第五部 六郷の橋梁群 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その3 六郷橋

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天正18年(1590)7月小田原城が陥落し後北条氏の支配は終焉する。翌月には関東に移封された徳川家康が江戸城に入城し、関東では中世の戦乱が事実上終息した。家康は入府早々にも東北面の計略に取掛かり、代官伊奈備前守忠次を起用して利根川・荒川等の治水事業に着手しているが、その一方東西を結ぶ幹線道路整備を急ぎ、海岸沿いに新しい東海道を開いて、江戸時代初期には川崎宿など53次の宿場町が整備された。

(六郷橋の歴史についての詳細は [参考7] を参照

慶長5年(1600年)六郷川に初の架橋が行われたが、六郷大橋の竣工にあたって家康は六郷惣社八幡社に神事を命じている。神輿の御渡が行われ、別当寺の僧30余名が供奉(ぐぶ)して、祈祷が行なわれたとされている。
その際の家康の願文(慶長5年6月23日銘)が、当地の八幡社に伝えられていたという。(現存しない) そこには「煥巍々乎、日域無雙、雁齒百余間、古今希有橋也」などと書かれていて、この橋が200メートル近くあり、その大きさは国内に比べるものがなく、いまだかつて無かったような橋だと記されていた。
慶長5年6月というのが真実とすれば、時まさに関が原に向けて家康が出陣する2ヵ月前に当たり、この時の神事は家康にとってこの大橋が無為に帰すことが無いようにという、格別の思いを込めて行わせたものだったかも知れない。
慶長18年に再架された二代目の六郷大橋は、長さ120間(218メートル:100m≡55間,1m≡3尺3寸)あったと記されている。(「東海道名所記」 浅井了意 1658)

六郷橋は度重なる洪水により、修理改架が繰返されたが、「新編武蔵風土記稿」は、寛文2年天和3年等の改架について「長さ111間幅4間2尺ありしといへり」と記している。この時代に架けられた橋は、いずれも長さ200メートル程度であったことになる。
(元禄1年(1688)の洪水による流出を最後に架橋は断念され、以後は渡し舟による川越えになった。)
関が原の戦の翌年(慶長6年)、日本橋を起点とし品川、大森、川崎、神奈川といく海岸通りに主街道が開かれ、東海道53次が幹線道路として整備された。ただし、六郷大橋が架橋された時期に53次が全て出来たわけではない。
23年後の元和9年、2代目秀忠は将軍職を家光に譲って大御所となり、この年父子はそろって上洛しているが、この機会に東海道の整備は一段と進んだようである。この時六郷八幡社の南表門から川に至る古海道が、西側200メートルほどの位置(旧東海道)に付替えられた。また神奈川と品川では距離が長すぎるとかねてより問題になっていたが、この年右岸の久根崎・新宿・砂子・小土呂の4ヵ村をもって川崎宿とし、伝馬役(36疋)を課せられた正規の伝馬宿が成立している。

その後幕府は川崎宿の拡張整備に財政支出を行っているが、地震で被災するなどのこともあって宿場の経営は困窮し続けた。
宝永4年(1707)名主を継いだ田中丘隅(後に享保の改革で代官に抜擢される)は、川崎宿の窮乏を救うために、六郷の渡船権を宿に与えるよう願い出て認められ、安定収入の基礎を築くことに成功した。(丘隅は「民間省要」を著して幕政に献策し、普請奉行としても関東一円の治水工事に多くの功績を残している。)

六郷の渡しがあった場所の左岸側は、近世には八幡塚(はちまんづか)村と呼ばれ、数件の筏宿があり、界隈の中心地として賑わっていたようである。八幡塚村の上手側は「高畑村」下手側は「雑色村」と呼ばれ、本流はこの3村の裾を迂回する形で大きく蛇行し流下している。
明治初期の鉄道橋工事の状況をみると、六郷の渡しがあったこの辺りの蛇行水路は、江戸時代の間に300〜400メートル南下したことが分る。水路の移動に伴い六郷の側に大きな高水敷が生じ、川崎側では川が食い込んで大きな川欠けの状態になった。

