第四部 多摩川緑地 

(六郷橋周辺の地図を表示)

   その3 多摩川緑地 (上)


(小さな写真にはそれぞれ数枚ずつ拡大画面へのリンクがあります。写真をクリックしてください。)


多摩川大橋下手の左岸堤防上は自動車専用道路になっているが、この都道424号線(瓦斯橋大師橋線)が通称「旧堤通り」と呼ばれるのは、大正後期から昭和初期に掛けての内務省直轄改修工事により、多摩川下流が大規模に改修(主として築堤)される前まで、左岸の堤防が概ねこの通りの位置にあったからである。
 (左岸の「旧堤道路」と「小向の渡し」については [参考10]

ガス橋から堤防の裾を走ってきた「旧堤通り」は「トミンタワー」の前から1キロ余り堤防上に上がりこみ、シャープ流通センター手前で左折し堤防を下りていく。以後「旧堤通り」は大師橋まで現堤防の数百メートル北側を進むようになる。旧提がシャープから先も都道の線にあったということは、取りも直さず、シャープ流通センターから先に続く現在の堤防は、直轄改修工事の際新しく造られた新堤であるということを物語っている。

[No.431] は低水路が湾曲し続け、堤防が水路から離れていくようになる辺り。高層建築は「トミンタワー多摩川二丁目」で、都道「旧堤通り」は多摩川大橋を潜った後、この手前で堤防上に上ってくる。[No.432a] は同じ場所を河原の方に下りた位置から撮っている。[No.431] は夏の雲が出ているが、[No.432a] は真冬で日没から40分位経った後の写真。(この夜景を撮った日の他の写真は、「第三部 その4」の最後に掲載している。)
川道が大きく右旋回するこの旧古川地区(トミンタワー〜安養寺)は、改修される前の古い時代に決壊した前科があり(多分明治43年の大洪水時)、資料を探しているとこの辺りで堤防を修復している最中の写真を見ることがある。
トミンタワーから川下側の湾曲部の堤防には高水護岸が施されていたが、コンクリートパネルが貼られているのは、堤防法面の2/3程度の高さまでで路肩には達していなかった。

近年川裏が再開発されるケースでは、多くの地区で堤防の「高規格堤防」化が図られている。ただこの古川地区では、川裏は寺や戸建民家などの小規模建造物が密集していて、とても大規模な再開発が見込める状況ではない。
川が押してくる相対的に弱い箇所を放置したままでは、他所の地区で現に進行している高規格化事業も説得力(大義名分)を欠くことになりかねない。ということで、この地区では例外的に川表の容積を潰して堤防強化が図られることになった。
2004〜5年は先ず、多摩川緑地が始まる入口にある区民広場の川上側から多摩川大橋の方向にかけて、幅約30メートルで低水路を埋め高水敷を造成した。長さ数十メートルのシートパイルが打ち込まれ根固めブロックも大量に投入されたが全て水没し、見える部分は植生を受け付ける作りの階段式護岸が採用された。
2005〜6年は堤防が拡幅された。天端面はおよそ2倍に広がったが、管理用通路として確保され並行する都道に開放されることはなかった。新しい堤防法面は傾斜が緩く作られ裾幅は相当に広がった。短いながら高水敷にもシートパイルが打たれ基礎の上は河川敷の道路になった。法面には全面に抗水パネルが貼られ、最終的に土で被覆された上に芝が植えられた。こうして工事が完成した後最初の初夏を迎えた時、2007年5月初めに、川上向きでこの辺り一帯の様子を撮ったのが右の小画像と、ギャラリーの [No.43Z] である。
工事前に撮っていた上の [No.431] と比較して見れば、高水敷が広くなった分で湾曲の食込みまで緩くなったような印象を受ける。

六郷川では、新しい外来植物種は殆ど全て工事用の土に混じってやってくる。
この古川地区の堤防増強工事は規模が大きく、1キロメートル余りの法面を全面的に塗り替えるものであったから、何がやってくるか興味津々という面があった。
実際は上の[No.43Z] に見るように、法面、平面とも緑が見える部分は圧倒的にシロツメクサだった。ここの工事後に出てきた植物種は、専門家が調査したところでは70種に上るということだったが、私が知っているのは高々10種類くらいのもので、普通に揉み合いになっている近隣の法面に比べれば、ホソネズミムギやヘラオオバコなどが少なく全体にかなりシンプルな印象を受けた。
シロツメクサ以外で最も目立っていたのは、特に川下側(安養寺側)で多く見られたハルシオン。ハルシオン自身は極めて平凡な野草だが、これだけまとまって群落のようになって咲いているハルシオンはこのとき初めて見た。
特筆すべきは川上側(トミンタワー寄り)に群生し、150メートルほどの幅に亘って法面を薄紫色に染めたマツバウンランで、当地ではこれまでは見られなかったものである。
群生が見られたハルシオンとマツバウンランを除けば、他のものは量的には皆少ないが、比較的目に付いたものを幾つか掲載しておいた。帰化植物は繁殖力が強いが、今年はあくまで持ち込まれたものが出芽した過渡期の姿を呈していて、当地の環境で何が勝ち残り、2008年にどのような姿が見られるかは未知数である。

