<参考35>   多摩川の旧流路跡 (川崎側:南流跡)

現在の京急大師線は京急川崎を出ると港町を過ぎるまで多摩川沿いを走りますが、このラインは後に専用線を引き直した際に移動して新設したもので、京浜電気鉄道が開業した当時は路面電車でしたから、当初のルートは川崎大師から真っ直ぐ大師道(明治21年に改修された「大師新道」)上を進んで六郷橋の袂に至るもので、途中(現在ヤマダ電機がある辺り)に一ヶ所だけ「池端」という駅名の停車場を設けていました。
池端という以上は池があったに違いないと思い、明治や大正時代の地図を何枚か調べましたが、近辺に池らしいものは全く認められず、調査対象は江戸時代に遡らざるを得ませんでした。(近代の一時期の地図には現在の競馬場辺りに進出した「富士瓦斯紡績」が掘ったという「蓮池」が載っていますが、停車場からは幾らか離れている上、これは会社の塀に囲まれた敷地内にあるものであり、この程度のものが池端という駅名の対象になったとは考えられません。)
京急が創業当時自前の発電所を作り本社も置いていたのは多摩川河畔の久根崎でした。(川崎宿を構成していた一村で、今の港町に属する辺り。現在信号交差点の名称としてのみその名が残る) 久根崎の南側は中島村ですが、江戸時代の「風土記」の中島村の項には、「相傳ふこの村開けしおこりは、多摩川の中にありし寄洲を追々開墾して村落をなせしかば、村名も中島と呼べりと云・・・」とあり、小名に、蒲原耕地・村の北にあり、蟹田耕地・村の南にあり、とあります。ここで初めて「蒲原耕地」なるものが、かつての多摩川の流路跡に出来た池を起源にするものではないかという推測が浮上してきました。ところが「風土記」には今の競馬場辺りを中心とする堀之内村の項の小名にも、蒲原耕地・村の東中嶋村界を云、とあって何が何だか分らなくなりました。
川崎市高津区に本部がある日本地名研究所は川崎市から依頼され「川崎の町名」という詳細な書籍を編修した実績もあり川崎市の変遷には特に詳しいので、ここに「蒲原耕地」のことを問い合わせてみたところ、蒲原耕地というのは中島村の北だけでなく、競馬場の上手に上蒲原耕地があり、下手には下蒲原耕地があって、その他にも宮前耕地、東ノ越耕地、藤崎耕地等々稲毛神社から大師河原村まで中島村の周りは低地だらけだったことが分りました。
中世まで多摩川の最下流は川崎市の方を流れていたと考える人は多いのですが、江戸時代の風土記などを調べていくと、蒲原耕地(堀の内村のものはカバハラコウチ、中島村のものはカバラコウチと呼ぶらしい)以外にも、(詳細は省きますが)多摩川の川跡(枝流も含む)と称される池や窪地や堤、或いは川に関わる地名や神話などが至る所にあって、この一帯が多摩川の氾濫原だったと考えるのが妥当だという考えに落ち着くからです。
多摩川の流路の変更や確定について家康が関与したとする考えは有力ですが、どこまでのことを行ったのかということに関して定説は無いようです。少なくとも多摩川緑地から六郷橋緑地を廻る大きな湾曲は如何にも不自然であり、実際ここの流路は江戸時代の間に300メートルほど南下し、川崎側で舟場町が失われる一方、六郷側に大きな堆積地が出来た事実は、この流路が暴れ川の洗礼を受けて存続してきた安定流路ではなかったことの証左とも言えます。
江戸時代にはここでも洪水が氾濫し川崎宿は何度も大きなダメージを負っていて、宅地では床上げするなど対策が施されますが、川崎宿を破壊したあとの洪水自身は旧流路跡を辿って海に向った考えるのが自然です。蒲原耕地などは名前は耕地でも実態はガマが生い茂るような水域乃至は湿地のような状態として長く存続し、明治時代まで池のような環境のイメージが継続されていたことで「池端」の地名が残り、それが駅名に採用されたと考えるのが妥当ではないかと思っています。

下に載せた地図は明治前期の測量図をベースにし、地名を囲って見付け易くし、現在に継続する社寺を分り易く明示し、更に位置の目安として現在の国道や鉄道を上書きしたもので、旧流路を推定して記すなどしたものではなく、多摩川の旧流路が議論される場合に屡出てくる諸事について、その配置関係などが分かり易いように、当該地区の参考図として制作したものです。

その下の引用図の出典は、「川崎史話」 小塚光治著 桐光学園教育研究所。「新多摩川誌」には本書からの引用として、[第7編 民族 第2章 口承文芸 第3節 伝説 3.3 下流地域] の中に、「下流地域の資料として,川崎市幸区矢向では,最願寺のご本尊が,白衣の観音像であって,多摩川の川岸に流れつき,夜中に御光を放っていたという.また,同市川崎区砂子では,宗三寺の裏の沼に,大きな亀が住んでいた.ある年の洪水に,この亀がその沼からはい出して,多摩川に入り込むと,その沼がたちまちひ上がったと伝えられる」 (小塚光治(1968):川崎史話,多摩史談会) との記述が掲載されている。(尚本図は原著から複写したが、「新多摩川誌」の資料編に 図 1-5 多摩川の蛇行あと 小林光治・多摩史談会(1965)「川崎史話」中巻 として本図が掲載されていて、そこには下部に「多摩川は〜影響を与えた」の注釈が付記されているため、本図でも表題と共に同文を加筆しておいた。)


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