<参考26>  河川敷の春から初夏にかけての草木と花


     【カヤツリグサ科】  ウキヤガラ属 : コウキヤガラ(エゾウキヤガラ)・イセウキヤガラ

 
左の写真を撮ったのは2016年6月27日。場所は多摩川大橋下手の緊急時船着場から降りるようになっている低水護岸の最下段コンクリート面に沿う水路側に生えたもの。

ここの下手の堤防裏にトミンタワーがある場所があり、短いながら初期の頃にスーパー堤防が作られた。然し川はそこから先で右旋回し、少し下ると逆に大きく左旋回して、汽水域に特徴的な瘤のような土地(六郷)を仕切る流路が形成されるようになっている。左岸側で氾濫のおそれがあるとすれば、スーパー堤防の位置ではなく、その先の右旋回する場所であり、実際明治時代に(安養寺の上手に当たる)その辺りで洪水により堤防が決壊し、大きな水害が引き起こされた前科がある。
そこで各地にスーパー堤防が作られ始めた時期になって、左岸のトミンタワー前から下手の「川の一里塚」(都道:旧堤道路の坂路口)までの、湾曲部を中心とした1キロメートル余りの区間について、2004年〜2005年の2渇水期を掛けて大規模な改修工事が行われた。
先行して、狭くなっている高水敷が幅30メートル追加造成されることになったが、埋立予定部をシートパイルで囲って排水した際、古い時代の水制工跡が出てきて暫時公開されたりした。

高水敷にも洗掘防止のシートパイルが打込まれ、堤防は旧前のほゞ2倍に拡幅増強された。(今後は堤防を道路には使わせないとする国交省の方針があり)増幅された部分は隣接する都道に供されることはなく、管理用通路の名のもとに車道とは一線を画された。
増幅された堤防は、法面の傾斜は緩やかに変更され、防水シートを敷いた上にコンクリートの連接ブロックを敷き詰め、ワイヤは締め上げられて上下の基礎ブロックに繋がれた。仕上に被せた土は持ち込まれたもので表面に芝が植えられた。
低水護岸は植生ブロックを階段状に組上げたもので、最下段にはシートパイルの上端に被せるような形でコンクリート製の平面部が施工され干潮時には通行できる。階段状の植生ブロックには様々な植物が芽生えたが、その内容は遷移によって変遷し、次第に木本種も含む荒れ地状態に換わっていく。
堤防改修工事が完了すると、低水護岸についての改修は前後の区域に延長された。多摩川大橋の下手の水際に高低差があるコンクリート製2段式の緊急時船着場が整備されたが、低水護岸上手側の延長ではヤマハボートの係留地を超え、多摩川大橋下の船着場に至るまでの区間にコンクリート平面が延長整備された。

ヤマハボートから緊急時船着場までの間は、上手側の階段状植生護岸が整備された区間とは雰囲気が異なる。ゴミが溜まって歩きにくく、魚の死骸から腐敗臭が漂うなど散策に適した場所とは言えないので、ここに下りて通行する人は殆どいない。
干潮時には水面が下がるので通行は可能だが、濡れた表面は極めて滑り易く、張り出したり倒れてきた柳に遮られるなど条件が悪いので、滅多にこの周辺を観察調査する機会をもたないので、この一帯の植生の変化はなかなか掴み切れていない。
然し2015年4月にこの区間の護岸の法尻で、清水のイメージがあるオランダガラシの塊りを発見して驚き、2016年4月にはヤナギ類の調査のため何度かここに入った。そんなことがあって2016年6月27日は、近辺でヤブカンゾウなどを撮った後ここに下りて周辺を調べようという気になった。

一番上の写真はその時撮った写真の一枚である。これまでウキヤガラの系統はイセウキヤガラしか良く見たことはなかったので、この時も第1感としてはイセウキヤガラだろうと思って、詳しく見ることは無く、むしろ周辺に繁茂するメリケンガヤツリの方に目を奪われていた。

ところが植物について指導を受けている「多摩川の自然を守る会」の先輩に写真を見てもらったところ、コウキヤガラ(エゾウキヤガラ)の可能性が高いと鑑定され、これまで非掲載の種類であることから、詳細に見直しを行う必要があると思い、5日後の2016年7月2日に2度目の観察に出かけた。
2016年7月2日に撮った写真が2枚目から左までの3枚である。見ての通り、既に潮が変わってい、護岸のコンクリート部分は冠水し、下りて直近で観察することは不可能な状態だった。仕方なく高水敷から分厚いヨシを分け入って水辺の上に出て、デジカメの望遠でやっとそれらしい群集を収めたのがこの3枚である。これだけ水中に生えているということの確認以外に大した成果は無かった。

2006年には右岸の殿町2丁目地先や左岸の本羽田3丁目地先でトビハゼを追いかけ、南六郷2丁目地先で自然緑化が見られた中洲に渡る、などのことがあり、2009年〜2012年を中心期間とする時期には、六郷のヨシ原の中でウラギクの保全活動を行っていた。(多摩川のウラギクは2009年を最後に、野生状態では絶滅したが、六郷地区の湿地環境の改善再生案に一縷の望みを託して、この地域の系統を残すべく人為的な存続活動を行っていた。)

干潟に出ての作業が多かった時期には、東京湾の潮位情報は必須要件で、観察等の日時の予定を立てる上で気象庁の潮位表は手放せない存在だった。 ところが2016年ともなると、観察対象のことなどで干潟にはあまり縁がなくなり、とりわけ多摩川大橋ほど上手になると前の記憶も無く、潮位の事は全く頭から外れてしまっていた。
そこで戻ってから久々に気象庁の潮位表を見て、次の干潮時に出られる日として7月10日を選定し、3度目の観察に出ることにした。ここから17枚の写真は2016年7月10日の撮影で、この地のコウキヤガラを始めて詳細に観察したものである。

左の写真は護岸の最下段コンクリート平面(薄く被った泥が乾いている)に下りて、コウキヤガラの群集が生えている部分をやゝ川下向きて撮っている。このコンクリート平面は、低水護岸の最下段になるが、長さ10メートル程度のシートパイルを打込んだその上端に被せるような位置に設置されているもの。水路側には地固めブロック代りのガレキ詰めネット袋が並べられていて、コウキヤガラは護岸とネットの間やネットの中に堆積した土砂の中から生え出している。

(地固めブロックとしてはテトラポッドのようなものが投げ込まれている筈で、このガレキ詰めネットはその一部を代用したものか、或は取壊した旧護岸のクズを搬出する手間を省略して、シートパイルの基礎地固めにオマケとして使用したものと思われる。)

左の写真はコウキヤガラの群生をよりはっきり川下向きに撮ったもので、花穂の先に伸びているのは殆どが花穂の下から出ている苞葉だが、(僅かに根元に近い方の茎から分岐した葉も混じる)、こうしてみると苞葉が直上でなく、斜上しているものが多いことが分かる。これはイセウキヤガラとコウキヤガラを識別するかなり有力な特徴の一つとされる。

