<参考32>  京急空港線・大師線の今昔物語
 

 
空港線(旧穴守線)と大師線について、過去現在将来の逸話を幾つか紹介しています。
(歴史については何らかの資料に基づいて書いていますが、将来についての方は全く根拠のない当て推量や噂話の羅列で、フィクションに近い内容と思って読んでいただくのが無難です。)

今や京急の花形となった空港線だが、京急蒲田駅へのアクセス線(第一京浜国道を横切りホームに入る線)は単線である。下りの空港行きのほか、都心から成田方面に向かう本線上りへの乗入車両、横浜から三浦半島方面に行く本線下りへの直通車両、の都合3方面向きの電車が、この部分では分刻みで一つの軌道上を行き交っている。この軌道は(旧)穴守線の下り軌道だと思うが、ここにはどうして上り軌道が無いのだろうか?
東急の基幹路線である東横線(多摩川駅)とJR蒲田を結ぶ多摩川線(旧目蒲線)の蒲田駅はJR蒲田の西隣にあり、一方京急蒲田の方はJR蒲田から700メートルほど東に離れた海側にある。この間を繋ぐ軌道を敷設し、両線の相互乗入れを図ろうという構想は古くからあり、通称「蒲蒲線」構想と呼ばれていた。(この構想は単なるお話のレベルではなく、直近の運輸政策審議会答申(2000年)に「東急と京急を短絡させる線」として記載され、計画が立案されれば事業許可を申請できる御墨付(資格)を得ている路線である。)
ところで、かつてのある時期に「蒲蒲線」に近いルートの鉄道が実在していたことはあまり知られていない。
敗戦直後、進駐してきた占領軍は、物資や人員輸送のため真っ先に、鈴木新田に大型機が離発着できるような空軍基地(羽田空港の前身)を造ることにした。この際京急穴守線の上り線を接収し、軌間を変更した上で現在環八のある側に迂回させたルートで(JR)蒲田まで延伸させ、全国の省線ルートから羽田空軍基地まで軍用列車(汽車)が直通運転出来るようにしたのである。 (「大田区史誌40号」 「蒲田ー羽田空港間連絡線」 田中弥次右衛門)

占領軍は飛行場工事に要する膨大な資材を輸送するため、基地内の工事現場まで貨車を直通させる必要があるとした。そのため、「省線蒲田〜京浜蒲田」及び「稲荷橋〜飛行場」間に新線を敷設し、中間の京浜蒲田〜稲荷橋間は在来の京浜電気鉄道・穴守線の上り線を接収して繋ぐこととした。
昭和20年(1945)京浜電気鉄道・穴守線の上り線は、空港と同時に接収され(本線は単線化)、省線に接続出来るように軌間変更が行われ(京急の軌間はJR在来線の1067mmではなく新幹線と同じ1435mm)、蒲田側飛行場側それぞれに敷設された新線と繋がれた。この占領軍の鉄道は主として、砂利・セメントなどの建築資材、航空機やエンジン部品などの物資輸送に使われ、時にはアメリカへ帰る兵隊を乗せた列車も走ることがあったという。
昭和27年(1952)まで京浜蒲田〜稲荷橋間では、旧京浜電気鉄道(注)と、蒸気機関車に曳かれた軍用列車が併走していたことになる。 (左は「大田区史誌40号」からの転載)

講和条約発効によって接収は解除となり、(JR)蒲田に行く部分と空港敷地となった海老取川以東の両端部分は廃止、中間の上り線は軌間を戻して京急に返還された。
(右の写真は「京浜急行100年の歩み」(1998)からコピーした。場所がどこかについての記載はないが糀谷だろうか。)

当時の穴守線はローカル線扱いで、(京浜蒲田の)ホームは片側だけで十分な時代だったと思われ、駅を作り直す必要が無いように、アクセス部分はあえて複線に復旧させなかったのではないか。
(現在京急蒲田駅は高架2段とする大規模な改築工事が進行中で、箱根駅伝で毎年話題となる国道の踏切が無くなるだけでなく、過密化してヤバイことになっている単線での運行状況は近い将来解消される予定である。)

