第四部 多摩川緑地 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その2 多摩川大橋下手の右岸 & "花火"


(小さな写真にはそれぞれ数枚ずつ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)
マークはクリックではなく、カーソルを載せている間だけ参考写真が開きます。)

 
多摩川大橋(第二京浜国道)からJR六郷橋梁に至る右岸は、六郷川の界隈で最も荒れた地区である。
多摩川大橋下手の右岸川裏は第二京浜国道までの間を小向仲野町という。橋の袂のビルは川崎総合科学高校で、この一画には市営住宅や県営住宅などもあるが、川寄りの広い部分は川崎競馬小向厩舎で占められている。
(多摩川大橋上手側の川裏は御幸公園。なお東芝小向工場や東芝科学館などが有名な小向東芝町は、多摩川大橋の上手側にあり、第二京浜国道を挟んで小向仲野町の反対側になる。)

川は多摩川大橋を過ぎると大きく右にカーブする。右岸の河川敷は橋の近くはゴルフの打ちっ放しで、その下手は川崎競馬の練習馬場になる。右岸の高水敷は馬場のところで最大幅300メートルに達するが、低水路に護岸があるのは橋の近くだけで、馬場の辺りでは低水路に護岸はなく、堤防下からだらだら下ってそのまま砂洲にいたる。
出走予定馬の調教は多分早朝に行われるので、昼間馬場で馬の姿を見ることは殆ど無く、この馬場がどの程度使用されているのかは分からない。
馬は堤防下の多摩沿線道路(市道:幸多摩線)を跨ぎ、堤防坂道を上り下りして馬場に出てくる。一般人は厩舎村に立入ることは出来ないが、第二京浜の側からその方面に近づくと強い動物臭が漂っているのでそれと分かる。
左の 「No.42B] は日曜日の10時半頃だったが、偶然に一頭出てきてダクを踏んでいた。正面にそびえて見えるのは、左岸のマンション「トミンタワー多摩川」。この辺の右岸側は高水敷の幅が広いので堤防上から川面は見えない。

練習馬場の外縁には(六郷橋より川上側では唯一の)まとまったヨシの群生地があり、複数のホームレスが「入植」していた。ヨシは水際では防風林のように残され、対岸側からではよく分からないが、その内側は「開墾」され本格的な野菜畑になっていた。

右岸側の河川敷は練習馬場を過ぎた辺りから次第に狭まる。この辺りでは堤防を通行する人は少なく、天端(てんぱ)面は舗装どころか平坦化さえ行われていない。ヨシ原が終わった後の高水敷は、散策路などはなく全面ボコボコの状態である。
ラジオ日本の巨大な送信アンテナが剥き出しで設置され、厩舎村角のポンプ場から出た排水路が高水敷を横切る。そこを過ぎるとかつて「小向の渡し」があった小向町に入る。
川下側の戸手町との境近くに、多摩沿線道路に面して(二ヶ領用水改修事業などで知られる)田中休愚ゆかりの日蓮宗妙光寺がある。
右の [No.42C] は左岸の側からこの練習馬場先の葦を見たところで、このホームページを開設するための準備期間中に撮ったもの。2002年当時撮った写真は、その後の更新により大方削除され、今ではギャラリーに残っているものは少なくなったが、ここにかってヨシがあったことを記す写真は貴重になった。

左の [No.42A] は右岸の張り出した砂洲の先で川下側を見ている。5月下旬の撮影で、ヨシの新しい茎が前年の穂を残したまま既にメートル級に成長し、この時期のヨシ群落に特有の景観を示している。左端に見えているのは妙光寺である。(小画像の方は川上向き)
この葦群落は(2004〜6年にかけて行われた)左岸の堤防増強の工事期間中に、入植地共々で全て掘削され消失した。
ここのヨシは今はもう跡形もなく [No.42C] や [No.42A] は懐かしい写真になった。
六郷川は実に工事の多い川で、あちこちで堤防増強工事が行われているが、掘削され消失するヨシがある一方、川も自ら大量の土砂を低水路に堆積し、水路を湿地にかえ、湿地にヨシを拡げていくので、川は年々その姿を変えていく。
向い側の左岸旧古川地区は、多摩川大橋方面から下ってくる流路がぶつかって迂回する正面にあたり、直轄改修工事で新提が造られる以前(近代)に、堤防が決壊し洪水が氾濫した記録写真が残されている。
その間(半キロほど)の川裏は、安養寺を含む戸建の密集した地域で、再開発などの機会を利用した堤防スーパー化の見込みが立つ区域ではない。ただ治水上相対的に重要な当地を手付かずのまま残していては、河川工事の思想そのものが問われることになりかねない。旧古川地区で例外的に川表の側に堤防を拡幅するという策が採られたのは多分そのような事情による。