明和2年(1765)家康150回忌にあたり、日光での法事を控えて、東海道筋の状況把握のために作図された「川崎宿船場町絵図」が「大田区史」に載っている。この絵図は水路に「川巾八十五間」と書いていて、この時期の川幅は155メートルだったことが分る。
「新編武蔵風土記稿」は1800年代初期の頃に書かれたものだが、「六郷の渡し」について、「元禄(1600年代末)から年々の浸食により、今では川幅は満潮時に140間、干潮時には105間になった」と記しており、この時期には川幅が潮の干満に応じて190〜250メートル程度あったことになる。
その後、明治元年(1868)に明治天皇が東幸の際作られた御通輦(れん)舟橋設計図には、川巾六十間と記載されており、明治7年(1874年)、186年振りに八幡塚村の名主鈴木左内が架橋した「左内橋」も、全長60間、即ち109メートルとなっている。

以上の経緯をみると、まず右岸側の浸食が進んで川幅を増しながら流路が南下し、その後左岸側に土砂の堆積が進んだか、或いは川の流量が減少するなどの理由で、左岸側が次第に干上がって川幅が減少していったものと思われる。

現在左岸堤防の川裏にある北野天神(止め天神)は、大正時代以前の旧堤時代には水除堤(みずよけてい:江戸時代に高さ6尺、左岸の西六郷から本羽田までは、現在の都道[旧提通り]に沿う位置にあった)に対して堤外地となる位置(川中)になっていた。
江戸時代前期には水路は神社の前ぎりぎりを流れていたらしいが、それでも洪水の際に不思議と浸水しなかったことから、一帯は字浮嶋、神社は「浮嶋神社」と呼ばれるようになったという。(この位置はほゞ蛇行の頂点にあたる。洪水ごとに慣性水圧を受ける右岸の側が攻められ、川が南下していったとみなされるので、左岸の側が比較的安泰だったと想像することはそれほど無理ではない。)
現在この神社は堤防(大正時代の直轄改修工事によって造られた新提)の内側(川裏すぐ)の位置になっていて、川岸(低水護岸)までは350メートルくらいの距離がある。
明和2年の絵図「川崎宿船場町絵図」は川崎側を中心に画いたもので、左岸は天神社が川岸に画かれているだけだが、右岸は水除提の外側から川岸まで400〜500メートルの幅の河原地に、30軒余りの家数からなる船場町があった様子が描かれている。
この船場町があった右岸側の河原地は、浸食され最終的には全て失われることになる。

「多摩川誌」に、家康が関東を治める以前の状況に関して、以下の記述が載っている。
「天正時代(秀吉時代)の中ごろまで多摩川流路は府中辺りから、下流では現在の流路よりは、南の方、すなわち多摩丘陵の裾辺りを流れ江戸湾に注いでいた。これを多摩川の南流時代という。永禄2年(1559)にできた「小田原衆所領役帳」の記載によれば、現在多摩川右岸になっている登戸や宿河原はいずれも多摩川の北にあった。また多摩川の下流地域では同書に「江戸川崎」あるいは「江戸六郷・大師河原」と記載され、いずれも多摩川が現在の南を流れていたことを物語っている。
天正17年(1589)の多摩川の大洪水によって下流地域では北に流れが変わり,次いで翌天正18年(1590)の再度の大洪水では上流地域(現在川崎市多摩区内)の流路も北遷し、ほぼ現在の流路に近い位置に移ったといわれている。」
もしこの流路大転換が事実とすれば、家康が六郷大橋を架けたのは、流路が現在地に換わってから僅か11年後ということになる。仮に新流路が大昔の流路跡などであったとしても、この時期は未だ川岸、川床などが安定していたとは想像し難く、洪水の度に川底が削られたり、土砂が堆積したりして、川幅や流路そのものも変化し続けていたと思われる。

