<参考34>  多摩川のアユについて


2013年1月13日に日野市の都立日野高校で第4回多摩川流域市民学会が開催され、第2回以来4年振りに出席しました。多くの講演や発表の中から、私なりに関心を持った3点について、多摩川の自然を守る会の会報「川のしんぶん」3月号に感想文を寄稿しましたが、ここでは寄稿文のうちから「東京都島しょ農林水産総合センター」のH氏による「多摩川におけるアユ遡上促進の取り組みについて」に対する項のみを取上げ、寄稿文をベースとして、端折った部分を追記し、注釈を付したり、補足を追加するなどの拡充を行い、多摩川のアユに関する特集として以下に記載します。
アユはマハゼのような汽水域の魚ではありませんが、晩秋に中下流域で産卵、孵化した仔魚(しぎょ)は直ちに海に下り、幼魚期を浅海で過ごした後、翌年の春から初夏に掛けて稚鮎として又川に遡上してきます。アユはの生涯は1年ですが、その間、川から海へ又海から川へと2度汽水域を通過することになり、汽水域はアユと全く無縁という訳ではありません。

 
昭和50年代に多摩川にアユの再遡上が確認されるようになり、東京都による遡上数の確認調査も始まりました。下水処理場の高度処理化に伴う水質改善が実現されて、平成18年からの5年間アユの推定遡上数は100〜200万尾前後にまで増えてきていましたが、今回の「東京都島しょ農林水産総合センター」による「多摩川におけるアユ遡上促進の取り組みについて」という発表によれば、平成23年に783万尾、平成24年には1194万尾と、ここ2年は遡上数が急増し、遡上範囲も淺川、秋川、青梅など各地に拡大しているとのことでした。
改善の理由としては、堰における魚道の改善(簡易魚道の設置)や、漁協が行っている産卵場所の造成や砂利の汚れ落としなどの整備、アユの放流事業などがまとまって成果を上げた結果としていました。(注:アユはキュウリウオ科に属し、良質の天然アユにはスイカのような独特の香りがあると言われていますが、現行では中下流域のアユには未だ香りは無く少し泥臭さがあるとも言われ、その点ではまだ江戸前アユの完全復活とは言えないようです。)
忘れてならないことは、アユは1年で生涯を終えますが、その半分近くを海で過ごすことです。晩秋に中下流に下って産卵、孵化した仔魚(約6mm)は直ちに海に流下し、冬季を挟む期間は海の浅瀬(若干のものは河口の汽水域)で過ごし、翌年春から初夏にかけて(8cm程度に)成長した若アユとして群れ遡上してきます。(注:やゝデータは古いですが、新多摩川誌に載っている遡上率(平成2年から6年までの4年間)によれば、遡上率は年により一桁であったり10%を越える年があったりと変動はとても大きいものです。)
東京都島しょ農林水産総合センターによるアユの遡上についての調査報告の類は、かなり前からしばしば聞く機会があるようになりましたが(一般のマスコミでも屡取上げられている)、残念ながら冬場にアユの稚魚がどこでどのように過ごしているのかという、幼魚期の生態解明はあまり進んでいないようで(平成15年の報告以後は殆ど進展がみられない)、空港周囲や城南島等の埋め立て地周辺の浅瀬に居たとか、お台場の海浜公園の浅場で見られたとか言う程度の話になっていて、この一帯に多摩川のアユの仔稚魚(しちぎょ)を養いきれる(ナーサリーグラウンドと呼ばれる)キャパシティーがどの程度あるのか、何が遡上率の決め手になっているのかという方面の究明にもっと力を入れてほしいと思っています。
稚アユは浅瀬でカイアシ類などのプランクトン(ケンミジンコ:水中を浮遊する微小な甲殻類)を食べて育つと言われていますが、かつて大森漁協があった当時の浅い品川湾は全て埋立てられて、その沖の羽田空港先から大井埠頭にかけては大型コンテナ船が行き来する東京港第一航路になっていて水深が深く堀られています。 (多摩川の稚アユの生育場所として、よくお台場の人工干潟が出てきますが、お台場についてはそこに辿り着くまでのルートがあるのかという点に疑問を感じます。城南島までは海老取川を利用することも考えられますが、シラスアユは波打ち際の浅瀬を好むとされ、数キロ沖の深場や直立護岸のような場所には近付かないと言われていますので、空港周りや城南島に出たシラスアユが、その後東京港第一航路を横断して中央防波堤や青海方面に行くとか、京浜運河を通ってお台場沖まで行くというのは中々考えにくく、多摩川のアユの一部がお台場近傍で育つというのが真実であるならば、アユの遡上率を高めるための環境保全や環境整備のためにも、その詳しい往来ルートの解明が待たれることです。(仮にお台場までを範囲に入れたとしても、更に範囲を三枚洲まで広げていくケースでは、荒川や江戸川などに遡上するアユとの区別を明らかにする必要が出てくると思います。)

