<参考37>  左岸の六郷橋下流のヨシについて


多摩川の汽水域、とりわけ左岸側では水際の一帯(六郷橋から大師橋までの間)でヨシを見ない場所はなく、ヨシに埋め尽されていると言って過言ではありません。長くこの一帯の植生遷移を見てきて、当地の植生の事情を理解するためには、肝心のヨシそのものに対し、(通り一遍の扱いでなく)もっと踏み込んでみていくことが必要だと感じています。


(1) ヨシの研究は近年から

日本書記などの古い書物には、神武天皇以前の神話時代の日本国土を、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらみずほのくに)と称していて(瑞穂は水穂でイネが実る土地の意)、日本に於けるヨシの存在は相当古いものと考えられます。ヨシは葦簀(よしず) や茅葺の屋根材などとして利用され、古くから人間の生活に密着し人々の身の回りにありました。
野生種であっても、人が関与してきたような種(琵琶湖の例がよく知られる)については、生物学者が研究の題材として取上げたがらないという傾向があるかもしれません。(人為的な交雑が行われていたり栽培種のように扱われたものが、野生種に混在している可能性が否定できないためか) ヨシは歴史は古いものの、その研究はあまり行われてこなかったのではないかと思います。
イネが塩害に弱い(海水の飛沫などにより葉に入ったナトリウムイオンがイオンバランスを崩しイネを枯らしてしまう)ことは台風の都度問題になるほどですから、イネ科の大型種(多年草)であるヨシを、塩湿地の植物種という範疇に加える人は少ないのが実情ですが、実際にはヨシは、海水が入り混じる汽水域にも広く分布しています。

陸上植物は淡水性の緑藻のようなものから進化したため、(海で進化を始めた動物とは異なり)生育上で塩分を必要とする植物は皆無であると読んだ記憶があります。従って汽水域に進出した植物種は、(マングローブに多く見られる)肉厚の葉の液胞に塩分を溜め込み、限界に達すれば黄化した葉を脱落させるなど、それぞれ塩分を処理する何らかの方法を開発し塩分耐性を備えて進出したものと考えられます。

ヨシが一体どのように塩分を処理しているのかについては、以前から様々推測はあったものの、実際にその実態が学術的に解明されたのは、ほんのここ数年つい最近のことです。日本原子力開発機構(中略)植物RIイメージング研究Gが、ナトリウムの同位体(22Na)を用いてナトリウムイオンの追跡を行った結果、イネでは根の導管に入ったナトリウムイオンは水とともに茎に移行し葉に達してしまうのに対し、ヨシでは根茎の導管に吸い込まれたナトリウムイオンは地上茎との境に達するまでにUターンさせられ、師管を通って下降しそのまま体外に排出されていることが立証されました。(2015年発表:農業大学との合同研究)
即ち汽水域程度の塩分濃度の環境では、ヨシの根茎は地上茎から上の茎や葉に塩分を送り込ませないようにする機構を有していることが実証されたのです。このようにヨシは優れた耐塩性を持ち、そのことが汽水域環境に於けるヨシの優位性の一つの根拠ともなっていると思います。


(2) ヨシの「北米型」と「ユーラシア型」

日本ではヨシ属をヨシ一種と考える人もいますが、図鑑ではヨシ属としてヨシ、大型で垂れないセイタカヨシ、匍匐茎を有するツルヨシの3種を載せるのが普通で、ヨシ自身をそれ以上に分解したような分類は見ません。
琵琶湖のヨシは古くから業者によって管理され、簾(すだれ)などの用途に供されてきた経緯から、生育地により弥勒、白口、赤口、皮付き、太ヨシなどの色々な呼び名があるようですが、これらは素材としての価値基準を示す品種名で、植物学的な分類とは無関係だと思います。

一般的にはこのような認識である一方、比較的よく知られた話として、北米のヨシは欧州人の移民に付随して入ってきた新規の外来種と見做されていたところ、後になって北米にもその以前からヨシがあったことが判明したという話があります。つまり欧州から入ってきたヨシは極めて侵略性が強く、水辺環境の在来種を次々に駆逐していったため、新規の外来種と見做されるほど目立つ存在であったのに対し、従来からあったヨシは他種と共存し穏やかに生息していたため、同じヨシであることに気付かなかったということらしいのです。
この2種について、専門家は取り敢えず「北米型」「ユーラシア型」と呼んで区別していますが(亜種扱い)、ヨシの分類は未だ緒に就いたばかりという感じがあり、もっと多くの区分を唱える学者も出てきているようです。