なお南流説というのは何通りもある。例えば「川崎誌考」では、古川と小向の間を下ってきた流路が高畑で左折せず、そのまま直進して南河原と戸手の間を抜けて矢向に至り、川崎の後ろを大きく回って大師河原の方向に抜けていたと考えている。
「多摩川誌」では天正末期の洪水による流路北転説を紹介しているが、「川崎誌考」では確証はないとしながら人為説を唱えている。 即ち、家康が入城した時点でもなお南流状態にあったが、六郷大橋架橋に先立って、幕府自らが河身改修工事を行い、八幡塚に堀割を入れ蛇行部を短絡させた結果、ここでの流路が今の位置に換わったと推測している。

江戸時代の初期に小泉次大夫によって二ヶ領用水や六郷用水が掘られ、その後玉川上水も開発された。
六郷用水は和泉村(狛江市)で取水され、二ヶ領用水はやや上手の中野島(川崎市多摩区)で取水された。二ヵ領用水は寛永9年(1629)に宿河原取水口が新設され、引水量は飛躍的に増大した。江戸中期には、田中丘隅によって用水の改修拡幅が図られたが、これらの灌漑用水は多くが本流に戻ることはなく、そのまま江戸湾に注いだ。

両岸の新田開発が進むに伴い取水量が増し、用水に振向けられた分、六郷川の水量が次第に減少していったことは十分考えられる。
参考として昭和11年、小河内ダム建設に際し二ヵ領用水との係争が決着した際、水利権の補償費として東京都から総額230万円が支払われることになったが、羽村から下流には表流水利権者は16地区あった。
16箇所の取入口のうち右岸の側は2箇所だけだったので、左岸には和泉村以外に13箇所もの別の取水口が出来ていたことになる。(小林孝雄著「水恩の人」より)

明治期には左岸の川っぷちは「箱番」と呼ばれる小屋掛け(筏宿の事務所)や材木問屋の店、倉庫が並んでいた。(筏は多い時には百枚以上にも達し、川上側の京急の鉄橋の前後から、川下側は味の素前の送電鉄塔のある辺りまで繋がれたという。)
江戸時代多摩川を利用した水運の権益は羽田猟師町に集中し、荷役の請負は羽田猟師町の舟元が独占していたが、筏宿に限っては八幡塚村の方にも活気があった。繋留場所という点で恵まれていたのかも知れない。
(「筏(いかだ)流しと筏道」については [参考4] を参照
(多摩川の水運については「羽田猟師町」 [参考13] を参照


 
六郷川から見る富士山の方角は、真西から10度ほど南寄りになる。この写真集では多摩川緑地、大師橋緑地、羽田空港沿岸など、左岸のあちこちで撮った富士を載せている。東京から見る富士は、快晴の冬の朝が一番いい。冬場は夕陽や残照で綺麗なシルエットを撮ることも出来る。春の朝、富士が見られることも珍しくはないが、春富士は全面がベタに白く貼り絵のようでリアリティー感に乏しい。夏から秋の季節でも、台風一過のような特殊なケースでは富士が撮れるが、地肌が分かるほどクリアに見えることはない。いずれにせよ日中の陽が高いうちは、たとえ富士が見えていても逆光気味で写真にはならない。

2006年4月下旬のこの日、朝のうち明るかったが突然雨が降ってくるような、午前中は不安定な天気だった。
ギャラリーの [No.53A] はその日の午後4時、川下方向に向かい六郷橋を過ぎて偶然振り返った時に、富士の北東側斜面が裾の方にかけて光って見える姿を初めて見た。
(六郷川の撮影を始めた2002年から、足掛け5年間で一番クリアに撮れた富士は、大師橋緑地のページ載せている。方向はここと殆ど変わらないので、光って見えている部分を、冬の写真と比較して見ることが出来る。 [No.326]

