第五部 六郷の橋梁群 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その4 六郷神社



六郷神社は11〜12世紀の頃創建された八幡社で、近世までは単に八幡宮、あるいは六郷惣社八幡社と呼ばれていた。

(六郷神社と八幡塚についての伝説など古い話は [参考29] を参照

左岸の河川敷を川下方向に進み、六郷の橋梁群を潜り抜けたら堤防に上がる。六郷橋から200〜300メートル行った所に、川裏側から堤防に上り下りするためのスロープが出来ている。ここで堤防を下りると、都道(旧提道路)を横切って(関西ペイントの塀沿いに)直進する道がある。六郷神社の表門はこの道路の終点(三叉路)に面して作られている。
(この位置は左岸の堤防から500メートルほど北になる。三叉路を左折すれば200メートルほどで第一京浜国道(東海道)に出る。)

右の写真は六郷神社の南側に面した表門を撮った。電線がうるさく全景を撮りきれていないが、外側に大きな石灯籠がある。社号標、鳥居は花崗石という。神門は2層から成る切妻屋根をもち、門の左右には透板塀が連なっている。入口正面に石造りの古めかしい太鼓橋が置かれていて、かつて鳥居の前に濠があったことをうかがわせる。
昔の古海道は表参道にあたるこの位置にあったらしいが、江戸時代初期に西側(現在の第一京浜国道方面)に付替えられたため、境内から新しい街道口の方向へ脇参道が開かれ、以後主要な出入り口はそちらに変ったとされる。

江戸時代後期に江戸とその近郊の名所を、絵図入りで紹介した地誌「江戸名所図会」が刊行された。神社仏閣を多く紹介しているが、その中に「八幡塚・八幡宮」のページがある。
「江戸名所図会」の絵(注釈集:[参考29] 参照)を見ると、南に面した表門の辺り、太鼓橋、鳥居、神門の様子や、拝殿前から西側の街道の方に出る脇参道の配置などは現在の六郷神社の様子と良く似ている。ただこの絵には境内の西面(脇参道)にも門構えが見られる。拝殿は茅葺きの入母屋造りで、本殿は拝殿からやや離れた奥にあって瓦葺きの切妻造りに画かれている。
現在の六郷神社では、国道口と繋がる脇参道には石灯篭や大鳥居、春日灯篭などは奉献されているが、(車輌が出入りすることもあってか) 参道の途中に門や塀などの仕切ものは何もない。本殿は拝殿(幣殿)に密接した後ろ側に建てられており、社殿の背後は敷地を区切って幼稚園にしている。
なお「江戸名所図会」が「八幡塚」を描いている「本社より右の方の蒼林の中」(東奥方面)は、現在では六郷小学校になっていて、「塚」らしいものは本社殿のすぐ横の奥にある。

六郷神社が八幡宮の巴紋に併せて徳川の葵紋を用いているのは、(六郷)八幡宮が家康と一方ならぬ関係にあったためと神社では説明している。家康は関東入国の翌年、六郷八幡社に御朱印18石を寄進しているが、家康は源朝臣を自称していたことだし、寺社に後朱印20石程度のことはさして珍しいことではない。
八幡宮の宮本(街道の両脇一帯)は八幡塚村といった。(「八幡塚」と号する塚があったことによる。) 延享4年(1747)八幡塚村が、「六郷の渡し」の渡船権を川崎宿から八幡塚村に移譲して欲しい旨、幕府に嘆願した書面が残されている。(原文は「大田区史」に収載) この願書には慶長時代の六郷橋の成立や流出、その後の渡船の経緯などが詳しく述べられているが、冒頭の一条に「慶長五年、幕府御用によって橋が竣工し、その際六郷惣社八幡社に命じ、神輿の渡御があり、別当寺僧30余名がこれに供奉(ぐぶ)し、祈祷を行った」と記されている。
(神事に寄せた家康の祝辞:「願文」が当地の八幡社に伝わっていて、「新編武蔵風土記稿」に全文の写しが載っているが、惜しいことにこの実物は今日伝存しないという。)

