<参考26>  汽水域で春から夏にかけて見られる草木の花


     【アオイ科】  タチアオイ属 : タチアオイ

 

多摩川の汽水域で散見されるタチアオイは2メートル位になる大型の花で株立ちもする。
因みに葵というと、徳川の家紋である三つ葉葵が連想されるが、その葵とは無関係である。 三つ葉葵に限らず、各種の葵紋に用いられている図案の原型になっているのは、ウマノスズクサ科のフタバアオイである。フタバアオイはその名の通り、ハート型の葉を2枚ずつ対で出し、三つ葉葵は架空の植物ということになる。長野善光寺が用いている「立ち葵」という茎まで入れた図案の紋もあるが、これも原型はフタバアオイであり、ここで扱うタチアオイとは関係無い。京都三大祭の一つ葵祭も、平安時代に隆盛を極めた頃は賀茂祭と呼ばれていたが、その後廃れ、元禄時代に再興されて後、葵祭と呼ばれるようになったもので(今でも正式名称は賀茂祭)、あちこちに飾られる葵は全てフタバアオイである。

左の写真は上から5枚は2014年6月中旬に、多摩川大橋下手の本流側で撮った。初めの写真で堤防の川裏に見えているお寺は、鎌倉時代後期に創建されたという圓應寺。本尊は阿弥陀佛を祀るが、境内には度重なる多摩川の氾濫による犠牲者を供養するための庚申供養塔がある。(大田区内に残る庚申塔は少なくとも何十とある。)

ここ圓應寺の庚申供養塔は大田区の指定文化財になっている。大田区教育委員会の説明板によれば、寛文12年(1672年)に、地元の古市場村の人々が建てたもので、青面金剛像を彫った庚申塔としては区内で最古のもの、というのが指定文化財とされた理由。
(因みに、大田区内で最古とされる庚申供養塔も大田区の指定文化財になっているが、東急多摩川線沼部駅の傍の密蔵院にあり、寛文元年(1661年)に建てられたもので、舟型の石に地蔵立像を半肉彫りしたもの。Wikiによれば、青面金剛刻像を彫った庚申塔で、確認されている現存最古のものは福井県にあり正保4年(1647)のものとされている。)
Wikiには、「庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い」とありまた、「庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。〜 明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった」とある。ここ圓應寺の庚申供養塔も、もとは矢口三丁目の旧道沿いに建てられていたが後に現在地に移設されたものという。

Wikiによれば、庚申信仰とは中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」由来ながら、そこに密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った日本独自の複合信仰で、青面金剛(しょうめんこんごう)は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像とのこと。

円応寺を入ると、塀に沿って大日如来を中心とした13仏の石像が配置され、その先の墓地の入口に庚申供養塔がある。「板碑型の石碑に青面金剛立像を中心に、日月や鶏、三猿が刻まれ、江戸初期の典型的な様式である」とのこと。青面金剛は六臂(ぴ)に法輪、三叉鉾などを持つ忿怒相で、邪気を踏みつけた下に二鶏、その下に三猿が彫られている。こうした像が彫られた石塔の一番下には平面に文字が刻まれているようだが、もう普通には殆ど読めない。ここに施主について荏原郡六郷荘古市場という中世的な表記があったりしたようである。(大田区教育委員会が建てた説明板があるのだが、これが昭和49年設置ということで、既に40年も経っていて、下半分が擦(かす)れている状況にある。)

多摩川大橋を挟んで反対の下手側になるトミンタワーの場所は、スーパー堤防が作られ始めた初期のスーパー堤防で、トミンタワーのある僅かな区間だけがスーパー堤防になっている。正面入り口の下手側で前面の旧堤道路に面した歩道のような部分にタチアオイに似た花を咲かせる大きな株が4,5株植えられている。宿根から株立ちするとこんなにまで大きくなるのかと思って、撮りに行こうかと思ったこともあるが、信号の無い場所を横断しなければならないのが億劫なのと、その場所は川の外にあたり、明確に人が植えたものであるし、周辺状況は苦しく、近付き過ぎになっていいアングルでは撮れないと想像されるなどの理由で撮影を見送っていた。タチアオイを書き始めた機会にやっとこれを見に行ったところ、これは歴とした木本で、花は確かにタチアオイに似ているが、木本であるので、同じアオイ科フヨウ属のムクゲだろうと思う。調査もせずに感覚的な思い込みだけで、誤った記述を載せなくて良かったとつくづく思った次第。

タチアオイ(英名ホリホック)はアオイ科の多年草で、史前帰化植物というほどではないが、結構古い時代に薬草として導入されたものらしい。花が大型で綺麗なので園芸用に利用され、改良品種も多いようだ。野生では宿根化し多年草になるが、園芸品種では1年草や越年草のタイプが普通になっている。

