<参考26>  河川敷の春から初夏にかけての草木と花


     【カヤツリグサ科】  カヤツリグサ属 : メリケンガヤツリ

 

カヤツリグサ科はイネ科に似た線状葉を有し、花も花びらがなく、鱗片が重なり合った小穂(しょうすい)から成り、鱗片の隙間から花粉を飛ばす様がイネ科に似ているなど、イネ科と区別しずらく、何かにつけ両科は対比して説明されることが多い。ただカヤツリグサ科にはイネ科には無い特徴として、「中実で断面が三角形をした茎を持つ」種類が多いことは参考になる。
イネ科には古来から食用にされた穀類が多く、また大型のものは萱(かや)と総称され、茅葺屋根には欠かせない材料だった。茅葺はカヤという特異な種類があるわけではなく、山間部ではススキが主体とされ、平野部ではヨシも利用された。(世界遺産の白川郷合掌造りの萱の葺き替え時は、今では材料が不足し、ススキの多くが富士山の裾野で刈られていると聞いたことがある。)
一方のカヤツリグサ科はイネ科ほどには人の生活に密着していないが、単なる雑草という存在だったわけではない。

カヤツリグサ科はスゲ属のものが種類としては圧倒的に多いが、カサスゲなどは昔、笠や蓑(みの)などあるいは藁(わら)細工の材料として利用された。ゴザとかムシロについても、高級なものは畳表と同じイグサを織ったものだが、その昔にはカヤツリグサ科の大形種が用いられたとされる。
なお古代エジプトで紙の起源となった有名なパピルスはカヤツリグサ科カヤツリグサ属の一種である。

カヤツリグサ科カヤツリグサ属メリケンガヤツリはアメリカ大陸原産の帰化植物で、昭和30年代にやってきたというからかなり新しい。茎は典型的な三稜形で中実。
メリケンガヤツリの写真、上から3枚は2005年7月9日の撮影。撮影場所は東海道線の六郷橋梁下で撮影日は2005年7月9日。ここは梅雨時に雨が続くと、コンクリートの橋桁から雫が落ち、水はけが悪いことと相俟って、常時水溜りが出来易い場所である。このように臨時の水場だけに、繁茂するか否か、或はその繁茂の程度は年によって異なるが、梅雨時などに雨が多いと、この周囲だけメリケンガヤツリが繁茂しイネ科を圧倒することがある。
繁殖力が強い為、在来の湿生植物を駆逐する恐れがあり、要注意外来植物に指定されている。

カヤツリグサ属の仲間は皆独特の似たような姿をしている。
太い茎の先端に5,6本から10本程度の葉状の総苞片を有し、中心から5,6本乃至10本程度の花柄を出す。横向きに放射状に開く総苞片は長く、各苞片の長さは不揃いである。苞の付け根から束状に出る花柄は苞より短く、各柄の長さはやはり不揃いである。カヤツリグサ独特のこのような姿は、何となく打上花火を連想させ、人為的にデザインしたもののようにさえ感じられる。
メリケンガヤツリと古来のカヤツリグサとの違いは、花の形で見分けられるらしい。カヤツリグサの花は小穂が上下に並んで付き、円錐花序に似た形になるが、メリケンガヤツリの花序は、扁平な小穂が球状に集合した形をしている。花が球状になるものは、他にもあってメリケンガヤツリだけではないようだが、帰化植物のデパートと言って過言でない六郷川の河川敷では、この雰囲気ならばもう、メリケンと見なして間違いないだろう。

左からの3枚の写真は2016年6月27日の撮影。場所は多摩川大橋下手の緊急時船着場から下に降り、低水護岸最下部として水際に続くコンクリート平面の両側を撮った。

ヤマハボートの桟橋がある位置までのこのコンクリート部は、干潮時には露出し歩き難いものの一応通行は可能だ。
写真でも分かるようにこの一帯の護岸はゴミが溜まりやすく、良い環境ではないので滅多に下りない場所だが、偶々この時はこの周辺を調べる気になって、ヤマハボートの上手側の高水敷から降りて、非常時船着場まで歩いた。
護岸の水側には根固めブロックの代用なのか、ガレキを詰め込んだ大きなネット製の袋がぶち込まれていて、そのガレキネットと護岸コンクリートの間辺りに堆積した土部からメリケンガヤツリが生え、護岸沿いに群落となって繁茂し青々としていた。