明治政府が「神仏分離令」を発令するまで、八幡社は街道の反対側にある「宝珠院」(御幡山建長寺)が別当寺だった。宝珠院は隣接する高畑村にある宝幢院(真言宗)の末寺という。この界隈には真言宗の寺院は多いが、八幡社が命じられた神事に僧30余名が供奉したという数は半端ではない。

「史誌16号」に平野順治氏が「六郷神社の曳船祭」と題する解説文を載せている。昭和12年を最後に途絶えた曳船祭の内容や由来について詳細に解説されたものだが、六郷八幡社自身についても諸々記述がなされている。(曳船祭は神輿を御座船に載せて川中に繰出すもので、大祭時に限り不定期に挙行された。)
「史誌16号」によれば、近世におけるこの八幡社の存在は「新編武蔵風土記稿」が「六郷六ヶ村の総鎮守」と記す以上のもので、氏子圏は六郷一円にとどまらず、羽田村、羽田猟師町、鈴木新田、更に橘樹郡川崎領の大師河原村、池上新田、稲荷新田、南河原村をもその範囲に含むものだったそうである。このような広域氏子圏の成立は、後北条氏の支配下にあった永禄年間(地頭職行方氏)の頃と思われ、家康が六郷大橋を架橋した頃には、当八幡社は江戸南郊の総鎮守としての地位を確立していたのではないかと書かれている。

明治政府が各神社の社格調べを行っていた当時の書類の中に、明治6年1月付けで、八幡塚村・郷社八幡神社・祠掌・六郷幡磨の名前で旧六郷領34ヶ村の大部分に及ぶ地域の85社の兼務を請けている請書が残されている。(「史誌7号」「大田区における神仏分離」)
最盛期を経た後、川崎側の南河原、大師河原が氏子から離脱し、更に道塚、羽田の順に離脱して氏子圏は六郷地区に縮小限定されていく。大師河原が経済的な理由で離脱したのは大正3年で、対岸への神輿の渡御が行われた曳船祭は明治41年が最後となり、昭和12年の曳船祭の後、羽田が六郷神社の氏子圏から離脱したのは昭和32年のこと。(「史誌16号」「六郷神社の曳船祭」)


神社のうちで一番数が多いのは総数の約1/3を占めるといわれる稲荷社である。稲荷神は神社以外にも、仏教寺院(宗派を問わない)の境内に多く祀られ、営利団体や個人が私的に祀っているケースまで含めればその数は限りない。
奈良時代に現在伏見稲荷大社のある地で、秦氏一族が農耕神を祀ったのが起源といわれる。祭神は日本神話にまつわる神だが真言密教と関係があって、稲荷信仰を全国に広めたのは弘法大師ともいわれる。世俗的なご利益神信仰(生産・豊饒の神、あるいは厄除・招福の神)として広く普及し、2月始めの初午(はつうま)を行事とするほか、狐を神の使いとみなす点に際立った特徴がある。

稲荷社に次いで多いのが八幡社で、この二つは抜けて多い。
八幡宮の発祥は大分県の「宇佐神宮」で、奈良時代(725年)に聖武天皇により創建されたとされる。(宇佐神宮では八幡神たる応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)とともに、二殿に比売大神(ひめおおかみ)、三殿に神宮皇后を合わせて祀っている。このためその後各地に勧請された八幡宮は、一般に三神を祀るようになった。)
平安時代(860年)京都に都が遷ると、清和天皇の命によって山城の地に分霊が勧請され石清水八幡宮が造られた。清和源氏と八幡神(八幡大菩薩)との結びつきは、藤原道長・頼道時代に鎮守府将軍として名をはせ、武門源氏の祖と仰がれる源頼信に始まるという。前九年の役で奥州を征定した頼義・義家父子は石清水八幡を源氏の氏神として奉り各地に勧請したが、相模国由比郷にも一社を創建した。その後天下を平定した頼朝はこの由比郷の若宮を現在地に遷座し、鶴岡八幡宮を造営して東国武士団統合の象徴とした。
八幡神は清和源氏の氏神とされたので各地の御家人は挙って鶴岡八幡を勧請したが、武士の時代となって武家の守護神のようにも扱われ、関東の総鎮守などともみなされて各地に八幡宮が造営された。村の鎮守様というのは八幡宮である場合が多いが、その由緒が鎌倉時代に遡るものが多いのはこうした背景による。