植物種としてはアオイといえば(遅くとも)中世以後はこのタチアオイのことを指すが、古く万葉の時代のアオイはフユアオイのことを指していたと考える説もあることを付言しておくべきだろう。

原産地はトルコ辺りとみなされている。ヨーロッパの南部や東部の原種が交雑して生まれた交雑種と考えられていると記載されている書き物を多く目にする。花や根は薬用にされるが、ハーブや食用としても使われることがあるようだ。


左上とその上の2枚のズーム写真は2014年6月13日に撮ったものだが、花の中心にはオシベのみがあって花粉を撒き散らしている。
タチアオイは両性花だが、「雄性先熟」といい、先ずオシベのみを出して花粉を供給する。雄花として振る舞った後は、雌花に性転換しメシベを伸ばして、花粉を受け取る側に換わる。(このように一個体が性転換し、両性の役割を果たす例は植物に固有のものではなく、魚類など他の生物でも見られる。)

 

上の花を撮った日から一週間近く経った6月19日に再び当地を訪れると、期待通り幾つかの花ではメシベが出て雌花に転換していた。ここから下3枚の写真はその時メシベをズームで撮ったものである。


メシベの先がこのように、白い半透明なクラゲの足のような恰好に、多分岐することがあるという実例を、現実に目の当たりにすることは、ギシギシのような顕微鏡レベルに小さく、非常に複雑で難解な花の、少くなくともメシベについての理解を進める上で役に立つ。

ここから下に載せた3枚は、多摩川緑地前の堤防の裏で撮ったもの。ここは緑地管理事務所の上手に当たり、川裏に都営住宅があって、法尻と都営住宅の金網フェンスの間の堤防下が側帯のようになっていて、春には上手側にイモカタバミの絨毯が出来たり、初秋には下手側でタマスダレが見られたりする場所だが、夏は全面がセイバンモロコシに覆われてしまって何の見どころも無い。
ところが2014年にここの堤防法面にセリ科のウイキョウを発見して、その複散形花序を何回か撮り直しているうちに、下の方のフェンス際にこのタチアオイがあることが分かって撮ったもの。
2014年はどこもセイバンモロコシが優勢で、圧倒的な繁殖力を見せ付けて猛威を振るっていたが、金網のフェンスを抜けて、都営住宅側から園芸種の種子が飛んできてももおかしくは無く、セイバンモロコシに埋もれてしまうような状況になる前からこのタチアオイはあったのだろう。

左とその上の2枚の写真は2014年の6月下旬の撮影で、大きな株ではないが花は幾つかあり、オシベが花粉を撒いている雄花と、既に雌花に転換しクラゲの足のようなメシベを出している様子が確認された。

最後の一枚は、ウイキョウが刈られてしまう前にもう一度撮り直しておこうと思って来た7月下旬で前とは少し違って、堤防側に寄った場所にあったものを撮った。いずれにしても一帯はセイバンモロコシに席巻されていて条件は非常に悪く、そのせいか丈も1メートルに満たない低いままに止まり(最後に撮ったものの丈は50センチも無かった)、その規模で必死に花を咲かせているという感じだった。


タチアオイの果実は同じアオイ科の木本であるフヨウの果実によく似ている。少し小型にし幾らか扁平にしたようなものだ。但し、フヨウの果実は長い間存続し種子を放出し続けるが、タチアオイは草本であって、地上部は程なくして枯れるので、果実の存続時期も相応に短く、8月末まで位には地上部もろともに枯れて消滅してしまう。
(フヨウの果実については [参考36] の方詳しく載せている。)

左の写真3枚は同じ日で、8月17日に多摩川大橋上手の円応寺前の場所で撮った。未だ咲いている花も僅かにあったが、既に枯れてボロボロの痕跡しか残っていない株もあった。果実の熟成は早く、裂け目が入って、種子を放出中という果実も多く目についた。



2015年も多摩川大橋の上手で水域縁から堤防を向いて撮ると、バックに川裏にある圓應寺が写り込む場所でタチアオイを撮った。もう前年ほど追いかけることはないが、ここは安定したタチアオイの場所なので、表敬訪問のような感覚でこの時期に訪れた。撮影日は6月2日である。

ここのメインは河川敷に向いた側に多いピンクだが、水路に向いた側には赤も少しある。


2015年の新参は多摩川大橋から川下方向に進みヤマハボートを過ぎ、川裏にトミンタワーを過ぎた下手辺りで、低水護岸の最下段にこの年初めて現れた白色のタチアオイ。

誰かが持ち込んだものかも知れない。植生階段護岸の最下段だが、河川敷の上からでも見え、白色が目立つため、何かと位置の目印になった。

撮影日は1,2,3枚目が6月2日で、4,5枚目は5月30日である。



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