第五部 六郷の橋梁群 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その2 京急電鉄線六郷鉄橋

(緑の矢印はクリックではなく、カーソルを載せている間だけ画像が開きます。)

 
京浜急行電鉄は六郷橋とは浅からぬ縁がある。京浜急行電鉄の前身は京浜電気鉄道(創業時:大師電気鉄道)といい、明治32年(1899)1月、川崎宿(現在の六郷橋袂近く)と川崎大師の間(2km)に、日本で3番目になる営業用電車を開通させた。開業の前年の明治31年には、六郷川河畔の川崎町久根崎(現在の港町:日本コロンビアの近く)に火力発電所を建設し、自前の電気で電車を走らせた。
(京浜電鉄の電力事業部門はその後群馬電力に吸収され、川崎の臨海地帯への送電に供されるなどの変遷を経た後、昭和3年最終的に東京電燈(後の東京電力)に吸収合併された。左岸のヨシ原に鉄塔を擁し久根崎を経由して渡河されていた送電ラインも2013年に廃止となって除却され、最後の5年間は鉄塔巡視路でウラギクの保護育成を行っていた記憶と重なることもあり、今となっては(第6部の写真のあちこちに写っている)鉄塔は懐かしい思い出の風景になった。)
(京急六郷鉄橋の歴史については [参考6] を参照

2014年2月8日低気圧がきて全国的に雪となり、関東の平野部も珍しく吹雪になって、ほゞ終日強風が吹き荒れ、東京23区でも粉雪で都心で27センチの積雪となった。(直近では2006年1月以来の雪か? 都心で20センチ以上の積雪は1994年2月以来で戦後4番目の積雪という)
右の写真は、その翌日に撮ったもので、[No.52A1] は都知事選挙もあって午前中に出て撮ったが、電池切れで十分に撮りきれず、充電して午後出直したが、歩くのにも苦労した午前中とは打って変わって既に雪は少なく [No.52A1] を撮ったのが精一杯というところだった。ただ [No.52A1] の中央部に見えているのは武蔵小杉周辺の高層ビル群で、遠くのものがこれだけはっきり見えるということは、それだけ空気が乾燥している証拠で、反対の川下側では空港の管制塔などが良く見えた。

右の小画像は多摩川緑地が終了した角(JR京浜東北線鉄橋下)から川下側を見たもので、3本の鉄道橋の背後に六郷橋が見えている。細い道が続いているが、これは「岸辺の散策路」ではなく、釣り人、ラジコンボートマニア、ホームレスなどこの辺りを行き来する人たちが踏み均した跡である。ここは入り口で何気なく入っていきそうだが、この道は京急の鉄橋を潜った後では獣道(けものみち)のような雰囲気に変わっていく。
京急と六郷橋の間は、堤防側はゴルフの打っ放しがあり開けているが、低水路の側は手付かずの荒地で、夏から秋にかけては身の丈以上の雑草が生い茂り、もともと迷路のように巡らされた獣道は、その位置が殆ど分からなくなってしまう。
管理不在の高水敷の御多分にもれず、この一帯にもホームレスが点々と「入植」し、荒地を開墾して畑を作ったりしている。雑草が生茂る季節には先を見通すことは出来ないので、出会い頭に至近距離で人と遭遇する可能性がある。夏場のこうした不気味な領域の幅は川岸から200メートル程度ではないかと思うが、マムシが出てきても不思議ではないような環境で、夏場にここを通り抜けるのは一寸した勇気が要る。
[No.521a] は3年ぶりに古い写真を差替えた。夕方の西日で川縁から撮ったもの。 

京急の川下(六郷橋)側区域は、堤防から水路に向かって扇状に広がり、水際では300メートル余りの幅があるが、京急の川上(JR)側区域は、幅50〜60メートル程度の狭い矩形領域である。JRと京急の平行する避溢(ひいつ)橋に挟まれたこの辺りの高水敷は、以前はボコボコの荒地で、特に中央から低水路の側は凹凸が激しく、あちこちのくぼ地に水が溜まり川岸まで行くのは容易ではないという環境だった。
ただもっと以前には、東海道の六郷橋がこちらの方にあったらしいので、かえって開けていたかもしれない。玉川水道が出来る前、この辺りの川中に大きな洲があって、羽田の水舟がきて水を汲んでいたといわれる。
今この区間は堤防からほぼ水際までが通しで整地され芝が植えられている。堤防側に何の変哲もない公園(バイオリン公園と呼ばれる)がある外に、この区間にはこれといった施設は何も無い。
[No.523a] は2005年3月から走行している「京急ブルースカイトレイン」。新型車輌ではなく、600形をリニューアルした特別仕様車で、羽田空港駅をPRするシンボル電車として企画されたとのこと。特別塗装のブルー地に、「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」 のロゴと、カモメのシンボルマークがラミネートされた貸切広告電車(初回はANA)である。1編成しか走っていないので、ここで偶然出会えたのは運が良かった。