右の小画像は [No.53A] を撮った1時間後の夕方5時に、ほゞ同じ場所で撮った。既にシルエット状態だが、春のこの時期にこれだけ富士がクリアに見えるのは珍しい。
上空には白い雲が多くできていて、夏場なら間違いなく夕焼け雲が見られる絶好の条件が整っていた。夕景は春のテーマとしては常識を外れているが、朝以外にシルエットでない富士を始めて見たことに触発され、半信半疑ながら、後学のため、この夕陽がどういう結末になるのか確かめておくことにした。

日没を何処で見るか迷ったが、縁起を担いで2002年7月に劇的な夕焼け雲を見た場所(多摩川大橋上手 [No.326] )に向かうことにした。
日没は夕刻の6時過ぎ。その時点の富士の様子を撮ったのが下の (参考 1) で、この時まで富士の周囲はクリアな状態が続いていた。
ただし富士よりかなり北に寄った日没地点辺りには局地的な雲の集中があり、それらに邪魔されて日没自身は(参考 2) のような残念な結果だった。(下側の中央に薄っすら白っぽく見えるのはガス橋方面に続く堤防の天端面)
(参考 3) は日没後の様子で、 (参考 1) から15分経過している。この後は暗くなる一方で、結局残照と言えるような綺麗な景色も見られなかった。
(参考 3) で上空の雲は既に蔭に入って真っ黒だが、夏場の場合には雲はこの時点ではまだ高空で直接日光を受けて白く見え、夕焼け雲はなおしばらく経ってからようやく焼け始めるものである。雲の位置が高いほど染まる時刻は遅くなり、それだけ光の波長も偏ることになって染まる赤さが増すことになる。
この日の雲は (参考 1) に見られるように、日没時点で既に着色していて色は淡い。雲が低いため早くも蔭に入り、没後に染まる余地は全くない。

    (参考1 夕焼)    (参考2 日没)    (参考3 残照)

夕焼け雲はダメだったが、残照も冬場のように、後れて鮮やかさを増すというような気配は全く無かった。富士の様子を見る限りでは、関東から東海辺りまでの大気の条件は良かったと思われるが、冬場の残照は日没後40分ほど経って、暗くなる直前に色彩が最高潮に達するようなもので、地平線の彼方までの遥かに遠い大気の状態を反映することは間違いない。
光線を散乱してしまう主因は水蒸気であり、春は冬場のように広域で大気が乾燥しているという条件は得難い。しかも春には排気ガスに含まれる塵埃のほか、黄砂や花粉など大気中に光を散乱する季節要因も多い。(特にこの年は何年振りとかいう黄砂が東京にまで降る状態があった。)
春の場合、いかに夕方の雰囲気が良くても、夏場の夕焼け雲や冬場の残照というような景観は得難いことを確認したことが、この日の唯一の収穫だった。次の [No.53B] はその翌朝のもので、富士は前日の午後から引続きクリアに見えた。


 
近世の江戸時代から明治になるまで、多摩川に堅固な永久橋が架けられなかったのは、江戸防衛のための軍事的配慮によると説明される場合がある。しかし正直言ってそのような見方には説得力があるとは思えない。
六郷川の水路幅が幾つであれ、洪水を前提とした正味の川幅が500M(旧提時代には600M)に達する大きなものであるという事情は昔も今も変わらない。(水路は両岸の水除提で仕切られた川道の中にあり、時期によってその位置が動いていたに過ぎない。)
この国では流路の大転換を引起すような規模にならなくても、洪水が堤防を超えて氾濫するようなことは年中行事だった。もともと多摩川のように勾配がきつく、毎年増水季に台風の襲来がある河川で、河原(川道内)に橋台を据えるような橋を架けることは、それ自身無謀であり、繰返されれば経済的な損失は計り知れないものである。
長く島国としてやってきた日本の精神文化では、自然を利用するという観点から、用水や上水を作るための技術を涵養することはあっても、自然を征服するというような発想が生まれてくる地合は無く、長大な永久橋を作るという方向で技術の追究がなかったのは自然なことと思われる。