(左端の高層ビルは1998年に建てられた25階建ての賃貸マンション「トミンタワー多摩川2丁目」(JKK東京)。流路が見えなくなっている先は右旋回していて、その先は又大きく左旋回して六郷の橋梁群を潜る。右岸の六郷橋と河港水門の間は再開発地区で、京急が建て2016年に3棟が揃った「港町リヴァリエ」と称する分譲マンションが右岸の練習馬場外縁越しに見えている。)

殆どの株が花穂を付けていた。各株に花穂は一つだけで、花穂には雌花と雄花の2種類があるように感じた。
雌雄異株ということは聞かないので、花は両性花だとすると、雌性先熟ということのようで、雌性期が先行して小穂の先端から花柱を出し、受粉が終わり花柱が退化すると入れ替わるように雄性期に入り、小穂の全表面が短い花糸で繋がれた葯に覆われた姿に変わる。

雌性先熟は自家受粉を避けるための工夫と思われる。この辺りの川で見られる花で分かり易いのはタチアオイやゲンノショウコの雄性先熟で、雄花として開花し、やがて雄蕊は脱落し花柱を出して雌花に換わる。トウオオバコはメシベを先に出すが、程無く両性期に入りやがて結実する。
イネ科やカヤツリグサ科では雌性先熟の方が多いと書かれたものを見るが、この界隈ではハルガヤに雄性先熟が見られる。ハルガヤの場合、開花当初は雄花だがいつの間にか雌花に換わっている。花穂の先の部分から下に向って雌性転換が進むので両性期を伴う形になる。木本ではクサギが雄性先熟の例とみなされる。開花時はオシベ、メシベを同時に出すが、雄蕊が葯を突き上げている間、メシベは元部から曲がって下を向いている。後期になるとメシベが立ちあがり、雄蕊は下を向くなり丸まってしまうなどして、クサギの場合両性期は見られない。
雄性先熟例が多い中珍しく、コウキヤガラは雌性先熟のようで、個々の花ではなく花序単位で全ての小穂が同時進行する。この日は群落の全体としては既に雄性期に換わった花が多かったが、幾つかのものは雌性期を留めていて、雌性期の花を見られたのは良かった。

左の写真はやはり雌性期の花穂を撮ったものだが、この花穂では手前の下側の小穂には既に葯が見え始めている。花序全体としての性転換は全ての小穂で同時に進行するのではなく、幾らか時期をずらしながら転換するらしく、その移行期をキャッチした貴重な写真になった。(惜しむらくは、不明な虫が下向きに張り付いていて、その細長い脚が混じって見ずらいことである。)

左の写真の花穂では、最上部の小穂に花柱が残るものの、その他の小穂では雄性転換を終え、花穂は葯に蔽われ始めている。

左の写真から3枚は、花穂の全体が完全に雄性転換を終えた雄花状態のものを撮った。

コウキヤガラの花穂は、小穂の数が5〜6個程度と多いものが普通だったが、1個や2個という花穂も皆無ではなく、稀には小穂の数の少ない穂もあった。

花序は有花茎の先端に付き、花序の下部から2〜3個の苞葉が出る。コウキヤガラの苞葉は全て斜上し直上するものはないとされるが、この地のコウキヤガラの場合、左の写真のように、メインの苞葉がほゞ直上するように見られるものもあった。

 
コウキヤガラとイセウキヤガラの違いを示す特徴の一つは、苞葉の縁がザラツクか否かという点にある。がこの日のターゲットは別(根部の解明)にあって、苞葉の縁のザラツキまでは気が回らなかった。

ここの花序には左の写真のような複雑なものもあった。チョット見には二つの花穂に見えるが、下の小穂が密集した花穂の付け根の部分から花枝が一本立ち上がっていて、その先に2つの小穂が付いているので、全体として一つの花序とみなされる。
小穂の底部に花枝があるかどうかという差異はかなり明瞭で、ウキヤガラでは花枝があり、イセウキヤガラには花枝が無い。コウキヤガラの場合には花枝のあるものも無いものもあるとされている。
当地のコウキヤガラが純粋なものかどうかは確定できないが、少なくとも花枝の有無については、下に載せている本羽田地先のイセウキヤガラでは見られない花枝が、ここではチラホラ観察されコウキヤガラの特徴を示している。

この地にコウキヤガラ風の群集を見付けた時、最初に助言されたのは根を調べることだった。
ウキヤガラでは3〜4センチと大き目のイモ状の塊茎が数珠状につながるとされ、コウキヤガラの場合には2センチ程度の小さ目ながらやはり塊茎があるとされているからである。

これまでの干潟との付き合いで、干潟は泥質で草は容易に引き抜けるという思い込みがあって、主要な調査目的が根部であったにも拘わらず、シャベルのような道具は一切持たずに出かけた。

いざ現地で草を引き抜こうとして、思い込みは大変な誤りであることが直ぐ分かった。
干潮時ということもあってか、根元は乾いて堅く引き締まり、茎を持って引き抜くなどということは論外で、強いてそうすれば地上部が千切れてしまうだけと分かった。
そもそも生え出してきているのはガレキネットの中からで、ネットの網目はそこそこ細かく、ネットの材質は頑丈なものだった。根部を掘り出して調べるのは無理という感じだったが、何も見ずに帰るのもいかにも癪だった。

そこで護岸上のゴミを漁って堅めの枝などを集め掘り出しに挑戦した。ネットから出ているものは到底無理だったが、ネット袋と護岸との間の窪んだ隙に堆積した泥から出ているものを狙った。いかにも間に合わせの道具なので、深く掘り込んで根を引き出すことは難しく、どうしても途中で切断されたような恰好で引き抜くことになった。
そうして苦労して掘り出した根部を撮った写真が左に並べた8枚である。

根は太いものと細いものの集合体で、太い根茎は横走気味の位置にあって、千切れてしまうのは、これで隣接する株同士が繋がっているためと思われる。

根茎の中に肥厚した部分を持つ株は多く認められ、そこからはヒゲ根が出ている外、上に伸びて地上茎となるもの以外にも、同じ位太い根茎が出ていて、ここが発芽以前には塊茎の状態にあったのではないかと推測されるような部分はあった。


横走する太い根茎は、千切れた痕が一様でない。元から太い部分がしばらくあって、その先が急に細くなっているものがあり、また太い部分が千切れた中に細い芯のような根が剥き出しになって伸びているような形のものもある。
中には左の写真のように、新たな太い根茎の始まりではないかと思われるような、先の尖ったものがあった。これは伸びていって新しい地上茎になっていく可能性があるように思われた。

1〜2例では判断しきれないので、頑張って取れそうなものを10本近く抜いてみた。 結論から言うと、皆似たような恰好で、掘り出した根茎の中に、サトイモ状の塊茎を見付けることはなかった。