私は六郷のヨシの好き勝手な振舞いに辟易としていますが、ネット上で検索してみても、ヨシについてはヨシ原の効用を述べ、ヨシを大切にしましょうという記事を見るばかりで、釈然としません。そんな中、日本緑化工学会誌 34巻(2008)4号 の中に、「地域性種苗の供給の最前線」という特集記事を見付けました。(著者は千葉大の小林達明教授で、教授が宰する「再生生態学研究室」には、生態的再生とは「劣化した、損傷した、あるいは破壊された生態系の回復を手助けするプロセス」です(生態再生国際学会)、という内容が掲げられています。)
「地域性種苗の供給の最前線」では、種内の多様性に配慮した植物の扱いかたが求められる理論的根拠の中に、ヨシに言及した例示があります。(この学会誌はネット上に公開されているものですから、フェアユースの観点で以下に部分引用させて戴きました。)
「播種緑化では大量の種子を撒布するので、特定の遺伝子型の植物が偏って多くなるなど、在来植物であっても地域の生態系に影響する問題を生ずるおそれがある。それが異なる遺伝子型の集団の場合は遺伝子的圧倒(genetic swamping)と呼ばれ、地域在来の生態系が駆逐される可能性もある。たとえばヨシは北米に在来の種だが、北米の侵略的外来種リストには、ユーラシア型のヨシが掲載されている。これまでの研究結果では、ユーラシア型のヨシが在来ヨシとの交雑無しに北米を優占しつつあるようである。」
この特集記事には上記した他、以下のような記述も見られます。「特定外来生物に指定されている侵略性の強い海浜生多年草スパルティナ・アングリカは、北米産種と欧州産種の交雑種から進化した super hybrid だと言われている。選択では無く、隔離による遺伝的浮動によって分化した種同士を交配すると、そのような雑種強勢が生じる場合がある。同種内の異なる集団同士の交雑によっても、都合よく劣性遺伝子のマスキングが起きたり、親集団の遺伝子座の相互作用が生じたりして、そのような強勢現象が起きる可能性がある。」


(3) 当地のヨシは二通りあるように見える

さて翻ってここからは多摩川汽水域左岸のヨシを見てみることにします。この一帯には今ではほゞ連続してヨシが見られますが、実はこれらは発生起原が明らかに異なると思われる二つの集団(以下下流側のものをA、上流側のものをBと書く)から成っているというのが私の見方です。
近代まで続いた蛇行水路の時代、神奈川側の河港水門の下手辺りから東京側に向かう流路の最初のピーク(流路の反転地点)は南六郷1丁目と本羽田1丁目の境界部辺りにあり、その後神奈川側に向かう流路は川崎大師東門前の辺りで反転し、そこからまた東京側に向かう流路の2度目のピークは大師橋の上り口辺りになっていました。

ヨシ群落Aは本羽田2,3丁目地先で大師橋緑地の主要部に沿う散策路と本流の間にあるヨシ群落を指します。蛇行水路の時代、流路は本羽田1丁目で反転した後、対岸側の東門前で反転し、大師橋の袂に戻ってくるようになっていましたが、この山形の流路に挟まれた恰好になる陸地部分は、氾濫原のような環境で、こうした土地は果樹栽培用地などに供されるケースが多かったのですが、ここの場合にはかなり条件が悪かったようで、有効利用はされずヨシ原になっていたと想像しています。
明治になってこの山形陸地の先端に「大師の渡し」が作られました。(右岸側には大師の早舟と呼ばれた鈴木新田からの直行便の船着場もあり結構賑わっていたいたようですが、大師の渡し自身は作場渡しを兼ねていましたが、利用者は少なく寂れていたようです。) 正蔵院(大師橋の袂にある)から大師の渡しの船着場まで、延々とヨシ群落脇のぬかるんだ道を歩かされることに不平を述べている紀行文を読んだことがあり(原典名は忘れてしまった)、この記事を信じ、この地がヨシ群落であったと想像する根拠にしています。
大正時代中期に始まった下流部全体の直轄改修工事は、洪水流量の順化を図るべく、川幅を定めて堤防を作り、氾濫原を掘削して高水敷を作ることが目的でしたが、その後主として高潮対策のため低水路の改修が始まり、蛇行水路を包絡するように出っ張った土地の掘削除去が行われ、流路は3倍ほどに広げられ直線状になります。この過程で当地の山形の陸地も掘削除去されたのですが、岸側の付け根部分が残された恰好になったため、そこにあったヨシがそのまま継続して今日に至っているとみなされ、ヨシ群落Aの起原は近世に遡るか或はもっと古いものと考えています。