2004年に始まった左岸旧古川地区の堤防強化工事は、天端の幅が2倍程度になるまで土を盛って堤防を拡幅し、川表側の新しい法面は傾斜を緩やかな形状にし、更に高水護岸を施すというものだった。高水護岸にも(低水護岸に比べればシートパイルの長さは格段に短いが)基礎が打たれ、最終的に表面は全て土で覆われ芝生が植えられた。
左岸側は川が急転回するために、低水路が堤防に迫り元々高水敷の幅が狭い区間である。そこで堤防拡幅工事に先立って、当該区間の低水路を幅20メートルに亘って埋立て、高水敷の拡幅(造成)が図られた。(古い「水制工」の見納めが行われた。)
これらの左岸の造成工事が全て川表に為されたため、高水流量を確保する必要から、対岸側の練習馬場先一帯が大幅に掘削され、その時点で上掲したヨシの群落やホームレスの耕作地は跡形も無くなった。
左の小画像は2006年4月初め、馬場先の掘削された場所に下りて上流側を向いている。[No.42Ha] は同じ場所から川下側を向いて撮った。左岸に出来たばかりの堤防法面が続く様子が見える。画面の右端近くが安養寺の位置になる。次の [No.42La] は川下に進んで更に先の方を撮った。左岸は多摩川緑地の入口になる大田区民広場の手前辺り。こうして見ると掘削仕事はかなり荒っぽいが、掘られた土は左岸の工事に利用されただけでなく、現在進行中の戸手地区のスーパー堤防工事にも利用されるようなので、この姿は途中経過ということかもしれない。

左の [No.429] と、2002年の花火の下に載せている [No.430] は、妙光寺近くの堤防上から撮っている。2002年の花火が行われるより前の撮影で、花火を撮影した場所とほゞ同じ位置から左岸を見たものである。
花火はこの位置から両写真の中間位を向いて撮っていることになる。手前の荒地の様子や川幅の見え方、テクノピアの建物などは参考になるだろう。
妙光寺の角で小向町は終り、そこから戸手3丁目、4丁目と続く。ここから川下の戸手の堤防はその上を通行するような状態にはなっていない。その代わりのように並行する多摩沿線道路に歩道が作られ、堤防上を通行してきた人は市道に下りていくようになる。
堤防道が川裏の市道に下りていくところから、一方川表の側では、堤外地に民家が密集する異様な状況が続くようになっている。(参照 [No.438] 「左岸から見た堤外地」) 流路は戸手町で左に転回しはじめ、六郷橋までに90度回転する。
戸手町地先の高水敷は戸手ポンプ場の水門を越えた先で消滅する。そこから先の堤防敷はグランエステ・川崎ツィンタワーや多摩川サンハイツなどのマンションが立並び、JR橋梁までの間は一転して近代的な雰囲気に変わる。
(テクノピアのある堀河町から戸手の堤外地に掛かる一帯は、2006年現在スーパー堤防工事が進行中で、戸手周辺の堤外地の異様な景観も過去のものになりつつある。)


花火の祭典 [2002年]

アゴヒゲアザラシの「タマちゃん」が多摩川から姿を消した日の8月17日に、二子玉川で「世田谷区たまがわ花火大会」が行われていた。そのことで多摩川の花火が一躍全国に知れ渡ることになったが、ここに紹介する花火はそれではなく、その二日前の15日に、大田区平和都市宣言記念事業として、多摩川緑地(大田区西六郷4丁目地先)で行われた「花火の祭典」と称する方である。(打上げ場所は多摩川緑地の最奥部、瓢箪池の脇辺りで、両岸の堤防からほぼ等距離の位置になる。)
この花火大会は、大田区が昭和59年に平和都市宣言を行ったのを記念し、昭和62年から毎年8月15日に開催されるようになった祭典である。当初はジャズフェスティバルがメインイベントで、花火はそのフィナーレというような位置付けだったが、花火を目当てに人が集まるようになって、いつしか名前も花火の祭典に変わった。(30分余りの時間に5000発を打上げる。最近では10万人以上の人出という。)