ここからの写真11枚は、翌日(2016年7月11日)シャベルを持って出直した際の撮影である。

 
左の花穂はおそらく雄性期がほゞ終わり、花期の末期の状態になったものと思われる。この写真が有意なのは、苞葉がしっかり写っているところにある。
苞葉の事は後に詳細に調べることになるが、この写真ではメインの苞葉が、イセウキヤガラの苞葉のような茎と同じ3稜形ではなく、中央脈が凹んだトンビ形ながら、あくまで二次元の平板状をしていることが明瞭に写っている。

左の花穂では苞葉が3本見えるが、こうした例はむしろ珍しい。苞葉は2本であるケースが多く、このように3本あっても1本は短く均等ではない。
他所の川のコウキヤガラの写真例を見ると、3本の苞葉がほゞ均等に斜上している姿を見る。もしそれがコウキヤガラ本来の形であるとするならば、当地のコウキヤガラの遺伝子には、この一帯で優勢なイセウキヤガラが幾らか混じっている可能性が疑われる。

左には、小穂に花枝のある花穂の例を載せた。このように花枝は無枝の塊りの中から伸びて、その先に2個程度の小穂が付く。
苞葉は2本で、一本はほゞ直上し、もう一本は横に伸び斜上するものは無い。斜上する複数の苞葉に囲まれるような形で、その中心部に花穂があるというコウキヤガラとして屡目にする写真の姿とはかなり違うと言わざるを得ない。(ただこういう姿が他所では皆無ということではなく、これと似たような恰好のコウキヤガラの写真を見ることもある。)


この日(2016年7月11日)前日に引き続いて出直したのは、シャベルを持ってきて、根部の様子を再度確認するためである。
左の写真は隣接する3株をそっくり掘り出した例。

次の写真は2株を揃えて抜いた例であるが、このケースではこの2株はヒゲ根のような細い根が絡み合って繋がっていて、横走する太い根茎同士は繋がっておらず、それぞれ違う方面に向かっていた。
この例から隣接する株同士は、必ずしも太い根茎で結ばれているばかりではないことが分かった。

この日はシャベルがあった分で、前日よりは綺麗に根部を引き出すことは出来たが、前日に感じた印象を覆すほどの、目新しい知見が得られるということは無かった。

地上茎の末端(土中に埋まった部分)に肥厚部があり、そこからは多くのヒゲ根が出ている意外に、横走する太い根茎が出ていて、隣接する株同士は地下で繋がっているものと思われる。

左の写真は上の写真の肥厚部を拡大して見たものである。この程度でサトイモ様の塊茎と言えるのかどうか判断はできない。

左の写真は、前日なら千切れてしまっただろうと思わせるセットでの引き抜きに成功したもので、強いてこの日の収穫と言えば、前日には見られなかったこのような例を見たことだろう。

中心は左側の元部だろうが、右側の肥厚部は何だろうか。この根茎はそのまま新たな地上茎として地上に出て行っても良い筈だが、敢えてここに又肥厚部を介している。そこから先の上向きの茎は千切れそうな様子だが、どうしてここが弱かったのか、実際ここがどうなっていたのかなどの記憶は定かでない。

左の写真は、上の写真と同じ株で、(向きは少し違っているが)第二の肥厚部を拡大して撮ったものである。

ウキヤガラ属では苞葉(蕾を包んでいた葉が開いた後のもので、一部の苞葉は開花後も伸びる)が長いという特徴があるが、イセウキヤガラと比較した場合のコウキヤガラの差異として、苞葉の縁がザラツクということが言われる。
花や根を一応調べ終えた後、このテーマの解明に取掛った。

コウキヤガラの花序は茎の先端に付き、裾から複数の苞葉が伸びている。小穂の中には花枝の先に付くものもある。

左の写真は2016年7月23日に撮ったもの。花序は無枝の小穂4個と花枝が2個で、花枝の先端には各々小穂が1個付き、苞葉は3個である。

ウキヤガラ属の茎はいずれも3稜形で共通するが、葉や苞葉は微妙に異なる。苞葉についての差異の一部が、コウキヤガラでは葉の縁がザラツクと表現される。

左の写真は2016年7月23日に現地で苞葉を拡大撮影してみたもの。(右側に焦点を合わせている)

苞葉の縁を指で挟んで擦ると、葉先から元の方に擦る場合にチクチクと引っ掛かりを感じる。縁に上向きに刺のようなものが付いていることが予想されるが、デジカメでこの程度に拡大して撮っても、棘らしいものの実体は殆ど捉えられないほど小さい。

左の写真は、同じ日に持ち帰ったサンプルを、自宅で顕微鏡モードにして撮ってみたもの。だがこれでも、ザラツクだろうということは予想されるが未だ実体は掴み切れない。伐りとってきたサンプルは水に差して考えることにした。

左の写真は、いろいろやってみて、背景を黒色にすることでより接写が可能であることを確認して、2日後の2016年7月23日に撮ったもの。

右側が葉先の方向。ここまで拡大すると刺のようなものの実体が何となく見えてきた。鋸歯のような形ではなく、刺状の突起が上向きに飛び飛びに付いている。これは小さいながら丈夫かつ鋭利なもので、不注意に擦っていると皮膚が切られて出血することがあるほどである。

ザラツキの正体が概ね掴めたので、翌日には持ち帰ったサンプルからその他の情報を得ようと考え、いろいろな部分を綺麗に切断し、断面形状を調べてみることにした。

先ず最初は茎の断面。外形は完璧とは言えないが3稜形である。中実ではあるが、全体に維管束が走りかなり軽量化されたような構造である。

次に葉。無花茎の根元の方で、茎が剥がれるように葉が分岐してくる。

左の写真は、一つの株について、葉2枚と茎を同一のレベルで切断して断面形状を見たもの。
左下の断面は根元に近い下の方で分岐した葉で、右側は下の葉より上の方で分岐した葉と茎の断面。

葉は茎の1稜が剥がれるように分離してくるので、そのまま稜だった部分が凹んだ形で中央脈となり、両翼がトンビの形に広がった葉身を形成する。葉の断面には維管束が引き継がれるが、中央脈に導管が走り、両翼の葉脈に師管が走ると見るのが自然だ。

次に問題とされる苞葉の断面。コウキヤガラの苞葉は葉と変わらないトンビ形をしている。イセウキヤガラでは苞葉も茎と同じ3稜形なので、この点には顕著な差異がある。
コウキヤガラの苞葉はトンビ形とは言え、葉状は基本的には平板なので、親指と人差指で挟むようにして擦ることが出来る。
一方イセウキヤガラの場合、苞葉も立体の3稜形なので、苞葉の縁を挟んで擦るようなことがし難く、自然と指1本で擦るような格好になる。外形状の差異はそのように擦るという行動の際にも微妙な違いとして感じ取れる。
コウキヤガラも3稜形の茎は平滑で、そのことからイセウキヤガラの苞葉の縁が平滑であることは想像がつく。その差が両種の差異を調べる方法の一つとして、縁を擦った場合ザラツクか否かという風に言われることになる。