三番目に神明社がくる。神明社は「天照大神」を祀るもので、本社を伊勢神宮とする伊勢信仰である。伊勢神宮は内宮に皇祖神「天照大神」、外宮に「豊受大神」を祀る。内宮(皇大神宮)は垂仁天皇の創建とされるが、皇室が伊勢神宮を氏神とし祭祀を行うようになったのは天武天皇の時代(7世紀末)になってからである。
伊勢神宮は古代には皇室以外の参拝は認められなかったが、朝廷が勢力を失った時代に一般にも開放されるようになった。伊勢信仰は御師(おし)と呼ばれる下級神人が農村で布教活動を行った点で、神祇信仰の中では特異的であるが、近世になって(天照大神を中心にし春日大明神と八幡大菩薩を左右に配した掛け軸を用いる)「三社託宣」と称する思想が庶民の間に広まり、「伊勢講」が結成されて伊勢神宮への熱狂的な群参(「お陰参り」と称する)が行われたりした。
明治政府は社格制度において伊勢神宮を諸社の頂点に置き、国家神道の要に位置付けた。

 
自然信仰・山岳信仰の代表格は富士山浅間神社(祭神は木花咲耶姫神:このはなさくやひめ、一部に姉の石長姫の場合がある)、富士信仰の発祥は伝説では考安天皇か次の孝霊天皇の時代とされるが、実際に形が出来てくるのは平安時代のようだ。
富士山は記録に残るだけでも平安時代から江戸時代前期まで頻繁に猛烈な噴火を繰返していたので、今見るように秀麗な富士を拝むというだけでなく、火山に対する畏敬の念も強かったのではないか。近世には伊勢信仰と同じような大衆的な広がりをみせ「富士講」が結成され、夏に富士登山を強行した。富士吉田など山麓の村は富士講行者のための宿坊が軒を連ね、浅間神社の神職(やはり「御師」と呼ばれた)が全て取仕切っていたそうである。
神社はほかにもいろいろある。怨霊を鎮めるために神社を造り村の安泰を願った御霊信仰として天神社や新田神社、主に疫病退散を願って祀られた牛頭(ごず)天王(平安時代に初めて八坂神社に祭られ祇園の守護神とされたので、通称「祇園」或いは単に「天王」と呼ばれる)、山王・日吉(後の日枝)、春日、貴船、氷川、弁天、熊野、諏訪、白山、木曾(御嶽)、赤城、・・・。

(大田区の神社の種類については「大田区史」「近世の神社」に詳細な説明がある。)
(近世までの「神仏習合」や明治維新の「神仏分離」については、[参考29]の後半を参照) 


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   (御神幸祭行列の一部:五色の御旗〜人力車(大祭委員長)・朱傘・姫〜)

社紀によれば六郷神社は天喜五年(1057) 、源頼義、義家父子が奥州におもむく際、この地の老杉に源氏の白旗を掲げて戦勝を祈り凱旋後、石清水八幡を勧請したのが、その創建と伝えられている。
爾来、六郷八幡社は六郷一円の総鎮守として人々の崇敬を集め、慶長五年(1600)には徳川家康が六郷橋の竣工を祈願し、当社の御輿をもって渡初式を挙げたと史書にあり(御朱印十八石)、世の多くの八幡社が巴紋を用いているのに当社が巴紋に加えて葵の紋を使用している所以もそこにある。
平成19年(2007)は創建以来950年の節目の年にあたり、壱之神輿渡御・御神幸祭・獅子舞巡行その他の記念事業・奉祝行事が盛大に行われた。
平年は「弐之神輿」が担がれるようだが、2007年は大祭とあって「壱之神輿」の出番となり、弐之神輿は留守番役に回った。右の2枚は神幸祭の当日格納庫で展示されている弐之神輿を撮った。
「壱之神輿」と「弐之神輿」を比べると、弐之神輿はカラフルな感じを受け、壱之神輿は金色燦然という印象の違いがある。鳳凰は弐之神輿の方が断然大きく、木札の印字が壱之神輿では「六郷八幡」と書かれているのに対し、弐之神輿では「六郷神社」と書かれている違いも参考になる。