撮影のためにどこに陣取るか迷った末、対岸の右岸に行くことにした。(かって花火が水平に飛んで、観覧席の最前列に打ち込まれたことがあり) 広範囲に立入り禁止区域が設けられるなど大田区の規制は相当うるさい。左岸側は猛烈な混雑が予想され、どの辺りで三脚を構えられるか保証の限りでは無かった。打上げ場所は張り出した緑地の突先なので、位置的には多摩川大橋の近くからでも十分見えるが、ここ数日南寄りの風が強く、川上側へ行くことには不安があった。花火は煙によって綺麗に見えないことがママあり、風下側を避けるのは常道である。
上手く撮れれば「六郷川の四季」と銘打ったHPの1ページを飾ることになる筈で、是非川面に映る花火を撮ってみたいという気持ちも、対岸行きの判断を少なからず後押しした。打ち上げ場所の川向は「戸手の堤外地」。川下側のスーパー堤防一帯は人込みが激しく、自転車の乗り入れを禁止していたので、陣地は否応無く「戸手の堤外地」の川上側と決まった。

最近では花火の打ち上げ操作も、かなり自動化が進んでいるようで、工場内でセットを済ませ、現場では装填済みのパッケージを並べ、点火コードを配線するだけ、点火自身は手で行うが、その他はコンピューター制御というケースが多いと聞く。
特にこの大田区の「花火の祭典」は、以前から一気呵成に打ち上げ、殆ど間(ま)をあけないという傾向がある。実際この日も、5000発はほゞ一気に打上げられ、モニタで写り具合を見て調整するような余裕は無かった。

写真はまともに写ったものから8枚を選別し時系列で並べた。経験皆無だったので勝手が全く分からず、単発の割物(わりもの)では露光のタイミングが難しく、露出不足のためまともに撮れたものはなかった。
(2004年ものを掲載した時に、重複傾向になる3枚を別の写真に差替えた。)

ここに掲載した花火の写真中で、右手前に写っているのは川崎テクノピアのビル群、その先は右岸沿いのマンション群、マンション群の途中に六郷橋があるが確認しずらい。(この下の方の [No.430] 参照) 正面下方に横一列の点列が見えのは、河川敷(多摩川緑地)の中央舞台方向に張られた提灯(ちょうちん)列で、この日だけの特設照明である。提灯列以外にも強力なレンタル照明が数ヶ所設置されこちらを向いている。

撮影場所がこちら側の堤防上という位置関係で、川面に映って見えるのは打ち上げ途上(発射中)の光になる。(上空に達して開いているものは位置が高過ぎて、対岸の堤防の上では、川に映る範囲を越えている。)
従ってスターマイン(速射連発式)の最中でないと、上空の花火と、川に映る光りを同時に撮ることは出来ない。([No.427] は一連の打上げの最後のもので、次が打上げられていないため、川面に映るものがない例になる。)

デジカメは色フィルターで分光したRGB信号をフォトダイオードで光電変換するが、センサーは人の目ほど広範囲の明暗対応能力がない。線形に処理できる輝度範囲には制約があるため、範囲に収まらない部分でいわゆる”白トビ”や”黒ツブレ”現象がおきる。
例えば、入力値が、光量の差を区別できる上限を超えている場合には、一定の飽和値を出力するだけで、もはや入力値の差異は表現し得ない。即ち、入力するRGB値に差異があり、実際には有彩色のものであっても、RGB値のいずれもが輝度限界を超えていれば、全て同等の飽和値が出力されることになるため、結果としては白色に表現されてしまう。
[No.421] 以下、打上げ途上の光が直に写っている部分は、全て白く光っている。(人の目にも白く見えていたかも知れないが)、これが典型的な”白トビ”現象である。同じモノが水面に映ったり、周囲の煙に反射したりして、間接的に写っている場合には、光量が著しく減少するため、RGB値が正しく変換され、鮮やかに彩色されている。あたかも白いものが水に映ると彩色されるかのような、不思議に見える現象はこのようにして起きている。 (この現象は [No.342] などで、夕日自身は黄色っぽく輝いているのに、周囲の空は散乱光で赤っぽく着色して見える理屈に似ている。)


川裏を並行する市道(多摩沿線道路)は国道(府中街道)に合流して終わるが、その辺りで堤外地の背後を仕切っていた堤防は消滅し、そこから川下側は一転してスーパー堤防に置き換わる。幅広い堤防上にマンションが5棟建ち、府中街道が堤防と殆ど同じ高さで並び、その間に”スーパー歩道”が開ける。歩道は広々としエレベータを擁した近代的な歩道橋なども整備され、この辺りはチョッと未来的な印象を受ける光景になっている。