持ち帰ったサンプルの中に、苞葉が3稜形のものがあったので、最後にこの点について調べてみた。

サンプルはイセウキヤガラのように直立した苞葉が長く伸びたものではなく、苞葉は短く不出来な感じのものではあったが、縁にザラツキは無く、普通の苞葉のように葉状ではなく3稜形に見えた。
左の写真は切った苞葉の断面で、下の写真は苞葉を切った後の花穂側の断面を撮ったものである。

このような株が混じっているという事実は、この群集が純粋なコウキヤガラではなく、イセウキヤガラの影響を強く受けた遺伝子を持つのではないかという疑いを強く生じさせる理由になる。


 


 

イセウキヤガラは日本全国の他、アジアやロシアなどに広く分布する。河口付近の塩湿地に見られる多年草。全国的に減少してきて絶滅危惧種に指定する県が出てきた時期にも、多摩川では特徴的な植物の一種として普通に良く見られていた。
然し近年では多摩川でもイセウキヤガラは減少している。その典型例が本羽田1丁目の干潟にある。かつて(2000年代の後半まで)ここにはイセウキヤガラの大群落があって、のどかな風景を醸し出していた。(左の写真は2006年8月11日に干潟の上で川下を向いて撮ったものである。)

本羽田の一帯は近世には「大野」と呼ばれていた。今バス通りになっている都道の大師橋ガス橋線は通称「旧提道路」と呼ばれる。大正時代に始まる内務省の直轄改修工事によって川幅が規定され、左岸の堤防は現在の位置に作り直されたが、その際に前の水除け堤防は削平されて都道に替ったのである。(これがかつて「筏道」と呼ばれたのは、近世に奥多摩方面から羽田猟師町まで筏を流してきた筏士が青梅に帰る際に、先ずこの堤防を道として利用したためで、筏道は東西に行き交う街道に直交し、南北を繋ぐ貴重な交流ルートになっていた。)

近代に直轄改修工事が行われる前までの川の水路は、今より幅がずっと狭い蛇行水路だったが、水路から水除堤までは相当の距離があり、その間にも人家や畑などがあった。洪水の場合には水路は簡単に氾濫したと思われ、今流に言えばこの地域はいわば川中になる訳で、大雨の時期には常時浸水する恐れがある劣悪な環境だった筈である。「大野」と呼ばれていた地域は雑色村と羽田猟師町の中間の概ねこうした地域を指している。
旧水除け堤より北側の浸水しにくい地域は「上田」(じょうでん)と呼ばれて区別され、現在の地名そのものには名残は無いが、六郷橋方向から大師橋方向に向う京急バスの停留所名として、「六郷水門」と「本羽田1丁目」の中間に「羽田上田」の名前が今でも残っている。「羽田上田」というバス停の名称の由来は、近世に、道路の北側が「上田」と呼ばれていた名残りではないか。

大野の岸辺はその西端が、河港方面から下ってくる蛇行水路が再び右岸の川崎大師東門前の方向に下っていく折り返しの頂点になっていた。水路が折り返した後の左岸は、概ね葭原のような土地が右岸方向に広がり、その先端に大師の渡しの船着場があった。

直轄改修工事以後、洪水対策の維持工事に加えて、河口側からの高潮対策も考慮されるようになった。右岸方向に伸びていた葭原などの高水敷部分は、根元に切り込み線が入って、次に水路が左岸側に向けて下ってくるまでの間が全て掘削され低水域に編入された。水路は蛇行が均されて大幅に拡幅整斉された。やがて澪筋が直線化された水路の遥か右岸側(味の素沖)を通るようになると、大野の岸は取残されたデッドスペースに似た条件になり、三角形状の水域が本流から外れた滞留域のような場所に換わった。

昭和10年代に南六郷で大規模に不可解な高水敷の掘削が行われたが、昭和の後期から次第に掘削前の旧左岸に沿うような位置に堆積が進んで中洲が伸びるようになった。
当初満潮時には完全に水没して姿を消す半中洲のような格好だった堆積部は、次第に陸化に近づき新たな左岸を形成していく。その時期に、堆積の終点の先にあたるこの大野の岸(上手側の水域の食い込み部)も同時に堆積が進んで、かつての蛇行水路の頂点だった滞留域(本羽田1丁目地先)は広大な塩湿地(干潟)へと変貌していく。

ほどなく本羽田1丁目のこの干潟にイセウキヤガラが進出し、干潟の半分以上を占める大群落を形成するようになった。イセウキヤガラは冬には地上部は全て枯れて消滅してしまうため、冬の干潟は丸坊主となるが、多くの冬鳥が休息する場所となり、中でもこの一帯では珍しいマガモが見られる場所として特徴的な雰囲気があった。

上から4枚の写真は全て2006年8月11日の昼前に干潟に下りて撮ったものである。最後の4枚目は、本流の水際の方から川上向きで撮っている。(左端の大きなビルは南六郷2丁目の古い公団住宅で、写真では明瞭ではないが、その手前に六郷水門と南六郷1丁目の六郷ポンプ所の排水ゲートがある。)

左の写真は2006年8月11日の撮影。干潟の水域側で川上側(六郷水門方向)を向いて撮っている。まだ全体的にイセウキヤガラの大きな群落という印象だったが、実はこの年に既に群落の中央部にヨシが定着してしまっていたことが翌年に明らかとなる。
 


ここから下18枚の写真は、上を撮った同じ年の2006年の初秋に、上のイセウキヤガラ群落の場所から400メートル程川上側になる、南六郷の地先干潟に成長していた中洲に起きたイセウキヤガラの乱舞を紹介する。
2006年に南六郷中洲に起きた自然緑化の経過を紹介し、その時中洲の末尾部分(六郷水門近く)を覆い尽くしたイセウキヤガラの顛末を紹介し、その後は、又上記した本羽田1丁目地先干潟に戻って、その後のイセウキヤガラの経緯を追い、2016年の詳細観察について掲載していく。


 
近代までの蛇行水路時代には、汽水域の流路も今より遙かに狭く、激しく蛇行を繰り返す流路だったが、今六郷水門の下流にある六郷ポンプ所の下手辺り(本羽田1丁目地先)が左岸側の一つの変曲点になっていた。
(上でも書いているが、近代の直轄改修工事の後、高潮対策の意味も含めて、出っ張った高水敷の掘削により低水路の拡幅が行われ、屈曲した澪筋の直線化が図られていくようになる。澪筋は右岸寄りの味の素沿いに真直ぐに通されたため、左岸側の屈曲点近傍は滞留域のような雰囲気となり、やがて堆積が進んで干潟化していくことになった。そのような経緯を経て出来た干潟に、上に載せたイセウキヤガラの大群落が成立したのである。)