一方高水敷側も低い崖状の裾の部分に群落が繁茂し、多くのものは満潮時には冠水する高さにあったが、こちらの方は花が既に褐色化し始めていていた。



 


 

     【カヤツリグサ科】  ホタルイ属 : サンカクイ・フトイ

 

サンカクイ。京急六郷鉄橋下。2006年6月初旬。
タコノアシの近傍にあるもので、2006年はタコノアシ共々で刈取除外を要請され保存になった。この花は出たての若いものである。
サンカクイは多分常時水に浸るような湿地環境でないと生育できない。京急の鉄橋下は他にも珍しい野草が見られるといわれる。

カヤツリグサ科外来種の代表格であるメリケンガヤツリの方は、常時水に浸るというほどには湿気ていない場所で見られるケースもある。上に写真を載せた場所は堤防下で、花が青いうちに刈取りが入るため、毎年の継続性は疑問だ。
当地よりかなり下った大師橋上手(旧羽田猟師町中村地区)の防潮堤下に多いが、刈られる所ではないので、コンクリートの隙間に生えるものは、7月には花が熟して赤茶け花粉を飛ばしている。



 
 


 

フトイ(太藺)はカヤツリグサ科ホタルイ属。
根が水を吸上げる抽水植物としては、イネ科のヨシやガマ科ガマ属などが有名だが、カヤツリグサ科ホタルイ属のフトイやサンカクイも湿原などに群生する湿生植物として知られる。
葉が退化して桿だけが株立ちする姿がイ(藺)に似て見えるところから、太いイグサの意味でこの名が付いた。実際には畳表に使われるイ(藺)はイグサ科で、カヤツリグサ科ではない。
(藺草の花は、イネ科やカヤツリグサ科と同じように風媒花だが、花びらの退化はイネ科やカヤツリグサ科ほど顕著ではなく、遠目には似たような花穂に見えるが、花は一つずつ独立し小穂のようなものは作らないとされている。イグサ科クサイの項参照)
フトイの茎はカヤツリグサ科としては異例の丸断面で、太さはあるがヨシやガマほどの剛性はなく、元々垂れ気味で直立性は弱いので、強風によって姿を乱しやすい。

(左の写真は2005年5月29日の撮影。場所は六郷橋緑地に接する塩湿地で、現在雑色ポンプ所がある前辺りの護岸縁で川下向きに当時のフトイの群落を撮っている)

フトイは六郷橋下手の左岸、干潟の中にヒメガマと並んで護岸沿いに群生していた。ヒメガマはこの群集のやゝ下手に大きな単独な群落が続あるが、この群集は上手側がヒメガマでこれと接して下手側にフトイが続く、全長で数十メートル程度のものである。フトイは六郷川の範囲ではここ以外で見たことはなく、大田区でもこれほどの大きさのものは他には無いと言われていた。(サンカクイは京急六郷鉄橋下に少しあり、その近辺にはミコシガヤやイグサ科のホソイも自生している。)

左の写真は2005年6月7日の撮影で、上に載せた群落を、下手方向にあるヒメガマ単独の大きな群落の端から上手を向いて、フトイの群落の下手側の端を撮っている。二つの群落の間は干潟になっていて、右手は改修されたマット状の護岸、左手側には大きなヨシ群落が六郷橋方向から下手向きに伸びてきている。このヨシ群落によって本流とこの塩湿地は遮られるようになっている。(満潮時の水は下手の六郷水門の側から入ってくる。)