一方、ヨシ群落Bは現代に始まる新しいものです。私が知っているのは(南六郷3丁目の川近くに引っ越してきた)昭和29年からですが、その当時今ヨシ原のある六郷橋下手から六郷水門に至る間にヨシは全くありませんでした。その後中洲が出来、護岸側の水域が干潟に変化していった場所(南六郷3丁目地先)は、その当時は未だ殆ど掘削された時(昭和10年代)のままと思われ、全体が本流と一体化した水域になっていて、時折浚渫船が作業しているところを見ました。河川敷は近隣の住民が隙間無く畑を作っている状況で、埋められた「おわい桶」を注意深く避けて護岸に出てハゼ釣りをしたものです。
私は昭和40年頃に当地を離れ、戻ってきたのは昭和53年頃でその間の経緯は全く見ていません。(しかも戻ってきてから10年ほどの間は仕事に追われていて殆ど川に出ていませんでした。)

昭和10年代に不自然に掘削された区域(東六郷の一部から主として南六郷3丁目の地先一帯)にはやがて堆積が進み、六郷橋の下手にヨシ群落が出来ますが、その頃のことはあまり記憶にありません。従ってヨシBの起原がどのようなものだったのかは知りませんが、多摩川汽水域の高水敷は外来種の植物園のような状態ですから、このヨシが土木工事などに紛れて入ってきて定着し、広がって行ったという経緯で始まった可能性も有り得ると思っています。
やがて南六郷3丁目一帯を中心とする不自然に掘削された区域には堆積が進行する一方、本流の方でも、旧左岸沿いの位置に中洲が出来て発達していきます。伸びた中洲が本流を遮るような恰好になり、本流の澪筋が右岸側(味の素寄り)に確定するにしたがって、中洲から左岸の護岸までの間は本流から半ば切り離されたような状態で干潟に変っていきます。ヨシ群落Bは堆積の進行に乗って拡大しやがて、上手側で掘削された後堆積地となった部分と従前までの高水敷を仕切っていた角地部分の水路が埋まってしまうと、ヨシはその周辺や半湿地のようになった区域に広く展開し、他の湿生植物は駆逐され次々に姿を消していきました。

掘削の切り込みが高水敷を抉った初めにあたる角地部分が埋まってしまった南六郷地先の塩湿地は、上手側での本流との通水が失われ、下手の六郷水門近辺の中洲の切れ目から本流の干満に応じて水が出入りする潟湖の状態となり、角地の線から下流方向に向け上手側は順次泥沼のような状態に変わっていきました。ヨシは完全に排除するためには5メートル以上掘る必要があると言われるほど根茎は長く深いため、このような泥沼化したような半湿地にも率先して進出し、泥沼化した上手側全体を覆ってしまうほど生息範囲を広げました。
干潟の上手側全体の条件悪化(通水性が失われたばかりでなく、悪化した土地の上にヨシ自身が生息範囲を著しく広げたことによる)によって、ヨシ群落本体の左岸向きの部分に、夏枯れが起きるようになったのは当然有り得ることとでした(原因は酸欠だと思います)。
もし私が夏枯れ対策者であれば、泥沼化したような場所を、そこに広がったヨシもろとも、幅50メートル程度の範囲で通して掘削し、掘削を上手の角地まで推し進めて本流から切れ込んできている水路に繋ぎ、まずもって余計なヨシの除去と干潟の通水性の回復を図ったと思いますが、河川事務所の行ったことは、「ヨシは大切」という一心で目先だけの些末な措置にとどまり、期待していた、余分なヨシの大幅な除去や、泥沼化し陸化に進んでいた上手側の区域を掘削して上手側で塩湿地の水路を本流と繋ぐというような大胆な改善とは程遠いものでした。