左の小画像は海老取川に掛かる人道橋「天空橋」。新しい橋で中は綺麗だが、外観からは何か錆付いた古めかしい遺物のように見える。(クリックで拡大写真を別窓表示)
京浜電気鉄道(京急)は戦前海老取川を鉄橋で越え、穴守町まで延伸されていた。終戦とともに接収されその後廃線となったが、平成5年(1993)念願の空港敷地への再乗入れを果たし、地下に羽田駅(現天空橋駅)が出来た。駅と対岸の羽田5丁目との通行の便を図るため、もと鉄橋があった位置に人道橋を架けたのがこの天空橋である。(鉄道はこの橋の下の地下を通っている。)
この人道橋の外観は、京急が昔ここに架けていた鉄橋の面影を留める意味でこのようなデザインになったと聞いていたが、偶々「京浜急行100年の歩み」の中に下掲の写真があった。確かに雰囲気は似ている。(原図から左側の岸の部分を割愛してある。)

「蒲蒲線」が構想のままで杳(よう)として計画に至らないのは、短絡線は地下に敷設する以外には実現の見込みが無いのに対し、一方の京急線は高架化を進めていて(現実に京急蒲田の改造工事は既に着工している)、たとえ東急側から京急蒲田まで地下に軌道を引いたとしても、京急蒲田での落差が大きく乗換えが不便であること、仮に大鳥居辺りまで引いていって接合するとしても、双方は軌間が異なり乗入れは単純にはいかないこと、空港ターミナル駅のキャパシティーからみて、東急経由の直通乗入れを受容れるだけの増便余裕が無いことなど、多くの技術的な制約を克服してまでの需要が見込めるかという肝心の点に疑問符が付き、採算の見通しが立つような具体的な計画の立案が出来ないためとされる。
ただ大田区は実現に熱心で、噂の範囲に過ぎないと思われるが、東急蒲田駅を地下に移設し、多摩川線と同じホームの反対側を広軌新線の始発駅とし、この新線が京急空港線の大鳥居近傍などで乗入れ、空港ターミナル駅まで行く、という蒲田駅乗換え案も浮上している。

(「蒲蒲線」については、 [参考14] 「羽田弁天と穴守稲荷、京急穴守線 」のページも参照


2004年に羽田空港の再拡張が決まり、京急を取巻く局面は「蒲蒲線」を追いやってしまうほど大きく転回することになった。(再拡張工事は2007年に着工し、2010年には供用開始となる予定だったが、実際の着工は当初予定より1年遅れ、開港は2011年の見込み。)
空港は4本目となる滑走路を新設、年間発着枠は2007年の実績に対して37%増の40.7万回となり、その一部は国際線に振向けられる。(国交省は従来より成田を国際線の基幹空港と位置づけ、羽田はあくまで補完空港という方針を採っている。羽田再拡張に対しても、石原都知事や中田横浜市長などの要望を撥ね付け、増加される11万回のうち、国際線に振向ける分は3万回に止め、その就航範囲も半径二千キロに抑えるという意向を表明している。半径二千キロという基準は、国内線の最長路線である羽田−石垣島間相当以内ということで、この基準でいくと、ソウル、上海までは飛べるが、北京や台北は就航範囲を外れる。なおアジアの主要都市について羽田からの便は、ハノイ、マニラは四千キロ基準、バンコク、シンガポール、ジャカルタは六千キロ基準でないと実現しない。)
総事業費の2割程度を地元自治体(東京・神奈川)が負担することになったが、神奈川側(県・横浜市・川崎市)は300億円を拠出する見返りとして、国に対して「空港の神奈川口」建設への協力を求めた。
「神奈川口」は多摩川河口右岸の殿町にあった「いすゞ自動車川崎工場」が移転した跡地を中心に、空港施設やホテル、貨物上屋(うわや)などの建設が予定されるが、神奈川側の思いは「神奈川口」の建設を起爆剤として、近年空疎化の著しい京浜臨海地区一帯を再活性化したいというところにある。(「神奈川口構想」は殿町や大師河原の再開発に止まらず、広く臨海地区に臨空産業などを誘致し、塩浜一円に新しい街造りを行うとされる。)
「神奈川口」構想の成否には、多摩川を越える架橋をメインとした道路網整備と並び、鉄道アクセスの新設が重要な鍵を握る。従前より、この地区に関わる鉄道問題としては、JR貨物支線の旅客併用化期成運動がある。
(JR東海道貨物支線は芝浦で東海道本線から臨海方向に分岐し、東京港(大井埠頭)・川崎港(塩浜貨物駅・神奈川臨海鉄道各線)を繋ぎ、浜川崎・鶴見を経たのち、新横浜方面(横浜羽沢駅)に迂回して東戸塚で東海道線に合流する支線で、空港敷地近辺では海老取川右岸の地下を通っている。)
JR貨物支線の旅客化は2000年の運輸政策審議会答申に盛られていて、その実現は「神奈川口協議会」でも当然俎上に上っているが、神奈川側の熱い視線は、答申では全く触れられていない「京急大師線延伸」の可能性に向けられている。
JR貨物支線の旅客化は臨海地区にとっては悲願とも言うべきテーマだったが、降って沸いたような「神奈川口」構想が現実に検討されるようになり事情は大幅に変わった。