六郷橋から下手の左岸寄りの低水路は、橋下の高水敷から川下に伸びるヨシの群落と、その先に長く続く砂洲によって本流から仕切られ、川下端になる六郷水門の近くでのみ本流と繋がり、上手の六郷橋側で行き止まりとなる分岐水路が形成されている。
上手側でも本流と繋がっていた時期もあったが、今では土砂の堆積によって埋まってしまった。この塩湿地は上げ潮時には、下手側から注水されて一帯が水没して潟湖(せきこ)の状態になり、干潮時には水が引いて干潟が出現する。(潮の干満に従って、現れたり水没したりする砂泥地は塩沼地(えんしょうち)とも呼ばれる。)
東京湾奥の沿岸部の浅瀬は昭和40年代までにほゞ埋立てられてしまったが、当地のヨシ原はたまたまその頃から発達した。近年水質の改善は進んでいるようだが、この干潟はゴミに埋もれ環境はむしろ悪化しているようにみえ残念である。
澪筋側に発達したヨシの大群落と、護岸(籠マット)の間の低水路は典型的な塩沼地で、ヒメガマの群落が数箇所発達しているが、その内の一画にフトイの群落がある。(幅数十メートル程度)

ヨシは冬場も枯色の茎や穂を直立させ続けるが、ガマやフトイでは地上部は朽ち地面が剥き出しになる。上潮に乗って運ばれてくるゴミが枯れた茎の残骸に引掛って留まり、一面は次第にゴミの集積地のようになっていく。(大規模な洪水がないとゴミは掃けない)
初夏に、ゴミの無い部分からは新芽が出るが、ひどく埋まってしまったゴミを押し退けるまでの力は無いので、株は疎らになり茎の密集度は低くなる。
フトイの茎はガマほどには硬くない。背丈が低く伸びる勢いがあるうちは直立を維持するが、花を付けた後しばらくすると、群生の大半は根元から倒れてしまい、夏から初秋までを憐れな姿で過ごすようになる。

写真は2005年で、左上が5月31日、左は7月15日の撮影。干満の度に根元が洗われる外縁部は密集度が高く、ゴミが滞留し埋まっていく中央部よりは倒れにくい。

左の写真は2005年6月6日の撮影で、満潮時にフトイ越しに水域となった塩湿地のカルガモを撮っている。この時期はカルガモがメインだが、秋にはオナガガモ、コガモやオオバンが多くなり、当地で繁殖しているバンや、飛来するセイタカシギがよく見られる。

左の写真は2005年7月11日の撮影。2003年に改修されて新たに出来たネット式の植生護岸の上で撮った。
多摩川の河口域には、右岸殿町2丁目の湾入部と、左岸本羽田3丁目の大師橋上手の滞留域(蛇行水路時代の名残のデッドスペース)の2ヶ所にトビハゼの繁殖地が認められるが、このフトイの群落の中にも小さな繁殖集団が認められていた。
河口域から5キロも遡ったこの場所に、飛び地のような格好でトビハゼの繁殖が続いていたのは、おそらくこのフトイの存在が関係している。フトイの群落の中央部は、上げ潮に乗って打ち上げられてきたゴミ類が土砂に埋まってしまったのか、新芽が出てこられないほど硬い部分も多く、決してトビハゼが繁殖のための巣穴を掘るのに適しているとは思えない。巣穴はおそらく近辺の微粒泥が堆積しているような場所に掘っているのだろう。

左の写真は2006年6月6日に同じく護岸の上で撮った。
トビハゼはハゼ科の魚類だが、鰓は殆ど退化して機能せず、呼吸は薄い皮膚を通した皮膚呼吸によっている。そのため皮膚が乾燥しないように水の近くで生活し、度々身体を濡らすために水に入るが、長く手中に留まれば窒息してしまうので、生活の殆どは水から出た干潟上で行う。
干潟は満潮時には水没してしまうため、トビハゼは干潮時に干潟に出て生活し、上げ潮が来ると跳んで帰ってきて安全な場所に身を留める。ヨシ原に生息するトビハゼはヨシ原に駆け込むが、この辺りのヨシ原にはトビハゼは生息しておらず、唯一このフトイの群落を根城に生息が認められた。満潮時にはどこか水面上の高い位置に居るものと思われるが、この写真を撮ってトビハゼがフトイに抱き着いて満潮時を凌いでいるのではないかと思うようになった。胸鰭は漕ぐようにして歩くのに用いるが、丸棒に抱き着いていられるような作りではない。然しハゼ類は胸に吸盤があり、トビハゼの場合その吸盤の吸着力が進化発達していることは想像できる。つまりこの姿は抱き着いているのではなく、吸い付いているものと思われる。吸い付く対象として、太さがある上、表面に何の障害も無いフトイの茎はトビハゼにとって格好な居場所を与えるのではないだろうか。