幕末に開国を迫られ、明治になって列強に伍してやっていくために、西洋の思想や技術を取入れ、富国強兵策を打出すという時代背景の中で、初めて本格的な河川整備が行われるようになった。
永久橋の建設が技術的に現実のものとなって初めて、渡船によるより橋を作る方が合理的と考える思考も現実のものになったのである。

(いわゆる「多摩川の南流説」は、通常有史以後の時代についての議論だが、それとは別に、氷期にまで遡る「古多摩川」の時代には、川は現多摩川より南流していたと考えるのが通説のようである。
「川崎の町名」の「池田町」欄に、ヴェルム氷期時代の古多摩川が、溝の口〜鹿島田と南下し、池田町(八丁畷)辺りで東に転じ、夜光町付近で東京湾に注いでいたという地質報告のあることが記されている。)

古多摩川については、[参考12] 「流域の地形と海岸線の変化」 の後半に、「史誌39号」から引用して氷期以降の概要を載せている。


新六郷橋には(左岸の川下側を除く3箇所の高覧端に)親柱が設置されている。
親柱というのは、近世には橋の入口の両脇にあって、高覧を支える主柱となるもので、橋の名前が大きく書かれているのが普通である。ただ近代的な鉄やコンクリート製の橋になってからは、高覧は随所にそれなりの支柱を配して作られるので、親柱にはもはや柱としての役割は殆ど無くなった。特に最近の橋では、親柱は高覧とは縁を切って設置され、橋名や完成年月などを記すだけの橋の表札のようなものに変わった。
親柱が柱としての意味を失った近時の改架では、親柱は人道橋の証明としてあればよいということで、次第に小型化する傾向にある。新六郷橋の親柱も大きさとしては小さく、それだけであれば殆ど目立つものではないが、柱の頂部に独特なオブジェを載せた点で異彩を放っている。オブジェはコンクリート製に塗装したもので、舟の下に波をあしらったデザインだが、右岸川上側のものは舟が笹舟を模しているのに対し、他の2ヶ所では舟が和船になっているように、作品は通り一編の制作とは思えない。「橋は道路の一部に過ぎず、インフラ施設であって文化財ではないのでシンプルであることが最良」というのがこの橋の基本的な設計理念と思われるが、親柱上のこのオブジェには、実用性や機能性一辺倒での街づくりに対する、制作者の無言の異議や反発といった気概が噴出しているように感じる。

多摩川に初めて架けられた堅固橋である旧六郷橋は、大正末期、当時我国の近代橋梁設計の第一人者だった増田淳によって設計された。
首都東京の急速な膨張発展によって、旧東海道は通行量増加を賄いきれなくなっており、内務省では大正7年に、5ヵ年計画で京浜国道を改修することとし、新六郷橋の架橋はその一環として位置付けられた。六郷橋は大正14年に竣工(第一京浜国道全体は昭和2年に開通)、川崎側の流水部上を2連のタイドアーチ式としたこの橋は、威風堂々とした外観もあって、開通当時「陸路の帝都の門」と呼ばれたそうである。
増田淳の六郷橋は戦時中空爆の標的にならなかったとみえ、戦災を免れ、戦後の復興、高度成長時代にも大きな役割を果たした。だがその後の交通量の増大化によって橋は飽和状態となり、耐震性に不安があるなどの理由も重なって、昭和末期に突如お払い箱になることが決まった。
昭和53年(1979)に橋の川上側で新六郷橋が着工、昭和59年(1984)には完成して4車線で暫定共用されるに至った。(現上り線専用橋)
「上り橋」完成後、旧橋の解体撤去工事が開始された。翌年1月旧橋のアーチ型鉄橋は撤去され、引続きその位置に「下り橋」の建設が行われた。 昭和62年(1987)には「下り橋」も完成し、新六郷橋は上下6車線道路として全面開通した。