JR旅客臨海線が実現すると、神奈川側からの空港アクセスは便利になるが、同時に都心側からのアクセスも飛躍的に改善されることになり、相対的に「神奈川口」のウェートが低下してしまう虞(おそれ)がある。痛し痒しの面がある「JR貨物支線の旅客化」ではなく、京急大師線延伸構想が生まれた背景はここにある。

《左は「神奈川口」が予定される関連周辺図(クリックで表示)。図中記号 (V) を添付したものは、既に実在しないが過去に有名だった目印的なもの、添付記号 (P) は予定地として確定している重要な建物等を示す。の表示は、道路の渡河(架橋)位置を決定するために、「第4回京浜臨海部幹線道路網整備検討会議」(2006.2)が当該区間を評価用に3つのゾーンに分けたものをそのまま載せた。「上」は新橋が一般道も兼ねるようにする場合、「中」は空港との連絡性を重視する場合、「下」は「オキテン後の空港の跡地利用」との競合を避けたい場合の夫々に適する。空港からの連絡道は多摩川を渡河すると川崎縦貫道浮島線と交叉し、これを過ぎた後は「市道殿町夜光線」に接合させて、既設道路の有効利用を図る方向で検討されている。》

京急大師線に塩浜駅を設け、空港のターミナルまで延伸させることが出来れば、都心側とは無縁の鉄道アクセスが可能になり、神奈川口にとっては理想の形が生まれる。京急としても戦略上、羽田空港へのJRの進出は何としても阻みたいところだ。京急にとっては大師線延伸案の浮上は願ってもないことと思えるが、はたして無条件で後押しできるだろうか・・・。
羽田空港の国際線復活に備えた国際線ゾーンは、多摩川河口左岸一帯が予定され、旅客ターミナルは殿町の対岸に造られる。京急は天空橋駅と西ターミナル駅の中間にあたるこの位置に、自力で空港線の新駅を建設することは既に決めている。もし大師線の延伸が、殿町から多摩川を横断して、この国際線ターミナル駅で止まるものなら京急はその構想に乗り易い。だが国際線ターミナル駅でいちいち乗り換えるようでは、大半を占める国内線利用客にとって甚だ不便であり、神奈川口を推進する自治体連合が、「鉄道アクセスは国内線ターミナルまで直結するもの」を強く求めることは間違いない。
京急の国内線ターミナル駅はキャパシティーの面で、更なる増便の余地は薄いとみなされる。従って、もし神奈川口を繋ぐ新線が終点まで乗入れるとすれば、その分は現在京急蒲田を経由して横浜方面から直接乗入れている便を振替えるしか方法はない。(京急川崎駅の現状は、本線が高架で地上にある大師線とは接続していない。)