左の花は2005年7月11日の撮影。
花は橙褐色で、花が出たての頃は赤みが濃いが、次第に黄褐色に変わっていく。長短不同の小穂から成り、花柄が伸びて花穂は次第に垂れるものが目立つようになる。

左の2枚のズームは2005年7月15日の撮影。


左の写真は2005年7月27日の撮影。護岸に沿って上手にヒメガマ下手にフトイがくっついた群落を下手側の護岸上ら見ている。したがって見えているのはフトイの方。水が泥で濁っているのは、この日が台風一過のせい。空は青いが水は泥水だ。
左から奥に続いているのは六郷橋のヨシ原の方から伸びているヨシ群落で、その後ろ側に多摩川の本流が流れている。背後に見えているビル群は右岸側の川崎のJR川崎駅周辺から川近くのテクノピアまでのビル群である。

左の写真は上とほゞ同じ位置で撮った。2005年8月2日の撮影。同様に上手にヒメガマ下手にフトイがくっついた群落の下手側のフトイを見ている。この群落は護岸との間に水が行き来する隙間を隔てていて、この水域部はトビハゼにとって重要な休息場になっていた。
高圧送電線用の鉄塔が写っているが、この鉄塔は古く、川崎の久根崎から南六郷までの渡河ラインの主柱で、左岸側のヨシ原の本流に近い場所にあるが、そこは近代までの蛇行水路時代に左岸の端になっていたため、そこに建てられた。後に砂利採取が高じて高水敷までが盗掘されて荒れたが、結局六郷橋以下の下手側は補修されず、荒れた高水敷は大きく掘削除去されて水域に編入されてしまった。その時期には鉄塔部は島状に残され水位域に浮いていた。
その後洪水毎に堆積が進んで葭原が出来、鉄塔島はヨシ原と繋がって島状態は解消された。伸びたヨシ群落部と左岸の低水護岸部の間は塩沼地(干潟)となり、そこにヒメガマやフトイが生育するようになったのである。

左は上と同じ時に撮ったもので、珍しく朝で7時19分と記録されている。
フトイが水に写って幻想的な写真になった。写り込んでいる鳥はバンで、5〜6ペアがこの塩沼地に住着いている。バンの営巣地はヒメガマ群落で、毎年ヒナを複数育てるが、成長すると追い出してしまう。バンは縄張りを堅持するので、次第に場所は無くなり、一部にはヨシ群落で営巣しているものも居るようだ。

左は同じ2005年6月で、この連結した群落を逆に上手側の護岸上から、川下向きに見たものである。したがってここで見えているのはヒメガマで、先の方に僅かに黄色味を帯びて見えるところがフトイの場所ということになる。その先、突き当りに見える緑色の群落は大きなヒメガマ群落である。

左は上と同じ向きだが、もう少し護岸上を上手方向に動いて、やゝ離れて群落を見ている。満潮時の水域はこの群落の右手(ヨシ群落側)になり、護岸側にも僅かな隙があって、上げ潮時はそこも流れる。
立っているこの位置は、2003年に六郷水門までの低水護岸を作り直した基点になった地点で、ほゞ雑色ポンプ所の前の位置になる。ここは幅2〜3メートルだけ、護岸がコンクリート製になっていて、ここから上手側(六郷橋方面)は古い護岸のまゝで、ここから下手側は小石をネットに詰めた素材を階段状に組んで作った新しい植生護岸になっている。(ただここの直ぐ下手の護岸はもう草蒸してネットは見えなくなっている。)

左は上の地点を少し下手側に下がった場所から撮ったもの。この当時にはこの奥の方ではもう埋まりつつあったが、この辺では未だこれだけの水域の幅がありすっきりしていた。

左の写真は2008年8月9日の撮影。多摩川の汽水域でフトイが見られるのはここだけ。六郷橋緑地の本流側に広がる塩湿地の上手寄り、堤防に雑色ポンプ所の排水用の水門がある前の位置になる。(排水路自身は暗渠化されて六郷水門水路まで引かれているので、普通には見えない。)
上の方に載せた写真を撮っていた頃には、この辺りは未だ干潟に幾らか余裕があり、このフトイの周りにも、トビハゼやアシハラガニ、ヤマトオサガニなどが生息していた。ここより上手側では満潮時の水路も細まり、最終的には堆積した土砂によってほゞ埋まってしまい、本流と通じていた水路との連絡は絶たれて、満潮時の塩湿地は潟湖状態になってはいたが、泥沼状になってしまっていたのはここより上手の方で、この辺は未だ安らぐ雰囲気が残っていた。