多摩沿線道路が府中街道と合流する辺りは、新しいマンションが建ち並ぶ河原町で、その先は緊急用船着場が出来ている場所が幸町、川裏にテクノピアがあり堤防が赤レンガ階段になっている所が堀川町と、短い間にこの辺りの町名は目まぐるしく変る。
川上側からJRの橋梁までが幸区で、JR線を境に川下側は川崎区になる。川崎駅が向い合うJRと京急の間は駅前本町と呼ばれ、JR橋梁から六郷橋までの六郷の橋梁群がある堤防際は、川下側の川崎区本町2丁目に属することになっている。

多摩川大橋から六郷橋までの区間の右岸側は、戸手地区の異様さが目をひき、近代的なその川下寄りとの対比が何とも複雑な印象を与える区間である。

2003年は冷夏で梅雨明けが8月にずれ込み、夏が無いような年だった。8月15日は関東地方が大雨で花火の祭典は中止になった。



花火の祭典 [2004年]

2004年は一転して、東京は7月に最高気温が2日続けて39度を超え、連日最高気温が35度に達する猛暑になった。8月15日は連続真夏日が40日を記録した翌日になったが、この日南下してきた前線が東京地方を通り、午前中は雨が降って連続真夏日は途切れた。
午後から雨は上がり、凌ぎ易い気温になった。花火を撮る機会は滅多に無いので、経験を積む意味で撮影に出かけた。
例年左岸は大変な人出で何かと規制がうるさい。夕日を撮っている安養寺の方からでも、川が入る花火を撮れる可能性は高いと思うが、この日も風は弱く、風下では滞留した煙が邪魔になる危険がある。打上げが始まってからの移動は不可能なので、安全を期して2002年に実績のある右岸に行くことにした。
(大田区のホームページでは右岸に行かないように注意していたが、私の行った「戸手堤外地」の上手では、大した混雑は無いし、地元の消防団などが警備していて危険な雰囲気は全く感じられなかった。)

花火は夜景の一種と言えなくもないが、撮影は普通の風景を撮る場合とは全く異なる。
被写体が動くことも風景写真としては特異的だが、雰囲気の明るさや被写体の輝度が短時間に激しく変動することが最大の特徴だ。
初めて花火を撮影した2002年には、花火は暗い中で撮り光量が不足するだろうという思い込みがあった。そのためISO(ASA)400にして臨んだりしたが、撮影してみて全くその必要はなく、感度を上げれば却ってノイズだらけになってしまうことが分った。
また2002年には設定をオートにし、毎回シャッターを半押ししては、露出と距離を合わせて撮っていたが、これだと花火が開いてからの勝負になり、チャンスに遅れてしまったり、適正露出がズレてしまうケースがある上、単発の割物(わりもの)などはタイミングが間に合わず、殆ど撮影不能だということも経験した。
2004年は2002年のこれらの経験から露光はマニュアル設定で固定しておくことにした。適正露出からのズレは事後にソフトウェアで対処し、露出過多で潰れてしまったケースは諦めるしかないと考えた。

CCDカメラは、ガンマが単調だから上限下限ともすぐ潰れる、と思われ勝ちだが、実際には識別能力は相当高い。ただ写真自身が情報を記録できていても、ディスプレーの標準的なコントラストではそれが表示されないという事情があるため誤解されている。
(一見したところ「白トビ」「黒ツブレ」しているように見える部分も、コントラストを下げていくと結構に情報を表示してくる。とことんコントラストを下げていった時、最終的にベタになってしまう(情報化出来なかった)部分は意外に少ないものである。)
ただし単発と連発では光量は何倍も違い、花火が次々に重なった中心部では輝度レベルが極端に上がるので、単一の露光設定で全てを正常に記録することは不可能だ。
CCDカメラはもともと暗視能力が高いし、ソフトウェアの事後処理では、どちらかといえば明る過ぎるより暗過ぎる写真の方が助けやすい。割物に魅力あるものもあるが、スターマインは何としても撮り損ねたくない、などの諸事情を勘案すると、露出の設定は低めで臨むのが無難と考える。
距離は多分100〜150メートル位だからは距離は無限遠にしてピント調整はしない。