京急の迷いは、大師線が将来どのように位置づけられるのか不透明な点にある。
川崎市は多摩川沿いに細長い市域を連絡する鉄道として、「川崎縦貫高速鉄道線」(仮称)を市営地下鉄として建設し、小田急「新百合ヶ丘」からJR川崎に至る経路を構想していた。(96年の市議会でも要望が出されている。)

この鉄道案は、2000年の「運輸政策審議会答申」(右図クリックで表示)に於いて、「2015年までに開業することが適当な路線」としてお墨付きを得、2001年5月、市は第一期工事として、「新百合ヶ丘」から東急東横線「元住吉」までの区間について国から鉄道事業許可を得るに至った。ところが同年秋の市長選で当選した阿部市長は、市の財政建直しを優先すべく大規模事業の見直しを表明、「川崎縦貫高速鉄道線」の第一期工事は、新市長の意向を受け5年程度延期されることになった。
その後国の再評価制度に則って事業計画が見直された結果、原案では安定的な収益確保は難しいという判断になり、2005年春には東横線との交差位置を「元住吉」ではなく、JR横須賀線も利用できる「武蔵小杉」に変更する案に活路を見出し、原案を廃止して、2008年度までに「小杉接続」で事業許可の再取得を目指すことになった。
こうした現状では、市営地下鉄がJR川崎に達するのは遥か彼方という感じがするが、それでもこの件が問題なのは、「運輸政策審議会答申」が、「川崎縦貫高速鉄道線」を「2015年までに開業することが適当な路線」と規定した項で、「川崎駅において京浜急行電鉄大師線との相互直通運転を検討するように」 との一文を付記しているためである。

小田急の操車場を利用することになっている川崎市営地下鉄の軌間が、狭軌(1067mm)となることは間違いないところで、標準軌(1435mm)である京急と相互乗入れするためには、軌間変更という難題がある。にも拘わらず「運輸政策審議会」があえて相互乗入れについて検討するように言及していたのは、軌間変更が致命的な問題にはならないという技術進歩についての読みがあったのだろう。
(実際フリーゲージトレイン(軌間可変電車)の研究開発はかなり進んでいて、新幹線のような超高速運転を必要としない一般鉄道なら、その技術は実用化寸前にまで来ていると言われている。)
大師線が将来市営地下鉄と直通することは非現実的なことではなく、むしろそうなることで真の川崎縦貫鉄道が実現することになると言える。答申で付言している意図もそのようなものだろうと思われるが、「神奈川口構想」が出てきたことで情勢は急展開し、京急にとっては複雑な問題を抱えることになった。

市が市営地下鉄の第一期工事について国から再度事業許可を得る時点では、武蔵小杉からJR川崎までの第二期工事についても、そのルートくらいは示さなければならないだろう。武蔵小杉を出た後の第二期ルートは、(住民の支持を得やすい利便性重視の観点で憶測すれば)、交通不便地域とされる加瀬・小倉地区と古市場・小向地区を拾った形で川崎市街に向かうS字ルートが有力ではないかと思われる。つまり市営地下鉄は小向東芝町の方向からJR川崎に入ってくる可能性が高い。
一方これと相互乗り入れする京急大師線は、仮に京急川崎の大深度地下に大師線の駅を移設し、大師線が京急川崎からJR川崎に向かうようにすれば、市営地下鉄と大師線の両線は相互直通化が極めて困難な鋭角アプローチとなってしまう。
京急大師線が川崎縦貫鉄道の一翼を担うということになれば、大師線はおそらく現港町駅を捨て、競馬場或いは競輪場の方向の地下に引き直し、JR線に対し直角に近くなるような方向からアプローチする必要があることになるが、その方向を採れば、大師線は京急本線(京急川崎駅)から離れ、JR川崎駅に直接繋がるルートを採らざるを得なくなるのである。(京急川崎からJR川崎に掛けての地下一帯には地下街(アゼリア)ができているが、上記の事情は多分アゼリアの有無に関係しない。)
京急にとって複雑な問題とは、仮に大師線が神奈川口を経て空港ターミナルに直通する新線を延伸させても、肝心の大師線が川崎縦貫線の一翼を担うようになれば本線から離れざるを得ず、京急は横浜方面から空港に直接乗客を運ぶ唯一の路線という看板(ドル箱)の一部を失ってしまう点にある。
(大師線を空港ターミナルまで延伸させ、なおかつ本線の上りを現行通り京急蒲田経由で空港に直通させるためには、京急空港駅のキャパシティーが拡充されるという裏付けが不可欠で、ターミナル内部での拡充が叶わなければ、横浜方面からの直通枠を神奈川口を経由する川崎縦貫新線に割かなければならないという制約に変わりは無い。)