マツバウンラン(Linaria canadensis)はアメリカ原産、ゴマノハグサ科(ウンラン属)の帰化植物で、同じゴマノハグサ科の野草としては近辺にオオイヌノフグリ(クワガタソウ属)があるが、双方に似たところは全く感じられない。
マツバウンラン(松葉海蘭)は、草丈30cmほどで、直立した茎の先の方に花が鈴なりにつき、びっしり群生した姿には藤棚をひっくり返したような印象がある。
花は4月には咲いていて、この辺では今まで見たことがなかったので、すぐ注目はしていたが、生憎カメラを持って出る体調になく、撮影は5月初旬になった。咲き始めの4月に比べれば美しさはやや下火になっていたたように感じた。
マツバウンランが日本(関西)で初めて確認されたのは20世紀中頃というから比較的新しい種類だ。大きな群落を形成することは珍しくないものの、群生すると限ったものではなく、路傍や畑の畦にポツポツ並んで咲いていたりすることもあるらしい。
下の方にある線形で幅1〜2ミリの細い葉が名前の由来になったというのが通説だが、草の全体が細長い格好をしていて、その様子が松葉にたとえられたという説もある。
唇形花冠としてはシソ科の花が良く知られるが、この花も唇形で、上唇と下唇からなる。上唇は小さめで、白い隆起部と3枚の花ビラからなるのが下唇。

雄しべや雌しべは上唇と下唇の中間位置に奥まっていて、白く隆起した下唇が塞ぐような形になっている。このように隆起部で塞がれ花びらしか見えないような花を仮面状花冠というらしい。
(近縁の変異種に花が少し大きいオオマツバウンランというのがある。中央に似たような隆起部は認められるものの、周囲の花びらの紫色と隆起部の白さのコントラストがマツバウンランほど明瞭ではない。花の色はマツバウンランより幾らか薄く、表面全体に紫色の細い筋模様が入る特長がある。)

左岸の旧古川村地先(2006年までに堤防改修が行われた区域、(川上側から)ヤマハボートスクール、トミンタワー多摩川、安養寺、シャープ流通センターが川裏にある辺り)は、拡幅した堤防法面に高水護岸を施し、その上を新たに持込んだ土によって、川表の堤防は全前被覆された。この土に含まれていた植物によって、2007年春の当地はそれまでには見慣れなかった新鮮な植生の展開が見られることになった。
2年目を迎えた2008年春、堤防敷の全面改修工事によって、前年に新規展開されたこの地の植生が、当地に固有の環境圧力を受けて、初年度の姿からどのように変化するか大いに興味があった。
この地の植生観察に出向いたのは、前年に写真を撮った時期よりやゝ早い4月末だった。(2008年は5月初頭に刈取りが入り、2007年に見た時期では丸坊主になっていた。偶々だったが、早めに出向いたことが幸いした。)
前年の目新しい植生の展開で、最も特徴のあったのはマツバウンランだった。(予想の範囲では全滅するという見方もあり) マツバウンランがどうなるか、それが2008年のまず一番の関心事だった。

行ってみると2008年のマツバウンランは、その数を激減させながらも、前年に一面群生していた範囲のほんの一部に、群生の片鱗を再現してみせていた。とりあえず1年で完全消滅してしまうということはなかったわけだが、来年は多分見られないだろうと予感させるような弱々しい姿だった。
[No.43G1] は前年に栄華を誇ったマツバウンランの「意地の再現」ともいうべき風景を撮ったもの。川下向きで背後に見えている黄色の密集はオオジシバリである。

2008年の法面は、シャープからトミンタワーの範囲で、黄色いものがかなり目立った。多くはタンポポだったが、一部にオオジシバリとカタバミの群生が見られた。
改修前のこの辺りの法面で、タンポポ以外に黄色いものといえば、階段脇などにノゲシが幾らかあり、法尻や道端などにコマツヨイグサが散見された。改修後は短期で刈られることもあって、今年までのところノゲシは全く見られていない。オオジシバリはヤマハボート近辺の法面に以前も少しはあった。
今年はトミンタワーの下手で、天端面近くの法面に横に拡がったオオジシバリの群生が目を引いた。[No.43G2] はその一部を下の方から撮ったもので、[No.43G3] は広角マクロ、[No.43G2] は序に近くにあったヘラオオバコをズームで撮ったもの。
(ヘラオオバコについては、[注釈26] の中で少し説明している。