河川事務所の行った対策がお粗末なものであったことはともかく、ヨシ群落に切れ込みを入れるためにバックホーで掘削した泥を全て護岸添いの干潟に投棄し、護岸沿いの干潟を埋めてしまったことは、逆に事態を悪化させる信じ難い行為でした。
雑色ポンプ所前辺りはまだ満潮時には水位を生じる潟湖の最奥部にあり、この水路がバリアになって(ヨシは葉が長時間水没するような環境を嫌う)ヨシは護岸側には届かない状態でしたが、この工事によって護岸沿いにヨシの根茎が大量に持ち込まれてしまい、その後護岸沿いにもヨシが急速に拡張していくことになります。護岸縁は鬱蒼となり、大田区ではこれほどの群落はここ以外では見られないと言われていたフトイの群落がヨシに覆われて消滅してしまうなど、水辺の荒れ方は年を追って激しくなっていきました。


(4) 当地の変貌を決定付けた2007年

上記した工事が行われたのは2007年のことですが、2007年は他にも2件忘れられないことが起きた年でした。

先ず中洲の全面緑化があります。中洲は六郷橋緑地の本流側水路内(南六郷沖の旧左岸沿い)に発達を続け、この年までに上手のヨシ原と下手の六郷水門をほゞ繋ぎ(それぞれに切れ目はあった)、本流に対し新たな左岸が形成されたと言うに近い大きさになっていましたが、それまで土の表面だった中洲がこの年の夏に全域で一斉に緑化しました。
この2年前に中洲の中央部分の一画にヨシが現れ(上手のヨシ原からの種子が着床し発芽したものと思われる)、サークル状に5〜6箇所で隣接する不思議な形で生育を始めました。それから2年の間に中洲の全域に地下茎を張り巡らせていたのでしょうか、2007年になって突然島の全域にくまなく発芽が見られ、密集して伸びた草の姿は、護岸からの遠目にはクサヨシのように柔らかい華奢な感じに見えるものでした。
9月と10月の2回決断し、大潮の干潮時を狙って泥が比較的に浅めだった六郷水門寄りで干潟を渡り緑化の実際を見てきました。背丈1メートル弱程度で密集して生えていたのはヨシでした。ただし私が短時間に見て歩いた下手側ではウシオハナツメクサが地面をびっしりと覆い、特に中洲全体の 1/10 程度にあたる下手側の端部分はイセウキヤガラで埋め尽くされていました。中洲の全体で埋土種子が一斉に発芽したものと思われ、ヒメガマなどの近在する種に止まらず、この辺では見たことの無いヌマカヤツリの大きな株が散見されるなど、あちこちに様々な種類の草種が入乱れ、正に百花繚乱の有様でした。(専門家が見れば数百種を数えたのではないかと思われます。)
草本は湿生種ばかりではなく、高水敷程度の乾燥地に見られる種も多く混じり、例えばハルシャギクがかたまって咲いているなど全体に季節感が全くない異様な雰囲気の状況でした。然しこの状態はこの年だけのことで、翌年には水際に僅かにイセウキヤガラが残っただけで(これもその後消滅する)、島内の全域はヨシに制圧されヨシ一色に変わりました。

(近年では干潟の泥が荒くなったのか、乾燥が進んだのか、中洲に渡るのは決死の覚悟で、というほどではなくなりました。一斉緑化が起きてから数年経った頃、上手側のヨシ原から堆積地に出て、中洲の本流側を六郷水門まで通しで歩いて様子を見てきました。中洲は文句の付けようのない若い立派なヨシ群落でしたが、他の植物が皆無だったばかりでなく、地面にカニやタニシのような小動物も一切目にしませんでした。)


2007年のもう一つの大きな出来事は本羽田1丁目のイセウキヤガラの大群落の中央部に突如ヨシが出現したことでした。

ここは蛇行水路時代に流路が反転する頂点になっていた場所ですが、本流の澪筋が右岸寄りに通されてからは滞留部のようになって浅瀬化し、やがて干潟になってイセウキヤガラの大群落が形成されていました。(ここのイセウキヤガラは純粋種とは異なるのではないか、という専門家筋の議論がありますが、この際ここではその指摘だけに止めます。)

この界隈は長閑(のどか)でこの大群落の景観は多摩川汽水域最大の見せ場でもありました。ここは川下側のヨシ群落Aとは左程離れておらず、もしAが侵略的であれば早々と侵されていてもおかしくはなかった所ですが、長年そうしたことは無く、周囲にはシオクグも群落をつくり、特別に低くなっていた低水護岸の周りにはウシオハナツメクサを始め多様な湿生植物が見られました。
(低水護岸の陸側一帯はウラギクが十分生育できる環境で、飛んできた種子が発芽し花を咲かせている時もありました。大師橋緑地の上手にあたるこの周辺にはグランドなどは無かったのですが、護岸上の高水敷は大師橋緑地と一体で、毎年秋に除草車が入り護岸縁まで刈ってしまうため、ウラギクは開花まで行ければ運が良い方で、綿帽子を作る前までには確実に刈取られてしまうため翌年に引き継がれることはありませんでした。)