2007年の台風9号は、太平洋を北上するコースで日本列島に接近し、9月7日未明、伊豆半島の東海岸沿いを伝って小田原市西部に達し、7日中に関東地方から東北地方を北上、一旦日本海に抜けた後、8日には津軽海峡から函館市付近に再上陸した。
この台風で東海から関東甲信地方に強風雨が広がり、奥多摩町の総降水量は700ミリ近くに達した。
(2007年の台風9号についての詳細は、「第四部 多摩川緑地」の 「その4 多摩川緑地(下)」 の中に載せてある。)

[No.52W] はJRと京急の中間点(左が京急)で、通称「バイオリン公園」と呼ばれる、砂場とブランコ程度の簡易公園のある場所である。(平時は上に載せた [No.522] [No.523a] を参照)
[No.52X] は京急鉄橋の下手側。平時はゴルフの打ちっ放しがある場所で、立木はゴルフ場の外縁にある球留めネットに沿って植えられているものである。 [No.52Y] の赤いヘリは消防庁の救難ヘリで、午前9時から9時半頃はここで活動していた。
[No.52Z] は隊員を釣り降ろしているところで、下降した後、洪水の中に取り残されていた人を抱きかかえるようにして機上に救出するという行動を繰返していた。

(2007年の台風9号による洪水の様子は、多摩川緑地 [No.44Y1] [No.44R]
六郷橋湿地 [No.61Y1]、 海老取川 [No.72B] などにも掲載している。)


バイオリン公園の京急側に、レッドデータブックの絶滅危惧II類(VU)に記載される野草「タコノアシ」の生育場所がある。(一画は自然を守る会の人によって保護されている。)
鉄橋下はもともと水捌けが悪いが、ここは周囲よりいくらか低いため、いつも湿地のようになっている。保護されているとはいっても、環境は自然のままにおかれているので、周辺で優勢な他の野草と厳しい競合状態にある。(一緒に写っている線状葉はチカラシバ。)

「タコノアシ」は夏に花を咲かせる。茎の頂から数本の花茎が斜め上方に伸び、先端が垂れて釣鐘状になった花軸の片側に花弁の無い花が列生する。花は淡い緑色で目立たないが、秋には茎葉実の全てが赤く色付く。花や実が花軸の片側に並ぶ様子がタコの吸盤のようで、全体がタコをひっくり返した足の形に似ていることからこの名が付いた。熟した実はさやに亀裂が入って裂け、中の種子が飛ばされるようになっている。
「タコノアシ」は19世紀には、刮ハ(さくか)が星形をしているなどの類似からベンケイソウ科に分類されていたが、20世紀中頃には花の構造や胚発生過程の類似からユキノシタ科に分類されるようになった。近年ではタコノアシ科を独立させる説もあり、DNA解析が用いられるなど分類確定の研究は現在でも進められているという。(刮ハとは、複数の心皮=雌しべの構成要素:子房・柱頭など、が合成した果実で、成熟すると果皮が乾燥して裂開し、各部屋ごとに種子を散らすようになっているもの。)