多摩川のアユは江戸時代には大森の海苔、羽田の蛤と並び賞される荏原郡の名物として知れ渡り、やがて幕府から鮎上納の指令が出るようになり、そのため多摩川の一部を御留め川として、一般の入漁を一定期間にわたって禁止するほどであったという話や、近代に入ってからも皇室が何度も多摩川のアユ漁を見物に来たり、アユ目当ての鵜飼が盛んに行われたなど、近代までの多摩川にはアユの魚影が相当に濃かったことが「新多摩川誌」に詳しく書かれ、同誌には「多摩川鮎の香味が優れていることは、1897年(明治30)ごろに来朝した米国の著名な魚類学者、ジョルダンも賞讃している」という記述もあります。
昨年の推定遡上数が1194万尾だったと聞いても正直それが近世や近代の往時に比べどの程度の復活を意味するのか分りません。何か大雑把でも比較できる材料はないでしょうか。因みに激減した後一進一退を続けていたマハゼも近年汽水域で幾らか釣れるようになってきましたが、それでも数的には昭和30年代初め頃に比べ未だ4乃至5分の1程度といったところではないではないかと思います。アユが盛んに採れた往時には立川や日野辺りには川魚料理店や川遊びの宿が川岸に繁盛していたそうですから、現状はまだまだということかも知れませんが、多摩川に遡上する江戸前のアユが(流通するほどの質にはなっていないとしても)、数量的に激増してきているとすれば、やかり1年しか生きないマハゼと似て、同じ内湾の浅瀬に依拠する魚種だけに不思議という感じが拭えません。(マハゼは繁殖のためには水底に大きな巣穴を作らなければならず、その制約が幼魚期を浅瀬で何とか過ごせればよいアユより厳しいということではないかと想像していますが、マハゼの稚魚も底生生活に移行した後は、東京湾奥に形成される夏場の貧酸素水塊を避けるため、溶存酸素の多い干潟や、河川の下流域で成長し親魚へと成長するものと考えられていて、生態面でアユと似た部分が多く、実際平成12年の調査ではマハゼの仔稚魚は羽田沖、15号地(江東区若洲)、三枚洲(葛西海浜公園沖)などで多く認められたとされています。)

多摩川には六郷橋より上手の(山梨県を除く)領域に5つの河川漁協があり、知事から免許を受けていますが、漁協が免許されているのは漁業法に基づく第5種共同漁業権と呼ばれるもので、対象の魚種について増殖の義務が課されています。(漁業法 第8章 内水面漁業 第127条、第128条、等々)
昭和40年代に下流の水質が極端に悪化してアユが消滅し、またかつての堰には魚道が無かったため堰によって河川が寸断された形になっていたこともあって、漁協によって(堰間の)各地に琵琶湖や宮城など余所から運んだアユが数多く放流されてきました。(昭和50年代の末期頃で上手漁協による放流数は100万尾弱、川崎河川漁協による種苗アユの放流数は5万尾程度)