2007年6月、当地のイセウキヤガラの群落の中に一カ所、ヨシが定着し背丈を伸ばしてきたことでその存在に気が付きました。ヨシ群落Bは2年前に上手側の中洲に現れていますが、それとは別に六郷水門水路が本流に出ていく地点の両脇に小山のようなヨシ島を作るまでになっていて、そこからであれば(地下茎を伸ばしてくるほどではないものの)成熟したヨシBとイセウキヤガラの群落との距離はかなり近くなってきていました。
ヨシは地下茎を伸ばして広がるのが主で、種子を飛ばして生息範囲を広げるケースは稀と聞いています。然し実際にヨシBは東六郷の群落から南六郷の中洲に飛び、六郷水門水路に飛んでいますから、この度はそこから遂に本羽田1丁目のイセウキヤガラの干潟に飛んできたと見做さざるを得ません。

このヨシを放置すればどういうことになるかは、それまで上流側の様子を見てきて明らかでしたので、当地の貴重な雰囲気を維持し、従来までの生態系を保持していくためには、このヨシの駆除は必須と考えざるを得ませんでした。自然を守る会の代表に事の次第を報告し、このヨシを駆除するよう河川事務所に意見具申を行いました。然し結果的にこの意見が取上げられることはなく、「河川事務所が行うのは堤防敷の除草のみである」というような返答があったと記憶しています。(この言葉がこの時の返答だったかは定かに覚えていませんが、似たようなケースでこのように言われたことははっきり記憶しています。)
イセウキヤガラは晩秋から冬場は地上部は完全に消滅してしまいますから、冬場も残るヨシを見付け駆除することはそれほど困難な作業とは思えません。このような容易なことさえも行わないのであれば、河川事務所が生態系保持云々を標榜する真意が分かりません。(今振返って見れば、この時期が一帯の二次遷移を遅らせ、汽水域左岸親水部の健全性を維持する最後の機会だったのですが、管理者が何一つ行わなかったことは大変悔やまれます。)
この後当地のイセウキヤガラ群落は予想通りヨシに蹂躙されることになりましたが、当地の無残な荒れ方は当初の想像を遙かに超えるものでした。干潟の中央部は広大なヨシ群落となり、ヨシは直に護岸縁にまで達し、イセウキヤガラは往時の大半を失っていきました。2017年の現状ではイセウキヤガラは未だ絶滅は免れ、ヨシの上手側に存続してはいるものの、年々圧迫され、一部は護岸下に沿って六郷ポンプ所方面に逃げ延びています。
護岸上もヨシが上がった結果状況は一変し、ウシオハナツメクサなどは早々と消滅しましたが、その後護岸上はヨシに限らずホウキギクなど様々な種類が丈を争う競合地(正に草刈場)と化し、人の背丈を超える藪の繁茂で堤防下の側から護岸縁までは、容易には出られない状況となり、護岸上の通行も不可能になりました。


(5) 本羽田1丁目と2・3丁目のヨシの現状

ここ10年余りの間に、六郷橋から大師橋までの左岸側一帯の親水部の景観は大きく様変わりしました。六郷橋緑地地先の干潟では、例年夏場にカルガモが百羽程度は繁殖していましたが、昨今(2017〜2018頃)ではカルガモはもう殆ど姿を見なくなりました。雑色ポンプ所前辺りにフトイの群落があった当時、そこを住処にトビハゼやアシハラガニが居て、潮の干満に応じたトビハゼの挙動を観察する楽しみがありました。干潟にはヤマトオサガニやチゴガニなども居ましたが、今日目にするのは投棄された巨大ゴミと薄汚れたヨシの塊りでしかありません。
こうなる前までは南六郷地先の護岸上は通行出来て、フトイに限らず、大きなヒメガマ群落と護岸の間には干満に応じて水が行き来する1〜2メートルほどの幅があり、そこを泳ぐバンの幼鳥を見掛けるなどしたものです。2007年ヨシが護岸に持ち込まれて以後一帯は急速に藪化し、護岸を隔てた水路は全て埋まって、干潟はゴミの投棄場ともなり、親水部の全体が藪化したことで護岸上の通行も困難な場所が多くなりました。