タコノアシには、他に類を見ない特徴として 「刮ハの先端が帽子状に脱落する」 と、図鑑(「朝日百科 植物の世界」 1997.10) に書かれていたことが興味を引いた。
タコノアシのことは2005年秋に始めて知り、花の時期を見ていなかったこともあるが、果実は一つのものという思い込みがあった。そのため、「帽子状に脱落する」というのは、外周に横裂が入ってさやの上側全体が脱落するのではないかと想像していた。
上に載せた [No.52B] は2005年10月中旬だが、その後11月〜12月にかけてよく観察していくと、果実は次第にシュリンクし、やがて一部で果皮の裂開が見られるようになった。
そこで初めて、刮ハが星形に沿う5つの小部屋から成っていることが分かった。さやの亀裂は星形の5稜各々に独立に生じ、さやの脱落は星形の一角単位で起きる。「帽子状」というのは星形の頂部を「とんがり帽子」に見立てた表現だと分かった。頂部が取れて剥き出しになった小部屋から順に種子が飛ばされていくようである。
種子の飛散は短期間に一気に進行するのではなく、11月初旬には既に一部で果皮の裂開が見られたが、その後一ヶ月経っても未だ星状を維持している果実が多く残っていた。
以下は、刮ハの先端が脱落していく様子を参考に示したものである。(参考1)は「とんがり帽子」が脱げる前で、白く見える線が、裂けて幾らか捲(めく)れ上がってきた帽子の縁の部分にあたる。(参考2,3)は果皮が部分的に脱落した時点での果実の様子。

    (参考1)    (参考2)    (参考3)

2005年秋に初めてタコノアシの赤く色付く姿を見て、来年はどうしても夏の花の時期に全てを見てみたいと思うようになった。
「茎の頂から数本の花茎が斜め上方に伸び、先端が垂れて釣鐘状になった花軸の片側に花弁の無い花が列生する」というタコの足に似た姿が、どのような順を追って完成していくのか、あの奇妙な刮ハ(合成果実)はどのような花があれば出来るのだろうか、ということに大変興味を持ったからである。
そういうわけで、2006年はこの地にタコノアシが芽を出した頃から観察していた。

    (参考4)    (参考5)    (参考6)

京急の鉄橋下は常時湿気た場所で、水溜りになっている場所もあり、湿地の植物が見られる場所として、その筋では有名なところだったが、平成22年頃、橋脚の耐震化工事が行われた際、湿気た環境は一掃され、タコノアシのほか、この辺りにあったサンカクイや堤防側にあったミコシガヤ、ホソイなどは全て失われた。(ホソイだけは僅かに残っていたがその後どうなったか・・・)

 
2006年バイオリン公園のJR側の雑草帯で、ミゾコウジュが結構見られた。
(ホームレスが林立する一帯の近傍で発見が遅く、花期は既に終盤で、掲載している写真はいずれも「宴の後」という雰囲気だ。撮影したのは6月初めで、小岩菖蒲園で保護育成されている千株が、小さな薄紫の花をびっしりと咲かせ、今が最盛期というニュースがテレビで流れる数日前のことだったが・・・)
ミゾコウジュは平成12年のレッドデータブックで、「準絶滅危惧(NT)」に記載されている。(旧カテゴリーでいう 「希少種」 で、タコノアシなどの 「危急種」 より1ランク下の扱い。)
ミゾコウジュはシソ科に属する。花時の茎に付く葉は香味野菜として使われる青ジソのような幅広形ではないが、花は刺身のツマに出てくるものと良く似た形(輪散花序)をしている。(因みに赤ジソは古来梅干の着色に利用されている。)
シソ科植物は精油(芳香のある揮発性の油)を含むものが多くハッカの主成分はメンソール(C10H20O)。菜種油を搾油するようになるまで、果実から荏胡麻油を採るために栽培されていたエゴマもシソ科である。(エゴマはゴマ科のゴマとは別物)
花卉の分野でサルビアと呼ばれるのは「シソ科アキギリ属」のことで、地中海方面ではラベンダー、ミント、ロ−ズマリーなどが有名。鑑賞目的、あるいはハーブ用などとして花壇で栽培されるサルビア系の改良種は「セージ」と総称される。