次はフウロソウ科フウロソウ属のアメリカフウロ。シダ類のように地表を這う格好で広がり、遠目に目立つ存在ではないが、よく見れば法面の結構あちこちに存在する。
フウロソウ(風露草)類は日本に昔からある野草で、とくにゲンノショウコ(現の証拠)は、貝原益軒の「大和本草 1708」にも載り、止瀉剤や緩下剤などの薬効が知られていて、センブリ、ドクダミと共に三大民間薬草と言われていた。
ゲンノショウコなど日本古来のフウロソウは、かっては日本全国の何処にでも見られる植物だったが、近年は探さないと見つけられない山の花となり、その代わりのように、北米原産の帰化植物であるアメリカフウロが繁茂するようになった。

アメリカフウロの葉は、大きく5つに深裂し、それぞれの裂片はさらに深く分岐していて、各断片はかなり細くなっている。葉柄・茎・葉縁などに紅色を帯びるものが多く、葉の全体が紅葉しているケースも散見されたが、赤味を帯びるのはこの種の特徴らしい。
グンナイフウロ、ハクサンフウロ、イブキフウロなど、山の花として知られる日本古来の風露草はいずれも可憐な花で、ゲンノショウコの花も1センチくらいあって、花の色は多彩で、花弁は西日本で紅紫色系、東日本では白や淡紅色系のものが多いという。

一方このアメリカフウロの花は白くミリオーダーの小さなものである。この大きさの花は前年に オオイヌノフグリ を撮って慣れていたので、マクロ撮影は比較的上手くいったが、撮ってみて初めて、この花は小さいだけで、古来の風露草のように可憐で奥深い味わいはなく、淡白で大味な印象の花であることが分かった。

アメリカフウロは花は小さいが、終わると中心に1.5センチ程度の細長い槍のような柱を持った果実を形成し、多くの種子が入組んで群生全体が立体的に盛上ってくる。種子の色はやがて真っ黒に変わり、その異様さが際立つようになる。この時期になると、アメリカフウロはこんなにあったのかと思うほど、その存在が俄然目立つようになる。
(同属のゲンノショウコが別名ミコシグサ(神輿草)と呼ばれるのは、熟した果実が割れて、反り返った巻き姿が神輿の屋根飾りに似た雰囲気を感じさせるところから付いたと言われる。)

風露草は花を撮ったら是非散実まで追いたい種類だが、堤防法面では例年5月頃には草刈があって、草花の内容はそこで一新されるので、単純に狙った種類を追い続けることは出来ない。
2007年は5月にマツバウンランなどを撮り終えてしまうと、一息入ってアメリカフウロのことはすっかり忘れてしまい、花しか撮っていなかった。(その1)〜(その4) 翌年には、アメリカフウロのさく果を撮らなければ・・と思いつつ、初夏に草刈が入ると、今年も終わったなという感覚になって、アメリカフウロのさく果を追うことは又忘れてしまった。

2009年は当地では特に気にしていた対象が他には無かったので、花の時期は見送って、その後のアメリカフウロのさく果の成り行き観察一本に備えた。
偶々5月は六郷ヨシ原のウラギク保全や殿町のトビハゼの保護などのことに集中することになって、もっぱら川下側に足が向き、一段落した6月の中旬になって、やっとこちら側の観察に出る余裕ができた。

大規模な除草からは既に相当日が経っていて、この時期左岸の8キロ標近辺(安養寺前近傍)の堤防法面は、ホソネズミムギ、ヘラオオバコ、シロツメクサ、センダングサ、スギナ、ヨモギなどが繁茂し、土が見えるような場所は殆ど残っていない状態だった。
(やがて刈られるので、この場所で花を見ることはなく、印象は薄いものの、)セイタカアワダチソウも至る所に若い株が群生している。どの株も例外なく、茎や葉の裏に「セイタカアワダチソウヒゲナガアブラムシ」が密生していて、虫嫌いの自分には気持ち悪いことこの上ないが、幸いアメリカフウロはセイタカアワダチソウが途切れた川上側に多く、法面に寝そべってさく果のズームを狙うことが出来た。

(その5)から(その16)までの12枚は全て同じ頃に撮ったもので、その並び順には特別な意味は無い。花の少ないこの時期に赤く染まった葉は法面で際立つが、葉は全て紅葉する分けではなく一部に止まる。一方さく果の方は、がくを閉じた若い内は皆薄緑色だが、熟して種子を飛ばす段階に達すると例外なく黒色に変わる。
がくを開くと、花柱の根元に5つの種子袋が見えるようになる。袋の底が剥がれる時、花柱の表皮が(先端を基点として各稜ごとに巻き上が)るようになり、この勢いで袋の中の種子を撥ね飛ばす。花柱の表皮がつるのように袋を巻き上げているものでは、その袋の中に既に種子は無く、程なくつる状の痕跡も散って、後には表皮が剥がれて細くなった花柱とがくだけが残される。