本羽田1丁目の干潟環境も大きく変わり、当地に独特だった長閑な雰囲気はもう跡形もなく、かつての魅力を失って以後、ここで憩う人影を見なくなりました。この地の凄まじい荒れ具合からみて、私はこの地点のヨシは上手側からのヨシBの飛来侵出だったと確信するに至りました。
一方ヨシAは群落の中にHLは殆ど居ませんでしたが、近隣の住民らしき人達がヨシ群落の中に勝手にゴルフ場を作ったり、耕作地や花畑を作るなどしていて、火災も頻発するなど人為的な荒らしがひどい状態でした。ヨシ以外には小道沿いにクサイを見る程度でしたが、2015年6月に不思議な光景を見ました。
ヨシ群落Aのあるこの範囲の本流際は、水域編入の時に掘削されたままの状態で護岸処理は施されておらず、数カ所で高水敷から細道を通って水際に出ることは出来るものの、岸辺を通して通行することは出来ませんでした。
本羽田3丁目の大師橋緑地終点の端からヨシ原に入って岸辺に出、本流際を下手に向かうとやがて大師橋上手の干潟に出られます。干潟に出るところの小道は干潮時以外には冠水して通行できませんが、大師橋上手の干潟の一部にトビハゼが棲息していたため、その写真を撮るために2006年頃は何度かこの道を通っていました。この辺りにはヨシ以外には何も無く(松の木が2,3本あった)、その後はご無沙汰でしたが、偶々2015年に久し振りにこの小道に出て見ると、干潟に出る直前の小道の両脇に若々しいシオクグが連なって茂っていました。背後のヨシがヨシBであれば考えられないような光景ですから、ヨシAである当地ではどうなることか興味があって翌2016年8月にも見に行きました。季節的なこともあってか全体に茫々とした感じにはなりましたが、背後のヨシに食い潰されるというようなことはなく、依然としてシオクグは茂っていました。
2016年からか2017年からか定かではありませんが、河川事務所はこの区域のヨシを保護する手段として、河川敷側からヨシ群落に入れそうな場所全てに柵の設置を始めました。やがて人の通行が無くなった小道はヨシで覆われて、全ての小道はヨシ群落に埋没し、河川敷から水辺に出る方法は全く無くなってしまいました。2017年も早いうちなら干潮時に何とか行けたかも知れませんが、秋にはもうヨシ群落に分け入る方法は完全に無くなり、あのシオクグがどうなったのか確かめる術はありませんでした。
個人的な印象としては、ヨシBが南六郷を下り、中洲の末端や六郷水門水路の出口に達した以後になって、本羽田1丁目のイセウキヤガラ群落にヨシが飛んできたこと、或は上記した小道でヨシAがシオクグと共生しているかに見えたことなどから、ヨシAを正常とすればヨシBはこれとは異なり侵略性が極めて高い別種(植物分類上の厳密な意味の種では無く)ではないかという気がしています。


(6) ヨシの夏枯れ対策の顛末

2006年に(財)河川環境総合研究所の報告書12号の4に「多摩川における生態系保持空間の管理保全方策について」なる章が掲載され、この中で六郷地区から河口までの範囲(河口域)についても扱われました。過去の経緯をくだくだと述べた後、六郷についてヨシの夏枯れ対策を行うべきとしていました。ヨシが過熱して酸欠を起こしているという見立ては、至極尤もでしたが、対策を考える上で肝心なのは、どうしてヨシが加熱するに至ったのかという点を解析することにあります。これを「ヨシ過熟対策については、その原因・対策手法は不明瞭である」と一言で片付けてしまい、その一方で、通り一遍の手法(安定的に推移してきたヨシ原が何らかの原因で攪乱を生じた場合などに講じられる手だて)を述べ、この適用を試験すべきとしました。