上記の事態に数十も年先立つ昭和の10年代に、(後になってその後に下手側で行われた流路の拡幅工事に統合されたような扱いになっているが)、六郷橋下手になる右岸の河港水門から左岸の六郷水門下手方向に向かう水路の左岸を形成していた南六郷地先一帯の高水敷が、不自然な形で大幅に掘削されて水域に編入されるという事態が起きた。(この掘削の目的や真意は今尚不明だ。)

左岸側で水域が大幅に拡大されたが、その後旧左岸に沿う線に自然堆積が進み、中洲のような状態に細長い浅瀬が形成されていくが、やがて陸化に近づいた中洲は上手側で六郷橋下手のヨシ原と繋がり、下手側では六郷水門水路の出口に形成された島状の堆積地と繋がり、かつての左岸に近い線に本流の新たな左岸が形成されつつあった。新たに陸化せんとする中洲の線から左岸側の低水護岸までの間の水域は、本流からは切り離され川下側のみの数カ所で辛うじて本流と繋がる潟湖状の塩沼池(干潟)に替った。

左の中洲を撮った写真は、上が2002年で、バックは右岸の味の素の工場プラント。この写真は干潮時のもので、中洲はかなり引き締まった地表を露出しているが、未だ満潮時には完全に水没する高さでしかない。表面にうっすら苔が生えて見える場合もあるが、一寸した洪水で剥がれ、平時は裸地の状態だった。 2枚目(左)の写真は、2004年に川下側の堤防上(六郷水門と六郷ポンプ所の中間)から川上向きで中洲を撮ったもの。この年に突如中洲の中央部に6カ所ほどヨシが現れた。(右端の大きな群落は六郷橋下手のヨシ原)

2004年に突如中洲に現れたヨシは、2005年にはそれぞれ広がってサークル状の群集に発達していった。
左の写真はその時の初夏の状態を、干潮時に左岸の護岸縁から川下向きで撮ったものである。

左の写真は上と同じ2005年夏の撮影。この時期でも中洲の陸化は完全では無く、満潮時ともなれば、中洲表面の土の部分は冠水して見えなくなり、ヨシだけが水中に生えているという景観になる。

東京都下水道局は六郷ポンプ所と分担させる新たな雨水排水施設として、かねてより南六郷3丁目に雑色ポンプ所の建設を進めていたが、その完成を控え、ポンプ場の放流渠吐口を目前の湿地では無く、河川敷を掘り返して暗渠を埋め、800メートル川下の六郷水門水路の位置まで持っていく工事を2002〜2003年に掛けて行った。
この際京浜河川事務所もその区間の低水護岸を古いコンクリ製のものからマット状の植生護岸に改修した。但し中央の一部にあったテーブル状の直立護岸はそのまま残され、シートパイル剥き出しの先に根固めブロックを並べるという干潟環境に不似合いな景観は継続された。

これも同じ2005年8月中旬に冠水した中洲の辺りを撮っている。
低水護岸側にはヒメガマの群落が多くあり、バンが定着して縄張りを張っている。晩春から初夏の頃には営巣するものが出てきて、屡バンの幼鳥が見られる。
この年は偶々直立護岸前のヒメガマの小群落でバンの営巣を見付けた。バンはカルガモとは異なり、成鳥も飛行は出来ないし、オオバンのように足に水掻を補助する機能も無い、専ら歩く鳥だが、結構泳ぐことはする。ヒナの成長ぶりをウオッチしていたが、親は幼鳥を鍛える為、孵化の5日後にはもう沖の中洲まで一家で遠泳に挑戦していた。
左の写真は中洲のヨシに居たバンの一家が、満潮になってヨシを離れ、護岸側に戻るために泳ぎ出したところを撮ったものである。

左の写真は上の2枚から5日後の撮影で、中洲のヨシが生えた場所より下手の六郷水門側の状態を撮った。
潮はやゝ退いて中洲のキール部は露出している。表面は緑色でコケ類の定着が窺われるが、丈の有る草本類が生えている様子は認められない。

翌2006年も初夏までは、中洲に大きな変化が起きつつあることには気が付かなかった。
中洲のヨシは更に発達して、サークル状に広がっていた群生はくっ付いて統合され、大きな群落へと変貌しつつあった。
左の写真は2006年5月初めで、ヨシは前年の地上部が枯れて残る下から新しい茎が伸び、緑色の袴を穿いたような状態になる時期である。

2006年の夏になると、中洲の表面(ヨシ以外の部分)に明らかな変化が窺われた。遠目にも中洲の表面全体に、丈のある草本の密集状態が認められたのである。

左からの3枚は、2006年9月2日に左岸の低水護岸から望遠で撮った中洲の様子。
最初の1枚は、2年前から既に定着し拡大しつつあったヨシの上手側の様子を撮った。

次の2枚目はヨシの下手側を撮った。上の草本と似て若いヨシのように見えるが、単に一種でなく多様な混じり物があるように見える。

最後の3枚目は、中洲の川下側の端の部分を撮った。(この下手側には直ぐの場所に六郷水門水路の出口に発達した堆積による島があり、島は既にヨシに覆われている)
この場所では若いヨシの手前側に丈の低い草種の密集が見えている。

中洲表面に明らかに何か新しい状況が起きていることは間違いなく、何とか中洲に渡って直に一面の自然緑化の実体を確認したいと思うようになった。

中洲と護岸の間の塩沼地は干潮時には干上がって干潟となるが、雑色ポンプ所の前にトビハゼが生息していたように、この当時のこの干潟は軟らかく、足は激しく潜るので途中で動けなくなる恐れもあり、干潟を横断して中洲に渡ろうとするのは決死の行動になる。

この当時、右岸の殿町2丁目地先や左岸の大師橋上手の干潟などでトビハゼの撮影を行っていたので、軟らかい干潟の脅威は或る程度認識していた。
干潟の表面が冠水する時点ではもう遅すぎて動けなくなる。上げ潮は下から来るので、上げ潮に入ると、表面に未だ水が浮いていなくても、下の方の泥は水を含んでどんどん軟弱化が進行していることを承知していなければならない。

事前の調査で、渡れるとすれば、干潟の幅が最も狭く、平時の干満の水流により、極端に細かい泥が滞留していないと思われる、六郷水門に近い辺りに当たりを付けた。
初回は直近の大潮となる9月23日とし、最も潮が退く直前からトライを開始、現地滞在は最干潮時刻から30分程度までを引き上げの限度とした。