ただこの辺が落ち着いた雰囲気にあったのは上の写真を撮った2008年頃までで、管理者である河川事務所は、汽水域では堤防以外には関心が無く、水域の自然には一切手を付けず放置するという確固たる基本方針がある。
多摩川の汽水域は大正期に始まる内務省の直轄改修工事以来、原状を全く留めないまでに改変され、攪乱された自然は新たな環境に対応した極相を求め遷移状態に入っていて、年々変貌を続けている。2015年にはこの辺りの景観は一変した。水域ではフトイは消滅し、陸側でも護岸自身が立ち入ることさえ出来ない程の荒地となった。
左の写真は2009年5月16日に撮ったもので、下の方で説明するように2007年から上手側で干潟の誤った改質が行われた、既にその影響がこの辺りまで及んできている時期である。

左の写真を撮ったのは2010年1月26日で、この地で掘り出したフトイの根茎である。
以前から群落の中央部は密度が薄かったが、ますます新芽が出なくなったため、地面の下はどうなっているのか確かめることを決意し、干潮時のこの時、護岸から群落の区域に飛び移り、あちこちをシャベルで掘ってみた。飲料の缶がまとまって埋められているような場所もあったが、多くの場所からは写真のような奇怪なものが掘り出された。
写真のものは持ち帰って泥まみれの物体を洗って、一部地肌が見えるようにしてあるが、掘り出した直後には、単に剛毛のようなものの塊りで、プラスティックか何かそうした非生物のものとしか思えなかった。然し数個を持ち帰り、洗って中心部が見えるようにしたところ、太い軸があり、そのうちの一つから芽のようなものが伸び出していることを発見し、初めてこれが植物の根茎であることを理解した。地下にこのように根茎が走っているにも拘わらず、何故地上に芽を出すに至らないのかは不明のままだったが、ゴミなどの障害物が埋まっていて芽生えを妨げている訳ではないらしいということは分かった。
この根茎は地上茎の10倍はあると思われるほど太く、表皮は堅かった。ただ伸び出していた芽のようなものは薄緑色っぽく、全体は生きていると感じさせ、正にこれこそが”フトイ”たる所以と思わせた。
 


 
ここからはこの特集ページの植物紹介という趣旨とは外れるが、この地域の植生とは無縁のことではないので、フトイが消滅するに至った経緯を振返っておくことにする。

平成18年(2006)、公益法人「河川環境管理財団」から「河川環境総合研究所報告第12号(平成18年12月)」の一部として、「多摩川における生態系保持空間の管理保全方策について」というレポートが出た。後半は河口域を対象にしていたが、その表題は「ヨシ原の保全方策」だった。内容はヨシ原について縷々講釈したのち、ヨシの一部に夏枯れ状態が起きていることを問題とし、ヨシの復活保全対策の試験施工を六郷地区で行うように提言して終わっていた。
このレポートは、近代以降長年に亘って大改変されてきた多摩川汽水域の過去を知らず、またそれゆえ二次遷移の真っただ中にあって、掘削域に堆積が進むに対応して、ヨシが繁殖域を侵略的に増大させ、その結果周囲の他の湿生植物は絶滅に追いやられ、一帯の湿地域はヨシ一辺倒となり、植生がヨシに偏した極めて歪んだ方向を辿っているという対する認識も全く無いものだった。