その後歩道のランプウェーを作るなど、周辺整備としての第三期工事が行われ、あちこち手を加えられて六郷橋が最終的に現在のような姿になったのは平成9年(1997)のことである。総工費は約125億円、新しい六郷橋の長さ(橋台間)は 443.7 メートル、幅員は 34 メートル余り(上り橋 19.7、下り橋 14.7)である。(但し、旭町側、東六郷側ともに橋台上までの高架橋があり、その手前は擁壁坂路になっている。それらの全てを加えれば、六郷橋に関連する全長は大雑把に言って1000メートルである。)

第二京浜国道(国道1号)は第一京浜(国道15号)の交通量を分散させるため、昭和11年(1936)に着工、多摩川大橋は昭和17年(1942)に橋脚は完成したものの、戦争による中断を余儀なくされ、昭和24年(1949)にやっと竣工し開通した。多摩川大橋は六郷川の戦後架橋の第一号になったが、物不足の時代背景もあってか、鋼T桁を並べて床板を載せただけというような単純な構造だった。
昭和30〜40年代にかけて、唯一人道橋としてガス橋の改架(S35)があったが、その他では、新幹線橋梁(S39)、第三京浜(S40)、東名高速(S41)、高速横羽線(S43)など、又昭和40年代には東海道線や京急など鉄道橋梁の改架も相次いで行われた。機能面のみが求められる橋では、(鉄道にはトラスやコンクリート桁橋も用いられたが)、鋼箱桁橋構造(ボックスプレートガーダー)が断然の主力構造になった。

近代の堅固橋第一号となった旧六郷橋は、戦後人も渡る橋の本格的な改架についても第一号となる運命にあった。その新六郷橋で旧六郷橋の想い出の片鱗さえ留めない鋼箱桁橋構造が採用されたことは衝撃だった。
六郷橋は歩道を持ち、人や自転車も渡り生活に密着した存在だった。しかし新六郷橋には「ヒューマンな美的装飾」は施されず、高速道路や新幹線のように、ただ道路の一部としての機能性のみが求められ、橋は車社会のインフラ施設としての意味だけが強調された。
かつて橋はそのアーチやトラスの外観によって、地域風景のシンボルとして馴染まれ、行き交う住民に具体的に親しまれてきた。だが新六郷橋は堤防を高い位置で越え両側の車道を繋いだ格好で、実用性に偏して味気ない外観、いちいち階段を上り下りする使い勝手の不便さなどが相俟って、もはや地域住民に愛されるシンボルではなくなった。
そんな新六郷橋の高覧は鉄柵に似て冷たく、唯一親柱の設置されたことが、この橋が高速道路ではなく人道橋でもあることを表明している。とりわけ親柱に載せられたオブジェがこの橋の味気なさを癒してくれる存在になっている。
掲載した写真は、3箇所のそれぞれを異なる方向から撮ったものをまとめた。上が右岸川下、中が右岸川上、下が左岸川上の親柱で、いずれも橋の歩道から堤防上に行き来する階段の入口にある。

以下余談だが、笹舟は、笹の葉の両端を折り曲げ、2重になった部分に2ヶ所切り込みを入れ、中央部を跨ぐ形で両端部を差込むようにして舟型を作るもので、葉を採るとき、葉柄を長く付属して切り取り、舟底の中央に柄が立つようにして、笹舟を流すときに「持つ部分」とすることが多い。右岸川上側のオブジェはこのようにして作る笹舟の形を正確に表現しているのだが、最近の若い人たちには何だか分からず(ただ形が格好いいものと)見えるだけかも知れない。
「和船」のオブジェは「六郷の渡し跡」を表現しているのかも知れないが、(制作者の真意は確認できないものの)、「笹舟」は、渡船時代をイメージさせる和船オブジェから派生した一つのバリエーションだろう。こちらのオブジェを掲げて「六郷の渡し跡」と説明するのは適当でない。



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