花火は肉眼で見ても残像が重なる性質のものだから、写真でも少しは光跡を引っ張ることが許されるが、あまり違和感を感じさせない程度で抑えなければならない。
日本の打上げ花火の基本形は「菊」と「牡丹」。「菊」は中心から放射状に金色の火の玉(星)が光跡を引き、先の方で別の色に変わったり、消え際に白く輝いたりする。「牡丹」は燃えて発光した星が弾けるように八方に散り、全体が球状にパッと拡がって消える。「牡丹」も2重3重に色を変えるものを見るが、星が尾を引いたり垂れたりすることはない。
当地の花火は多重化された「菊」が主役だが、頭上高く打ち上げられる大玉は「牡丹」の場合も多い。シャッタースピードが1/10"程度では、「牡丹」の星も尾を引いたように写り、「菊」と区別が付かないような絵になってしまう。極力シャッタースピードを速くしたいということだけからいえば、理想的には絞りは開放(F2.8)にすべきだが、開け過ぎればピントや解像度の方に不安が生じる。
殆ど経験が無いので(大した根拠もなく)F5.6まで絞ることにし、シャッタースピードはとりあえず1/4"でスタートして、これだけは現地で最適レベルを探ることにした。

ここの花火は小さいもの大きいものが休み無く次々にくる。いちいちズームを触るのは得策ではないので、トリミングの余地を大きくするために画像サイズは大きく(1600×1200)しておきたい。
何よりも一瞬のシャッターチャンスを逃さないために、「連写」が可能な体勢をとっておくことが重要だ。そのために必要なら画質などのことは犠牲にする。
メディア(CFカード)は1GBを使用しているので、通常のファイン画像なら1500枚は楽に撮れる。シャッター数の制約は全くないが、電池が持ち堪えるか否かは微妙だ。この手のショーは最後に山場がくる。交換に踏み切るタイミングは決断と運だ。

打上げは7:31頃に始まり、8:15頃までほとんど休み無く続いた。2002年にはシャッターを押した回数は150回程度だったが、連写体勢で臨んだ2004年は640回と4倍以上に達した。(電池は早めに交換したが運に恵まれロスは皆無。) 殆ど何も写っていないものや、完全な白潰れなどあり、有効率は7割程度だが、主要な出し物はほゞ撮ったと思う。

2004年の花火は2002年と内容的には殆ど同じだったが、2004年には [No.421]〜[No.424] の系統のもの(太椰子?)が殆ど無く、無彩色系の単発ものが冗長に続くなど、何となく単調で盛り上がりに欠ける印象が否めなかった。2002年の記憶が鮮明ということはないが、私的には2002年の時の方が迫力があって良かったように思う。

ギャラリーの掲載は時系列順。容量の関係で掲載できる枚数には限りがある。満遍なく拾っていくということでなく、スターマインの連写を重視することにした。
D,E,Fはスタート直後、1筒による錦冠(かむろ)の連発で、後半色ものが少々添加された。見出しの小画像はその後10分余り経った頃、胡蝶のようだがものは小さい。(もう一つも綺麗だったがやはり小さかった。)
G,H,J,K,L,Mは20分後(以後時間の記載は全てスタート時点基準)に20秒間続いたスターマインの連写から抜粋。主として青系統で、このくらいの光量だと極端な白潰れは回避される。見出しの小画像は連射が始まる24秒前。
N,Pは23分半経過時で2枚の間隔は3秒。(見出しの小画像はNの8秒前。) Nは低い「曲打ち」だけの構成で、あたかも川に映すために打ち上げているような感じだ。

Q,R,Sは24〜25分後の単独もの(間隔は11秒と5秒)。見出しの小画像はSの19秒後。(この小画像は中心が潰れている。) Qで窓が赤く染まって見えるビルは川崎テクノピアのソリッドスクェア。Sは先が尖りこれがヤシと呼ばれるものか。
次は30分後近辺の金柳だが、容量不足の関係で当座割愛。次のハリセンボンみたいに写っている小画像は32分後頃。一輪が3色(4色?)に分けられいて新鮮味があったが、ものが小さく印象は薄かったのではないか。(大輪だったらインパクトがあったと思う。) 類似のものは数発あったが、あまり色分けに成功している感じではなかった。
Tは39分後。この頃の時間帯に打ち上げられていた最後から2番目のもの。

UはTの30秒後から始まり、10秒間、5筒で連射された白色スターマインの初期の1枚。
この白色スターマインは打上げ途上は紅と青の2色が見えるが、開いた花は全て(幾分赤味の)白色である。見ていて飽きないが写真としては代り映えしないので1枚だけ載せた。
(2002年にも同じ種類の速射連発があり写真も掲載していたが、重複するので今回2002年のものは打上げ時も白い別の写真 [No.426a] に差替えた。)