然し、極論すればヨシBは安定的であった時期はありません。長くヨシ原の中心辺りにあった送電鉄塔は、かつて蛇行水路時代に左岸の岸近くに建てられたものですが、その後周囲が掘削されて鉄塔区域は一時島状になり、その後の堆積によって周囲にヨシ原が生まれることになりました。
今でも六郷橋の近くで河川敷からヨシ原の方向に下りていくと、一寸足を滑らせると、靴で削られた表面の下から真っ黒な地面が露出するような場所によく出会います。黒いのは硫化鉄ですが、海水には硫酸イオンが多く含まれていて、有機酸を含む土壌が酸欠になると嫌気性細菌が働いて、呼吸の受け皿として遊離酸素の代りに硫酸イオン中の酸素を使います。その結果硫酸イオンは還元されて硫化水素を生じ、これが土に含まれる鉄と化合して硫化鉄となります。つまり表層下に見られる黒色は、その土壌が嫌気化(貧酸素化)していることの表徴です。この辺りの堆積は台風などによる洪水時に上流方面から流されてくる土砂によるもので、有機酸汚染の原因は分かりませんが、堆積土は主にシルトなどの粒形が細かい泥で形成されていて通気性は悪く、表層の下は貧酸素状態で、生物にとって好ましい環境ではないと想像されます。
ヨシは長い根茎で凌いでいたのでしょうが、この地から本流に洗われる方面に広がって行ったのは当然でした。然し一方では通水性が遮断されたあとの、泥沼化したような場所でも、正に独壇場となって進出し続け、広範囲に生息範囲を拡大していきました。ヨシ原全体として見れば、悪条件下での護岸側への拡大は無謀であり、酸欠を起こすことは当然の結果のように見えます。現場がこのような状態なのに、何故「原因は不明」なのか、不明なのにどうして対策が決まってくるのか、前記した報告書の指示内容は、肝心の現地の状況に基づかず、「ヨシが大切、ヨシは絶対」という観念から抜け出せないままに書かれたものとしか考えられません。
この報告が出たことで河川事務所は南六郷の干潟(雑色ポンプ所の上手辺り)に小型のバックホーを持ち込み、潟湖のようになった塩沼地の終点近辺に広がったヨシ群落に溝を掘り込んだり、導水路と称して水路を掘ったりしましたが、ヨシ群落を掻き回したこの泥を全て護岸側の干潟に投棄し、結果的に今までヨシから免れていた護岸側にもヨシを撒き散らすことになりました。(このことについては既に上の方で言及しています。)


(7) 六郷地区の自然再生計画を考える

河川事務所は当地区に於いても「生態系保持」という言葉を多用しますが、意味不鮮明と言わざるを得ません。生態系の対象として、昭和40〜50年頃の植生を引き合いに出すことが多いように思いますが、その頃の生態系を保持するということならそれは不可能です。
多摩川の汽水域は近代以降、原風景を全く留めない程に自然が改変されてきた地域であり、その後という時期、植生の二次遷移(主として湿生遷移)が進行していく過程の最中に、それを(人手・予算の工面や維持するための些かの決意もなく)押しとどめることなど常識的には考えられません。
実際「生態系保持空間」で彼らのしていることは、二次遷移に従って水辺がとめどなく荒れていく様をただ見ているだけです。とすれば彼らの言う「生態系保持」の意味は、そこに人工物を作ったり開発行為を行ったりしないという程度の意味と思いますが、それならばもっと現実に沿った平易な表現を用いるべきで、「生態系保持」などという不相応な大言壮語を用いることで混乱を誘引し、2007年のような事件を起こしてしまう一因にもなっていると思います。

六郷地区では自然再生計画が何度か俎上に上り掛けたことがあります。限定的な地域に対して植生環境の改善を図ろうとすることはそれなりに意義があります。ただその場合には「生態系保持空間」という偽装的な管理区分を廃し、素直になって現状やこの間の経緯を正しく理解することから始め、そこに基づき、住民も巻き込むような形で、持続性が見込まれる全体像を考えることが肝要です。
蛇行水路を大拡幅して直線化を図り、河口による水路の開放を妨げて延々と河口延長水路を築くなど、既に広範囲に地形を含めた改変が行われている訳ですから、局部的な範囲に於いて二次遷移を戻し、かつての姿を再生することなど不可能です。ただ出来る範囲で環境を整備しようとする気持ちならやれることがあるかも知れません。(15年程度前の頃だったら、未だ色々な選択肢があったと思うと残念ですが・・・)
右岸側で六郷の橋梁群地区の洪水対策が検討されているようですが、4本もの橋梁(内3本は鉄道)が走る場所で堤防の改変強化を図ることは現実的には不可能と考えざるを得ません。きつい湾曲部で洪水の圧力を和らげることが精々で、そのためには低水路の中に何らかの緩衝措置を工夫するしかないでしょう。堤防法尻から続く低水路に長く強固な制御帯を設置すれば、断面積は大きく損なわれますから、低水路の幅を確保するためには、右岸側で減ずる分を左岸側の高水敷を掘削することで帳尻合わせを行うしかありません。つまり主要な対象は右岸側の強化ですが、工事の全体像としては、左岸側も影響は必至と思われます。そこでこの工事時期の機会に、また自然再生の議論が浮上してくる可能性があります。
これまでの何回かあったケースで見た河川事務所の案は、いずれも基本的な認識を含めて理解し難く、到底納得のいかないものでした。そこで今回は、(当局の目的は分かりませんが)敢えて早いこの時期(2018年)に提言めいたものを書きました。