シソ科植物には薬草も多く、漢方では「紫蘇葉」(シソヨウ)、「薄荷」(ハッカ)、「香需」(コウジュ)、「丹参」(タンジン)などがあり、民間薬として知られる「ヒキオコシ」もシソ類。
(漢名の「香需」は和名を「ナギナタコウジュ」といい、牧野博士の薬草辞典にも載っている。「需」の字は略記しているが正確には草冠が付く。)
「ミゾコウジュ」(溝香需)は、アキギリ属で、名前の由来は、田の畦(あぜ)など、湿気の多い場所で見られる「香需」に良く似た草の意味。アキギリ属(学名サルビア)は世界に約700種あり、鑑賞用、薬用、ハーブなどを目的に改良された栽培種も多い。日本にはミゾコウジュなど9種が自生しているとされる。
2年草で冬場はロゼットになり、花期には大葉(根生葉)は消失する。丈は一般に30〜70cmとされるが、2006年に当地で見られたものは30〜40cm程度のものが多かった。
「ミゾコウジュ」はかつては何処でも普通に見られたらしいが、低地の宅地化などによって自生地が急減し、平成元年のレッドデータブックで希少種に記載された。特に中部圏(濃尾平野)では生育が確認できず(ほゞ絶滅)、関東、関西、四国、九州等の平野部でも、現存不明とされた場所が多い。(「朝日百科 植物の世界」を参照)
近年、河川敷の管理を再考するなどの配慮が効いているのか、復活の兆しが見られるようで、ネット上でも全国的にチラホラ写真が載るようになっている。

シソ科植物は茎の断面が四角い(四稜形)特徴があり、花も花びら(5枚)が筒形に繋がった独特な合弁花冠で、その見掛の形から「唇形花」と呼ばれる。ミゾコウジュの花は上2弁がくっ付いて突き出し、下3弁は中央裂片が特に大きく、その内面に横一列の紫斑点が認められる。
[No.52F] は一画のほゞ全景で、この程度の集まりがJR東海道線のコンクリート桁橋に沿う草叢の中に数箇所あった。[No.52G] はやゝズーム。茎は先で分岐し花柄になっている。花は花柄の周上に付き、離散して10段程度繰返されている。2枚目の見出し画像と [No.52H][No.52J] は先端部に僅かに花冠の残るものを撮った。マクロ撮影で拡大されているが、実際の花はミリサイズで、下唇にある斑点は肉眼では殆ど見えない。[No.52K] は背丈が20センチに満たない小さな株で、典型的な「輪散花序」が出来ていない。オーソドックスな雰囲気は出ていないが、幾つかの花冠を同時に付けていて、この一本を発見しただけでも、少しは労が報われた気分になった。

バイオリン公園の周囲は、湿気た環境のせいで珍しい植物が多い。[No.52L] [No.52M] は畳表用に栽培されるイグサに似た「ホソイ」。同じイグサ科の「クサイ」は河川敷の路傍でよく見るが、ホソイの方は珍しく、六郷川の近辺でも「ホソイ」が自生しているのはこの一帯だけという。(同居しているのは「ミコシガヤ」で堤防側の一画に群生が見られる。)


大師電気鉄道は開業当初から川崎〜品川、及び川崎〜横浜に延伸し、京浜間に電気鉄道を全通させるという目的を持っていた。そこでまず横浜電車鉄道との合同を推進し、開業の年に社名を「大師電気鉄道」から「京浜電気鉄道」に改めた。
「京浜電気鉄道」は、「大師電気鉄道」として「川崎−大師」間で開業した2年後の明治34年(1901)2月には、早くも六郷川を渡り、川崎宿から大森(明治9年に開業した官設鉄道大森駅)までを開通させている。
開業した当時の「川崎」駅は、六郷橋の南詰(川崎宿の入口)にあった。開業当初は駅名を「川崎」としたが、3年後の明治34年(1901)に、本線が鉄道院(後の国鉄)の川崎駅に近い現在の京急川崎駅まで延伸されたため、新たな終点が「川崎」とされ、旧川崎駅は「六郷橋」駅に改名された。
「京浜電気鉄道」が初めて六郷川を渡った当時、鉄道橋は木製で、六郷橋に隣接した位置に架けられた。(六郷橋に軌道を敷く積もりで当時の人道橋を買収したものの、強度的に適わず断念した経緯がある。)
「京浜電気鉄道」は川崎〜品川間、川崎〜神奈川間、蒲田〜羽田間等の電気鉄道敷設免許を相次いで取得し、明治38年(1905)の年末には、品川〜神奈川間を全通させ、京浜間の直通運転を開始した。