2002年は早い時間帯にスターマインがあったが、2004年は初めの数分間単発やそれに近いものが続いたため、モニタによく写らず、シャッター速度を1/2"〜1"に変更したりしていた。しかしスタートから10分経過後には1/3"に固定し、以後終るまで1/3"で通した。Uを撮った時点は既に1/3"に固定しているが、ここで連写した15枚を見ると、連発が重なる中央部が次第に白トビし、後半の6枚はほぼ全体的に白潰れの状態だった。
(カメラに付属のモニタでは判断が難しかったが、全体的にカブリ気味で、事後の評価としては1/4"〜1/5"程度にする方が良かったと思う。露出が不足し暗くなると、色が赤味掛るので「色褪せ」の補正をする。スターマインだけを狙うならシャッター速度は多分1/10"より速い方がよい。)
V,W,X,Yの4枚は終盤(42分後)に20秒間続いたスターマイン。黄・桃・青・緑・赤の5色を横に並べて速射連発するもので、2002年は比較的早い時間帯にこれが組込まれていた。(以前は2002年のギャラリーにこのスターマインの中から1枚を掲載していたが、ISOの設定を400にして撮ったケバイ感じの写真で、重複することもあり2004年版掲載の機会に削除し別の写真に差替えた。)

この5色のスターマインは当地「花火の祭典」の十八番(オハコ)といえるものだが、2004年ものでは下部に「虎の尾」をクロスさせていたことが分る。
挿絵の小画像がスタート時点のものだが、先ず「虎の尾」の曲打ちから始まり、やがて5色(正確には色数はもっと多いのかも知れない)の競合がしばらく続いた後、「虎の尾」が先に消え、最後はトラのオがなくなった姿になっている。(このスターマインでは打上途上の色と破裂後の花弁の色が同じになっている。)

フィナーレは4連の金冠。これも打上げ途上を見ると、外側の2筒はグリーン系で、内側の2筒はピンク掛った赤系になっているが、開いた花は全て金一色だった。先の5色のスターマインは15枚撮り、潰れたものは1枚も無かったが、フィナーレの方は16枚撮った内の2枚が、露出過多で完全に潰れていた。(フィナーレの錦の方が星の寿命が長いことと、全体の大きさが大きいことが関係していると思う。)
何故かフィナーレの時だけカメラが下を向いて、写真は全て上部が切れてしまっていたので1枚だけ掲載した。皆同じような錦冠だったが、一度だけ柳の前に白物を合わせた異色なケースがあった。(これを見出しの小画像にした)
最後の見出し画像だけのものは、フィナーレ後の余韻のようなもの(pm8:15)。


 花火の祭典 [2007年]

2007年は初めて左岸(西六郷4地先)河川敷の、堤防に近い野球グランドの手前に三脚を構えた。体制をとってみると、右岸で撮っていた時とはかなり勝手が違うことが分かった。
後方の投光機に照らされ、手前が経験の無いほど明るかったのである。
右岸では投光機は逆光の星として見えていたが、三脚を置いている辺りは真っ暗で、懐中電灯を使わないと設定変更などの操作は不可能だった。一方こちらではカメラの操作ボタンがよく見え、その代わり液晶モニタは白っ茶けてよく見えないという状態だった。
花火がどこに上がるのか正確には分からなかったが、どのみち打上花火は上空だから、この明るさは露出には関係しないハズだと思い、かつての記憶から絞りをF5.6にし、とりあえずシャッタースピードを1/6"にして準備を整えた。
定刻の午後7時30分、先ず遠くの川岸の方で、右の小画像のような仕掛け花火が始まった。(この手の仕掛花火は例年あるそうだが、今まで右岸からだとこういうものが見えた記憶はない。打上花火と違い、裏側からは支持板が陰になって燃えている部分は見えないということだろう。)

花火の撮影は3年振りだったし、初めてのロケーションで勝手が分からないこともあって、初めの5分間くらいは殆ど何も撮れなかった。
初めの頃は散発的な打上がほとんどで、これが撮れないことは既に経験済みである。
世の中では、花火の写真は絞りをかなり絞った上で、レリーズを使い(長い場合には数秒間の)バルブ撮影を行う方法が常道とされ、単発の打上でも撮れることになっている。ただしバルブ撮影はブレを防止するための細心の注意が必要であり、そのためのもろもろの体勢が前提とされる。
写真コンテストの世界では、花火の写真はヒトが残像の範囲で見るものとは違い、牡丹は菊のように、菊は柳のように光跡を曳いた写真が良い写真とされる。並みのデジカメでは到底そのような写真を狙う気分にはならない。あくまで瞬間映像での勝負である。
露出はスターマイン(連射)に照準を合わせ、画質は犠牲にしても、チャンスを逃さないように連写出来る設定にする。
それにしても、あまりにも何も写っていないような気配が続くと、思わずシャッタースピードを落としてみたりする。[No.42Q1] は開始6分後、[No.42Q2] は7分後の各1枚である。