「河川環境管理財団」の「ヨシ原の保全方策」なるレポートは、六郷地区の特異性を理解せず、単に安定相にあるヨシ原の重要性について一般論を述べ、攪乱対策を書いただけの典型的な机上論文だった。
汽水域では川の自然には一切手を付けず、放置して成り行きに任せるというのが京浜河川事務所の確固たる方針だった筈だったが、京浜河川事務所は河川環境管理財団の提言を無視することは出来なかったのか、この提言を受けて、翌年から早速行動を起こし、ヨシ原に重機を入れて掻き回し始めた。
工事はヨシ原に直角方向に何本か水路を刻み、ここへの注水量を増やすために、上げ潮時にここに繋がり注水路となる部分を導水路と称して、その下の干潟を掘って深くするというものだった。

「河川環境管理財団」が課題として取上げた「ヨシ原の保全方策」は、この地域の自然生態系の再生復活の観点からは本質的な必要性が無い、むしろ逆行する方策で、真に求められていた課題は「干潟環境の再生、復元、維持管理方策」などであって、そのために披瀝できる専門性があるとすればそれは保全とはむしろ逆の「ヨシの駆除方法」だっただろう。

干潟が堆積に依って埋まってくれば、ヨシが無尽蔵に広がってくる。水路は上手で埋まり潟湖化した塩沼地は泥沼化して酸欠に陥ることはヨシの自業自得であって、これを助けることは本末転倒だった。
泥沼化した湿地に広がってきたヨシを大胆に掘削除去し、水路の幅を広げ、上手側で埋まってしまった場所を掘削して通し、本流口から切り込まれて残る水路に繋げれば、湿地の通水性は飛躍的に改善し、ヨシの主要部も蘇ることになっただろう。
川の自然には手を付けないとして、干潟が埋まり、ヨシが汚らしく拡張してきた現実を放置していた河川事務所が、事態を正確に理解できなかったのは当然で、干潟環境の全体を問題にすることなく、ただただヨシの保全に捉われた机上の一般論に振り回された結果は悲惨なものだった。

工事人はヨシを掘ってきた土を護岸際の干潟に捨て、結果として護岸沿いは敷き詰められた土から出たヨシの繁茂地となり、ヨシは瞬く間に護岸縁に広がった。
左の写真は工事が行われた年で、場所はフトイから少し上手側の旧護岸の区域。張り出した汚いヨシはそのままで、水路が更に狭まった様子が分かる。土は未だ埋められた直後で裸の状態にある。

それまではヨシ群落は護岸から距離を置いた水域中にあって、護岸側は干潟で植物といえばヒメガマやフトイなどの節度ある生育地だったが、数年を経るうちに護岸縁はヨシの跋扈する荒れ地に変貌することとなった。
工事はヨシ群落に切り込みを掘っただけでなく、”導水路”と称して干潟を掘った。満潮時には上げ潮が入ってくるが、深くしたところで余計に水が入ってくる訳ではないので、その水路部の底を更に掘り下げることは全く無意味だったが、この無意味な掘削には二つの弊害があった。
工事人は”導水路”を掘った土を導水路の脇に積み上げた。その結果この上にヒメガマが進出することになり、上手側にあったヒメガマがフトイの裏側に回り込んで伸びてくることになった。ヒメガマは岸側で膨張したヨシに圧迫され始めていて、こうした競争的な環境が生まれたことが、ヒメガマのフトイの裏側への回り込みを助長した一因にもなっていただろう。

左の写真は護岸上から右岸方向を向いて撮ったもの。中央部がフトイでその後ろ側に積み上げられた土が見えている。この土とその後ろのヨシ群落との間が”導水路”と呼ばれた部分になる。

弊害のもう一つは、導水路と称してヨシ群落の切り込み部に繋がる主要な部分を掘り下げたため、上げ潮は全てそちらに流れ込み、その他の細部に上げ潮時の流水が流れることは無くなってしまった。
満潮時に水位が上昇すれば、あちこちにも水は入ってくるが、単に停滞する水域となるだけになり、細部はゴミが滞留し易かったり、堆積が起きやすくなるなどして、いずれ干潟で無くなる状況に換わった。フトイの群落と護岸との間の水路も干上がり、やがてヨシが進出して埋まってしまった。
数年後には干潟の水路は一本に単純化され、周囲はヨシだらけの風景となった。

左の写真は工事から2年後の撮影で、”導水路”を掘って脇に積み上げられた部分を撮った。亀や鴨が日向ぼっこをしているが、上手からヒメガマが進出してきている状況が見て取れる。