アヤメ科ニワゼキショウ属のニワゼキショウ(庭石菖)。北米原産の外来種で明治時代に観賞用として渡来したものが逃げ出し野生化したものといわれる。
花は1.5cmくらいと小さく、遠目にはアヤメとは似つかない。この近辺では京浜東北線六郷橋梁(西六郷4丁目)の川上側の川裏側帯にイモカタバミの群落があり、それを見慣れていたせいで、初めはイモカタバミと思っていた。だが良く見ると、同じ5弁花でも、花びらの先が尖り、何となくアヤメに似た雰囲気を感じるなど、確かにイモカタバミより鑑賞性の高い花である。(薄紫掛かった白い花もあるらしい。ともに中心は黄色い。)
皿状に展開する全容は踏まれ強さを想像させ、実際最初は天端面の角に近い位置にあるものを発見したが、その後よく探すと法尻に近い位置にもあることが分かった。

ハルシオンはキク科にあるまじき貧相な花ということで、同じムカシヨモギ属のヒメジョオン共々「貧乏草」と呼ばれたりするが、赤味の強い株が集まると結構風情がある。
ムラサキツメクサは界隈で珍しいものではなく、上手の矢口、下手の南六郷辺りでも普通に見掛ける。ただこの区画ではこれまで殆ど見られなかったもので、今年あちこちに出ていたものは花が妙に瑞々しいものが多かった。

次はシソ科オドリコソウ属のホトケノザ。(写真は2008年撮影のものに更新してある。)
春の七草で有名なホトケノザはコオニタビラコ(キク科の黄色い花:タビラコ)のことで、この草とは全く関係なく、ホトケノザは食用にはならない。
花の下にある葉は柄が無く、ギザギザの入った半円形で、向合って茎を抱く姿が仏像の台座(蓮華座)に似ていることからこの名が付いたという。
草の丈は15cmほどだが、別名サンガイグサ(三階草)と呼ばれるように、上の方で縦に何段にもなり、輪状に花をつける。
ホトケノザはヨーロッパ原産の外来植物だが、帰化した時期は古く、本州から沖縄まで広く分布し、田や畑のあぜ道、路傍などにあって、既に日本の風景に馴染んでしまっている。
シソ科に特有の四角い茎をしていて、花は唇形花だが、花の主要部は筒状で細長く、唇状花弁の反対側の切立った花冠の内側に花粉を持っていて、蜜を取りに入る虫の背中に花粉が付く仕組みだ。
ホトケノザは閉鎖花(花冠が開かずに終わる花)を付ける代表例種としても知られている。赤く蕾のように見えるまま伸びてこない花がそれらしい。この閉鎖花は蕾のまま開くことないが、自家受粉で種子を作る自稔性である。

(シソ科に特有の唇状花としては、2006年初夏に東海道線六郷橋梁の下で ミゾコウジュ が見られた。ミゾコウジュは毎年同じ場所に出ない特性があると聞いてはいたが、2007年には工事のため刈られたこともあって影も形も無かった。)

黄色い花はキク科ハハコグサ属のハハコグサ。古い帰化植物で七草粥に用いられる春の七草の一つ「ゴギョウ」(御形)のこと。実際に草餅に使われたこともあるらしいが、現代ではヨモギ(蓬)のように食用にされることは聞かない。
キク科に特有ともいえる頭状花序(小花が集合して頭花を形成する)には違いないが、黄一色で柄に乏しく、非常に焦点が合い難い写真泣かせの花である。
古名は「ホウコグサ」で、それが変化して「ハハコグサ」 になったというのが通説で、そうした観点から母子草という字を宛てるのは適当ではないとする説明がある。
ただし「老いて尚 なつかしき名の 母子草」 という高浜虚子の句があったりするように、「ホウコグサ」より「ハハコグサ」 という呼名の方が普及していて、漢字の場合も母子草と書くことが一般的に多く行われている。

ケシ科ケシ属のナガミヒナゲシ。
欧州原産の帰化植物。20世紀中頃に世田谷で発見され、都市周辺で広がっていると言われる異色の存在。
花は花壇で見られるヒナゲシやポピーほど大きなものは見ないが、赤味の強いオレンジ色をしているので、河川敷では遠くからでも大変よく目立つ。
この界隈でも従前より河川敷で散見されたが、意外にも川表に限らず、道端の電柱の根元で咲いているのを見たりしたことがある。
上に載せたマツバウンランの全景 [No.43G] 写真で、手前側にオレンジ色の花が2輪見えているのはこのナガミヒナゲシである。
ここに載せた [No.43X] は別の場所で、ここには3輪しか写ってないが、周囲に花が終わった後の”長実”が幾つか見られるので、ある程度まとまった数があったようである。
左側に写っている黄色い花は、上で紹介したハハコグサである。