[No.42Q3] は既に開始後13分経過している。不作続きで幾らか焦っていた時間帯だが、この頃としては珍しく明るかった。下の点列は提灯で、その手前に白っぽく見えているのは、グランドの先から規制線までの間に座っている観客の後姿である。
[No.42Q3] に限らず、この日は赤と緑の組み合わせが多かったように思う。
[No.42Q4]〜[No.42Q7] は、上の赤と緑の数回の打上の直後である。1分間程度続いた中で、比較的明るく露出の合ったもの4枚を順に載せた。お化けタイプの打上だが、これも赤と緑の組み合わせを基調にしていた。
その後7時45分にまた低水路に寄った方で、平和都市宣言と書かれた仕掛け花火が始まった。[No.42Q8] は提灯の大きさを見れば分かるように、これは打上に比べれば小さく、遠くの方をズームで撮っている。左側の鳩が2重になったように見える絵は、大田区が平和のシンボルマークとしているもの。
その後の [No.42Q9]〜[No.42Q11] は仕掛けが終わった頃に続けて打ち上げられた。花火というより照明弾という趣だが、明るかったしこれはこれで見応えがあった。
(写真では光球から放射対称形に伸びる輝線が14本写っているが、この本数は絞りの開口部が7角形をしているため・・? 何故7本でなく14本に・・??)

[No.42Q12]〜[No.42Q14] はやや単調な色の無い花火。大きな環を伴うものなどあり、これまでにもハート形など、何か狙いのある工夫された打上もあったようだが、残念ながら露出不足で撮れていない。
写真の記番で [No.42Q〜] とQで始まるものは7時台の30分間に撮った写真を示している。まともに写っていたものは少なく、掲載は全部で14枚に止まったが、シャッターを押した回数は630回余りに達していた。やや冗長に感じたこの直後に電池交換に踏み切った。
電池は最後まで持つのではないか・・という迷いがあって、交換に踏切るタイミングが遅れ(所要約2分)、ここで幾らかの撮り漏れを生じている。

この時点で時計は既に8時を回っていたが、この日の花火は期待していた通り、ここから残りの10分が真骨頂で、このあとシャッターを押した回数は220回程度だったが、その時系列の中から選んで25枚を以下に掲載した。(8時以降の10分未満に撮った写真は、記番を [No.42R〜] とRで始まるものにして区別してある。後日パンフを見ると、残り10分の見どころに”怒涛の3500発”という文字があった。)

右の小画像のような艶やかな牡丹が上がっていたのは8時3〜4分過ぎの頃で、仕掛けのナイアガラが始まったのはその直後の8時5分過ぎ頃である。
ナイアガラのワイヤは長さが100メートルもあっただろうか、両端をクレーン車で高く吊り上げてあって、他の仕掛けと違い、河川敷を横断する形で目の前に用意されていたため、その規模は始まる前から予想できるものだった。
ただ何時に行われるのか知らなかったし、常に上空方向を追い続けていたので、いざ始まってみると慌てたもので、最初の頃はかなりブレてしまい、まともな写真になっていない。

   (ナイアガラ点火直後、ロープを火が伝ってくる様子)

仕掛けロープは川側から点火され、火が堤防側まで全長を走ったあとも、未だ上空には打ち上げが続いていた。 [No.42R2],[No.42R3] は幾分落着きを取戻した時点だが、まだ幾らかブレている。その後打上は止んで、全員仕掛けに注目となり、 [No.42R4] のようにロープは赤く変わって、その直後からナイアガラの滝の流下が始まった。
ほどなく銀色が欠損部なく綺麗に流れるようになり、落着いて態勢を整え、構えて写真を撮る余裕は十分あった。点火から擦れはじめるまでおよそ2分間の見ものだった。