現在大師橋の改架工事に合わせて首都高速川崎縦貫道の大師インター工事が行われている。東京湾アクアラインの延長線として、浮島を経て殿町までが開通している高速川崎縦貫線は、殿町から地下に入り第一京浜国道下までが計画されているが、何かと物議をかもして進捗が遅れている。京急大師線は当該部分の地上にあることから、道路整備に併せて同時に地下に引き直されるのではないかとの憶測が生まれたりもしている。

右は京急大師線の産業道路駅と踏切。(拡大あります)
(かつての空港線大鳥居駅周辺も(もう少し開けた雰囲気だが)、これとよく似た光景だった。環八道が蒲田から空港方面に伸び、産業道路より幾分海側を通る首都高の羽田出口ランプが直近位置に下りてきていたことも重なって、大鳥居の踏切周辺は産業道路の慢性的な渋滞箇所だった。現在大鳥居駅は地下に移設され、踏切は跡形もない。
京急は大師線についても産業道路の踏切を無くすべく、東門前から先で地下に潜る工事についてその概要を公表しているが、その余のことは現状ではあくまで未定ではないかと想像する。)

「運輸政策審議会答申」は法令に基づき、大臣の諮問に答える形で、大所高所から建議する仕組みで、メンバーは半端な顔ぶれではなく、この答申を蔑(ないがし)ろにした形で、降って沸いたような鉄道事業に許可が下りるとは考え難い。羽田空港のD滑走路の供用開始は2011年とされているが、神奈川口の鉄道問題は羽田空港が再拡張されて開港する時期には到底間に合わない。
運輸政策審議会(省庁の再編などにより平成13年3月に他の8審議会と統合され「交通政策審議会」と名称変更された)の次の建議は2015年であり、その答申が作られる時期までに如何にして問題を煮詰めることが出来るか、2015年に向け関係者の熾烈な路線獲得競争が今始まったということだろう。

2015年の答申で大師線の延伸が認知されることを前提に、一つの妥協案を想像してみた。それは概ね以下のようなものである。(ここではJR貨物支線の旅客化新線のことは棚上げにしてある。尚以下の案は京急蒲田の大規模改修工事が現実に進行していることとの整合性は薄い。)
空港の神奈川口をターミナルビルに繋ぐ新線は大師線を延伸するものとし、京急本線が京急川崎を経由して大師線に入り、神奈川口を通って空港国内線ターミナル駅までを直通運行する。(現在横浜方面から京急蒲田を経由してスイッチバック方式で乗入れている便をこちらに振替える。)
もし市営地下鉄が小杉からJR川崎に延伸されるような状況が到来すれば、それに合わせて大師線も競輪場下方面からJR川崎に至る地下軌道を引くが、京急川崎経由で本線に繋がる従来線も存続させ、本線からの乗入れ車両と、市営地下鉄(川崎縦貫鉄道)からの乗入れ車両を並行運転できる体制にする。
国際線ターミナル駅から先(国内線ターミナル方向)に直接乗入れる枠は川崎縦貫鉄道に振向け、京急本線からの乗入便は国際線ターミナル駅止まりとする。その代わり、国際線ターミナル駅は、同一ホームの片側を空港線上りと縦貫線上り、片側を本線乗入れ線(終着)に充てるなどして、本線(横浜方面)から国内線ターミナルに向かう乗客に対し、乗換えの不便(遅れ)を感じさせないような特段の配慮を講じた設計を工夫する。