左の写真は3年後の初夏で、フトイは季節的には最も勢いがある時期で、未だ青々して見えるが、上手側では既に事態は相当進行している。
”導水路”を掘った土が積み上げられた部分(上の写真で亀が見えている同じ場所)は苔が生え、自然に緑化の準備が進んでいることが分かる。

左とその下の2枚は、フトイの上手側で、岸辺の干潟が護岸沿いに埋め立てられた場所の3年後の様子を撮った。
フトイより上手側の位置で護岸先に埋め立てられた場所に出て、川下向きに向いて撮った。
右手側が前からある葭原のヨシ群落で、年々更に干潟を埋めるように張り出してきている。左手側は工事によって護岸先に埋め立てられて陸化した場所で、場所によって多少異なるが、ヨシがほゞ群落化してきている。

水域は突き当りで左に曲がっているように見えるが、その辺りがフトイのある場所になり、ここからは高々数十メートルの距離である。

左の写真は工事から4年後で、護岸とフトイの間の部分を撮った。水も泥も黒く汚水化し、かってトビハゼやアシハラガニが生息していた当時の状態とは似ても似つかない。
これは川上向きに撮っているが、突き当りは泥が高く埋まってヨシが繁殖し、既にここは通水性は失われている。

左の写真は2014年7月8日に、六郷橋緑地の中間辺り、雑色ポンプ所前で岸辺の散策路の水辺側から水域を向いて撮ったもの。かつてはフトイだけが視界の正面に来る位置だが、7年経って景観は大きく様変わりした。
2007年にバックホーを使ってヨシを掻き回した工事は、護岸縁にヨシを掘った土を敷き詰め、導水路と称してフトイの裏側を掘削した土砂をフトイの後ろに積み上げる結果になった。護岸縁に埋め立てられた土からはヨシが出て、護岸縁一帯に繁茂し、その群落は川下側に伸びて、ここでもフトイと護岸の間を掻き分けるように侵出してきた。一方フトイの後ろを埋立た土砂の上には、フトイの上手側に隣接していたヒメガマが回り込むように拡張し、フトイは前後から挟撃される形になって、この年姿を見たのを最後に遂に埋没し姿を消してしまった。
この写真はフトイが護岸側のヨシと後ろ側のヒメガマに挟撃されていく実態を捉えた貴重な証拠写真になった。

左は2枚上の2010年7月6日に撮った写真と同じ場所で、更に5年後に撮ったもの。ここは地元のバードウォチャーの小父さんたちが確保し、溜まり場として護岸にベンチや屋根などを整備している場所になっている。
放っておくとHLが入り込んで定着してしまうため、自衛手段を講じたような形で、ここで望遠一眼を構えカワセミなどを待ち構える。
鳥を撮るのに差し障るため、ここではヨシは定期的に刈られている。小道のように見える場所も護岸よりは低く、大潮の満潮時には数十センチは水没する。緑に見えているのはウラギクで、数年前まで葭原の中で人為的に保全を図られていた名残の種子で、こんな所で辛うじて命脈を保っている。(数年前からもう多摩川のウラギクは事実上絶滅している。)
(左手にある池のようなものは、バードウォチャー連が作ったものでメダカが入っている。)

左の写真はフトイの群落があった場所の下手で護岸に出て、川上側を向いて撮っている。かつてはこの位置でフトイが見られた訳だが、現在中央に見えているのはヒメガマの群落で手前側は護岸周囲に発達したヨシである。
フトイの後ろ側に進んだヒメガマがフトイを覆い隠すほどに拡張し、護岸側で猛威を振るうヨシとの間にフトイは挟まれて埋没してしまった格好だ。雑色ポンプ所前のあの護岸の新旧を分ける基準となったコンクリートの場所はヨシやその他の大型種が繁茂してもはや立ち入ることも出来ない状態になっている。

左の写真は上の写真でヒメガマとヨシの境目となる部分をズームしたもので、ここにフトイが見えているのかいないのか、ガマよりは細い茎があるような気もするが、実際にはもう見えていないのかも知れない。ヒメガマとヨシに挟撃されてフトイが埋没してしまった最後の記録写真となった。

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