新多摩川誌の「多摩川の鮎」の項に、多摩川の鮎は石川千代松博士を抜きにしては語れないという歴史が載っています。大正時代の初期、当時の天然遡上鮎は羽村堰を越えることが出来ませんでしたが、動物学者であった石川博士はアユのいない青梅の多摩川に琵琶湖産の小鮎を放流して大成功し、これが以来琵琶湖の小鮎が、河口から稚鮎が上らない全国の河川に放流される始まりとなり、内水面漁業に貢献した石川博士の業績は計り知れないと書かれています。然し後になって琵琶湖産(と称する仕立て)アユを放流することには様々な懸念が指摘されるようになり、その悪弊は既に現実のものとなりつつあるとも聞いていて、近年では琵琶湖産のアユより各県の水産試験場などによる人工産アユの放流が多くなっているようです。
昭和前期頃までの稚アユの放流は、もっぱら漁業者のために行われたものですが、今やおよそアユが釣れるような川では、(各県が河川漁協に義務放流を課し)殆どの川で放流が行われているそうです。自然の河川で釣り人を満足させるために、環境保全の努力を蔑ろにして環境能力以上の放流を繰返し、そのために遊漁料を徴収するという現実は、そうまでして自然をレクリエーションの用に供するべきなのかという点に疑問を感じます。
多摩川でも現在なお何らかの放流が行われていると聞いています。今や水質の改善(特に有機汚染の除去)が進み、これほど多くの江戸前のアユが上流方面まで遡上するようになったのですから、多摩川では(湖産アユに限らず)アユの放流は一切止めるべきだと思いますがどうでしょうか。
上流でもヤマメやイワナの稚魚放流や発眼卵の埋設放流などが行われているようですが、毎年人工的に放流を続けなければそれらの魚種が維持できないということであれば、そもそも河川の生物環境が水産一級のレベレに無いのではないかということになりかねません。外部からの釣り人の乱獲を防止するために制約を設けたことが、今では自然の河川を釣堀化し釣り人を満足させるために放流を繰返し、その費用として遊漁料を徴収するというような逆転現象が起きているように感じられてなりません。都や県が養殖センターなどを介して河川漁協に義務放流を課している可能性もあることで、実態がどのようになっているのかは知りませんが、単純に漁業法だけから解釈すれば第5種共同漁業権で義務付けているのはあくまで資源の増殖を図ることであって、稚魚の放流を義務化している訳ではありません。
およそアユが釣れるような川では、殆どの川で放流が行われていると言われますが、(全国に放流されている種苗アユの総量は1億尾を越える年が続いているとも言われる)、琵琶湖産のアユを放流することには在来種との交雑により天然のアユが悪影響を受ける弊害の他にも、種苗の場合ブラックバスやブルーギルが混じることが避けがたい、湖産稚アユには特に冷水病のキャリアーが多いとされる等々様々な危惧が現実に指摘されていて、単に放流魚について保菌検査を行っているかどうかというだけの単純な問題ではないと思います。
上流方面には未だに骨材の採取が行われている場所があるとか、森林面が安定せず砂泥が渓流に流出する事例があるとか、本当なのかと思わせるような記事を読むことがあります。アユの生育を阻害しないように水源林の整備に注力して水質汚濁の改善を図ったり、河底の状況を改善して餌場の拡張を図ったり産卵に適した環境を整備すること、魚道事情の更なる改良を図りカワウの餌食になる割合を減らすこと等々の対策に努めることで十分増殖の責任は果たせる筈で、各漁協が協力して天然アユの復活により一層努め、往年の多摩川の芳香豊かなアユを蘇らせることに尽力して欲しいと思います。