 下は六郷橋の南詰橋上で撮ったもので、堤防裏を走る大師線の珍しい雪景色。(拡大あります)

大師線は現在では、京急川崎で本線から分岐する大師支線の存在だが、京急の創業路線であるだけでなく、臨海地区に絡んで紆余曲折した歴史を持っている。
空港の神奈川口構想が浮上したことによって、京急大師線とJR東海道貨物支線は微妙な関係に立たされるようになってきたが、JR東海道貨物支線が浜川崎で繋がる「JR鶴見線」と「京急大師線」の間には過去に浅からぬ因縁があった。

鶴見〜川崎の臨海地区に鉄道敷設の先鞭を付けたのは、(大正5年に「海岸電気軌道」という別会社を起こして臨んだ)京急だったが、苦心惨憺の末大正14年(1925)に開業した新路線は、僅か5年で(後にJR鶴見線となる)「鶴見臨港鉄道」に買収され、その後7年で廃線に追込まれてしまったのである。
(以下、現在の京急大師線の先に敷設されていた「海岸電気軌道」と、後に現在のJR鶴見線となる「鶴見臨港鉄道」についての状況を時代を追う形で交互に記している。)

「京浜工業地帯」建設を強力に推進したのは浅野財閥の祖、浅野総一郎(1848-1930)である。彼は明治期に東京港や横浜港の近代化を目指し、京浜間に運河を開削して、その土砂により沿岸部を埋立て臨海工業地帯を造成しよう考えた。

彼の構想は東京市会では潰されてしまうが、渋沢栄一(幕臣、大蔵官僚を経て実業界に転身し、近代日本資本主義の父と呼ばれる)、安田善次郎(安田金融財閥の総帥、東海道新幹線の基になったと言われる「日本電気鉄道」[東京〜大阪間に標準軌の電車路線を敷設する] を計画したことでも知られる)らの支援を得て「鶴見埋立組合」を設立し、大正初期に神奈川県から埋立事業の免許を得るに至った。(当初計画では、鶴見川河口から多摩川河口までの150万坪(約500ha)の範囲を埋立造成するとした。)
大正2年(1913)、 鶴見埋立組合は「鶴見埋築会社」に発展して鶴見側から順次埋立が進み、関東大震災後の昭和3年(1928)には当初予定の150万坪の埋立が完成した。(埋立地の2/3は川崎市域に編入された。) 埋立地には浅野財閥系の企業を初めとし、芝浦製作所、日清製粉、東京電燈、日本石油、 三井物産等多くの企業が相次いで工場を進出させた。中でも、鶴見線に「武蔵白石」の駅名が残る白石元治朗が創立した日本鋼管が中心的な存在だった。(因みに、扇町の名前は浅野の家紋から、安善駅は安田善次郎から、大川駅は日本の製紙王と呼ばれた大川平三郎から採っている。)

京浜電鉄は明治末期には早くも、大森から森ヶ崎、羽田を経て鶴見に至る海岸線を企画したが、時期尚早で沙汰止みになったといわれる。臨海地帯に工場進出が盛んになると、大正5年(1916)同社重役陣が発起人となって、別会社「海岸電気軌道」の設立を準備し、川崎大師から大師河原、田島、潮田(旧町田)の各村を経て本線の「鶴見総持寺駅」(現在の京急鶴見と花月園前の中間にあたる)に至る軌道敷設(旅客線)の免許を申請した。
(ルートは埋立前の海岸線に近い位置で、概ね現在産業道路が通っているラインになる。大師の先は大師河原、出来野、塩浜、池上新田と行き、浅野セメント、富士電機などを経て鶴見川、総持寺に至る。)