初回に上手く現地視察が出来れば、その経験を生かして、次に大潮となる10月22日に2回目を行う予定とした。


2006年9月23日、中洲行きを決行。早めに打診してみたが、結局実際に渡れたの11時50分頃で、ほゞ干潮の時刻だった。
中洲に辿り着いた場所はイセウキヤガラの群落の場所だった。ただ安定したイセウキヤガラの群落では見られないような、猛烈に個体が密集した”異常な”群落の姿だった。
左の写真は中洲に着いて植物群の中に入って最初に撮った写真で、イセウキヤガラの群集の中で振返って六郷水門の方を向いて撮っている。

左の写真は中洲の中央部に進み、川上側のヨシ群落の方向に向かった辺りで振返り、六郷水門から左岸の下手方向を向いて撮っている。
正面に見えている平らなヨシ群落は、六郷水門水路先に発達した堆積島。この島と左岸の間はあいていて、島と中洲も完全に繋がっていない。上げ潮時には、この島の両脇(六郷水門水路と本流の双方)から塩沼地に水が入ってくる。

写真に撮っている中洲のこの辺りには、若いヨシがチラホラ混じるものの、大勢はイセウキヤガラの群集である。

左の写真は更に上手方向に進み、2年前から定着し発達している中洲のヨシ群落を望んで、上手方向を向いて撮っている。(正面遠方のビル群は、右岸川崎のテクノピア一帯のビル群)

この辺りは苔が生えているだけで空いている場所もチラホラ見えるが、見渡す限りの草本はイセウキヤガラである。但し、これらが正確にイセウキヤガラであるという確認はしていない。
これらがウキヤガラ属であるには違いないと思われるものの、ウキヤガラ属には、イセウキヤガラの他によく似たウキヤガラ、コウキヤガラ(エゾウキヤガラ)があり、仔細に観察しないと正確には何であるかは分からない。然しこの当時まで、近隣には400メートルほど下手に大きなイセウキヤガラの群落がある一方、他のウキヤガラ属のものを見ないのでイセウキヤガラとしたが、断定できる特徴を確認していた訳ではない。

左の写真は、中央部を横断し上手方向に進んで、2年前から定着発達していたヨシ群落の本流側に辿り着いた地点で、中洲越しに六郷水門方向を向いて撮った。
この辺りから上手側は全て若いヨシが密集していて、もうイセウキヤガラは見られない。本流側の地表はウシオハナツメクサが絨毯のように広がり、花が咲いているところも結構見られた。この辺りは正に百花繚乱という感じで、見知っている種としては、ヒメガマのような湿生植物以外に、ハルシャギクが纏って咲いている場所があったり、この辺りの湿地では見ないヌマガヤツリが丈高く目立っていた。スカシタゴボウのように湿気は好むものの、必ずしも湿地の植物とは言えないような種類を含め、実に様々なものが混在していて、イセウキヤガラにしても、地面から芽生えて程無いような若いものがあるかと思えば、違う場所ではもう花が爛熟状態であるなど、季節感が滅茶苦茶な状態に思えた。
この中洲は最も高い中央部でも、未だ大潮に近い満潮時には水没してしまう高さである。空中に出ている時間が長くなる高さになったとはいえ、平生ならとても湿地には生えていないような種類までが混在して生えていたことは驚きだった。

埋土種子が発芽する時は、一斉という自然界の節理があるのか、この高さでは到底やってはいけないような種類までが滅茶苦茶に入り混じって発芽していたが、ヨシ以外のすべてのものはこの年限りで、半年で姿を消すことになった。

上の写真の位置がほゞ折り返し点で、異常とも思える景観は大略確認できたので、早々に引き上げることにした。左の写真は3枚目の写真と似たような位置で、川上向きでイセウキヤガラの群落を撮っている。
河川敷ではのべつ工事が行われ、外部から土が持ち込まれることも多く、その度に工事後から一過性の草花種が出てくる例も少なくない。然しこの中洲は川が運ぶ土砂による自然堆積によって、年数を掛けて高度化してきたもので、埋土種子は流れに乗って、或は上げ潮に運ばれてやってきたものが浅瀬状態の時の潮止まりなどの条件で留まったものだろうが、この年の夏に一斉に出芽しこのような爛熟状態になった。経歴が様々な埋土種子が何故同じ時期に一斉に出芽するのか如何にも不思議だが、これも自然の摂理なのだろう。

一か月後(10月22日)の次の大潮の干潮時にも2度目の中洲行きを敢行した。
目新しいことはあまりなかったが、イセウキヤガラの一部では、もう地上部は枯れかかっていた。本来の季節的には枯れてもおかしくない時期ではあるが、この時の中洲の様子は滅茶苦茶だったので、前月は未だ発芽したての群集もあり、花実を付けた群集もあったが、この一か月で季節は急速に進み、この時の中洲のイセウキヤガラには、枯れ始めてきた群集も目に付いた。
左の写真は中洲の中央部からやゝ本流側で、川下方向を向いて撮っている。(正面に見えているヨシ群落は六郷水門水路が本流に開口する場所に出来ている堆積島が見えているもの。)
この写真の手前側の群集は、既に褐色に変色し掛かって、茎も倒れ地上部は枯れ始めている。

このように中洲が一面に一斉緑化したこの年(2006)、もっとも下手側になる六郷水門側の一画はイセウキヤガラに覆い尽くされていたが、イセウキヤガラの天下は僅か一年で終わり、翌2007年は全体がヨシに被われ、イセウキヤガラは護岸に向いた水辺の一部に追いやられたものが僅かに残る程度になった。然しそこもその後に消滅し、結局イセウキヤガラは中洲に残ることは出来なかった。

左の写真はそれから4年後、久々に中洲に渡って様子を見た時の撮影。本流側の干潟で川下方向を向いて撮っている。干潟の泥は4年前より幾らか硬くなり、六郷水門前辺りでは、中洲との往来はかつてのような決死の敢行というようなものではなくなった。

この辺りの干潟や中洲の状況は、正にヨシの強さを証明する実例そのものである。この中洲の緑化も、2006年に見た時には、末端区域ではイセウキヤガラが抵抗するかと思ったが、翌年は実にあっけなくヨシに制圧されていた。イセウキヤガラも根茎を持つが、冬場は地上部は枯れて全く姿を留めない。一方ヨシの根茎は深さ5メートルまで達するものがあると言われ、冬場もヨシズや茅葺の材料になるほどの茎を留める。競り合えば双方の力の差は歴然で、下に記す本羽田1丁目の干潟の例に見るように、イセウキヤガラはヨシと競った場合には全く勝ち目は無い。
東六郷、南六郷、本羽田1丁目の地先ではヨシは侵略的に拡張し、ヨシと共存して生育し得る植物種はアイアシだけ。一部にヒメガマが存続しているが、ヨシと接する場所では徐々に押し負けている。ここ中洲ではスカシタゴボウの一本も無く、完全なヨシ一辺倒の植生だった。