   (御神幸祭行列の一部:禰宜(乗馬)の辺り)

神幸祭とは、ご神体を神輿に乗せて氏子圏を渡御する祭だが、お囃子、鉄杖、高張提灯、・・に続く神職などの一大行列が巡行するもので、一之神輿(氏子青年会などによって担がれる)は、行列の最後尾に近い位置を4枚の大団扇に先導されて進む。
近世の六郷領は多摩川の北部のうち、世田谷領の東側(海側)にあたる部分の全域をいい、矢口から羽田までを含んでいた。六郷惣社八幡宮の氏子圏ということでは、多摩川右岸側の南河原から大師河原に至る地域をも含んでいた時期があるとされている。
現在の氏子圏は六郷14町で、神幸祭は午前8時に宮出すると午後6時45分の宮入までこれらの14町を巡っていく。
一之神輿を擁した行列は、神社を出ると一国を六郷橋の北詰方向に向かい、北野神社、高畑神社などを掠めるように反転して以後西六郷を北上する。(東急のバス通り) 志茂田に達すると右折してJRを渡り「三間通り」に出て仲六郷を南下する。(京急のバス通り) 神社の北側まで下ってきたら左折して七辻通りを北上し、水門通り、一国などを経て東六郷を北上。七辻で反転して以後南六郷を南下する。七辻通りを南下し1丁目に迂回してから水門通りを経て旧提通りに出る。旧提通りを西進して神社に戻るのが最終経路になる。

   (壱之神輿)

2007年6月10日は珍しく未だ入梅していなかったが、天候は不順でこの日も朝から雷鳴混じりの降雨があり、神幸祭は大変だっただろうと想像された。(宮出からの様子は見ていない。)
[No.43C] 以下の一之神輿3枚は、南六郷2,3丁目で、巡行の最終段階という場所で撮った。(幸い午後3時過ぎには太陽が覗くような天気となっていた。)
[No.43F] 以下の3枚は六郷神社の表門の外で、宮入の様子を撮った。[No.43F] は「木が入る」寸前。太鼓橋の側で担がれた人が拍子木を打つ構えをしている。担ぎ手の昂揚は容易には鎮静化されず、木は2度3度打ち鳴らされやっと拍手になった。
神輿はウマに載せられ、鳳凰が咥えていた稲穂の束(上の [No.54E] 参照)の結わえが解かれる。外された稲穂の半分程度は周囲に振舞われた。[No.43G] は稲穂を投げているところ。
実質的に神幸祭が無事終了した後、神輿は慎重に運ばれ、太鼓橋を渡って名実ともに宮入となった。[No.43H] は神輿が表門に入っていく寸前を太鼓橋の上から撮った。梶原景時寄進と伝えられる太鼓橋は、神橋として日頃は結界の柵で仕切られ文化財のような扱いになっているが、この日ばかりは通路の一部と化してしまう。

(以下余談だが、近代の町名変更や統合作業はいい加減なもので、(旧道塚村は六郷の1構成村だったが、現在では新蒲田という町名になっている例に見るように)現在六郷の名が付く町名の全てで、近代の六郷村をカバーしているとはいえない。近代の町名変更が如何に場当り的な作業であったかは、旧雑色村の辺りを南六郷と命名したことでも分かる。南六郷町は、東六郷町の東側にあたり、南とは一体何処の南なのか南の意味は全く不可解である。)



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