 
 (補足1) 近世・近代の多摩川のアユ

江戸時代後期の地誌に「四神地名録」というのがあります。著者の古河古松軒は享保11年(1726)備中国(今の岡山県)に生まれた地理学者で、安永4年(1775)山陽路から九州を周回し鹿児島に至る「西遊雑記」を著した後、天明7年(1787)に幕府巡見使に随行し、奥羽から松前藩まで巡行して、蝦夷地やアイヌ民族の状況をも探索した「東遊雑記」を著し、天明8年(1788年)に老中松平定信に献上しました。その後将軍家斉の時代、側用人を経て寛政2年老中となり、松平定信のもとで寛政の改革にとりくんだ戸田氏教(とだうじのり:美濃国大垣藩主)の命を受け、武蔵国の地理を調査、江戸とその周辺地域の名所・旧跡などを詳細に見聞して地誌を編纂し、寛政7年(1795)幕府に呈したのが「四神地名録」です。 (幕府編纂の風土記として昌平坂学問所で編纂が行なわれた有名な「新編武蔵国風土記稿」より30年近く前に書かれた地誌という位置づけになります。)

「四神地名録」には当然荏原郡各地についての詳しい紹介がありますが、真偽不明の伝承のような類には必ずその旨を付記し学者としての立場を鮮明にしています。ところで「武蔵野国荏原郡之記下」の最後に荏原郡についてのまとめのような記述があり、その内容は容赦なく惨憺たるものですが、それでも3大名産に言及していますので、参考のため以下に原文のまま転載しておきます。

「荏原郡は、海浜玉川に添いし村里は田場有りて、風土大概なりと云へども、郡を十分ンとして其二分に至らず。八分ンは岡岳を開きし畑在所にて地所高く、何レの村も高より見れは地面広し。しかれども不益の地、雑林数多にて、土質灰のごとく、五穀に応ぜず。産物は良材・焼木の外は万物不自由、人物言語賤しく、下々の郡といふべし。
 名産品川大森の海苔、玉川鮎、
 羽田蛤、此外ハ他方劣レり。」

ここまで、近世には既に多摩川のアユが、大森の海苔、羽田の蛤と並び称される名物として有名であったことを証明するための一助として、「四神地名録」を引用しました。
以下「新多摩川誌」から引用し、近世・近代の多摩川のアユの事情が良く分る逸話などを幾つか紹介しておきます。(尚、「多摩川誌」は昭和61年に刊行、「新多摩川誌」は平成13年に刊行されています。)

「江戸時代に書かれた地誌『新編武蔵風土記稿』に、多摩川の中・上流域では、鮎を取って幕府に上納したり、また特産品として鮎が売られていたことを述べている。多摩川鮎が天下にその名を知られるようになったのは、江戸時代になってからで、多摩川が江戸という大消費地にもっとも近かったためである。徳川家をはじめ諸大名からの生鮎の需要も多く、それを鮮魚の状態で供給することのできる河川は、多摩川をおいてほかになかった。かくして、鮎が取れる多摩川沿いの村々には、鮎を課役とする上納鮎の制度が定められた。」
「当時の記録によると、幕府からの鮎上納の指令は、流域の農民たちにとって大変に苛酷なものであった。上納鮎の命令は、一定の形をそろえた鮎何匹を何日までにという内容で、生鮎10,000匹を納めるには、少なくとも30,000〜40,000匹の鮎を取って、そのなかから上納に適したものを選びぬかねばならず、農民たちに鮎上納の命令が通達されると、一村を挙げて鮎の数ぞろえに奔走した。
こうした為政者による収奪も、皮肉なことには、一方で多摩川の漁技術の向上を促すことになり、鮎を産する他の河川よりも、多摩川ではさまざまな漁法が発達した。当時、鮎上納のために、多摩川の一部を御留め川として、一般の入漁を一定期間にわたって禁止したり、全川にわたって稚魚の漁獲を禁ずるなど、それなりの漁業資源対策が講じられている。川辺に番所がおかれ、川役人たちが目を光らせて多摩川の漁に規制を加えていた。取れた鮎は川役人のきびしい検閲を経て、鮮度の落ちないうちに鮎飛脚によって甲州街道を通り、一路江戸城目指して直送された。」
「明治になって鮎上納の制度が廃止され、多摩川の鮎漁も一時さびれた。その後、甲武鉄道が開設されるに及んで、多摩川の鮎漁は再び活気を取り戻した。鮎は昔から川魚の中でもっとも人気の高い魚であり、市場ではいつもよい値段で取引きされた。明治のまた鉄道が通じる以前では、多摩川中流の日野や立川、府中あたりで取れた鮎は、その日の夕刻、早速に鮎を新宿の魚問屋に運ぶ便が仕立てられた。」
「経験の豊かな川漁師や釣師たちは、漁をするときには、いつも川の匂いに気を配りながら歩くといわれている。鮎は別名香魚とも呼ばれる香りの優れた川魚で、川魚特有の生臭さがない。これは、鮎が川底の岩に生える水垢と呼ばれる藻類を餌にしているためだといわれている。また多摩川水系の鮎は味がよいといわれるが、それは川の水にも原因していると思われる。全国で鮎の名産地といわれる河川の上流地域は、いずれも石灰質のところが多く、水源から石灰質を含んだ流れがよい水垢を育て、これを食する鮎は味が優れたものになるのだそうで、多摩川上流も石灰質の地層が多く、奥多摩石灰の産出地として知られている。多摩川鮎の香味が優れていることは、1897年(明治30)ごろに来朝した米国の著名な魚類学者、ジョルダンも賞讃している。」