左の写真は上と同じ2010年5月16日に中洲に渡った際、本流側でヨシ群落に近づいて撮ったものだが、ヨシ以外の植物はもちろん、カニや虫などの動物類も全く気配が無く、生態を感じるような雰囲気はまるで無かった。

地上の植物は淡水域の地衣藻類が進化したもので、動物のように塩分を必要とする種はなく、汽水域で生育する植物では、耐塩性が重要な生育要件だ。ヨシは深い根を持ち、導管で吸い上げた塩分は地上部に達する前に取り込まれ、師管に移して排除する仕組みを開発している。
多摩川の汽水域は、近現代になって防災面から大改変され、今その改変を受けた自然が遷移の緒に着いたところだ。遷移状態の実情は、ヨシが猛威を振るって湿地を席巻し、ウラギクやウシオハナツメクサは既に絶滅、イセウキヤガラ、シオクグ、トウオオバコなども次々に追いやられ絶滅に瀕している。湿地の植生はヨシだけの極めて偏ったものに変貌してきている。
(改変後の早い時期にヨシ群落が発達した場所では、更に堆積が進んで標高が高くなって、ヨシがアイアシに置き換わっていく例が、六郷橋近傍、河口域の殿町や羽田空港沿岸部で見られる。)


ここからは再び本羽田1丁目地先干潟のイセウキヤガラに戻り、その後の経過を追っていく。

南六郷3丁目地先を中心とした中洲が一斉に自然緑化2006年の翌年になる2007年、本羽田1丁目干潟のイセウキヤガラの群落の中央部に突然ヨシが姿を見せた。左の写真は2007年6月2日に偶然撮ったものである。左端の濃い緑色の塊りがヨシで、この年にこのようなまとまりが見られたということから、前年には既に一定程度の定着が起きていたものと思われる。
然しこの広大なイセウキヤガラの群落中にヨシが飛び込んでくることは想像もしていなかったので、詳しく見回っていた訳ではなく、それまでヨシの定着には全く気が付かなかった。翌2007年にこんもりとまとまった大きさになってはっきり存在が確認され、その時点で、多摩川の自然を守る会を通して、京浜河川事務所に直ちにこのヨシを駆除し、多摩川汽水域の貴重な景観となっているこの広大なイセウキヤガラの群落を保全するように意見具申したが、河身改修後の遷移によって荒れていく自然生態系については、放置したまゝにすると決めていた河川事務所で取上げられることはなく、残念ながら長閑だったこの地の貴重な雰囲気は次第に失われていくこととなった。

放置されたヨシは、その後イセウキヤガラの群落を侵食して急速に拡張し、イセウキヤガラの群落は消滅が危惧されるような憂き目を見ることになっていく。
左から下へ3枚の写真はその変遷の一端を紹介した写真で、撮影はヨシが確認された年から3年後の2010年。1枚目の写真は2010年6月12日にヨシの下手の本流寄りから川上方向を向いて撮ったもの。ヨシは既に巨大な群落となり、干潟の中央部から岸側をほゞ制圧している。イセウキヤガラは川上側や本流側など、ヨシがやゝ苦手とするような標高の低い側(水の深い側)へ逃げながら存続を図っている。

左は同じ2010年7月6日に撮ったもので、川上側から川下方向を向いて撮っている。手前側はやゝ深くなった川上側に広がったイセウキヤガラで、正面に丈高く見えるのがヨシ群落である。

左は上を撮った同じ日に、左岸堤防上から川下向きに群落の全体を見たところである。中央から下手側に掛けてはほゞヨシが制圧しているが、この時点ではイセウキヤガラも未だ上手側に結構広い群生域があった。

左は2014年6月15日の撮影で、川下側から川上向きで、ヨシに攻められ護岸沿いに上手方向に逃げてきたイセウキヤガラを撮っている。
この辺りは干潟の端にあたり、満潮時の水深は結構深くなるので、イセウキヤガラといえども護岸際の浅い部分を伝ってくるしかなく、群落の先端部はこのような細長い形になっていた。

左は2015年7月25日の撮影。撮っている場所は上で撮った位置のやゝ下手寄り辺りで、こちらは川下側に向いて、ヨシが迫ってくる様子を見たものである。
見えているのはイセウキヤガラの群落を浸蝕しながら迫ってきているヨシ群落のフロント部になる。


左は上と同じヨシ群落の上手側のフロント位置で、2016年7月10日の撮影。
かつては護岸から楽に干潟に渡れたが、もうこの頃になると、石畳が敷かれた辺りは密集したヨシに覆われていて、以前のように簡単に渡ることは出来ない。
大潮の干潮時に、上手側のやゝ潜るような場所を通ってヨシ群落の縁に渡り、ヨシ群落の裾を伝って上手側のフロント部に回り込む。左の写真はその辺りで本流(右岸)側を向いて撮っている。この辺りまで進めば下は幾らか硬くなり、干潮時には潜るほどではない。

この年は大きく湾曲した水路に従って4〜5km遡った、多摩川大橋下手の低水護岸沿いにコウキヤガラに似た種の群集が見られるようになり、花や苞葉などを比較検討するために何度かこの干潟のイセウキヤガラをも観察しに来た。
最初に来たのがこの日(2016年7月10日)だった。当地のイセウキヤガラは、往時に比べればもう見る影もないが、それでもこの種を観察するだけの株数は未だ十分に残っている。

左は同じ日の2016年7月10日に、上の写真を撮った近傍で、未だ若い株が幾らか疎らな感じで生えている所を撮ったものだが、この日ヨシに近い方の群落中には既に花穂を付けたものも多く見られた。

 
イセウキヤガラの花期はコウキヤガラの花期より少し遅れる、と書かれたものをどこかで見た記憶がある。
この日初めに多摩川大橋下手のコウキヤガラと思われる群集を見に行き、同じ日の内に当地のイセウキヤガラを見に来た。コウキヤガラの方では未だ雌性期の花が少し見られたが、既に雄性期という花が多い状況だった。もし上の記載が一般的な事実とするなら、ここでは未だ雌性期の花が多く見られてもおかしくは無いことになるが、花柱を全開しているというような花は見つけられず、咲いている花は全て雄性期の花のようだった。

ここからの花(小穂)の写真3枚は、同じ日2016年7月10日に撮ったもの。
日本のウキウヤガラ属は、ウキヤガラ、コウキヤガラ(エゾウキヤガラ)、イセウキヤガラの3種が知られている。いずれも似たような花だが、前2種については雌性先熟という記載を目にする。然しイセウキヤガラは国内で前2者ほど分布していないと見え、記載が少なく雌性先熟についても明記されたものを見ていない。
ただし仮に3種とも類似した両性花とすれば、イセウキヤガラだけが雄性先熟というのは不自然なので、どちらかであるとすればやはり雌性先熟と考えるべきだろう。