未だ路面電車の時代だったが、海岸道路が整備されていない頃で、国は道幅5間を条件に免許する方針を示した。
軌道敷設のための道路拡幅費用(用地買収費用)を誰が負担するかで話合いは難航し、会社と地元が折半する案を軸に歩み寄り、免許が下りたのは大正8年だった。程なく戦後恐慌となり、関東大震災が重なって計画の実現は更に遅れ、大正13年になってやっと着工、翌大正14年(1925)年にようやく竣工した。
(右の写真にある「富士電機前」は、総持寺から来ると渡田の手前に当る。軌道敷設は省線(浜川崎線)と交叉する所で手間取ったとみえ、とりあえず総持寺側からと、大師側からを先行して開業し、数ヵ月後に全線が開通するようになった。)

(「海岸電気軌道」の設立発起人には、京浜電鉄の重役として安田善三郎(安田善次郎の養子)が名を連ねているが、善次郎とは確執があって安田財閥の後ろ楯は無かったようである。)
開業後の採算が果々しくなかったところに、埋立地側に貨物線として引かれた「鶴見臨港鉄道」が、電化を図って旅客輸送電車を並行運行させるという悪条件が重なった。(「海岸電気軌道」の路線は、出来野で海岸域に出て塩浜、池上新田と進むが、田島で省線と交叉した後は、渡田から先鶴見までの区域(工業化が進んでいた主要地域)で、海側の「鶴見臨港鉄道」と並行し、もろに競合する関係になった。)
「海岸電気軌道」は救済合併のような形で「鶴見臨港鉄道」に買収されるが、産業道路が本格的に整備されるという状況の変化を受けて、「鶴見臨港鉄道」は(昭和12年)「海岸電気軌道」の全線廃線を決めた。(産業道路の初代大師橋が竣工したのは昭和14年である。)

「鶴見埋築会社」は大正9年に「東京湾埋立会社」に発展して隆盛を増し、大正13年(1924)には発起人に、浅野総一郎以下錚々(そうそう)たるメンバー(進出諸会社の首脳)を集めた「鶴見臨港鉄道」が設立される運びとなった。
省線の京浜線は大正3年に電車の運行を開始していたが、大正7年(1918)には、川崎駅と「浜川崎」(田島町)を繋ぐ貨物支線を開設して、臨海地帯を東海道本線に結んでいた。「鶴見臨港鉄道」は埋立地に鉄道を敷設して、浜川崎で省線に接合する路線の開設を企図し、本線西側は(最終的には)鶴見に至る路線として計画された。
「鶴見臨港鉄道」の第一期工事は直ちに免許され、大正15年(1926)には竣工して運輸営業が開始され、沿線の工場は相次いで専用引込み線を敷設した。その後も埋立に並行する形で敷設は進行し、昭和5年(1930)には第二期工事として省線鶴見までの路線が完成した。
「鶴見臨港鉄道」は昭和4年(1929)電化工事の認可を受け、翌年には竣工して旅客輸送用の電車を走らせ、扇町から浜川崎、弁天橋を経て鶴見に至る全線で貨客並行輸送を開始した。
昭和5年(1930)、旅客輸送開始に先立って北側を走る「海岸電気軌道」を買収したが、上記したように、昭和12年(1937)には「海岸電気軌道」の全線を廃止している。(「海岸電気軌道」は開設まで9年を要したが、僅か12年で廃線となる憂き目を見たことになる。)