「1753年(宝暦3)、現在の二子玉川付近で、将軍家重御成りの鵜飼による川狩りが行われた。流域一帯の鵜使いや鵜先き30名と鵜20羽が動員され、広い川を網で仕切って水中の鮎を追い寄せ、逃げまどう鮎の群れを目がけて、鵜使いがいっせいに鵜を放って鮎を捕らえたと記録されている。このときの鵜飼も、それまで多摩川で行われていた徒(かち)鵜飼によるもので、10組以上の鵜使いが集団で流れの中の鮎を取り込む様は、舟による優美な鵜飼とは違ったすさまじさにあふれた情景を、多摩川の水面に展開したことであろう。」
「江戸時代の鵜飼は、下流ではいまの二子のあたりから、上流は青梅のあたりまで行われて、支流の秋川では五日市あたりまでと、かなり広範囲にわたる水域で鵜飼が行われていた。」
「時代が移り明治に入ると、社会の変革などの影響で、多摩川の鵜飼は一時影をひそめた。明治の中ごろに至って、甲武鉄道が多摩川の中流にまで通じ、都心からの交通の便が確保されると、川遊びを楽しむ人が大勢訪れるようになり、多摩川は以前にもまして活気を取り戻した。」
「川岸には屋形船が幾艘も並び、立川や日野,府中一帯の水域は、多くの都人士が訪れるようになり、川辺には楼閣が軒を並べて繁盛し、多摩川はいままでにないほどの賑いを見せた。そうした川遊びの客のために、鵜飼漁が行われ、鵜を操る鵜使いたちが実演して見せる、いわば観光鵜飼が行われた。」 「明治の30年代から40年代、それに大正時代にかけての時期は、多摩川で鵜飼がもっともさかんに行われた時代であった。多摩川中流の主だった宿では、たいてい鵜飼を行っていた。そうした宿では川遊びの客に備えて、鶇使いを常傭しており、また宿の主人自ら箱を使うこともあった。」 「屋形舟を流れにこぎ出して、客たちの眼の前で鵜を使った鮎を捕らえ、妙技を披露して川遊びの客を楽しませた。それから取りたての鮎が料理され、船中の客たちに饗された。都会の人々は、こうした一日の清遊に都塵を洗い流し、心ゆくまで多摩川の川遊びを楽しんだ。そのころ、多摩川の水は清く流れ、鮎をはじめとする川魚も豊かで、川遊びの野趣は当時であっても都会に住む人たちにとって、大きな魅力になっていた。」