この文章の要点は、多摩川の汽水域で植生の状況改善を考える場合、先ずもって現状のヨシについて分析を行う必要があるということです。「北米型」と「ユーラシア型」の違いは必ずしも遺伝子解析を行わなくても、外観の観察で分かるとする記述を見たことがあります。河川環境総合研究所には、いつまでもヨシ原の効用を述べたり過去の植生分布を振返ったりする御座成りな報告書ではなく、もっと真剣に専門性を生かし、先ず汽水域のあちこちにあるヨシにどのような特徴或は差異があるのか、現実的に必要な事柄の解明に注力した報告を期待しています。
もはや手遅れの感は否めないというのが正直な想いですが、六郷のヨシがもし極めて侵略性の強いヨシであることが確認された場合には、ヨシとその他の湿生植物を近接させるような配置は無責任ということになります。自然再生の結果を "お遊び" に終わらせないためには、ヨシの影響を如何にして遮るかという観点を基本にした案を工夫しなければなりません。いかなる形のものになろうとも(地元でボランティアを募集するなどの手段も含め)改修された区域について不断に努力し維持管理する体制を整備することは必須で、そうでなければ到底永続性は望めないでしょう。


最後にアイアシとウラギクについて若干の補足をしておきます。

東六郷のヨシ群落、本羽田2,3丁目のヨシ群落、右岸側殿町のヨシ群落などいずれの群落にもアイアシが混在しています。(年数の浅い南六郷3丁目地先中洲のヨシ、本羽田1丁目地先干潟のヨシには未だアイアシは無いと思います。) 六郷のヨシ原では、早くから堆積が進み陸化に近づいたような場所では、広範囲にヨシがアイアシに置き換わっている範囲が認められます。アイアシも侵略的でヨシと競っても力に遜色は無く、ヨシより僅かに乾燥側を適地とするため、堆積や侵食の事情に応じた水位の変動に対応して、前線でヨシと領域の攻防を展開しています。ヨシが他の湿生植物を蹂躙する力は凄まじいものですが、ウラギクやシオクグなどの適地はアイアシと同じ高さであるためか、蹴散らされたウラギクやシオクグの断片に最終的に引導を渡しているのはアイアシである場合が多く見られることは知っておくべきでしょう。

ウラギクは図鑑などでは「越年性の一年草」とされているのが普通ですが、私が10年ほど見てきた限りでは、「可変性二年草」となる機能を併せ持った一年草とするのが正しいと思います。(尤も私が見てきたウラギクは必ずしも純粋に自生していたものばかりではありませんから、絶対という積りはありません。) 通常10月中旬から下旬にかかる頃に開花し、一か月くらい掛けて綿帽子を作ります。11月下旬頃に種子の撒布が始まりますが、近場に着床した種子の発芽は早く、12月中に双葉を開くケースが多いです。(翌年になって発芽というケースも当然あると思います。)この限りでは一年草です。
ウラギクは攪乱があったような土地にいち早く進出する二次遷移の先発隊の一種と思います。この性質は逆に言えば、新天地に飛んだ種子ほど元気に育つ反面、直下に落ちた種子は発芽し開花まで行くものの、同じ場所で年数を重ねると次第に生育が悪くなります。この理由が「厭地」(いやち:連作障害における微量要素の欠乏症など)なのか、「アレパシー」(他の植物の生長を抑える物質を放出する)の影響を自らが受けるようになる結果なのかなど、具体的な理由は分かりませんが、同じ場所で世代交代を繰り返していると、開花の時期にロゼット状態でいる株を多く見掛けるようになります。茎葉が成長する春以降ではもう区別しにくくなりますが、冬場の実生発芽の時期には、小さな双葉の苗に混じって大きなロゼットは目立ちますから、ロゼット存在の多少はこの時期によく分かります。
ウラギクを育成するためには、領域を限定して密集させて育てるのではなく、種子が散っていける余地のある環境を用意することが大切です。

 (以上)

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