<参考9>  沿川村の飛び地


矢野口の多摩川原橋から下流の多摩川流路が、現在では東京都と神奈川県の境界になっている。しかし、明治45年の府県境界変更が行われる以前の境界は左右岸に錯綜(さくそう)し、かなり複雑な形態を示していた。つまり東京・神奈川両府県の管轄下にある地籍が流路の左右に飛地として点在し、そのために府県間の境界が必ずしも流路と一致しないという状況であった。こうした飛地の形成は洪水ごとに繰り返される多摩川流路の変遷によるものである。
明治43年洪水はほぼ全川にわたって破堤・氾濫を出現し、明治期最大の水害になったが、当時はまだ洪水防御を目的とした河川改修が本格的に進められる以前であり、無堤部や規模の小さい旧堤が散在していた.この大水害は明治40年の水害とともに,多摩川改修運動を再燃させる契機となり,一方では錯綜する府県境界の変更問題を登場させる要因ともなった。ただし、府県境界変更問題を提起した当事者にとっては,多摩川改修運動の一環として認識されており、府県間の境界を流路に従って変更することが根本的な治水策を講ずる前提であると位置づけられている。すなわち、飛地が介在することにより、その間が無堤部であったり、あるいは築堤が不十分であるといった治水上の不統一をまずは処理する必要があるとの考え方である。
明治44年1月、「多摩川治水河身改修国庫支弁に関する請願書」と機を同じくして、添田知義をはじめ稲田・橘・高津・中原・御幸・大師河原の5力村民代表129名より、「東京府神奈川県町村区域変更に関する請願書」が内務大臣及び貴衆両院議長に提出された。この請願は,明治44年の第27帝国議会で報告され、貴族院で可決採択されたものの、衆議院では政党間の関係及び府下郡部選出議員の反対などにより、結局採択されなかった。しかし、翌45年1月27日、開催中の第28帝国議会において、内務省は突如貴族院に次のような「東京府神奈川県境変更に関する法律案」を提出した。
「東京府神奈川県境変更に関する法律案」は、(四) 東京府荏原郡調布村大字下沼部の内、大字嶺の内、大字原の内、六郷村大字古川の内、多摩川以南を神奈川県橘樹郡御幸村に編入す、(五) 東京府荏原郡六郷村大字八幡塚の内、多摩川以南を神奈川県橘樹郡川崎町に編入す、(六) 東京府荏原郡羽田町大字羽田の内、大字羽田猟師の内、大字鈴木新田の内、多摩川以南を神奈川県橘樹郡大師河原村に編入す、(十) 神奈川県橘樹郡中原村大字小杉の内、多摩川以北を東京府荏原郡調布村に編入す、(十一) 神奈川県橘樹郡御幸村大字下平間の内、大字中丸子の内、多摩川以北を東京府荏原郡矢口村に編入す、(十二) 神奈川県橘樹郡御幸村大字小向の内、多摩川以北を東京府荏原郡六郷村に編入す、など東京府神奈川県の境界を合計12箇所について変更するように定めている。この「東京府神奈川県境界変更に関する法律」は原案どおり可決され、明治45年4月1日を期して施行された。
 (注:六郷川の範囲より上手側についての部分を省略した。)

 [参考集・目次]