第五部 六郷の橋梁群 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その1 JR六郷橋梁


六郷川は六郷の橋梁群を中心とする2キロメートル余りの間で、南西から北東に左回りにほぼ180度向きを変える。この区間では内側に広大な緑地が出来る反面、外側になる右岸の側では高水敷が消滅している。橋梁群のある前後が川道湾曲の頂部にあたり、右岸の側では不断に流水圧を受けて川岸が侵食され、江戸時代の間に水路は数百メートルも南下したもようである。
京急線鉄橋過ぎから河港水門までの区間は、低水護岸が堤防法尻(のりじり)までコンクリートで固められ、堤防の表面も全面に高水護岸が施されている。堤防の強固な造りは河港水門までだが、堤防法面(のりめん)の強化構造は水門を渡った先にも引継がれている。  (JR六郷橋梁の歴史については [参考5] を参照

JR鉄橋の川上側数百メートル(堀川町地先:テクノピア前)の堤防は、川表(おもて)の法面が [No.513] に一部写っているように、赤レンガ造りの階段構造になっている。
ここは川裏にテクノピアができる前、明治製糖(旧横浜精糖)が荷揚場として使用していた所で、以前の面影を残すように配慮して改修工事が行われたため、堤防が昔の風情を留め落着いた雰囲気になっている。

赤レンガ堤防の上手には、震災発生時に緊急水運を行えるようにするための非常用船着場が作られている。([No.511][No.512][No.520])  この船着場は地震などで陸路を断たれたような緊急時に、水路で物資を輸送出来るようにした非常用。(一時期東京港方面に行く夏季限定の水上バスがこの辺で発着していたことがある。)
[No.512] は、緊急時船着場から川上側の逆S字流路を遠望したもので、右手が多摩川緑地、左手が戸手から小向方面になる。川筋は見えないが、右端のビルがトミンタワーだから、蛇行した流路はそこまで食込んでいることになる。中央に見えるビル(川崎総合科学高校:[No.313] 参照)が多摩川大橋の南詰にあたる。

赤レンガの階段は緊急用船着場からJR鉄橋(京浜東北線)の袂(たもと)まで数百メートル続いている。[No.513] は船着場から鉄橋方向に 100〜200メートルほど進んだ辺りである。([No.516] を撮ったところが終点位置にあたる。)
(尚ここと同じ時期に左岸でも、多摩川大橋の下手に同じ目的の船着場が作られた。そちらは高水敷に幅があるところで、低水護岸縁にコンクリートを敷いた平易なものになっている。[No.314] に写っている。)

写真の表題に「都鳥」と書いているのはユリカモメのこと。ユリカモメはカモメ科の小ぶりなカモメで小魚を主食にする。「伊勢物語」で在原業平が都鳥と呼び、都の鳥に指定されているのはこのユリカモメ。
一方ユリカモメとは別に、チドリ目にミヤコドリ科というのがあり、学名でミヤコドリというのはそちらの鳥をさす。腹側が白く、足と口ばしが赤いところはユリカモメに似ているが、やゝ大きく、獰猛な感じがする顔つきで、頭から背中まで黒く、くちばしは長くて上下に平たく先が鋭い。この本家ミヤコドリは北欧やカムチャッカ方面で繁殖し、日本には主に西日本に飛来する。古来よりその特徴は把握されていて、浜辺では専ら餌(二枚貝など干潟の小動物)探しに没頭し、あまり飛び回らないなど、ユリカモメと紛らわしい雰囲気の鳥ではないようだ。(最近東京湾でも三番瀬などで越冬するものが増えたといわれる。)

ここから更に川下へということになると、橋梁群を潜りぬけ六郷橋の袂まで辿り着く川沿いの堤防敷は道無き道、歩行者なら何とか行き着けるという状況で、川岸を通行することは全く考慮されていないのが実情だ。(次のページで参考写真 [No.528] として川岸沿いの通行障害の様子を示している。)

左岸から自転車で六郷橋を渡ってこの赤レンガの場所に来るためには、六郷橋を渡った所ですぐ河原に出てしまってはダメ。
六郷橋を渡ったら第一京浜国道から離れ、右折気味にそのまま旧東海道を直進する。150メートル行くと府中街道に行き当たる。(この辺りが川崎宿の中心で新宿と呼ばれていた所) 交差点の右手前角に稲荷横丁があり、奥に川崎稲荷の社がある。(社殿は戦災で消失し、現在のものは戦後再建されたもの。川崎稲荷は平野順治氏の「消え行く筏道」で、右岸側の ”筏道” の基点とされている地点。)
府中街道に出たら渡らずに右折して、府中街道に沿う歩道を400メートルほど進むと、(京急大師線を渡り、京急本線、JRの高架を順に潜り抜け)、自然に赤レンガの堤防上に出るようになっている。(この行き方で川岸沿いの通行障害は迂回できる。)

