷橋緑地の南六郷地先)辺りにチラホラ見られるようになり、殆どは小さいものだったが、この乱れた感じが何となく懐かしい感じだった。






 


 

     【アブラナ科】  イヌガラシ属 : イヌガラシ・スカシタゴボウ

 













 


 
スカシタゴボウは越年性の1年草と言われるが、実際には環境条件次第では、年に何回も花を咲かせ、あっと言う間に拡範して空地を制圧してしまうほどの繁殖力を持っている。並の1年草とはかなり状態が違う特異な種類だ。

多摩川の汽水域でウラギクが野生絶滅になる頃、5年間ほど六郷のヨシ原の中で、ウラギクを人為的に保護育成したことがある。その地面は大潮の満潮時には数十センチ近く水没する高さで、ヨシとアイアシが丁度競合するような高さだが、既に他の湿性植物種は駆逐されていて、ヨシかアイアシが全域制圧する環境だった。
そうした環境で地表に出てくるヨシやアイアシを刈って、地面をウラギクに開放し、南側周辺のアイアシも伐って日照を確保し、系統保存を目的にウラギクの群生を維持していたのだが、その時ヨシやアイアシ以外で唯一競合してきたのはスカシタゴボウだった。
近くにはセイタカアワダチソウなどもあったが、競合してくるところまではいかなかった。

ウラギクを広げるために裸地を生成すると、真っ先にそこに種子を飛ばし、実生をみるみる内にロゼットに仕立ててくるのがスカシタゴボウだった。
スカシタゴボウは地上の雑草帯の中で勝ち抜くそれほどの力がある訳ではない。しかしスカシタゴボウには、時期に捉われず、空地という隙があればいつでも侵入を試みる能力、つまり殆ど1年中花を付け、種子を飛ばす体勢を取っているという特異な能力がある。
また一時的に冠水するような低地でも十分耐えられるようで、かつて南六郷の中洲が一斉緑化したとき、中洲の表面はまだ満潮時には水没する高さだったにも関わらず、緑化の初年度にはヨシやイセウキヤガラ、ウシオハナツメクサ、ヒメガマなどと共にスカシタゴボウもあったのでその時感じてはいた。(6枚目の写真はその時の中洲での写真。この年中洲は百花繚乱の状態だったが、結局中洲の植生は翌年以降全てヨシに制圧され、ヨシに対抗して存続できたものは無かった。)





ここの写真は殆ど全てヨシ原のウラギク保護活動中にその近辺で撮ったものである。

当時は未だヨシ原の中に東電の送電鉄塔があって、入口側から鉄塔まで東電がヨシやアイアシを定期的に除草して、鉄塔用の巡視路を確保していた。時期によって多少は異なるものの。一定の幅で裸地が続いていた訳で、スカシタゴボウはその巡視路を拠点にしていた。
左の写真はその様子が良く分る写真で2013年に撮ったものである。歩行部の両脇にもやもや見えているのは全てスカシタゴボウである。2枚はアイアシが伸びてくる前後(4月5月)に相当する。この巡視路も大潮の満潮時には水没する高さで、この通路の脇に他の種類の草は全く見られないが、スカシタゴボウは一向にお構いなしで、年中こんな感じで花を咲かせているようだった。


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