アブラナ科ギンセンソウ属ゴウダソウ(合田草)。実が大判のような平たい楕円形をしていることから、別名オオバンソウという。
この辺りの河川敷では近年セイヨウカラシナはそれほど増えている印象がないが、ハマダイコンは急速にその数を増している。ハマダイコンは大体白っぽく、たまに紫色の濃いものを見ると、ハナダイコンでは・・!?と思って注目するが、実際ハナダイコンの方はなかなか見られない。(ハナダイコンは観賞用で花壇に植えられたものが逃げ出し、半ば野生化して広まったという。別名オオアラセイトウ、ムラサキハナナ、ショカツサイ。)
トミンタワー前のスロープ下で赤紫色のこの花を見付けたときは、てっきりハナダイコンが入ってきたものと思っていた。ただ花は萎れて半ば終わったような雰囲気だったので、それほど注目はしなかった。
ところが多摩川下流の植物にとても詳しい専門家が、マツバウンランを紹介したブログの中で、当地に「ゴウダソウ」があったと書いているのを見付けた。とすると、これはゴウダソウかも知れないという訳でこの写真を載せることにした。手前の白っぽい花弁は、光が反射して光ってしまっていたのか、もともと白いような花の色だったのか記憶は残っていない。


2008年4月末の観察では、安養寺から下手の法面で、赤いものが目立った。正体はヤハズエンドウ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウだった。
ヤハズエンドウ(矢筈豌豆)は以前からこの一帯で珍しい存在ではなかったが、2009年はとくに多く、とりわけトミンタワー近辺など川上側の法面には、密集するヤハズエンドウの群落が法面を制圧する状況が多く見られた。
[NO.43L1] は安養寺とトミンタワーの中間で、ヤハズエンドウの群生が見られた川下側の限界点辺り。この辺ではナガミヒナゲシが結構多く、ナガミヒナゲシも前年より多くなっていた。
[NO.43L2] はトミンタワーを過ぎた辺りで、法面が全面ほぼヤハズエンドウに制圧されていたような場所で撮った。以下の2枚は花のズームで望遠マクロで撮った。
ヤハズエンドウの花をズームで撮ると、茎が二股になった分岐点に3つの花を咲かせている格好を見ることが多い。
(ヤハズエンドウについても、[注釈26] の中に説明を記載している。


トミンタワーの近辺に堤防上から川下方向に下る販路が2本設置されている。川下側の販路の降り口法面にカタバミの群生が見られた。前年の堤防更新初年度にカタバミがあったかどうか確認はしていないが、記憶には残っていない。
改修前のこの区域では、ヤマハボートの前面にイモカタバミが少しあったが、本家の(黄色い)カタバミ自身は無かった。
葉はクローバーに似た形をしていてやや小さい。数は少なかったがヤマハボートの側にイモカタバミもあったので、比較の意味で双方を載せておいた。
(イモカタバミについては、[注釈26]カタバミ科に載せている。

2007年に多く見られたものの、2008年には殆ど見られなくなったものは、マツバウンランのほかではハハコグサを指摘しうる。ニワゼキショウも2007年に多かった訳ではないが、2008年には殆ど見られないようになった。
逆に2008年になって増えたものとしては、ヤハズエンドウ以外に、シソ科の2種、ホトケノザとヒメオドリコソウを挙げることが出来る。(ホトケノザは2008年の写真が良く撮れたので、2007年の位置の写真を更新する形で上段の方に掲載してある。)

ホトケノザは前年より増えて、ヤハズエンドウほどではなかったが、法面で鮮やかな赤を際立たせていた。その一方同じシソ目シソ科のヒメオドリコソウは、2007年にどの程度あったか調べていなかったが、2008年は結構目立つ存在になっていた。
[No.43H1] は未だ花を付けていない若い株で、この時期には全体に淡い明るい色をしている。次の [No.43H2] は花を付けている。葉は厚手で葉脈が迷路状に走って、表面に皺が刻まれたようになっている。上部のものは赤紫色に色付いて白毛を有し、下部のものは緑色に変って毛は退化していく。
花はシソ科に特有の舌形花で、上部の葉の間から外に向かって放射状に付き、薄いピンク色をしている。
ヒメオドリコソウは(ホトケノザ同様)「アリ散布植物」と呼ばれるものの一種で、種子には蟻を誘引する「エライオソーム」なる物質が付着していて、種子は蟻によって巣に運ばれ、エライオソームが食べられた後捨てられることで種蒔きされる。(「アリ散布植物」としては、スミレ、カタクリ、フクジュソウ、カタバミ、キケマンなどが知られる。)
[No.43H5] は2日後で、5月に入ったところだが、この日既に一帯に除草車が入っていた。殆ど何も撮ることは出来なかったが、撮ったものの中からこの1枚だけを掲載した。