[No.515]は一転して左岸の堤防上、緑地管理事務所の建物がある前での夕景。(右岸の堤防からここまで500メートルほどの距離がある。写真の正面は多摩川緑地の東端で、右端の細長いビルは遥か川向こうの川崎市役所第3庁舎が見えている。)

六郷の橋梁群は厳密に言うと5つの橋から成っている。川上側からJR京浜東北線、JR東海道本線、京急電鉄線、六郷橋(第一京浜国道上り線、下り線)の順に並ぶ。
JRの2本の橋は完全に独立しているが、構造的には極めてよく似た作りになっている。川崎側の流水部上は3連のトラス橋で、東京側の河川敷を渡る部分(避溢橋)はコンクリート桁橋になっている。六郷橋とJRの中間にある京急電鉄線の多摩川橋は、全径間に亘る連続トラス構造で、純粋な鉄橋である。3本の鉄道橋はいずれも昭和40年代に竣工した。
六郷橋(第一京浜国道)は独立して作られた2つの橋から成っている。先ず上り橋を作って昭和59年(1984)3月に暫定的に供用を開始し、その後旧六郷橋を解体撤去して、上り橋に隣接する位置に下り橋を作った(昭和62年11月竣工)。橋の上から見れば普通の6車線道路と見えるが、下(河川敷)から見れば橋脚がそれぞれ独立のもので、双方の橋の合わせ目が隙いているなどのことがよく分かる。

徳川幕府が大政を奉還、天皇が江戸に行幸し、年号が改まった明治元年、多摩川では青梅の万年橋より下流に永久橋は1本もなかったが、明治初期に六郷に道路橋(左内橋)が出来る前、多摩川に真っ先に出来た永久橋は官設鉄道専用橋だった。

江戸時代中期以降、青梅より下流の多摩川で、最初に架けられた永久橋となったこの鉄道橋は、全長624メートルあったという。(流水部115m+陸橋509m) 流水部は檜材をラティス形に組んだトラス構造で、橋脚は松丸太にクインポスト(対束)の支柱を附加した独特な外観の木橋だった。しかし木製とはいえ "避溢(ひいつ)橋" (川が増水し水路から氾濫した場合を想定して陸地に架ける橋)を連結し、500メートルを超える川幅全体を跨ぐ橋を架けたのは初めてのことで、それまでの橋がただ流水部を越えるためだけのものとして、100〜200メートル程度の長さの橋を河原に作っていたことを考えると、初代の鉄道橋は六郷川の架橋史に於いて画期的なものだったといえる。

初代の木製鉄道橋は橋脚が腐朽して5年しかもたず、明治10年には全長500メートルの鉄橋(トラスは英国製)に架け替えられた。流水部は錬鉄製のポニー・ワーレントラス6連から成り、上路鈑桁24連から成る避溢橋を連結していた。
その後は明治45年に架け替えられて3代目(流水部のみトラス)となり、昭和40年代には現在の4代目に代わるが、この時期に国鉄の第三次長期計画が開始され、東海道線は東京から小田原までが複々線化されることとなり、本線と京浜線はそれぞれの橋を持つことになった。(京浜東北線多摩川橋はS42、東海道本線六郷川橋梁はS46に竣工している。)

官設鉄道は初期には鉄道院の路線ということで院線と呼ばれたらしいが、その後鉄道院が鉄道省に変わって省線という呼名が一般的になった。私が記憶している時期には、「省線」は国有鉄道一般ではなく、電車(後のE電)を対象とした意味で使われていたが、"E電"はあまり普及せず、いつしか国電と呼ばれるようになった。

国電が未だ省線と呼ばれていた時代、通勤電車はブドウ色というのかこげ茶色というのか、そんな戦時色を留めていた時代、沼津(伊東)行きの湘南電車(昭和25年に開業)は、既に今と同じオレンジとグリーンのツートーンカラーに塗られていた。(カラーリングはアメリカのグレートノーザン鉄道を模したものと言われるが、沿線や伊豆の蜜柑を象徴する意味があったという説もある。)
私が子供の頃「つばめ」とか「あさかぜ」という特急列車はあったが、乗る機会どころか見る機会も滅多に無かったので印象が薄い。一方湘南電車は比較的身近な存在で、(子供心には)長距離列車の象徴のようなものだったから、今でも同じ配色をしている車体を見ると、「たかが電車・・」とは思いつつも、懐古の情を禁じえない。
[No.519] を見て違和感のようなものを感じ、今ここにこの色の電車が走っているのは何かの間違いではないか、フッとそんな錯覚に陥ったりする。時間を飛び越えて様々な過去が去来し、輻輳して不思議な気分にとらわれたりもする。身近なもので50年以上もずっと変わらずにきたものが他に無いということで、この電車が自然とそんな意識を引起すのだろうか。(2004.9 遂にこのカラーの車体が姿を消す日がきたことが報じられた。)



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