 
 (補足2) 東京湾の貧酸素水塊と青潮の発生

平成20年度から東京湾と関係する河川の水質環境の把握や汚濁メカニズムを解明するために、毎年夏に、国・自治体・研究機関など多様な主体が共同して、一斉に東京湾及び流域各地において水質調査を実施するようになりました。
平成24年の東京湾水質一斉調査は8月1日を中心とする時期に、官民の150の機関が参加し海域425点河川353点で環境調査が行われましたが、調査結果報告の中で、「本年は、羽田沖を中心として川崎沖から品川沖にかけての海域と千葉港沖に強く貧酸素化した水塊が認められた」と発表しています。
添付図によれば、この範囲で酸素濃度がゼロに近い極端な貧酸素状態は海底上1メートルまでの底層で著しく、中層や表層では特段の貧酸素状態は見られません。
溶存酸素濃度(DO)は水温と反比例し、仮に水温15度の場合の飽和値はおよそ9mg/Lになります。生物に影響が及ぶか否かという水産用水基準では、底生生物の生息状況に変化を起こす臨界濃度は4.3mg/Lとされていて、基準値以下となる場合に貧酸素水と表現されます。
2003年3月海上保安庁は千葉港沖に「千葉灯標」と称する連続自動観測点(センサーが海底から海面までの海中10メートルを昇降して水質を測定するようにしてある)を設置し、海水中の酸素濃度を1時間おきに観測していますが、2012年は9月23から28日まで過去最長になる6日間に渡って貧酸素水塊の上昇があったと発表しました。この間の9月27日9時には海面下1メートルで酸素濃度0.92mg/Lという過去最低となる数値も記録しています。(貧酸素水塊の上昇は起きても通常2日間程度で、従前までの最長記録は2005年10月11日からの4日間でしたが昨年最悪記録が更新されました。)

東京湾の内湾ではしばしば「青潮」が問題にされますが、青潮の発生は夏から秋に掛けての頃が多く、時期的にアユは青潮の被害は受けていないのではないかと思われますが、沿岸部や底生環境に依拠する生物にとって青潮は重大な脅威で、その発生のメカニズムは概ね以下のように考えられています。
東京湾の湾奥には沿岸を埋立てる際海底を掘ったための深い窪地が幾つもあって、こうした場所では潮流の影響を受けにくく、海水が循環しないことが青潮の遠因とされています。夏場に富栄養化によって大量発生したプランクトンの死骸が海底に堆積し、好気性のバクテリアによって分解されますが、窪地では酸素が大量に消費されても周囲からの水交換が行われないため、酸素が補充されないまま貧酸素水塊として留まります。このような嫌気環境になると発酵に頼る腐敗菌によるプランクトンの死骸の腐敗(不完全な分解)が起きるようになり、たんぱく質の腐敗過程では様々な半分解物が生成され、このとき乳酸、ピルビン酸などの有機酸も生じるものと推測されますが、有機酸は硫酸還元菌(嫌気性細菌)の栄養源となるため、次には硫酸還元菌が繁殖し、その呼吸では酸素の代わりに硫酸イオン中の結合酸素が利用されるため硫酸イオンが還元されて硫化水素を生じます。(腐敗によっても硫化水素は生成される) こうして貧酸素水塊は硫化水素を伴う状態になることが多いと考えられます。
東京湾ではまれな気圧配置により夏場や秋口に北東の強風が吹くことがあり、表層の海水が外洋に押し出されるようなケースが起きると、海底側から海水が引き上げられることになりますが、この時、窪地の貧酸素水塊も引き上げられて海面に上昇してきます。海面近くでは酸素濃度が高まりますから、硫化水素の一部が酸化されて酸化硫黄などのコロイドを形成し、これが乳青色を呈するようになることからその一帯が青潮と呼ばれます。青潮は無酸素と硫化水素の両面で周囲の魚介類を死滅させ、青潮の及んだ沿岸一帯では一面が死の海と化すことがあります。

 

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