2008年に特徴的だったことの一つに、オオカワヂシャが目に付いたことが上げられる。(特に安養寺からシャープまでの区間で、法尻などに多く見られた。オオカワジシャが2007年にも当地にあったかどうかは定かでないが、少なくとも普通に見ていてよく目に付くというほど無かったことは確かだ。)
オオカワヂシャはオオイヌノフグリと同じ、ゴマノハグサ科クワガタソウ属で、実際(色は違うが)花の形や小ささはそっくりで、花だけに限って見比べれば、双方は色違いというほどよく似た雰囲気をしている。
ただしオオイヌノフグリは地表面に密集して低く拡がるのに対し、オオカワヂシャは茎を伸ばし丈を有して株ごとに存在し、姿形は全く似ていない。(オオイヌノフグリと紛らわしいように混在している小さな株も少なくないが、草丈30cm程度になっているものも結構よく見掛けた。双方の比較はシロツメクサとアカツメクサの関係に似ていると言える。)
オオカワヂシャは「特定外来生物」に指定されている。河川敷の草本類は殆どが帰化植物と言っても過言ではないほどだが、それほど外来種が多い中でも「特定外来生物」に指定されている種類となると数は少ない。古来種が外来種に席巻されてしまっているケースは、タンポポ、イヌノフグリなど珍しくはないが、オオカワヂシャが悪名高いアレチウリと同列で害種とされているのは、古来種のカワヂシャと交雑してホナガカワヂシャなる中間種を形成することも理由とされているようだ。

[No.43J5] は近辺で撮ったオオイヌノフグリを参考掲示した。(その3)としてあるのは、2006年に川下側(JR橋梁近く)でマクロ撮影したものを、多摩川緑地 (下)の方に既に2枚掲載しているため。 オオイヌノフグリ (その1) (その2)
(オオイヌノフグリについては、[注釈26] の中に注釈を載せている。

多摩川大橋下手(ヤマハボート桟橋との間)にはアブラナ科のカキネガラシが多く、刈取りの入らない護岸縁には1メートル級の株もあった。枝が数段で横四方にやゝ湾曲して伸びる独特な姿で、枝の先端に(右小画像のような)小さな十字花を複数付ける。
横に伸びる枝が2重になって捩れているように見えるのは、終わった花が細長い実となり、茎に寄添うように寝て貼り付く形になるためである。

刈取りから1ヶ月経った6月1日に、刈取り後の復活の様子を見た。
元々この地域はホソネズミムギが圧倒的に強い環境だが、改修区間の川下寄りではシロツメクサがホソネズミムギと拮抗するほどに勢力を広げ、川下寄りではヘラオオバコの混生も目に付いた。
都民タワーの前辺りでは、先に多かったヤハズエンドウが激減し、その代わりにアカツメクサが結構目に付くようになった。マツバウンランは消え入りそうな数で再生していたが、オオジシバリとシソ科の2種(ホトケノザ・ヒメオドリコソウ)は消滅した。
安養寺の下手ではアメリカフウロが多くなり、8km標の近傍には法面全体に広がる場所もあった。オオカワジシャはシャープの前だけに限定的な再生が認められた。

2度目の刈取りが入った後の6月下旬、初夏の法面はシロツメクサ一色となり、散策路周辺ではオギとハルシャギクが目に付くようになった。



以下は区民広場から多摩川緑地に入っていく辺りを取り上げているが、主として2002〜2003年頃に作られたページであり、上記の区域ほどではないものの風景としては既に変わっている所もある。制作当時のままに残しているが、因みにここのキショウブは今ではもう見られない。

低水路では新しい護岸の澪筋側に低い旧護岸が残り、その上に土砂が堆積して刈られない植生領域を生み出している。この水際の一角にこの界隈で最大規模の(といっても小さなものだが)キショウブ(黄菖蒲)の群生地がある。
(菖蒲湯に使うショウブというのは、サトイモ科のセキショウの大型のものをいい、アヤメのような大きい花を付けない別種である。)
キショウブはアヤメ、カキツバタ、ハナショウブなどと同じアヤメ属だが、アヤメやカキツバタのように古来から日本にあったものではなく、明治時代にヨーロッパから渡来したものである。もともと鑑賞用だったのだろうが、湿地に強く今では栽培地から逃げ出したものが全国に散って野生化している。