以後終了となる8:10までの3分余り、花火は休み無く打ち上げられた。結果は運任せという気分で、シャッタースピードは1/10"に固定して撮り続けた。
[No.42R6]〜[No.42R25] までの20枚は、この間に収録できたものを、小画像を含め時系列で並べたものである。さすがに最後の数枚は全面白潰れになって色が出なかった。この圧巻の様子は以下に参考写真として、打上の根元部分のみをのせておいた。打上根元部分のこの猛烈な数から、その激しい様が想像していただけるだろう。この上の本体部分は、肉眼ではあくまで色彩があったが、写真では重なって単なる露出過剰となり、センサーが彩色できる限界を超え全て白化してしまった。

   (怒涛の3500発、終了間際の打上地上部の様子)

2007年は大田区の区政60周年に当り、「花火の祭典」は例年の5000発を上回る6000発が用意されていることは事前に広報されていた。ただ時間は例年通り40分ということで、それだけ密度が濃い打上になるという予想はあった。終わってみると、濃い分は最後の数分に凝縮されていたような印象だった。
今まで対岸からでは見えなかった仕掛けを見ることが出来たが、ナイアガラの滝はこの年が初めてで、区政60周年の特別企画だったようである。

(以下余談)

2005,2006年は花火の祭典は予定通り8月15日に執り行われた。写真が無いのは、私の方にアレコレのことを同時並行して行うだけのスタミナがなかったためである。
2005年の夏はバンの繁殖に出くわして、南六郷地先のヒメガマ群落に通い、バンのヒナを追っていた。2006年は夏の初めに、殿町でトビハゼの撮影に入れ込み過ぎて、持病の腰痛を悪化させてしまい、余力としては本羽田のトビハゼを撮るのが精一杯だった。

2007年は7月頃には、今年は久々に花火を撮ろうかと考えていた。もともと多摩川緑地で行われる大田区の花火は、川面に映るところを「多摩川の汽水域」の一景にしたいとの思いで始めた。そのため撮影は水路を挟んで、対岸(右岸)の戸手〜小向側から行うものと決めていた。

ただ戸手の堤外地近傍ではスーパー堤防工事が佳境に入っていたし、2005年に左岸旧古川地区の堤防増強工事に合わせて、右岸の練習馬場先の外縁部が掘削されたことに伴い、当該地の葭原に入植していたホームレスが追い出されて、小向地先一帯の高水敷(堤防法尻)に展開するなど、右岸の様子は2004年当時とはかなり状況が違っていたので、事前に撮影立地を下見するなどの準備が必要だと思っていた。
ところが7月下旬に、今夏は六郷の葭原に試験区域を設けてヨシの夏枯対策実験を行うという河川事務所の広報があった。生態系保持空間に手を染めるというのは、55年以来の方針の大転換であり、そうであるならばこの際ヨシ原のウラギクを保全してもらおうかという気になって、六郷のウラギクを頻繁に見て歩き、その全容把握に注力するようになった。
かくして2007年の8月も、右岸に行って花火を撮るだけの余力は無くなり、当初予定は中止することになったが、(地元の左岸からでも)どうせ見るなら、一度は六郷の方から撮ってみようかという気持ちになったものである。

初めてのロケーションで戸惑いはあったが、結果としてはマアマアだったと思っている。花火の写真は難しい。あれこれ狙っていては全てを撮り損なうおそれもある。例年を1000発上回るという予告から、あくまでスターマインのキャッチに照準を合わせ、1/10"で粘ったのが成功したと思う。F8の方が良かったかも知れないが、現場は明かる過ぎて、モニタでは写り具合が判断できない状況だったので、敢えて条件を試すような冒険は避けた。

一方ヨシ原のウラギクは、保全してほしい場所や趣旨を懇切丁寧に、繰返し3度にわたって説明した。保全通路の数十メートル区間だけ、草刈機を数メートル片側に寄せてヨシを刈って貰えば済む、(予算措置など必要ない)何一つ難しいことのないお願いだったが、8/23に河川事務所は保存してほしいと指摘したウラギクをあっさり根こそぎ刈り取ってしまった。
(話が通じていなかったという様子は事前には感じられなかったので、無残な結果に終わってしまったのは、担当者に最初からその気が無かったためとしか思えない。)
かつての日本には使命感に燃え誇りを持って働いた官僚の逸話が幾つも残されている。近年の緊張感を欠いた役人が、毎日何を考えて職場にいるのかは全く分からない。頭の中は、談合、天下り、裏金作り・・そんなことばかりなのだろうか。役人がこんな根性では規制緩和など進むはずもなく、政治家の唱える構造改革は何一つ実効を上げ得ないだろう。



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