戦時下の国策合併(昭和13年(1938)の陸上交通事業調整法)によって私鉄の統合政策が推進され、西南地区は東京急行電鉄に一本化されたので、京浜電気鉄道は、戦時中は東急電鉄・京浜線となった。(因みに、戦時体制下の大東急は、現在の東急、京急、小田急、京王、相模などを含んでいた。)
この時期(1944〜45にかけて)大師線は、旧海岸電気軌道の廃線跡などを利用して川崎大師から先が再延伸され、塩浜を経由して浜川崎に近い桜本までが開通している。
戦後昭和23年(1948)に旧京浜電気鉄道は京浜急行電鉄として分離独立した。昭和27年(1952)には塩浜から桜本までが川崎市電に譲渡され、その後塩浜一帯に国鉄による塩浜操駅(現川崎貨物駅)が建設されることになって、塩浜までを暫定休業、昭和45年(1970)に廃線が確定して、小島新田までに限定された現路線となった。
一方の「鶴見臨港鉄道」は「南武線」共々大東急には統合されず、昭和18年(1948)別途戦時買収によって国有化されることになった。そのため戦後は国鉄鶴見線となり、昭和62年(1987)にはJR東日本の鶴見線となった。もとは同じ民間鉄道だった鶴見線が、私鉄の京急と一線を画す存在に変わったのは、戦時下の取扱いが違ったことに起因しているのである。
同じように戦後国鉄になった「南武線」は大正8年に、多摩川の砂利運搬を主目的として計画された「多摩川砂利鉄道」が起源になっている。当初川崎町や近在の有力者が発起人となり、川崎〜稲城で敷設免許を得て「南部鉄道」と称した。ただ会社は発足後、株主や経営陣が大幅に入替わるなど転々とし、最終的には浅野総一郎の長男泰治郎が過半数の株を持ち、「鶴見臨港鉄道」と似た浅野財閥系の会社に様変わりした。砂利の採取販売は予想外に振るわず、開業当初は貨物輸送より旅客輸送の方が主だったようである。昭和2年(1927)に川崎〜登戸で営業を開始し、2年後の昭和4年末には立川までを全通させた。(尻手から浜川崎に至る臨海地区連絡支線が完成したのは昭和5年である。)

浜川崎から北側(多摩川側)の国鉄の貨物路線は、昭和39年(1964)に浜川崎から塩浜操駅までが開業(電化)していたが、昭和40年代に、塩浜操駅から大井埠頭・品川埠頭を経て汐留に至り、東京湾沿いに千葉市の蘇我までを結ぶ延長100km余りの湾岸貨物線が計画され、当初「京葉線」と呼称されたこの貨物線が、その後汐留から戸塚に至る現JR東海道貨物支線の起源になった。
(戦後の東京港の復興・拡張は、昭和23年豊洲石炭埠頭の建設に始まり、昭和27年に外国貿易港としての品川埠頭に着工した。東京都が大森・羽田などの漁協に漁業権を全面放棄させることによって、京浜二区三区の埋立問題に決着を付けたのは昭和30年代後半のことで、コンテナ船の巨大基地となる大井埠頭の建設が本格化したのはその以後のことである。計画当時の貨物路線は、品川埠頭を抜けて汐留に至り、千葉方面と繋ぐようなものではなかったかと思うが、その後汐留の操車場は廃止となって、大井埠頭に東京貨物ターミナルが出来るようになった。)
湾岸の貨物線は、浜川崎で鶴見線との接合が図られていたが、昭和48年(1973)に汐留〜塩浜間が竣工、浜川崎までが全通したため、この時点で浜川崎から川崎に至る従前の川崎支線は廃止された。(尚、塩浜操駅(平成2年に川崎貨物駅と改称)に接合する「水江線」「千鳥線」「浮島線」の3支線の営業は、国鉄から「神奈川臨海鉄道」(昭和39年に第三セクター方式で設立された)に委譲されている。)
近年(2003年頃から)JR東海道貨物支線の旅客線化構想の浮上に合わせるように「川崎アプローチ線」(仮称)と呼ばれる新線が話題に上るようになった。2000年の「運輸政策審議会答申」に記載されているこの新線は、「浜川崎〜川崎新町〜川崎」のルートで、概ね廃止された旧川崎支線を貨客併用線として復活させるものである。(川崎駅から八丁畷駅付近まで貨物線の廃線跡を活用した新線を建設し、八丁畷駅付近から浜川崎駅までは南武線浜川崎支線を活用する。同線の整備にあわせて浜川崎支線の尻手〜八丁畷間は廃止されることになるらしい。)


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