六郷川のキショウブは生育地がヨシやオギと競合するため、ヨシに呑み込まれて繁殖しきれないケースが多いが、この一画では珍しくヨシと拮抗する勢力を保ち、4月初めヨシに先駆けて剣状葉を伸ばし、5月中旬にはウォーターフロントで花を付ける。
ただし河原のものは環境立地の哀しさで、花をつけはじめると多くのものは摘まれてしまい、休日明けには花や蕾が皆無になっているケースも珍しくはない。5月下旬にはもう花は見えないが、一方ホームレスの敷地に囲い込まれたり、移植されたものは花が鈴なりになっている。放置されているので仕方ないとは思うが、この区画のキショウブ全部を心ゆくまで咲かせてみたら、どれほどの見栄えになるか・・などと思ったりもする。

[No.433] は正月の朝、ここで富士を撮ってから羽田方面に下った。 [No.434a] は3月初旬の未だ寒い頃、昼前で突風が吹き荒れる状況だった。場所は [No.433] のやや上手。カメラテストが主だったので、構図に気を遣っていなかったら、RFアンテナの支持ワイヤーがもろに写り込んでいた。雨上がりで川は泥水化しているが、富士は綺麗に見えた。(この日の以後、大師橋緑地 [No.644a] と空港外縁 [No.73D] のポイントでそれぞれ富士を撮った。泥水が澄んでいく進行具合を比較して見ることができたが、大師橋緑地の方は2005.1に写真を更新している。)

[43Ca] はキショウブから200メートルほど下ったところのトウネズミモチ(唐鼠黐)。ここの岸辺は旧護岸が崩落し低水路に土砂が堆積して干潮時には干上がる。ヨシやオギの格好の群生地となり、高水敷にまで拡がって新護岸を覆い隠している。このトウネズミモチは雑草に半ば隠された新護岸の澪筋側にあり、この脇に身の丈を超えるヨシを抜け水際に出る小道が拓かれている。(水際に出るほぼ似た小道は2ヵ所ある。)
[No.43D] は散策路を区民広場から多摩川緑地の方に下り、サッカーグランド裏に瓢箪池が始まる位置(対岸正面は妙光寺)にきている。撮影は河川敷と低水路を仕切る形になっている散策路沿いの土手の上。小さいトウネズミモチとオニグルミの間から、対岸上手方向に戸手地区を見ている。
(キショウブやトウネズミモチ、その他この辺りの春から初夏にかけての草花と樹木については、[参考26] で詳しく紹介している。

旧提時代には、旧護岸が崩落している辺りまで、堤防は水路に沿ってきていて、小向村の飛び地があった村の境界線位置で急激に左折して水路から離れていたが、その左折点先の岸辺に「小向の渡し」があった。ここには東西に走る往還(街道)はなく、「小向の渡し」は荒れる多摩川が生んだ典型的な「作場渡し」だったとされる。

多摩川を跨ぐ飛び地12箇所についての境界を変更し、多摩川を実質的な府県境と定める法律が施行されたのは明治45年である。 ([参照9]
「多摩川における渡しから橋への史的変遷」(平野順治著)には、「小向の渡し」は大正10年ごろ廃止されたと記されている。「小向の渡し」が廃止されたのは、小向村の飛び地が六郷村に編入されてから10年後ということになる。
直轄改修工事が始まったのは大正8年だが、当初は測量・土地収用調査・事務所設置・担当工場の設置などを行っていて、人力による高水敷の掘削を開始したのは9年、築堤に着手したのは10年とされている。この頃護岸工事なども始まって、舟が適当な接岸場所を失うなど、何らかの環境変化によってダメを押され、小向の渡しは廃止されたのではないか。
渡しあったとされる辺りは、現在対岸からヨシ原が張出し、低水路の幅は90メートル程度しかない。[No.435] の撮影場所は、「旧堤通り」が左折して堤防を下っていく辺りで、緑地を横断し河原に出たところである。RFの中継アンテナが紅白に塗られているのは羽田空港が近いため。対岸堤防裏の寺は治水や用水改修で知られる田中丘隅ゆかりの妙光寺、右手奥に鹿島田のツィンタワーが見える。[No.436] の逆光写真は川下側を向いて戸手の堤外地方面を見ている。
[No.43I] は同じ位置の堤防上で、「旧提通り」が堤防上に上がってくる場所の桜の紅葉。

多摩川緑地はサッカーグランドの辺りで幅250m程度に広がる。堤防側にサッカーグランドが2面ある位置の低水路の側に細長い「ひょうたん池」がある。(この池は地下水路で川と繋がり、干満に応じて川の水が出入する。) サッカーグランドの川下側は野球グランドが十数面延々と続き、河川敷は最大幅350メートルに達する。多摩川緑地は運動場がメインだが、周辺に池や花壇などが配置され、その全体をサイクリング道路が周回している。
[No.437] は緑地と低水路を仕切る土手下の周回道路から、サッカー場越しに堤防方向を見ている。シャープ前の堤防上に藤棚のようなものが見える所は、国交省が「川の一里塚」と呼んでいる休息所。盛り土して堤防の幅を広げ、そこに植樹したりベンチを置いたりしたもので、現在多摩川には8ヵ所あるとされている。シャープの左側は川裏に植えられた桜と唐鼠黐、中央堤防上にポツンと見える一本は常緑樹で多分クスノキ、その右の小塔は光ファイバーを使用したCCTVで、国土交通省の河川監視用と思われる。
[No.440] はこの「川の一里塚」に植樹されている5本のハナミズキのうちの1本。(ここのハナミズキ小さいので [No.440] ではよく分からない。) 4本はポピュラーな底白ピンクで、[No.43E] は1本だけあるベニハナミズキの赤い実を撮った。