京急は当初より平行して走る院線を意識し、いわばその競争を張合いに成長してきたと言えるが、その宿命的な競合関係は、相手が省線となり、国鉄を経てJR東日本となった現在も続いている。
京浜間の直通運転開始に合わせ、スピードアップを図るため、「六郷橋」駅を経由せず、「雑色(ぞうしき)」(「蒲田」と旧「六郷堤」の中間駅)から、直接「川崎」駅につなげる短絡ルートを開拓することになり、六郷(道路)橋と官設鉄道六郷鉄橋の間に新たな鉄道専用橋(木製仮橋)を架け、新ルートを開通させたのは明治39年(1906)10月のことである。
京急の”売り”はスピードだったので、軌間は国鉄に採用されて日本で普及していた狭軌に迷わされることなく「標準軌」を採用し、特急券の要らない特急を普通、急行と同数運行して対抗した。(ただ悲惨な踏切事故が多発する実情から、全線を高架化し踏切を無くすという目標を掲げることになった。)
昭和43年(1968)6月京急は品川から泉岳寺まで延伸させて、都営地下鉄浅草線と接続し、念願の都心への進出を果たした。平成3年(1991)には都営浅草線、京成線、北総・公団線の4線による直通運転が開始された。当初相互乗入れの相手側車輌は全て川崎行だったので、この橋も様々な色をした車体が通ったが、平成10年には空港線延伸事業が完了、相互乗入車輌は全て羽田空港行きに変わったため、この橋を渡る車輌は又元の二色だけの京急車輌に戻った。

京浜電気鉄道が明治44年(1911)に鉄橋を架けてから60年経ち、鉄橋が老朽化したため、京急電鉄では昭和45年に架け替え工事に着手し、上り線を昭和46年、下り線を翌47年(1972)に新線に切り替えた。新鉄橋は全長が550メートルで、河川敷の避溢橋を含めた全8径間の連続トラス構造が踏襲され、文字通り鉄橋の架け替えになった。

足掛け15年を要して昭和8年に完了した内務省の直轄改修工事が行われるまで、六郷川左岸の堤防は現在の都道ガス橋大師橋線(旧提通り)の位置にあった。その当時の京急電鉄線の左岸側の駅は、堤防の内側(川裏、現ツルハの位置)に作られていた。
明治39年に開業した時の駅名は「六郷堤」だったそうだが、大正末期か昭和初期の頃には既に駅名は「六郷土手」に改称されている。
直轄改修工事によって、旧小向飛び地から旧羽田猟師町中村地区までの堤防は、南に寄せて全面的に作り直されていたので、京急は昭和40年代に鉄橋の架け替え工事を行う際、従来までの「六郷土手」駅を、略60メートル西南側に移動する(新堤際に寄せる)こととし、同時に高架化して都道(旧堤通り)と交叉する踏切を無くした。

[No.527]は[No.521]とは逆に、六郷橋の下から川上側を見ている。この写真では低水護岸が隠れてしまっているが、京急下から六郷橋川下の河港水門口まで、延長約1キロメートルほどの間は、低水護岸と堤防の境目に幅約2メートルのコンクリートで固めた平坦部があり、途中に通行の障害となるようなものはない。([No.532],[No.536] 参照)

六郷の橋梁群を中心とする一帯は、左岸では大田区が河川敷を占有し、運動場や区民広場などを運営している関係で、各種の手入れや配慮がなされている。一方右岸ではこの区域で高水敷が消滅するため、親水部を市民に開放し憩いの場にするという発想が生まれにくい。
堤防天端上の通行は鉄橋のため寸断され、僅かな幅の高水敷もポンプ場排水路や樋管放水口などによって分断されている。橋梁群近辺の右岸の堤防敷には、川に沿って通行するための配慮は一切なされていないと言ってよい。

 
右の参考写真は、左岸の川べりから京急鉄橋の周辺の堤防敷を見たものである。
鉄橋の下面は堤防天端面にほぼ密着している。鉄橋の左手(川下側)にある3本の樋管口は川崎市のもので、この後ろに六郷ポンプ場がある。(六郷ポンプ所というのは左岸の六郷水門の下手にあり、何故川崎側にあるここが六郷ポンプ場と呼ばれるのか不思議だ。)
ただこの樋管は平時に使用されている気配はなく、水路の上にはコンクリートの桁が渡され通行できる。一方右手(川上側)の放水口は堀川町=テクノピアの樋管で、法尻まで切込まれたこの水路は渡る方法がなく、歩行者の場合には高水護岸をよじ上ることになる。

 (京急空港線・大師線の今昔物語 [参考32] はこちら


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