上の方でコウキヤガラの花を紹介しているが、初めの方に雌性期の花を3枚掲載している。それらの写真は同じこの日(2016年7月10日)に、ここに来る前に撮ったものだが、小穂の先端部から白い花柱を出していて、雌性期の花の特徴が明瞭に認められる。
ところが、本羽田1丁目のこの干潟にやってきて、イセウキヤガラは未だ若い株も見られるような時期だったが、何かが出ているような花穂については、全てが雄性期のものだった。

この日の後も数度当地を訪れた。最後は8月6日だったが、その間にイセウキヤガラの雌性期の花は一つも見られず、花はいつも全てが雄性期のものだった。
雌性期の花が1個も見られなかった理由は不明だが、考えられる理由の一つに、イセウキヤガラでは雌性期が短く花柱も小さく、しかも雄性期とほゞ同時期に被って花柱を出しているという可能性がある。
左の写真で薄黄色の大きなものは葯で、花は雄性期と見做されるが、1枚目、2枚目とも、良く見ると小穂の先端に僅かに花柱らしきものの存在が窺われる。つまり花柱がこの程度に小さく、しかも先熟というほど時間差が無いという可能性である。

ただあくまで可能性に過ぎず、この年はイセウキヤガラの花期の全般に亘って十分に観察しきれたとは言えない。花柱を明瞭に出した雌性期の花が存在するかについては、なお疑問が残るので、2017年度に早い時期から重点的に観察し解明しようと思う。

左の花では花柱らしきものは殆ど窺われないが、多くの葯は既に破裂して、小穂の表面が花粉だらけになっていることから、花期は既に最終盤の段階に差し掛かっていることが分かる。この時期にはもう花柱は全く消えているとしても不思議ではない。

この2枚の花穂では花穂の底辺から斜上している苞葉が見られる。ここの小穂では枝の付いたものは一つも見なかった。イセウキヤガラでは花枝は無いというのは定説と言って過言ではない。

ここからの写真16枚は全て、上を撮った日の2日後、この年2度目の観察を行った2016年7月12日に撮ったものである。

コウキヤガラは塊茎を持つとされる書き物が多いため、この時期に多摩川大橋の下手の群落で根を掘り出して調べた。そのついでに比較上でイセウキヤガラの根も調べておこうと思ってここでも根の掘り出しを行った。
根茎はよく発達していて、その中に太く横走するものが混じり、隣接する株同士は地下で繋がっていることが分かる。ただ塊茎というようなものは見当たらなかった。




イセウキヤガラで直立する苞葉以外に苞葉があるケースでは、大抵の場合第二の苞葉は一本限りである。第二の苞葉がどの程度大きく長いかということは、必ずしも小穂の数に関係しない。
小穂の数が少なければ第二の苞葉は短く、小穂の数が多ければ長くしっかりしているという相関はないように見られる。



左とその下の花穂では、良く見ると小穂の先端付近は花柱と見られなくも無い。ただオシベの出始めの様子と見られない訳でもなく微妙だ。これらの花穂は、葯が爛熟した雄性期の花でないことは確かだが、雌性期の花と断定出来るほど明瞭なものではない。

 
ウキヤガラ類は葉身が鋭3稜形だが、イセウキヤガラでは苞葉も1本は直立して伸び、その断面も葉身と同じような鋭3稜形であるところが特徴。
横に伸びる短く小さい苞葉もあるが、直立する苞葉に着目すると、恰も長い葉身の途中に横向きに小穂が付いたかのように見える左下の写真のような格好はイセウキヤガラの代表的な特徴と言える。

一般的にイセウキヤガラの花穂では小穂が1〜2個程度と少なく、コウキヤガラでは4〜5個(或はそれ以上)と書かれているものを多く見掛けるが、逆にそれが両種を見分ける決定的な違いと断定している書き物もなく、花穂に於ける小穂の数についての判断は難しい。
この干潟のイセウキヤガラでは、小穂が少ない株が目につくが、4〜5個程度に多い株もそれほど珍しくは無い。このことが地域の特殊性というレベルのことなのか、この地のイセウキヤガラが純粋でなく、幾らか交雑の前歴を持っていることの顕れなのかは微妙な問題だ。

吉野川や木曽川などでは、イセウキヤガラの花穂は小穂が一つとされるが、ここの本羽田のイセウキヤガラでは小穂が一つや二つのものばかりでなく、四つ程度と多いものも結構普通に見られる。



左の花は典型的な花と言ってよく、葉身に引き続くような恰好で苞葉が直立し、無枝の小穂の下から、花穂を支えるような形で第二の苞葉が斜上している。
小穂の中央部辺りから多くの花糸が出て葯を展開している。小穂の先端には僅かながら花柱のようなものが見えているが、いずれ全体が葯に蔽われていく。





左の写真は2016年7月23日に、本羽田1丁目地先干潟に渡った時の撮影。この日はイセウキヤガラの中に苞葉の端がザラツクものがあるかどうか、丹念に調べるのが目的だった。

写真は本流側に出て川下向き(正面に大師橋)で撮っている。潮が最も退いている時間帯の撮影だが、下手のヨシ群落は水際近くまで達しているが、手前側のイセウキヤガラの群落は水際まで幾らか地面を余している。
2007年にヨシが飛び込んできたのはイセウキヤガラ群落の中央部で、その後急速に領域を拡大していったが、2010年当時には未だ本流との間にはイセウキヤガラが残っていた。然し2016年のこの写真を見るとヨシが水際まで達していて、逆にイセウキヤガラの方が水際から幾らか退いている。この意外な現状は、こちら側の地面が僅かに低く水際が適性を欠いているためと見做される。イセウキヤガラが全体として勢いを失ってきていることの反映ではないと思う。

ここからの写真6枚は、2016年最後の観察となった8月6日の撮影。

最初の写真は護岸側から干潟に渡って間も無くの場所で本流を向いて撮っている。未だ青々して花の数も多く、イセウキヤガラの花期は結構長いことが分かる。

この写真はヨシ近くの群落で撮ったもの。

雄性期の花だが、この時期には小穂の先端部まで葯で覆われている花が目についた。


左の写真はかなり本流に近づいた場所で撮っている。7月23日の写真で見られた様子とは異なって、より近接したこの写真で分かるように、イセウキヤガラに近い方のヨシ群落は本流の水辺までは達しておらず、本流際には僅かながらイセウキヤガラの範囲が残っている。このことはイセウキヤガラの方がヨシより少し水が深い側に耐えられることの証左である。

左の写真は同じ2016年8月6日の撮影で、本流側から再び護岸側に戻ってきて、護岸に近い方で、川上方向を向いて護岸に近い一帯に逃げ延びたイセウキヤガラの群生地を撮っている。
右端に伸びる緑は護岸上の高水敷を被う丈の高い草本類で、ヨシは含まれるが、平時に冠水するような低さではないので、オギなども繁茂し、その他丈の高い多くの種が入り混じった藪となっている。

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