[No.438] は [No.437] とは逆に、堤防上から低水路の方向を見ている。この写真は台風一過の撮影で紛らわしいが、手前の水面は増水して河川敷まで溢れ出したひょうたん池が写っている。([No.437] で池端に写っている”犬の放し飼い禁止”の白い看板が水に浸かっているのが分かる。) シダレヤナギが何本も植わって見える部分が緑地を仕切る土手のラインで、土手の向う側に細く見える水面が川である。
戸手の堤外地は不思議な区域だ。「堤外地」とは堤防の保護を受けない川道の中をいう。どのような事情があるのかは知らないが、ここでは堤防は工場などを含む数十戸を川中に取り残し、その背後を回る形になっている。
左側の濃いブルーの水門は戸手ポンプ場の排水路。川下側からこの水門近辺までは右岸の堤防が見えるが、正面から右(川上側)では堤防は家屋の後ろに入り見えなくなっている。(この写真には写っていないが、妙光寺の下手で再び堤防が前面に出てくる。)
左の小画像は、同じ日に同じ場所から見た戸手地区の川上側、小向地区にある東芝の研究開発センターが見える。手前は完全に冠水したサッカーグランドである。

最近の洪水では、大田区の花火の祭典が中止に追込まれた平成11年8月の集中豪雨の際に、左岸で堤防の法尻から1メートル位の高さまで水位が上昇した例がある。
河川敷全体が完全に水没したため、堤防から堤防までの河道が文字通り水流となり、平時の4倍ほどに拡大した流路の幅一杯に、泥流が急流のような速度で流下した。緑地を仕切る土手も水面に立木が点々と見えるまでに没し、ホームレス救出のためらしいヘリが上空を舞っていた。
京浜工事事務所の過去の水害記録には、この時戸手地先で57戸が床上浸水し避難勧告が出されたと書かれている。
[No.439a] は [No.438] とほゞ同じ位置。一転して冬の朝。冬場の朝は晴れていれば真っ白な富士がよく見えるが、丹沢の稜線がどの位くっきり見えるかは日によって微妙に違う。この位置からでは川の水面は見えず、辛うじて戸手の沿岸に並べられた、コンクリートの波消しブロックが見えている。
2005年1月2日朝の撮影で光学7倍ズーム(但し73%に縮小)。この日の丹沢は、六郷川の撮影を始めてから2002〜06までの足掛け5年間で一番クリアに見えた日で、この後川下側に行って、大師橋緑地で撮影した富士を別に2枚掲載している。 [No.643a]

[No.43F] は同じ辺りで、緑地を仕切る低水路際の土手の上から対岸(右岸)を見ている。時期は2003年の10月初め。
2003年は記録的な冷夏だった。そのせいか雑草には例年の勢いがなく、ヨシやオギの花穂も冴えない印象を受けた。花火(荒天で中止された)の為に8月初旬に刈られたあと、セイバンモロコシの復活は弱く、エノコログサやネズミノオなど秋の草もあまり見られない。(2002年のこの時期には河川敷にキンエノコロ、チカラシバ、アメリカセンダングサなどが乱舞し、グランドになっていない所にはオオクサキビまでが見られた。また河口方面の右岸で綺麗に咲き誇っていた「コススキ」も、2003年秋には何故か全く姿が見られなかった。)
六郷川に彼岸花が珍しいわけではない。2002年も左岸多摩川大橋下手の、トミンタワー前の堤防法面などでチラホラ見られた。ただ2003年は例年に比べ、花の見られる場所が多くなっただけでなく、色がやや橙色掛かって、殆どがキノコをイメージさせるような束になった出方をしているなど、やや異様な感じを与えるものになった。
写真中央は妙光寺で、左背後に鹿島田方面の3塔(新川崎三井ビル東西とサウザンドタワー)が見えている。樹木はトウネズミモチで、法面に赤く見えているのは彼岸花である。

[No.43FA] は2013年12月末日。ヒガンバナの葉を探してこの辺をウロウロした際、序に久々土手上から妙光寺方向を向いて川の夕景を撮った。近年この辺の冬ガモはヒドリガモが多い。戸手の堤防工事はもう始まってから久しいが、川内の部落は未だに撤収されず残っているものが多い。



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